反転アンチ婚約者
「ブラボー!」
王立貴族学園の音楽室。
私がピアノを弾き終わると同時に、私の婚約者であり、我が国の第三王子でもあらせられるサイラス殿下が、満面の笑みで拍手をしてくださった。
「やっぱエリザのピアノは最高だよ! まさに神業と言っていい! いくらでも聴いていたいよ!」
「うふふ、ありがとうございます」
「これなら明日の学園内コンサートも、またエリザの優勝で間違いなしだね。まあ、エリザの神のような演奏に比べれば、他の生徒の演奏なんて聴くに堪えない雑音でしかないから、当然だけど」
「で、殿下! そのような言い方をなさってはダメです! 私以外にも、素晴らしい演奏をする方はたくさんいらっしゃいますわ」
「いいや! そんなことはないね! エリザ以外の演奏は例外なく全て無価値だ! エリザの演奏こそが、唯一の芸術なんだよ!」
「殿下……」
サイラス殿下は目を血走らせながら、両手の指をわなわなさせている。
……殿下は昔からこういうところがある。
どうにも盲信的というか、好きなものを守りたいあまり、それ以外のものに異様に攻撃的になってしまう傾向があるのだ。
前回の学園内コンサートの際も、私のライバルと目されていた生徒に執拗な嫌がらせを繰り返し、出場を辞退させようとしたことがあった。
私が「そんなことをされても嬉しくありません!」と抗議しても、「君のためにやってることなのに、なんでそんな酷いことを言うんだ!」と逆ギレされて、宥めるのが本当に大変だった……。
「さてと、そろそろ生徒会の定例会議の時間だね。行こうか、エリザ」
「はい」
殿下は生徒会長で、私は副会長なのだ。
とはいえ、何かと暴走しがちな殿下の手綱を握って、実質的に生徒会を運営しているのは私。
本当は明日のコンサートに向けて、もう少しだけピアノの練習をしておきたかったのだけれど……。
いいえ、泣き言は言ってられないわ。
私は王族の妻になるんですもの。
このくらいの困難、今回も乗り越えてみせるわ――。
「じゃあエリザ、僕は最前列で応援してるからね!」
「はい、精一杯頑張ります」
そして迎えた学園内コンサート当日。
大型犬のようにブンブン手を振りながら客席に走って行かれるサイラス殿下を見送ると、私は両手で自分の頬をパンと叩き、気合を入れた。
よし、ここまできたら後は全力を尽くすだけ。
あれだけ練習してきたんだもの、きっと大丈夫よ。
「あっ、エリザ様ぁ! 今日もよろしくお願いしまーす」
「ああ、コーリーさん、ごきげんよう」
その時だった。
男爵令嬢のコーリーさんが、いつもの屈託のない笑顔を浮かべながら声を掛けてきた。
「今回こそは絶対に負けませんよ!」
コーリーさんは両手を胸の前でギュッと握る。
「うふふ、いい勝負にしましょうね」
「はい! ではまた後で!」
コーリーさんは鼻歌交じりに、スキップしながらどこかへ行ってしまった。
ああは言ったものの、正直私とコーリーさんでは実力差がありすぎて、勝負にはならないと思っている。
そもそもコーリーさんは圧倒的に練習量が足りていないのだ。
放課後はいつもいろんな男子生徒と遊んでばかりで、ピアノの練習をしているところはほとんど見たことがない。
それよりも今回私が気になっているのは――。
私は控え室の隅に座っている、とある男子生徒のところに歩いて行った。
「ごきげんよう、クリフトンさん」
「ああ、これはこれはエリザ様。私に何か御用でしょうか?」
私が声を掛けたのは、つい最近隣国のエクフラ帝国から留学して来た、男爵令息のクリフトンさん。
クリフトンさんは今日も一人でじっと楽譜を読んでいた(長い前髪で両目を隠しているので、本当に見えているのかは怪しいけれど)。
私はクリフトンさんがピアノを弾いているところは一度も見たことがないので、実力はまったくの未知数。
――ただ、初めて会った時から、どことなくこの人からはただならぬオーラを感じていた。
もしかしたら今回、クリフトンさんこそが私の一番のライバルになるかもしれないと思い、探りを入れに来たのだ。
「――! その楽譜、『ニャッポリートの調べ』ですか?」
「ええ、私はこの曲が大好きでして。祖国でもよく弾いていたので、今日もこの曲で勝負させていただこうかと」
クリフトンさんはニッコリと微笑んだ(前髪で目元は見えないけれど)。
『ニャッポリートの調べ』は、かの有名なニャントニン・ニャポルザークが作曲したもので、終始ハイテンポで非常に繊細な指使いが必要とされる、極めて難度の高い曲だ。
正直私でも、完璧に弾ける自信はない……。
それをクリフトンさんは、こんな何でもないことのように。
――フフ、面白いじゃない。
相手にとって不足はないわ。
「そうですか、それは楽しみです。いい勝負にしましょう」
「はい、私もエリザ様の演奏が楽しみです」
クリフトンさんはまたしても、朗らかな春を彷彿とさせるように、口元をほころばせた。
「コーリー・ホーロックスさんの演奏でした。とても元気のある、イイ演奏だったと思いますよ」
「わあ、ありがとうございまーす!」
司会進行役兼審査委員長の学園長先生が、コーリーさんに賞賛の言葉を贈る。
確かに元気はあった。
コーリーさんは終始笑顔を絶やさず、実に楽しそうにピアノを弾いていた。
……ただ、やはり致命的にミスが多すぎる。
私が把握しているだけでも、コーリーさんは13回もミスをしていた。
これでは流石に、優勝は難しいだろう。
「それでは次の演奏者は、エリザ・ファーガソンさんです」
「……!」
よし、遂に私の出番ね。
私は両手で自分の頬をパンと叩くと、真っ直ぐ前を向きながら、舞台上に一歩踏み出した。
嗚呼、いつもこの舞台に上がる瞬間が、一番緊張する――。
客席から夥しい数の視線を感じ、思わず背筋が震える。
――だが、最前列でキラキラした瞳で私を見つめているサイラス殿下を見た途端、少しだけ緊張が解れた。
ふふ、ありがとうございます殿下。
殿下のためにも、全力を尽くしますわ――。
「エリザ・ファーガソンさんの演奏でした。いやあ、やはり今回も圧巻でしたね! 生徒会の仕事で忙しい中でも、決して鍛錬を怠らなかったことがよくわかる、素晴らしい演奏でした」
「ありがとう存じますわ」
私は学園長先生からの賞賛に、カーテシーで応える。
我ながら、今の演奏は手応えがあった。
一つのミスもなかったし、今の私に出せる、100%のパフォーマンスを発揮できたと思う。
最前列のサイラス殿下は、感動のあまり滝のような涙を流している。
ふふ、本当に、大袈裟なんですから。
「それでは次の演奏者は、クリフトン・ジョイス君です」
さて、いよいよクリフトンさんの番ね。
お手並み拝見させてもらうわ。
私が舞台袖に戻ると、クリフトンさんは一瞬だけ無言で私に微笑んでから(前髪で目元は見えないので、もしかしたら見ていたのは私ではないかもしれないけど)、颯爽と舞台上に歩いて行った。
ピアノの前に立ったクリフトンさんは、客席に軽くお辞儀をしてから、椅子に腰を下ろす。
そして流れるように、鍵盤の上に指を置いた――。
「「「――!!!」」」
なっ!?
演奏が始まった途端、そのあまりの迫力に、会場の空気が一変した。
クリフトンさんの演奏は、まるで嵐のようだった――。
荒れ狂う暴風雨が、客席を絶え間なく掻き回す。
それでいて、その指先は機械人形のように正確で、一切の乱れはなかった。
完全に学生のレベルを超えている――。
……これは、完敗だわ。
「それでは優勝者を発表します。優勝は――クリフトン・ジョイス君です」
学園長先生がクリフトンさんの名前を呼んだ途端、客席からワッと歓声が上がった。
これに関しては、満場一致だろう。
他の追随を許さない、まさしく圧勝だった。
……思えば私も心のどこかで、驕っていたのかもしれない。
今まではこの学園の生徒に、私より腕が上のピアニストはいなかったから……。
――でも、これでやっと私にも明確な目標が出来た。
今後はクリフトンさんを心のライバルとして、今まで以上に精進していくわ――!
「な、納得がいかないッ!!」
「「「――!!」」」
その時だった。
物凄い剣幕でサイラス殿下が舞台に上がって来た。
で、殿下!?
「こんな男の演奏より、エリザの演奏のほうが絶対良かったッ!! 学園長先生、あなたもしやこの男に、買収でもされたんじゃないですか!?」
なっ!?
殿下は学園長先生に、喰って掛かった。
「……殿下、私は誓って買収などされてはおりません。厳正なる審査のうえ、クリフトン君を優勝者に選んだのです」
「っ! でも――」
「殿下!」
「エ、エリザ!?」
堪らず私は殿下に声を掛ける。
「殿下の私を応援してくださるお気持ちは、本当に嬉しいです。――ですが、今日の演奏に関しては、明らかに私よりクリフトンさんのほうが上だったと私も思っております」
「そ、そんな――! エリザ――!」
「でも、私は諦めたわけではありません。今後は今以上に練習を重ね、いつの日かまたクリフトンさんから、優勝トロフィーを奪い返してご覧に入れますわ。どうかその日を、お待ちいただけないでしょうか」
「……ああそうか、わかったよ」
「で、殿下……?」
途端、殿下は暗い虚のような感情の読めない顔になり、そのままスタスタと会場から出て行ってしまった。
……殿下。
「クリフトンさん、サイラス殿下がどうもご迷惑をお掛けいたしました」
私は殿下の婚約者として、代わりにクリフトンさんに頭を下げる。
「いえいえ、どうかお気になさらず。それよりもエリザ様の演奏、素晴らしかったですッ!」
「……え?」
クリフトンさんは少年のようにはしゃぎながら、両手をブンブン振っている。
「あんなに美しい演奏は、今まで見たことがありません! まるで女神様が降臨されたみたいでしたよ!」
「め、女神……!?」
あまりの予想外の言葉に、思わず顔が熱くなる。
「で、でも、腕はクリフトンさんのほうが圧倒的に上でしたわ。私なんて、まだまだです」
「アハハ、まあ私は自由奔放に育てられたので、子どもの頃からピアノしか弾いてこなかったですからね。あれくらいは弾けて当然です。それより、学園長先生も仰ってましたが、エリザ様は生徒会のお仕事の合間を縫って、ピアノの練習をされていたのでしょう? しかも学業の成績も常に学年トップ。それであれだけの演奏技術を身に付けられたのですから、私なんかより余程偉大ですよ!」
「クリフトンさん……」
クリフトンさんの熱弁からは、一切の嫌味を感じない。
本心から言っていることなのだろう。
「ふふ、ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ」
今までの努力が報われた気がして、思わず目元に浮かんだ涙を、私は必死に堪えた。
「オイ、あまり調子に乗るなよ」
「……?」
そして一夜明けた翌日。
私が一人で学園の渡り廊下を歩いていると、校舎裏のほうから男性の声が聞こえてきた。
この声は、サイラス殿下……?
無性に嫌な予感がしたので、逸る心臓を抑えながらそっと校舎裏を覗くと、そこには――。
「いったい何のことでしょうか?」
「――!」
案の定サイラス殿下が、昨日の暗い虚のような顔をしながら、クリフトンさんの胸倉を掴んでいたのである。
こ、これは――!
「とぼけるなッ!! 男爵令息の分際で、僕のエリザに恥をかかせるとは、身の程を知れッ!!」
「がっ!?」
「っ!!」
殿下はクリフトンさんの顔面を、思い切り殴りつけた。
嗚呼――!!
「殿下ッ!! 何をなさっているのですかッ!!」
「エ、エリザ……!」
私は慌てて、クリフトンさんに駆け寄る。
「クリフトンさん、これを!」
そして懐からハンカチを取り出し、血を流しているクリフトンさんの口元にそっと当てる。
「あ、ありがとうございますエリザ様。でも私は、大丈夫ですから」
「クリフトンさん……」
「あ、あぁ……! なんでだよエリザ……! 僕は君のために……! 君のためを思ってやってるのにッ!!」
殿下は絶望にまみれた顔をしながら、頭を搔き毟っている。
殿下……。
「殿下、以前も申しましたが、私はこんなことを望んではおりません! クリフトンさんとは、正々堂々と勝負がしたいのです。――ですからどうか二度と、こんな悲しいことはなさらないでくださいまし」
「エリザ……!! ……ああそうか。君の気持ちはよぉくわかったよ」
「――!」
この瞬間、今までは宝物のように私を見ていた殿下の目が、明らかに変わった気がした。
まるで道端に捨てられている、腐ったゴミを見るみたいな冷たい目……。
「じゃあね、エリザ」
「で、殿下……!?」
殿下は私に背を向けると、そのまま無言でスタスタとどこかへ行ってしまったのだった――。
殿下……。
「……クリフトンさん、本当に申し訳ございませんでした。殿下もその……、根は悪い人ではないのですが……」
「いえいえ、私は本当に気にしてはおりませんから」
「クリフトンさん……。あら?」
その時だった。
殿下に殴られたことでクリフトンさんの前髪が乱れ、露わになったクリフトンさんの目を、私は初めて見た。
――クリフトンさんの瞳は、輝くような金色をしていた。
こ、これは――!
「……クリフトンさん、あなたはまさか」
「え? ――あっ! いや、これはその……。アハハ、私はちょっと用事を思い出したので、これで失礼します。このハンカチは、後日洗濯してからお返しいたしますので」
「ク、クリフトンさん!?」
クリフトンさんは慌てて前髪でまた目元を隠し、そのままどこかへ行ってしまった。
私はそんなクリフトンさんの背中を、無言で見つめていた――。
「うんうん! やっぱりコーリーのピアノを聴いていると、元気がもらえるよね!」
「えへへー、ありがとうございます!」
「――!」
その翌日の放課後。
今日も私がピアノの練習をするために音楽室に入ると、サイラス殿下がコーリーさんのピアノを、満面の笑みで褒めていた。
あ、あぁ……。
「あっ、エリザ様、こんにちは!」
「ああ、いたのかエリザ。悪いけど今日から次のコンクールまでは、この音楽室はコーリーが貸切ることになったんだ。君は旧校舎のほうの音楽室でも使ってくれよ」
「――!?」
殿下の私を見る目は昨日と同じ、道端のゴミを見るみたいな冷たい目だった。
嗚呼……そうか。
――私はもう、殿下に切り捨てられたのね。
「……承知いたしました。失礼いたします」
私は一つ頭を下げると、音楽室を後にしようと、殿下に背を向けた。
「ああそうだ。前から言おうと思ってたんだけどさ」
「……え?」
殿下?
「エリザ、君の演奏は教科書通りすぎて、個性がないよね。聴いててつまらないよ」
「――!」
個性が……ない……。
自分でも薄々感じていたことなので、殿下の心ない一言は、鋭利なナイフみたいに私の胸を深く刺した――。
「……っ!」
堪らず私は、その場から逃げ出した。
背中から殿下とコーリーさんの、和気あいあいとした声が響いてきた――。
そして訪れた、次の学園内コンサート当日。
私は先日の殿下の言葉で動揺していたこともあり、演奏中に2回もミスをしてしまった。
それに比べて、クリフトンさんの演奏は今回も完璧だった。
ううん、完璧なだけではなく、確固たる個性がある。
クリフトンさんの演奏は、クリフトンさんにしか弾けない唯一無二のもの。
私の無個性でつまらない演奏とは、そもそもステージが違うのだ……。
ちなみに「今回は滅茶苦茶練習してきました!」と豪語していたコーリーさんは、18回もミスしていた。
結果は見るまでもなく――。
「それでは優勝者を発表します。優勝は――クリフトン・ジョイス君です」
今回もクリフトンさんの優勝で幕を下ろしたと思われた、その時だった――。
「オイオイオイ、それはないだろう」
「「「――!!」」」
またしてもサイラス殿下が、肩で風を切りながら舞台に上がってきた。
「明らかに一番演奏が良かったのはコーリーだ。学園長先生、あなた耳がおかしいんじゃないですか?」
殿下はコーリーさんの肩を抱きながら、学園長先生と対峙する。
こ、この人は――!
――この瞬間、私の中で何かがブツンと切れた。
「殿下ッ! いい加減になさってくださいッ!」
「な、なにィ!?」
私は殿下の前に立ち、殿下を真っ直ぐに見据える。
「あなた様は、ご自分がどんなに恥ずかしいことをなさってるかわからないのですか!? あなた様のような方が王族では、他国から我が国の品性が疑われてしまいますよッ!」
「な、こ、このアマがぁ!! 王子である僕に対して、イイ度胸だなッ!」
殿下は鬼のような形相で、私に指を差す。
「もういいッ! 今この時をもって、僕は君との婚約を破棄するッ! むしろ僕に暴言を吐いた罪で、君には相応の罰を与えてやるからなッ! 覚悟しておけよッ!!」
今のサイラス殿下には、以前の神のように私を崇拝してくださっていた面影は、欠片もなかった。
いいや、今思えば殿下は別に、私のことを心から崇拝していたわけではなかったのだ。
ただ単にペットでも可愛がるみたいな感覚で、自分の婚約者こそがこの世で一番であると盲信していただけ。
そのペットに嚙みつかれたものだから、途端に熱が冷めて、新しいコーリーさんを可愛がるようになったに過ぎないんだわ……。
「それは聞き捨てなりませんね」
「「「――!!」」」
その時だった。
私の前に一人の男性が立ち、サイラス殿下と対峙した。
――それは他でもない、クリフトンさんその人だった。
「ああ!? 何だと男爵令息如きが!? この僕に盾突くというのかッ!! 叩き斬るぞッ!!」
「……サイラス殿下、このお方は、男爵令息ではありません」
「…………何?」
こうなった以上、もう隠してはおけないだろう。
私はサイラス殿下に、真実を伝えることにした。
「――こちらのお方は、エクフラ帝国の第三皇子であらせられる、クリストファー殿下でございます」
「「「――!!?」」」
「な、なにィイイイイイイ!?!?!?」
「ふふ、やはりあなたにはバレてしまってましたか」
クリフトンさん――いや、クリストファー殿下は長い前髪を上げ、その輝く金色の瞳を露わにされた。
「そ、その目は――!?」
サイラス殿下はガタガタと奥歯をかき鳴らし、真っ青な顔になった。
さもありなん。
この金色の瞳こそが、エクフラ帝国の皇族の証なのだ。
大陸一の大国であるエクフラ帝国の皇族と我が国の王族では、天と地ほどの身分差がある。
知らなかったこととはいえ、その皇族にあろうことか手を上げてしまったことが発覚したのだ。
今のサイラス殿下はまさしく、蛇に睨まれた蛙。
「……クリストファー殿下から、この学園ではただの男爵令息として扱ってほしいとの申し出があったのです。あまり周りの生徒たちから、気を遣われたくないからとのことで」
学園長先生が、何とも悲しそうなお顔で語る。
なるほど、そういうことだったのですね……。
「……私も、自分のことであれば大抵のことは我慢するつもりでした。――ですが、エリザ様を不当に罰するということでしたら、とても黙ってはいられません」
「クリストファー殿下……!」
私を守るように前に立つクリストファー殿下の背中を見ていたら、私の胸がトクンと一つ跳ねた――。
「あ……いや、これは……その……」
サイラス殿下はダラダラと脂汗を流しながら、今にも泣きそうな顔になっている。
……哀れね。
「あなたの今回の一連の言動は、国王陛下に私のほうから報告させていただきます。どうかご承知おきください」
「あ……あ……あぁ……あああああああああああああああああああ!!!!!!」
サイラス殿下は頭を搔き毟りながら、その場に頽れた――。
――あれから数週間。
私は放課後の音楽室で一人、今日もピアノの練習に励んでいた。
あの後、サイラス殿下はクリストファー殿下に暴行を加えたこと、そして私との婚約を勝手に破棄したことなどの罰で、廃嫡のうえ国外追放処分となってしまった。
今はどこで何をしているのか、杳として知れない……。
ちなみにあんなことがあったにもかかわらず、コーリーさんはまったく気にした素振りはなく、今でも毎日放課後はいろんな男子生徒と遊び歩いている。
あの人のメンタルの強さだけは、本物かもしれない。
「ふふ、今日も実に美しい音色ですね」
「――! クリストファー殿下!」
その時だった。
いつの間にかクリストファー殿下が私の背後に立っていて、ウットリとした表情で私を見下ろしていた。
「い、いらしてたのですか!?」
「ええ、随分前からここにいましたよ? あなたは大変集中なさっていたので、気付いていないようでしたが」
そ、そんな……!
だったら声を掛けてくださったらよかったですのに……。
――あれ以来クリストファー殿下は前髪で目元を隠さなくなったので、そのお美しい金色の瞳で見つめられると、胸の奥がキュッと苦しくなってしまう……。
「やはりあなた様は私の女神様です。あなた様の演奏をこうして間近で聴けるだけで、留学して来た甲斐があったというものです」
クリストファー殿下はそれこそ女神様に祈るように、両手を私の前で組んだ。
「で、殿下!? そんなお世辞は結構ですから! 私の演奏は教科書通りすぎて個性がないって、サイラス殿下も仰ってましたし……」
「そんなことはありませんッ!」
「っ!?」
ク、クリストファー殿下!?
「私はエリザ様ほど、楽譜と真摯に向き合っているピアニストを見たことがありません。――エリザ様の演奏は、作曲家の心を誰よりも慮っている素晴らしいものです。それは確固たる、エリザ様の個性です。この私が保証します」
「クリストファー殿下……!」
私の胸が、自分のものではないみたいに、ドクドクと早鐘を打っている。
嗚呼、今気付いた――。
私は、クリストファー殿下のことが――。
「……! で、殿下!?」
その時だった。
おもむろにクリストファー殿下は私の前で片膝をつき、右手を差し出された。
「エリザ様、私は初めてあなた様の演奏を聴いた時から、ずっとあなた様をお慕いしておりました」
「――!!」
クリストファー殿下の金色の瞳が、夕陽に反射してキラキラと光り輝いている。
あ、あぁ……、そんな……!
「どうか私の妻となり、共に人生という名の旋律を奏でてはいただけないでしょうか?」
クリストファー殿下のプロポーズは、何ともピアニストらしいものだった。
……ふふふ。
「はい、私でよろしければ、喜んで」
私はクリストファー殿下の右手に、自らの左手をそっと重ねたのだった。
そんな私たち二人のことを、夕陽だけが「お安くないぜ」とでも言いたげな顔で見ていた――。
拙作、『12歳の侯爵令息からプロポーズされたので、諦めさせるために到底達成できない条件を3つも出したら、6年後全部達成してきた!?』がcomic スピラ様より2025年10月16日に発売された『一途に溺愛されて、幸せを掴み取ってみせますわ!異世界アンソロジーコミック 11巻』に収録されています。
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