悪役令嬢だったわたしとヒーローだった彼
久しぶりにエリザベスの夢を見た。
暗闇の中を真っ逆さまに落ちてゆく。声にならない自分の悲鳴で目を開けたけど、やっぱり暗くて、一瞬ここがどこなのかわからない。
まだ落ちている? 落ちていない。死んだ? まだ生きている。ここは、あの星見の塔? 違う。自分の部屋のベッドの上。私の名前は? わたしは、入江英理。
ひとつずつ確認していく作業は前世との訣別に似ている。
夢だとわかっているのに、一旦生命の危機だと誤認したわたしの身体はSOSを発し続け、汗がひっきりなしに流れ、心臓がものすごい強さと速さで脈打っている。
ようやくすこし震えがおさまってきたので、ごしごしと涙を拭きながら、手探りでスマートフォンを探し出した。画面が明るくなって、その光にほんの少し安心する。
照らし出された時刻は午前3時にもなっていない。まだまだ夜が長いことに絶望しながら起き上がった。
膝を抱え込んで、何度も深呼吸をする。幼い頃から何度も何度も見てきた夢だ。こうやって恐怖をやり過ごすのにも慣れてしまった。
ーーただの夢だよ。
耳の奥で、闇を薙ぎ払う声が聞こえる。
ーー大丈夫。英理はエリザベスとは違うし、ここにはあんたを傷つけようとする奴はいないから。
「うん、ももこさん……」
そうやっているうちに、カーテンの隙間から薄い光が差し込んで、部屋が青くなってきた。ひとまず夜が終わった。もう大丈夫だ。今日も無事に現世へ戻って来ることができた。
洗顔と着替えを済ませても、バスの始発の時間まではまだまだあるので歩くことにする。
早朝の、人も車もまばらな国道沿いを歩くのは好きだ。
5駅ほど歩いて事務所として使っているマンションに着く。
ここの鍵を持っているのは、私と百々子さんだけだ。百々子さんは朝が弱いので、基本的に私が始業前に来て開けて、百々子さんが終業後に閉めて帰ることが多い。
アルバイトさんが少ない時期は、その限りではない。
中に入ると空気がむわっとしている。空調をつけて、もうだいぶ明るくなっていたので、照明はつけずにブラインドを上げる。
PCの電源も入れながら、少し仮眠を取ろうかな、と考えた。
不思議なことに、自分の部屋よりも、ここのデスクの方がよく眠れる気がするのは、ここには百々子さんの気配がするからだろうか。
始業は9時からで、コアタイムは11時から15時。でも11時ぎりぎりに来るのは百々子さんぐらいで、他の人は大体9時から勤務する。
まだしばらくは誰も来ない。今のうちにひと眠りしようとデスクでうつ伏せ用の枕を取り出して眼鏡に手をかけたところで、がちゃりと玄関のドアが開く音がした。
え。
私が固まってる間に、「え、開いてる」という言葉と共に人が入って来る気配がした。
時計を見るとまだ7時前だった。出勤には早すぎる。
声で誰かはわかっていたが、私は咄嗟のことに対処できないまま、ぴくりとも動けずに部屋の入り口を見ていた。
部屋のドアが開いて、ひょろっと背の高い青年が姿を現した。Tシャツに黒いパンツというカジュアルな格好は、あまりあの人の面影を留めていない。
(ももこさんと同じだ)
前世などというものにこれっぽっちも囚われず、しっかりと今の人生を生きているふたりが、私には眩しい。
ひと月前からうちにアルバイトで来てくれている藤原さんだった。
かつて私が憧れて止まなかった人の、生まれ変わり。
「おはようございます。やっぱり入江さんだ。まさかいると思わなかった。もしかして昨日ここに泊まったんですか」
この人がこんなふうに話しかけてくれることには未だに慣れない。私はぼんやりと首を振った。
「ちょ、ちょっと、早く、起きちゃって……」
それだけ言うのが精一杯だ。
「同じだ。俺も暑くて寝られなくて。うち居間にしかクーラー無いんですよ。課題も全然進まないし、出勤前にどっかで朝飯がてらやろうかなって。でもその前にワンチャンここ開いてないかなって寄ってみたんだけど」
来て良かった、と言って少し笑った。
かつてのアルフレード様が私に笑いかけてくれる。嬉しさよりも申し訳なさのほうが大きい。そう思ってしまうのは、まだまだ私の中にいるエリザベスの存在感が大きいからだ。
そのことに対しても、私は後ろめたさのようなものを感じてしまう。
「あの、そんなわけで、9時までここで課題やらせてもらったら駄目ですかね? セキュリティ上の問題があるとかなら諦めますけど」
「課題って、PCとか使うんですか?」
「自前のタブレットですね」
「それなら、全然、大丈夫です。どうぞ、わたしのことは、お気になさらずに」
「やった。ありがとうございます」と言って、藤原さんは背負っていたリュックサックからタブレットを取り出して、操作しはじめた。
私は何となく寝そびれてしまい、手持ち無沙汰になったので、メールチェックなどをはじめる。
今は特に繁忙というわけでもないので、急ぎのメールは特に来ていない。
執務室として使っているこの部屋には、デスクが5台置いてある。
入口から見て右手側と左手側に設置してある2台ずつはそれぞれ壁に向かっていて、正面の窓のある壁にある一台だけが、部屋の真ん中を向いている。百々子さんのデスクだ。
私と藤原さんのデスクはちょうど背中合わせだった。
壁を向いて仕事をしていると、音や気配だけが伝わってくる。ビニール袋をがさがさする音、タブレットに繋いだキーボードがかたかたと立てる音、衣擦れの音。
私はどうしてこんなに緊張しているのだろうと考えて、そういえば、彼がここに来てから、ふたりきりになるのは初めてだと思い至る。
前世では、私は彼に酷く憎まれていた。それとも、軽蔑されていたといった方が正しいだろうか。
アルフレード様に憧れていた私は、彼の感情が他の女性ーーシシィに向いているのを知ると、嫉妬から精神の均衡を崩し、彼女にあらゆる嫌がらせをした。
うまく隠しているつもりでも、おそらくそれは筒抜けだったのだと思う。
だんだん彼の私をみる目が冷たくなるのがわかっていた。
最終的にみっともなく泣いて命乞いをしても、眉ひとつ動かさなかったほど、私は拒絶されていた。
では今世は?
そう思うと息がうまくできなくなる。
私の醜い本性を全部知っているはずの彼は、いま何を思っているのだろう。
そんなことをぐるぐると考えていたので、当の藤原さんから「あの」と突然声をかけられて、ものすごくびくっとしてしまった。
「うわっ!」
振り向くと、回転椅子にすわった藤原さんがこちらを向いていて、のけぞって大きい声を出した私にやっぱり驚いていた。
「あ、すみ、すみません。ちょっと、考え事してて……」
慌てて平謝りする。もう、本当に、挙動不審で申し訳ない。再開した時からずっとだ。表面上は何もない顔をしてくれているが、いいかげん内心ではうんざりしているだろうなと考える。
「いや、驚かせた方が悪いんだから、謝らなくても」
声をかけられたぐらいで驚く方が悪いだろう。そう思ったけど、口を開くとまた謝ってしまいそうだったので、否定の意味で首だけを振った。
「あの、朝ごはんって食べました?」
気を取り直したように訊かれた。私はまた首を振る。落ちる夢を見た朝は、大抵食べ物が喉を通る気分ではない。
「これ、良かったら」
そして差し出されたのは、プリンだった。コンビニに売っているなめらかプリン。プラスチックのスプーンも添えられている。
「……え」
一瞬差し出されている意味がわからなくて、手元を凝視してしまった。大きな手だなあなんて、見当違いのことを思う。
それから藤原さんの顔を見る。私を見る目には憎悪も軽蔑もなくて、それだけで随分ほっとする。
「嫌いですか?」
少し困ったような顔になっていた。
「え、あ、もし、もしかして、くれるんですか、わたしに」
驚いた。
「はあ。買ってきたパンはうっかり食べちゃって。こんなものだと腹いっぱいにならないかもしれないけど」
「あの、でも、でもこれ、藤原さんのデザートですよね? わたしがもらうわけには」
「いや、俺はちゃんと食べたから。入江さんもちょっとぐらいなんか食べた方がいいよ」
なんて事だ。藤原さんが、私などの腹事情を心配してくれている。なんて親切な人なんだろう。
「嫌いですか?」「大好きです!」
もう一度確認してくれた声に食い気味に答える。ふはっと藤原さんが吹き出した。
「じゃあどうぞ」
藤原さんはそう言ってプリンを私の机の上に置いた。私はなんだか信じられないような気持ちでそれを見る。幼なじみだったアル様にだって何かをもらったことは一度もない。それからはっと気づく。
「お金、お金はらいますね」
私がばたばたとカバンから財布を出そうとするのを藤原さんが止めた。
「いやいいです、そのぐらい。いつも親切にしてもらってるからそのお礼ってことで。だからいいって。万札出さないで!」
ささやかな攻防戦のあとに、お互い持ち場に戻る。
私は結局プリンを受け取ってしまったのだった。嬉しい。前世から通して初めてのもらいものに私は浮かれている。
本当は食べずに一生とっておきたかったけど、これは藤原さんが私の空腹を心配してくれたものだから、今食べるのが礼儀だろう。
えい、とフィルムを剥がして、その淡い黄金にスプーンを入れる。もったいなくて3ミリぐらいしか掬えなかった。口に入れると甘くて香ばしかった。
「……おいしいです」
「そりゃよかったです」
藤原さんは課題に戻っている。背中越しの会話をする。
「……藤原さんって、すごいですね。若いのに、ちゃんと気配りできて。さすがア、アルフレード様の生まれ変わりだと思います」
対して、まともなコミュニケーションすらおぼつかない私の情け無さといったらどうだろう。
百々子さんもそうだけど、前世に囚われることなく、私のような者にも優しくしてくれる。人間としてなんて健全なんだろうと思い、我が身を顧みて落ち込んでしまう。
「うーん。正直、全然その自覚は無いんですけどね。そいつの記憶はあるなってぐらいで。それに若いって。年同じくらいじゃないですか」
「え?」
思わず私は振り返った。履歴書を見たので知っている。藤原さんは19歳の大学2年生だ。
「わたし、23歳ですよ」
「え?」
藤原さんも驚いたようにこちらを向く。
お互い驚いた顔で見つめあってしまった。先に目を逸らしたのは、もちろん私の方だ。
「……それは失礼しました。てっきり俺と同じぐらいか、むしろ歳下かと」
その年で会社勤めなんて、若いなあとは思ってたんですけど、と言い訳のように言う。
「すみません。人間的に未成熟なので」
はは、と自虐のように笑って呟く。若く見られることは、この際褒め言葉ではないだろう。
「そういうつもりで言ったんじゃないけど」
藤原さんの声に困ったような響きが混じる。
「まだ、怖いですか。俺のこと」
「え?」
「面接の時、すごく取り乱してたでしょう」
思い出して顔が赤くなる。
「ほ、本当にその節は失礼なことを……」
まだ前世の記憶も何も無いような、ただアルバイトの面接に来ただけの藤原さんに向かって私は何という醜態を見せてしまったのだ。
少し話すだけで彼がアルフレード様だとすぐにわかったのは、私の中にいるエリザベスが彼を見つけたからだろうか。
最期の瞬間に私に向けられた、あの何も映していないような眼は彼に憧れていたぶんだけ、私を絶望させた。
それを思い出して恐慌状態になってしまった私に、何も知らなかった藤原さんはさぞ面食らったことだろう。
「もう、怖くないです……」
そういえば、いつの間にか、藤原さんに対する恐怖心は消えていた。
仕事を教えたり一緒にご飯を食べに行ったりしているうちに、気さくな人柄を知ったからだろうか。今だって、こうやってこだわりなく話しかけてくれているし。
「それって、俺が年下のせいもあるんじゃない?」
そう言われて、私は少し考える。
私の方は面接の時から年齢は知っていたし、最初の衝撃が過ぎると、話しやすい大学生という印象が強かった。
もし、彼が同い年や年上の社会人だったら、私は萎縮してしまっていたかもしれない。
「そ、そうかも、しれません」
「だったら、良かったです。入江さんの方が年上で」
思ってもみなかった答えに、私は何と返していいのかわからず、しばらく忙しく考えていたが、諦めてプリンの続きを食べはじめた。
藤原さんも特に会話を続けることなく、作業に戻ったらしいキーボードを叩く音が聞こえてくる。
実は、エリザベスもカスタードのプディングは大好物だったのだ。
家では体型維持のためにあらゆるデザートが禁止されていたので、公式な晩餐会で供されるものを数えるぐらいしか食べたことはなかったけど。
あまい。たまごの味がする。
カラメルも香ばしい。こんなものを大量生産できる近代文明は凄いなあ、と先人を敬わずにはいられない。
ちびちび食べていたのに、あっという間になくなってしまった。
「……あの、プリン、すごく美味しかったです。ごちそうさまでした」
背中越しに藤原さんが笑った気配がした。
「はい」
席が、背中合わせで良かったと思う。おかげで泣きそうな顔を見られずにすんだので。