だって恋人いますよね?〈町田視点〉
「二階堂さんどうですか最近。来月で契約更改になるんですけど、何か不満や要望などはありますか?」
私は三か月に一度の考課面談をしていた。
私の向かいに座っているのは二階堂さんという痩せた30代後半の男性で、銀縁の眼鏡が神経質そうだ。
スーツをびしっと着込んでいて、いかにも仕事のできる会社員という風貌なのだが、彼はアルバイトだ。いつものように淡々とした口調で答える。
「今のところ、待遇には特に不満はありません。業務量にしても求められるスキルレベルにしても、こちらの希望と一致していると感じています。ーーただ、最近の物価高騰で、生活が圧迫されているのも事実ですね。ベースアップを検討していただけたら助かります」
「そうなんですよねー」
私もPCを覗きこみながら、難しい顔をする。
「前回の単価見直しは二階堂さんにも相談に乗っていただいたおかげで、まあ適正な値上げかなというのは、発注者様にも納得して頂いています。なので、近々そこは反映したいと考えてます」
それにしても近年の物価の上昇速度はすさまじく、こちらが少しぐらい時給を上げたところで追いつくものではない。
「そこで二階堂さん、相談なんですけど、うちの社員になる気は」
「ないですね」
提案は全部言い終わらないうちに却下された。くっ、これで5連敗目だ。
しかし私も諦めずにしつこく食い下がる。
「あの、何度も言ってますけど、二階堂さんには今の時点で充分広範に業務をカバーして頂いてるので、正社員になったからといって、極端に負担が増えるとかっていうことは無いと思うんですよ。すこーしですけど手取りも増えますし、ボーナスも出ますし」
二階堂さんははっと吐き捨てるように笑った。いつも無表情な彼にしてはずいぶん感情的になっている。この人は何やら社員という立場にトラウマがあるらしいのだ。
「そんな都合のいいことを言っておいて、いざ社員になったら、勤務時間の縛りが緩くなるのをいいことに無理をいう気でしょう。こっちは繁忙期になったら終電を逃して泊まり込む町田さんや入江さんを知っているんですよ。僕もそちら側に引き込みたいってことですよね」
さすがに鋭いな。私はあくまでもにこやかに告げる。
「いえいえ。もちろん、残業するかどうかは二階堂さんの裁量にお任せします。たとえ繁忙期で私と入江さんが残っていても、気にしないで定時退社していただいて大丈夫ですよ」
「そんなことできるんならこっちも病気になったりしていませんよ!」
しまった逆鱗に触れてしまった。いつも冷静な二階堂さんが声を荒げて机を叩くなんて。
すぐに我に返ったように「……失礼しました」といつもの雰囲気に戻ったけど。
二階堂さんはもともと大手会社のDX開発室で働いていた人なのだが、あまりの激務のため心と身体を壊し退職、数年の療養期間を経てうちでアルバイトをしているという経歴の人だ。
私と英理がこの会社を作った3年前から働いてくれている。仕事は文句無くできるし、なんなら私よりも総務にも経理にも法律にも詳しいので、日々ずいぶんと助けられている。
なんとか正社員に引き抜こうと猛アプローチをかけているのだが、今のところ全敗している状況だ。
今の自分には責任のかからない非正規という立場が向いている、と言って。
確かに、忙しいといろいろ断れない性格なんだろう。どうしても終わりそうにない案件の時とかは、進んで残ってくれたりするし。
だからこそ、正式にうちで働いて欲しいんだけど。
何より二階堂さんは、あの英理と相性が良いのだ。
そうは言っても本当に嫌そうなので、残念だけど今日のところはこの辺で引くことにする。あまりしつこくして辞められても困るし。
「わかりました。今回は諦めます。でも気が変わったら、いつでも言ってくださいね?」
二階堂さんはすっかりいつもの無表情に戻っていて、形式的に頭を下げた。手強い人だ。
「あ、そうだ」
一礼して出て行こうとする二階堂さんに、思いついて私は声をかけた。
「先月から来てる篠原くんって、どうですか? もし良かったら、大学の夏休みが終わったあとも、夕方から来てもらおうと思ってるんですけど。デバッグ要員として」
二階堂さんは少し考える素振りをする。
「良いと思いますよ。彼は秩序を崩さないですね。それに意外と真面目で飲み込みも早い。教えれば開発の方もいけるんじゃないかな」
めちゃくちゃ冷静に観察している二階堂さんに感心する。やっぱり、この人が管理者側についてくれたら心強いんだけどな。
「なんか二階堂さん怒鳴ってませんでした? 執務室まで聞こえてましたよ。あの二階堂さんを怒らせるなんて、いったいどんなやり取りしたんですか……」
二階堂さんと入れ替わりに藤原くんが怯えたような顔をしながら入って来た。
来客や面談に使うこの部屋は、執務室代わりの大部屋の隣にあるので、ちょっと大きい声を出すと筒抜けになってしまうのだ。「ちょっとね」と私は笑ってごまかした。
「で、どう? 入って一か月だけど、何か不満点とかある? よかったら引き続きお願いしたいと思ってるんだけど」
「不満ですか。特に無いですね。学校始まっても働けるならありがたいです。夕方と、あと大体の土日も大丈夫です」
「助かる。試験前とかは言ってもらえたら融通きかせるから」
よろしくお願いします、とあっさりと藤原くんの続投が決まった。
「それと、私用でここ使わせてもらっていてすいません」
そう言って藤原くんが頭を下げる。そういえば、早朝のオフィス使用の申請があったんだった。ここの方が学校の課題がはかどるとかで。その気持ちはわかる。
「家だと進まないよね」
「そうなんですよ。外でやろうとすると意外と場所が無くて。図書館は勉強禁止だし、カフェは出費が痛いし。だからここ使わせてもらえるのは助かります。ただ、入江さんが負担じゃないのか心配だけど」
ここの鍵を持っているのは英理と私だけなので、始業前に開けるのは英理の役目だ。藤原くんに付き合って、最近は早く出てきているらしい。
本当は、何かあった時のためにもうひとり合鍵を持っておいてくれる人が欲しいんだけど。
誰が一番適任かっていったら二階堂さんだ。でも社員じゃない人が鍵を持っていて、何かあった時に困りそうだし、二階堂さんも断る気がする。
彼が社員になる話受けてくれたらなー。一番いいんだけどなー。
私が考えている顔が深刻そうに見えたのか、藤原くんが心配そうに見てくるので、笑ってやった。
「ああ、大丈夫だよ。夏休みのあいだここを早目に開けるっていうのは英理から言い出したことなんでしょ? あの子は朝早いからそんなに負担にはならないって。意外と嫌なことは頑としてやらないんだよね、あれでも」
だから、早朝の提案を英理から聞いた時には驚いたのだ。あの子が自分からあんなことを言い出すとは思わなかった。
短い間とはいえ、藤原くんとふたりだけになる時間が発生するというのに。
思っていたより全然早く慣れたな、と感慨深い。
「そうですかね。入江さんて、何だか俺にすごく遠慮をしてるような気がするんですけど……。なんかたまにまだちょっと怯えられてる気配を感じたり」
「そりゃ、あれだけ複雑な感情を持ってたアルフレードの生まれ変わりが急に目の前に現れるんだもん。情緒も乱れるってもんだよ」
「複雑な感情って、それをいうならシシィ、百々子さんもそうじゃないですか。百々子さんには信頼しか寄せられてないのに」
少しうらやましそうに見てくる藤原くんに、本当に良好な関係なんだなと思ったので、少し悔しくなってここぞとばかりに自慢する。
「私のときだって、最初はなかなか懐いてくれなくて大変だったよ? コロナの頃だったから、あんまり直に会えなくて、仲良くなったと思っても次に会うとまたよそよそしくなってたり。でも会えない時間が愛を育てたっていうか。まあ年季が違うからね。たかだか一か月で私の域に達しようなんて、それは傲慢ってもんだよ」
「そんなマウントとられても」
藤原くんが少し引いたのがわかった。
「あとあの人から、ちょいちょい俺と百々子さんをふたりにしようとする圧を感じるんですが」
私は吹き出した。確かに、3人になった途端に英理だけ席をはずしたり、英理が伝えればいいような藤原くんへの報告を私に託してきたりと、結構わかりやすく小細工をしてくる。
「あの子はシシィとアルフレードのカップル推しだからね」
隙あらば我々をくっつけたがる習性があるの、と言ったら、「はあ……?」と藤原くんがよくわからないような複雑な顔をした。
「だって百々子さん、恋人いますよね?」
「あ、知ってたんだ。誰かから聞いた?」
「いや、普通にそのステディリング見ればわかります」
「へえー」
私は自分の右手薬指に目をやった。うちで働いている人は、基本的にあまり他人に興味ないので、藤原くんがこういうところに気づく子だというのは新鮮だ。
こっちの指は普通にファッションとして付ける人も多いしね。
「入江さんは、知ってるんですか。その人のこと」
「うん。英理と会う前からの付き合いだもん。ーーでもたぶん、藤原くんが私のこと好きになったら、英理は藤原くんに付くよ」
「……嬉しくないな」
「おい」
藤原くんが本当に嬉しくなさそうな顔をするので、仮にも前世で運命の恋に落ちた相手に対する態度か、と思わず突っ込みたくなるけど、気持ちはわかる。
私の方も、アルフレードに感じていた恋情や執着といったものは、何故か藤原くんにはさっぱり感じなくなっていたからだ。
「一応言っときますけど、俺は恋人いる人と親密になる趣味はないです」
きっぱり言われて苦笑してしまった。なんとも真っ当な感性だ。
「そこで年齢を理由にしなかったのは評価するわ」
「そういえば百々子さんの年って」
「はーい面談おわりーおつかれー」
無理矢理のように話を切り上げてにっこり笑う。手を振ると藤原くんもやれやれというように立ち上がった。
確かに恋人候補と呼ぶには程遠いんだけど、だからといって他人同然というわけでもない。
前世では子供どころか孫の想い出まで共有している相手だ。いなくてもそこまで寂しくないけど、いるとなんとなく安心する。
「なんていうのかなー」
思わず独り言が出る。
「何がですか?」
「んーなんか知ってるなって、この感覚」
怪訝そうな藤原くんに適当な返事をする。
軽口の許容範囲も価値観も、お互いに何となくわかっていて、沈黙も気にならない。
そう、このぬるま湯のような感覚はまるで、
「……実家?」
「それだ」
私と藤原くんはお互いに指を差し合った。