第8話:【閑話】三兄《さんけい》の述懐《じゅっかい》。天降《あまくだ》りし四弟《してい》への想《おも》い
第8話:【閑話】三兄の述懐。天降りし四弟への想い
安喜県の夜は更け、虫の音だけが静かに響き渡っていた。
四兄弟での月見酒を終え、末弟である陳凌(字は子雲)が自室へと引き揚げた後。
残された三人の兄――劉備、関羽、張飛は、役所の縁側に残り、静かに杯を傾けていた。
「……それにしても、不思議なものだな」
張飛が、ぽつりと呟いた。
普段の豪快な大声ではなく、どこか感慨深げな、静かな声だった。
「たった半年前まで、俺は豚の肉を捌き、兄者は筵を売り、雲長(関羽)の兄貴は放浪していたってのに。今じゃ一県の主となり、数千の精鋭を抱える軍閥だ。……全部、あのひょろりとした書生上がりの四弟が来てからだ」
劉備は目を細め、夜空に浮かぶ満月を見上げた。
「ああ。子雲と初めて市場で会った日のこと、俺は今でも鮮明に覚えている」
あの日の劉備は、心の底で焦燥感に苛まれていた。
天下が乱れゆくのを肌で感じながらも、自分には筵を編むことしかできない。漢の皇族の末裔という血筋も、泥にまみれた生活の前では何の役にも立たなかった。
そんな時、みすぼらしい身なりの青年が現れたのだ。
『あなたという「人物」に対する投資だ』
「あの時のあいつの目……」
劉備は、自らの手を見つめながら独り言のように語る。
「俺という人間を、ただの筵売りとしてではなく、『天下を救う器』として見透かしている目だった。俺の胸の奥底で燻っていた、誰にも言えなかった大義の火種を、あいつは一瞬で見抜いたんだ」
「……全く、同感だぜ」
張飛が、苦笑いを浮かべながら手元の杯を煽った。
「俺ぁ、昔から喧嘩ばっかりで、周りからは『ただの脳筋の馬鹿』だと思われてた。でもよ、俺は本当は絵を描いたり、本を読んだりするのも好きだったんだ。……ただ、そんなこと誰に言っても笑われるだけだから、ずっと隠してた」
張飛は、自身の分厚い手のひらをギュッと握りしめた。
「なのに、あいつはいきなり俺の前に立って、『見事な筆さばきで美しい書画を描く立派な手だ』って言いやがった。……あの時の衝撃、兄者たちにわかるか? 気味が悪いってのとは違う。俺の本当の姿を、才能を、たった一目で見抜いて、認めてくれたんだ。……あんなの、一生ついて行くしかねえじゃねえか」
張飛の言葉に、関羽もまた、美しい長鬚を撫でながら深く頷いた。
「某も同じよ。あの日、市場で初めて子雲を見た時……正直に言えば、ただの口先だけの青二才だと思った。だが、奴の瞳は違った」
関羽の切れ長の目が、鋭く、そして優しく光る。
「奴の目は、某の武力だけでなく、内に秘めた統治の才や、書物から得た政治の知識すらも完全に把握しているようであった。まるで、天に座す神仏が、我々の魂そのものを『鑑定』しているかのような……恐ろしくも、底知れぬ安心感を与える眼差しであった」
三人は顔を見合わせ、やがて同時に小さく吹き出した。
「全く、我ら三人の『兄』は、一番年下の『弟』に完全に手のひらの上で転がされているな」
劉備が嬉しそうに笑う。
「構うもんか。あの四弟の頭の中には、俺たちの想像もつかねえような『途方もない未来』が詰まってるんだ。趙雲の奴を見つけ出した時もそうだが、あいつには天の導きが見えてるとしか思えねえ」
「うむ。田豊殿や張郃殿ですら、子雲の知略の前には舌を巻いておるからな」
劉備は、縁側に置いてあった自身の双股剣――陳凌がもたらした奇跡の鉱石・天山寒鉄で打たれた神具――をそっと撫でた。
「子雲は、俺たちに天下を獲らせると言った。俺たちの誰も、死なせはしないと」
劉備の声に、それまでの穏やかさが消え、一軍の将としての確固たる覇気が宿った。
「ならば、俺たち兄の役目は一つだ。あいつが描く完璧な盤面の上で、誰よりも強く、誰よりも気高く戦い抜くこと。あいつのその細い肩に、悲しき運命など決して背負わせはしない」
「おう! 四弟に指一本でも触れようとする馬鹿がいれば、俺の蛇矛が千の風穴を空けてやる!」
「某の青龍偃月刀も、子雲の歩む道を阻むあらゆる障害を両断いたそう」
満月の下。
三人の豪傑たちは、改めて杯を打ち合わせた。
彼らが桃園で誓った「同年同月同日に死せんこと」を願う義兄弟の絆。その中心には今、彼らの運命を根底から変えた一人のオタク青年――最愛の四弟への、海よりも深い感謝と絶対的な守護の誓いが刻み込まれていた。
やがて来る、群雄割拠の嵐。
その嵐の中で、彼ら『四兄弟』がどれほどの旋風を巻き起こすことになるのか。
その答えはまだ、月のみぞ知ることであった。




