星は巡る
「あーあ、降ってきちゃったか」
駅を出ようとすると、細かい雨が霧の様に降っていた。会社を出るときには曇ってはいたが、降りだしそうにはなかったのに。傘は無いし、どうしようか。
「もう、いいや」
アパートまで徒歩10分。霧雨だし大して濡れないでしょ。何かのセリフにあったっけ、濡れて参ろう?
仕事が上手くいかなくて、落ち込みがちな気分のところにこの雨。少し自棄になっていた。
「今週中というのは、ちょっと厳しいです」
課長の席の前でそう言ってみたが、来週中でも厳しい気がしていた。
「大丈夫か? 田村が休んでしまって、君の負担が大きいのはわかるが、遅れるなら遅れるで、ある程度の目途は立てておいてくれ」
「はい……」
そう言っていたのは先週だっけ。今日は何曜日だ? 水曜日か。木、金でどうにかなる? 無理だな。頼み込んで土日も出るか……。私も休んじゃおうか。 街灯の下を通ると、新調したばかりのダブルブレストのコートに、朝露に濡れたように細かい水玉が付いていた。気晴らしのつもりで買ったんだよなぁ。結構高かった。ライトグレーのダブルブレストコート。
霧雨だったが、歩道のアスファルトは大分濡れていて、跳ねた水が足をぬらしている。
――こんなに遠かったっけ。
時計を見ると、まだ5分しか経ってなかった。なんだか急に惨めな気持ちになってきた。バッグを胸に抱くようにして足を速める。
――何だか、ずいぶん昔にもこんなことがあったような気がする。デジャヴュってやつ?
『今は、明るい星は見えないけど、そのうち巡ってくるわよ』
誰かの声。誰だっけ。明るい星。ね。
※ ※ ※
「困ったわね。文化祭まであと一週間でしょ。今日には出来てないといけなかったのよね。困るわ」
「はい……」
担任の先生は、はーっとため息をついて、机に向き直った。
「山田君の担当部分が残ってるんです。部活があるからって言って、なにも手伝ってくれなくて。今日も練習試合だからって……」
「神谷さん、あなた何か部活動は?」
「え、やってません」
「じゃあ、あなたが頑張らなきゃ。こういう時は、クラスメート同士助け合いでしょう? はい、明日までにはお願いしますよ」
言い訳は聞きたくない、とでも言うように、描きかけの原稿を私に返した。
「ああ、それから、文化祭だからって遅くまで残らないでね。父兄からは苦情も来てますから」
私は職員室を出ると、丸めた原稿を手に、教室に戻った。なんで私がこんなこと言われなきゃならないの?
文化祭で各クラスが何をやるのか、まとめたパンフレットを作る、という面倒な仕事を私は連日やっていたが、思うように進まなかった。もともと、私はパンフレットの見栄えが良くなるように、イラストやカットを頼まれただけだった。
「文章とかまとめるのは、こっちでやるからさ、神谷さん、イラストとか描いてくれないかな」
そう、山田君が言ってきたときに、軽い気持ちで引き受けたのだけど。
「三年の何クラスが、まだ資料出してくれないんだ。ちょっと催促してきてくれないかな。あ、おれは、今日練習試合があってさ。文化祭の前で忙しいのに。ごめん。それにさ、何か、女の子が頼んだ方が早くやってくれそうだし」
そのうち、こんなことを言い出すようになった。それからは、三年生のクラスの資料集めどころか文章を書いて編集まで私がやることになって、先生の小言まで一人で聞く羽目になってしまった。
山田君は私から逃げるように放課後は居なくなってしまうし、手伝ってくれそうな人はクラスの企画の方で忙しそうだった。
そうよ。なんで私が手伝ってって言わなくちゃいけないわけ?
教室に戻ると誰もいない。私のクラスの企画は、映画を作るとかって話になって、撮影とかは外でやってるらしく、教室に人がいることはあまり無かった。
後ろのドアから入ったら、なぜかゴミ箱がドアの前に置かれていた。それを見ていると、なぜだか無性に腹が立った。
――えいっ!
思い切り蹴飛ばした。ゴン、という鈍い音がして、ゴミ箱は滑るように教室の中ほどで止まった。期待したような大きな音を立てて倒れたりはしなかった。つま先が痛い。
「あ、神谷さん、まだ居たの?」
声に驚いて振り向くと、教室の前の方のドアから、学級委員長の太田さんが入ってきた。
「え、あ、文化祭のパンフレットのことで……」
――ちょっとむしゃくしゃしちゃって。
「そう。大変ね。たしか、山田君も担当だったんじゃなかったっけ?」
――山田君が担当だったの。
「まだ何かやってくの?」
「え、ううん、もう帰るとこ」
「そう。わたしも今日は帰るところ。文化祭の実行委員なんて面倒くさくていやだわ」
二人で戸締りをすると、教室を出た。校舎を出て、正門まで歩く。ちょっと振り返ると、明かりのついた教室では、忙しそうに動き回る人が見えた。
「もうこんな時間。暗いはずね」
言われて私も腕時計を見ると、19時を過ぎていた。
「神谷さん、帰りはこっちから?」
「ええ」
「おなじね」
ちょっと困った。太田さんとはろくに話をしたことが無い。ストレートの長髪に眼鏡をかけた、秀才で堅いイメージがあるせいか、なんとなく苦手にしていた。
「ふーん、神谷さんがパンフレットのイラストを描いてるの。いつ頃から絵を描くようになったの?」
「何時からっていうか。気が付いたら絵を描いてたっていうか。親は鉛筆持たせとけば静かにしてたっていってたけど」
「へえー、すごいわね。もしかして天才?」
「そんなことないよ。下手の横好き」
太田さんの方から、積極的に話を振ってきた。
「太田さんは、何か趣味は?」
「私? 私は、勉強」
「え?」
つい立ち止まってしまった。
「うそよ」
眼鏡の奥の目が笑っている。本気にしちゃったじゃない。
「そうね。星を見ることかな」
そう言って空を見上げた。つられて私も見上げる。星が幾つか瞬いている。
「ここからだと、三等星くらいまでしか見えないわね。ちょうど、夏の大三角が真上に来てる」
夏の大三角は聞いたことがあるような。
「詳しいのね。太田さん、望遠鏡とか持ってるの?」
「ええ。たまに、天気が良いと見たりするけど」
すこし、会話が途切れた。秋の夜風はだいぶ冷たくなってきていた。
川沿いの道を並んで歩く。川は緩やかに下っていて、その向こう、夜空に紛れるように、海が見えている。
「あと一週間で、文化祭ね。今週どうにか頑張らなきゃ」
太田さんが言う。私は、明日までが大変なんだけど。
明日のことを考えると頭が痛い。まあ、間に合わなかったらもうしょうがないと開き直ってやろうかな。
「あそこにアンタレスが見える。もう沈んじゃうところね」
太田さんが指さす水平線近くに、赤くせわしなく瞬く星が見えた。
「私、さそり座とかこと座とかの夏の星座が好きなのよね。秋の夜空は寂しいし」
ちょっと、遠い目をしてそう言う。
「でも、星はぐるぐる巡っているから、そのうち明るい星たちが昇ってくる。今は寂しくても」
行きましょう、そんな感じで太田さんは先に立って歩きだした。
――もしかして、私の事慰めてくれてるのかな。
どこかとっつきにくい感じだった太田さんのイメージは大分変っていた。今では親しみも感じていた。
翌日。なんとかパンフレットは間に合った。太田さんが他のクラスメートにも声をかけて資料集めを手伝ってくれたおかげで。
「神谷さん、パンフレット出来たんだって?」
山田君が久しぶりに私に話しかけてきた。
「ええ。太田さんたちも手伝ってくれたおかげでね」
「なんだ、委員長も手伝うんだったら、最初から手伝ってくれれば苦労しなかったのに」
「へえ、あなたが何か苦労するようなことでもあったの?」
私の強い口調に、山田君はびっくりしたような顔で私を見つめていた。
※ ※ ※
金曜日。もう高く日は昇っているようだったが、まだ布団からでるのは億劫だった。
――そろそろ起きなきゃ。
そう思っても体は動かない。
昨日の夜遅く、終電ぎりぎりで仕事はようやく終わった。先週末では終わらなくて、土曜日も出勤した。日曜の出勤は却下されたので、翌週に持ち越したが、それでもなんだかんだやり直しなども出てしまい、木曜でどうにか終わった。金曜の今日は、先週土曜の代休だ。
――そうか。今日は仕事に行かなくていいんだ。
明け方に、何にか夢を見ていたような気がする。頭を抱えて必死にイラストを描いているような。誰かに手伝ってもらって、ほっとしたところでまた眠りについたようだった。
――まあいいや。今日はもう少し寝ていよう。
もう一度布団を顔まで上げて、体を丸めた。明るい星は巡ってくる、か。夢の中で言われたことば。
――起きたら、プラネタリウムでも行ってみようかな。
それまでは、おやすみ。




