第32話:東南の風と黒鉄《くろがね》の暴雨。アウトレンジ艦隊戦が描く、赤壁《せきへき》の業火《ごうか》(第四章・決戦編)
第32話:東南の風と黒鉄の暴雨。アウトレンジ艦隊戦が描く、赤壁の業火(第四章・決戦編)
建安十三年、冬。
長江の北岸・烏林。水面が見えなくなるほどにひしめき合う、曹操軍の八十万の超巨大艦隊。
その中心にそびえ立つ旗艦の甲板で、西の覇王・曹操孟徳は、吹き荒れる冷たい北西の風を全身に浴びながら、勝利を確信した高笑いを響かせていた。
「ガッハッハッハ! 見よ、この盤石なる我が大艦隊を! 鳳雛(龐統)の献策により、すべての船を太い鉄の鎖で繋ぎ合わせた結果、北の兵どもは船酔いから完全に解放された! もはや波の揺れなど陸地も同然。この圧倒的な質量で南岸へ押し渡れば、劉備も孫権も、一匹残らず長江の魚の餌となるわ!」
曹操の傍らで、歴戦の猛将である曹仁や夏侯惇たちも、自信に満ちた笑みを浮かべて対岸の赤壁を睨みつけている。
「丞相(曹操)。敵が火計を仕掛けてくる恐れはないでしょうか? 船が鎖で繋がれている以上、一度火が回れば逃げ場が……」
慎重な幕僚の一人が進言したが、曹操は鼻で笑ってそれを一蹴した。
「愚か者め! 今は冬ぞ! 風は我らの背(北西)から、敵の陣営(南東)へ向かって吹き荒れているのだ! もし奴らが火を放てば、風に煽られて自分たちの船が燃えるだけよ! 天の時は、完全にこの曹孟徳に味方しているのだ!」
曹操軍の陣営は、絶対的な勝利の気運に包まれ、兵士たちは鎖で繋がれた広大な甲板の上で、酒盛りすら始めている有様だった。
――しかし。
彼らは知らなかった。天の理すらも完璧に計算し尽くす、南岸の『二人の化け物』の存在を。
伏龍の祈祷と、科学の魔砲
長江の南岸・赤壁。劉備・孫家連合軍の陣営。
高くそびえ立つ祭壇――七星壇の上で、諸葛亮孔明が道士の衣を纏い、天に向かって何事か呪文を唱えていた。
史実における有名な『東南の風を呼ぶ祈祷』である。
「……いやはや、孔明先生も役者ですね。風向きが変わる気圧の谷の接近を『気象学』で完全に予測しているくせに、あんなオカルトじみた儀式で味方の士気を限界まで引き上げるとは」
俺――陳凌(字は子雲)は、完成したばかりの超巨大楼船『青龍号』の甲板から、その茶番劇……もとい、神聖なる儀式を眺めて笑っていた。
「子雲殿。準備は万端ですか?」
祈祷を終え、涼しい顔で船に乗り込んできた孔明が、白羽の扇を静かに揺らす。
「ええ。魯粛殿の協力で建造したこの大楼船、甲板には『大型旋回式投石機』を五十門、ズラリと並べてあります。……そして装填するのは、石ではありません」
俺が指差した先には、青州兵たちが丁寧に運び込んでいる無数の『黒い陶器の壺』があった。
博望坡で夏侯惇軍を消し炭にした黒色火薬兵器――『震天雷』の特大サイズ版である。しかも今回は、壺の中に燃えやすい松脂と硫黄を極限まで詰め込んだ『対・木造船用・焼夷爆弾』に魔改造してある。
「……史実の『苦肉の計』――黄蓋将軍を偽装投降させて火船を突っ込ませるなんていう、味方に痛みを伴う前時代的な戦術は使いません。俺たちは、敵の矢が絶対に届かない安全な距離から、この圧倒的な火薬の雨を一方的に降らせる。……これぞ近代海戦の基本、『アウトレンジ砲撃戦』です!」
俺が胸を張って宣言すると、隣にいた周瑜や魯粛といった江東の水軍プロフェッショナルたちが、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「……恐ろしい男だ。敵の船を鎖で繋がせて『絶対の固定標的』に変え、自らは安全な距離から火の雨を降らせる……。曹操は、手も足も出ずに一方的に焼き殺されるというのか」
周瑜の呟きに、孔明が美しくも残酷な微笑みを返した。
「さあ、天の時が裏返ります。……子雲殿、我が主(劉備)に勝利のファンファーレを」
『ゴォォォォォォ……ッ!』
その瞬間。
長江の水面を揺らしていた北西の風が、ピタリと止んだ。
そして、空気が急激に反転し――南岸の俺たちの背中から、曹操軍のいる北岸へ向かって、猛烈な『東南の強風』が吹き荒れ始めたのである!
「風が……風が変わったぞォォォッ!!」
「孔明先生が、天に祈って東南の風を呼んでくださった!! 天は我ら劉備・孫家連合軍にありィィィッ!!」
南岸の兵士たちの士気は、文字通り最高潮に達した。
「全艦隊、抜錨! 帆を張れェェェッ!!」
水軍都督・魯粛の号令と共に、十数万の連合軍艦隊が、東南の強風を帆に一杯に受け、圧倒的な速度で長江の中央へと進発した。
アウトレンジの死神。赤壁の業火、点火
一方、曹操軍の本陣。
「なっ……馬鹿な!? この真冬に、東南の風だとォ!?」
突如として顔に吹き付けた生温い強風に、曹操の顔から血の気が完全に引いた。
自慢の長髭が、風に煽られて北へ向かってなびいている。それはすなわち、南から火を放たれれば、すべてが自分たちの陣営に向かってくるという死の宣告であった。
「丞相! 前方より、劉備・孫権の連合軍が猛烈な速度で接近してきます! その先頭には、見たこともない巨大な『城』のような大船が……!」
曹仁の絶叫に、曹操が慌てて船縁から身を乗り出す。
そこには、東南の風に乗って滑るように接近してくる、俺の造り上げた『大楼船・青龍号』の威容があった。
「迎え撃て! 弓兵、構えよ! 敵の船が射程に入り次第、雨霰と矢を射掛けよ!」
曹操の号令で、鎖で繋がれた数千の船団の甲板に、数十万の弓兵がズラリと並んだ。
しかし――連合軍の巨大楼船は、曹操軍の弓矢が届く遥か手前、長江の中央付近で、ピタリと船を止めてしまったのだ。
「……何をしている? なぜあんな遠くで停泊する? 我らの矢は届かんが、向こうの矢も届くまい」
曹操が怪訝に眉をひそめた、その直後。
「目標、曹操艦隊中央! 射角よし、導火線点火ァァァッ!!」
巨大楼船の甲板から、陳凌の号令が響き渡った。
『シュボォォォォォンッ!!』
五十門の大型旋回式投石機から、火のついた黒い壺が、一斉に天空へと打ち上げられた。
それは、弓矢の射程距離の三倍以上を優に飛び越え、美しい放物線を描きながら、東南の強風に乗って曹操軍の頭上へと降り注いでいった。
「な、なんだあれは……? 石か?」
曹操軍の兵士たちが、空から降ってくる黒い壺を呆然と見上げた。
『ドガァァァァァァァァァァァァンッッ!!!!』
最初の壺が甲板に直撃した瞬間。
長江のど真ん中で、天地を揺るがす大爆発が連鎖した。
壺の中に仕込まれた黒色火薬と松脂が、凄まじい爆風と共に飛び散り、一瞬にして曹操軍の船を『逃げ場のない火の海』へと変貌させたのである。
「ぎゃあああああああッ!!」
「火だ! 消えない、水をかけても火が消えないぞォォッ!!」
松脂の油火は、長江の水をかけても消えるどころか、水面を這うようにして周囲の船へと燃え広がっていく。
「ば、馬鹿な! あんな遠距離から、このような業火を撃ち込んでくるというのか!?」
曹操が、爆風で吹き飛ばされそうになる体を必死で柱に縛り付けながら絶叫した。
「退け! 鎖を断ち切れ! 船を分散させよ、燃え広がるぞォォォッ!!」
しかし、時すでに遅し。
龐統の『連環の計』によって、数千隻の船は極太の鉄の鎖でガチガチに繋がれている。斧で叩いた程度で断ち切れるものではなく、一隻が燃えれば、隣の船、そのまた隣の船へと、東南の強風に煽られて業火はあっという間に艦隊全体を飲み込んでいった。
「第二射、装填! 徹底的に焼き尽くせェェェッ!!」
南岸の安全なアウトレンジから、俺は容赦なく次弾の発射を命じる。
『ドガァァン!』『ボガァァァァンッ!!』
まるで空から黒い雷が降り注ぐように、絶え間なく爆弾の雨が曹操艦隊を粉砕していく。
燃え盛る船から水へ飛び込む曹操軍の兵士たち。しかし、冬の長江の凍てつく水温と、水面を覆う燃える油によって、彼らは長江の藻屑となるか、黒焦げになるかの二択しか残されていなかった。
「……あ、ああ……我が……我が八十万の軍勢が……」
曹操は、炎に包まれる自らの覇道の象徴を前に、膝から崩れ落ちた。
「丞相! もはやこれまでです! 小舟に乗り換え、北の陸地(烏林)へと逃げ延びましょう!」
曹仁や夏侯惇が、すすり泣きながら曹操の両腕を掴み、炎上する旗艦から強引に引きずり下ろした。
炎を見下ろす天才たちと、追撃の狼煙
「……美しい。あまりにも残酷で、そして美しい『絶景』ですね、子雲殿」
南岸の巨大楼船の上。
長江の半分を真紅に染め上げる巨大な火柱を見下ろしながら、孔明が白羽の扇を静かに胸の前で合わせた。
「ええ。これで曹操の水軍は完全に消滅しました。……しかし、覇王はまだ生きています。あのゴキブリのような生命力を持つ男を、ここで確実に息の根を止めなければ、天下の平和は訪れない」
俺が視線を北岸の陸地へと向けると、孔明は深く頷いた。
「手筈通り、すでに『五虎大将軍』たちは、曹操が逃げ込むであろう陸路――華容道をはじめとする退路に、完全な伏兵として配置済みです。……さあ、曹操孟徳。天の網の目からは、絶対に逃れられませんよ」
長江の水上戦は、劉備・孫家連合軍の「被害ゼロ」という、歴史上類を見ない完全無欠のパーフェクトゲームで終結した。
だが、赤壁の戦いはまだ終わらない。
炎の地獄から命からがら逃げ出した曹操を待ち受けているのは、天下無双の武将たちによる、容赦のない『絶望の追撃戦』である。
「俺たちの推し活プロデュース、いよいよ最終仕上げだ。……行こうぜ、孔明先生。覇王の最期を見届けに」
オタクの現代知識と、天才の神算が完全に融合した劉備陣営。
燃え盛る長江を背に、天下三分、いや『天下二分』の頂点へ向けた最後のトドメが、今まさに振り下ろされようとしていた。




