異世界三度笠無頼:短編連作『峠にて恩を返すⅡ:峠の霙』
――闘いと義――
霙まじりの風が、山道をかすめていた。
丈之助は、姉弟を先に歩かせ、自分は少し後ろから見守っていた。
下野国と宇都宮を隔てる峠道――春と冬が交じる頃は、石畳が凍り、足を取られる。
姉の背中が小刻みに震えているのを見て、丈之助は黙って道中合羽を脱ぎ、肩にかけた。
「冷えますぜ」
「……ありがとうございます」
かすれた声。
峠を包む霧が濃くなり、木々の影が墨のようににじむ。
だが、その霧の向こうに、人の気配があった。
草鞋の擦れる音、荒い息。
丈之助は立ち止まり、右手を脇差に添える。
「下がっていなせぇ」
丈之助のその言葉に姉弟は後ろに下がった。
木の陰から現れたのは、四、五人の男たち。
鍬や鎌を持った、村の百姓だった。
「よそもんがなに勝手なことしてくれんだ!」
年配の男が口を開く。
「強訴の生き残りを連れ出しゃ、またお役人に難癖をつけられる。
俺たちはもう懲りた。これ以上、火の粉を被りたくねぇ」
丈之助は無言で笠を上げ、霙の中で目を細めた。
「あっしは恩を返す。それだけでさぁ」
「恩? その子供らは助かるが、俺達がひどい目にあうんだ!」
「刀持ったお侍にゃかなわねえんだよ!」
その言葉に、丈之助の胸が冷たくなった。
誰も悪くない。
飢えた者が生き延びようとするだけで、血が流れる世の中だ。
姉が弟の手を握りしめた。
「お願いです。私たちは、ただ――」
「だめだ!」
百姓の一人が叫び、鍬を構えた。
「ここを越えられちゃ、俺たちが殺される!」
津々浦々を歩いて散々見てきた光景だ。役人の横暴、理不尽な濡れ衣。農民同士の諍い、ごうつくばりな商人の搾取、――いつでも泣くのは弱い者だ。
だが、丈之助は一歩、前に出た。
「だったら、この子らに飯の一つも食わせやりいいでしょう」
左腰の脇差に手を触れながら続ける。
「米がねぇなら、稗粟でもいい。ひもじい腹をいっしょに抱えりゃいい」
「う、うるせぇ!」
丈之助は長脇差の鯉口を切った。そこには義憤の熱さがにじみ出ていた。
「てめえらはたらふく食って腹いっぱい、だからここまで追いかけてこれた――」
その言葉に姉弟はハッとした表情になる。百姓たちは唇を噛んだ。
「強訴で動くのは大抵が土地持ちの名のある百姓だ。それが死にゃぁ、土地のない小作の百姓は土地が手に入るって胸算用でござんしょう」
百姓たちは強訴に加担した村人たちを根絶やすつもりだったのだ。子どもたちには餓死という末路を押し付けて。
――シュッ――
風が鳴った。
脇差が抜ける音が、霙の中で鈍く響いた。
次の瞬間、鍬の刃が空を切り、丈之助の足もとに土が跳ねた。
丈之助は踏み込み、刃を横に払った。
男の手から鍬が飛び、血が霧に混じった。
「もうやめてくれ!」
姉の叫びが響く。だが、誰も止まらない。
丈之助は息を吐き、もう一度だけ刃を振るった。
背を裂かれた男が倒れ、他の者たちは逃げ出した。
静寂が戻る。
霙が頬を打ち、白い息が煙のように漂う。
丈之助は刀を拭い、鞘に戻した。
「怪我はねぇか」
姉弟は震えながら首を振った。
「怖かったか」
弟が涙をこぼした。
「でも、おじさんがいなきゃ、もう死んでた」
それは事実だ。丈之助は何も言わなかった。
夜が来た。
峠の上には小さな祠があり、苔むした屋根の下で火を起こした。
薪が湿っていて、炎は弱々しい。
丈之助は火のそばに座り、肩の傷を押さえた。
血がにじむ。
それを見た姉が、帯を裂いて包帯を作った。
「やめな。手が汚れまずぜ」
「……恩返しです」
その言葉に、丈之助は目を伏せた。
峠の向こうには宇都宮の灯が見える。
遠い、けれど確かに灯っている。
丈之助は火の残りを見つめ、静かに呟いた。
「義理を通すってのは、寒ぃもんでさ」
夜明け前、風が止んだ。
霙が雪に変わり、空の端がうっすらと明るくなる。
丈之助は立ち上がり、肩に外套をかけ直した。
「――夜が明けやすぜ」
姉弟は黙って頷き、三人の影が雪の中を下りていった。
(次話「宇都宮の貸元」につづく)
本作は『異世界三度笠無頼』の外伝短編連作に一つとして、
渡世人・丈之助が異界へ流れる前の足跡を描きます。
各話は独立してお読みいただけます。




