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〈エリザベス〉


 私はその女が大嫌いだった。

 いや、嫌いなどというものではない。


 私よりも何も持っていないくせに、私のものをすべて奪っていこうとするその女を、誰よりも憎んでいた。




 私は国を代表する名家、バートゥ家の生まれだ。

 代々女王が統治する我が国で、女王候補を輩出する家は七統家と呼ばれ、その名の通り国内にわずか七家しか存在しない。

 そしてその中でも私エリザベス・バートゥが筆頭候補者だというのは、関係者なら誰もが認めるところだろう。



 近々代替わりが囁かれている次代の女王の選定は、数年前からーーいや、ことによると私が生まれる前からすすめられてきた。

 私は生まれた時から、次期女王になるべく教育を受けてきた人間なのだ。


 女王候補者の資格は、七統家の者であること、15才から22才までの未婚の女性であること、王族の証である魔力を有すること。


「何しろ血統も、産まれる歳も教育も、すべて最高の環境を用意してやったのだ。女王になることがお前の責務と心得えなさい。なに、他を見渡しても、当代の候補者にお前の敵になる者はいない。だからといって決して慢心してはならないよ、エリザベス。万が一なりそこなることがあればーー」


「嫌だわ、あなた。滅多なことを言わないでくださいな。万が一などあっていいはずがない。なにしろ、貴女の肩には私達だけではなく、代々のバートゥ家の者の悲願が肩に乗っているのですもの」


「本当に、僕が男なのが悔しくてならないよ。もし女に生まれていたら、確実に女王になっていたのに。お前は少し魔力が弱すぎる。何としてでもそこを克服しろ」



 そんな両親と兄の言葉を子守唄代わりに育った私は、次期女王になるべく、それこそ血の滲むような努力を重ねてきた。


 父母は私を教育するに当たって禁止事項を設けなかったので、不出来な部分があれば家庭教師は私を鞭で打つことが許されていた。

 誰よりも細い腰を作るように間食はおろか肉や甘いものも禁止され、立ち姿が美しくなかったり、座っている姿に少しでも隙があるとだらしないと容赦無く叩かれた。勉学だけでなく言葉遣いから日常の所作まで完璧に躾けられていた。


 ただお兄様の指摘どおり、私は少し魔力が弱く、触れずに軽いものを動かしたり、軽い火花をおこすのが精一杯だった。こればかりは体質のようで、どんなに訓練しても、それ以上強くなることはなかった。


 それにしても致命的に弱いというわけではなかったし、魔力の有無は、女王の血族であることを証明するだけのものであって、選考にあたってそこまで大きな判断材料にはならないと聞いている。

 多少の魔力の弱さを差し引いても、9人の女王候補の中で私が一番次期女王に相応しいのは確かなはずだった。


 あの女が現れるまでは。



「女王候補が、もうひとり……?」

 それを聞かされたのは、三年後の星神降臨祭で代替わりがあると正式に布告された、その直後のことだ。その時私は14歳だった。


 私以外の8人の候補者のことはすべて頭に入っているし、動向を注視してもいる。

 まさか歳も血統もその資格が厳格に定められている女王候補者がその時点で増えるとは思わない。


 思わず私が聞き返すと、お父様が苦々しい顔で頷いた。


「どうやら、強い魔力を持つ娘がいるというので調べてみれば、三代前のマリアボーデンの血を引いていることがわかったらしい」

 マリアボーデン家は七統家のひとつで、今回の代は女王候補を立てていない。条件に当てはまる娘がいなかったのだ。


「三代前の娘が駆け落ちして家を出たんですって。仮にも七統家の娘が貧乏な男爵家の者なんかと。それも領地も治めていない、ほとんど庶民に近いような家らしいわ。まさか王家が候補としてお認めになるなんて」

 お母様が汚らわしいというように身を震わせる。


「でも、女王候補は七統家の者でなくてはいけないのではないのですか?」

「それがね。明らかに直系にしか受け継がれない魔力を発現させたので、マリアボーデンが養子として再び受け入れるそうよ。星神様に可否を問うと、候補に立てるのに問題はないという返答だったらしいの。本当に、王家もマリアボーデンもどうかしているわ。七統家の格式も何もあったものじゃない」


 憤懣やるかたないといった様子のお母様は、七統家の者であることに強い誇りを持っている。もちろん私だってそうだ。


 星神様というのはこの国に安寧をもたらす女神で、女王指名者でもある。滅多に人前には姿を現さないが、代々の女王とは親密な関係を保持し、彼女の不興を買う時は女王でいられなくなる時だとも言われていた。

 ゆくゆくは私が会うことになる方だ。


「まあ、今ごろほとんど庶民のような娘のひとりやふたり女王候補に加わったからと言って、お前の優位が変わるはずもない。近々学園に入るはずだから、せいぜい慈悲をかけてやりなさい。何しろ、学園生活の素行も星神様にすべて伝わるという話だからな」


 お父様は大して気にしていないようだった。誇り高い女王候補という地位にほとんど庶民の人間が就くというだけで、何故だかこちらも侮辱された気分になっているというのに。その感覚はお父様にはわからないのだろう。



「聞きまして? 女王候補がもうひとり増えるという話」

 新学期が始まると私はアルフレード様に早速その話をした。


 アルフレード様は同い年の幼なじみだ。美しく高潔で誇り高いお方で、家柄も申し分ない。

 幼い頃から私はアルフレード様に憧れていた。

 もちろん私だけではなく、学園中の女子が彼に憧れている。

 まあ、多分彼と結婚することになるのは私だけど。


 何と言っても、七統家はあらゆる貴族の頂点に君臨する。そんな私と結婚できるのだから、彼にとってもこれは、願ってもない良縁だろう。

 両親も彼を気に入っているし。


 彼から婚約を申し込まれるその時を今か今かと待っているのに、なかなかその兆しはない。在学中は勉学に身を入れたいということかもしれない。

 卒業までに何も言われなければ、仕方がないのでこちらから言おうと思っている。

 何せ私は女王になる身。その配偶者には、彼こそが相応しい。


 アルフレード様は私の言葉に「ああ」とだけ相槌をうった。寡黙な方なのだ。

「それにしても、新しい女王候補はどういう方かしら。私も同じ候補者のひとりとして、僭越ながら仲良くできればいいと思っているの。ーーあまり変な方じゃないと良いのだけど」

「王家はともかく、星神様が認めたのだから、ある程度は女王候補者に相応しい者だろう」


 アルフレード様の言葉に、私は内心むっとする。七統家の生まれではない、それだけで候補者の資質を疑うのに充分なのに。

 そんな人に相応しいという言葉は使ってほしくなかった。

 聡明な彼と言えども、所詮は女王候補になることはない。お父様と同じで、この違和感は伝わりにくいのだろう。


 それでも表情に出すことはなく、穏やかに笑って見せる。

「そうね。学園にも早く慣れてくれるように、こちらも目を離さないようにしなくては」



 そしてその娘ーーシシィ・マリアボーデンは青みを帯びた長い銀髪をなびかせて、私の平穏な学園生活に乱入してきた。


 10人目の女王候補は、あっという間に学園中の注目の的になった。


 容姿の美しさもさることながら、魔力を計るためのクリスタルがちょっと力を注ぎ込んだだけで割れてしまい、前例のない潜在能力だと話題になった。


 学業の成績も良く、意外とマナーも身についている。「両親に厳しく躾けられたんです」と謙遜したように笑う姿に、クラスメイトが好感を持つのがわかった。


 あっという間に多くの友人に囲まれるようになったシシィを見て、最初は無難に接していた私を、だんだん焦燥が支配してゆく。


 侮っていた。所詮は貧乏貴族の娘。どうせおどおどとして何もできないか、大部分の候補者のように私に隷属するだろうと思っていたのに。


 それとも身の程知らずの嫉妬心を向けられるか。

 それでも良かった。そうなったらどうせ学園の生徒は私の側につく。醜い感情を見せてくれるのなら、それが一番好都合だとすら思い、これっぽっちも怖くなかった。


 だが彼女はどれでもなかったのだ。

 しっかりと私の目を見つめて、対等に話をしてくる。その目には媚びも嫌悪も無い。

 私を生粋の七統家の者だと知っているくせに、ちっとも卑屈なところを見せない。


 なにより、女王になるにあたっての条件のひとつである魔力を、彼女は膨大に有していた。


 物を動かしたり、破壊したりできるわけではない。

 その歌声で枯れかけた植物を甦らせ、具合の悪い者を快癒させる。

 圧倒的な癒しの力だった。


 周りを見る目が、だんだんと彼女を色もの扱いから、正式な女王候補に対するものに変わってゆく。

 やがて、私を見る視線の方にいたわしいものを感じるようになった時、私は平静さを失った。



「シシィ・マリアボーデンのことですけど、最近少し出張りすぎではないかしら。この学園においてはあくまで新参だというのに。マリアボーデンの養子になったとしても、所詮は下級貴族の生まれ。生まれついての七統家の者とは立場が違う。どうも彼女は、そこをうまく弁えていないように見受けられますわ」

 思わずアルフレード様に愚痴ると、逆に苦言を呈された。


「そんなことを言うものではない。正式に候補者として認められている以上は、立場は同じだ。それに彼女は頑張り屋だし、なかなか面白い考え方をする。どちらかというと庶民と交わることが多い子供時代だと言っていたが、そのせいかな。非常に広い視野を持っていて、話していると感心させられることも多い。もしかすると、この学園で一番国のことをわかっているのは彼女なのかもしれないと思うくらいだ」


 それはほとんど彼女こそが女王に相応しいと言ったのも同然だった。

 普段は無口なくせに、シシィのことを語る時は雄弁になる。そのアルフレード様の眼差しを見た時、私の中で何かが壊れたのだ。



「声をあげて笑うのをやめなさいと言っているでしょう! 貴女ひとりで学園の品位を落としていることに何故気づかないの!?」


 シシィの笑顔を見るたびに私はヒステリックに取り乱すようになっていた。言いがかりに近いとわかっていても、そのすべてに難癖をつけずにはいられない。


 だって私が、次期女王候補筆頭なのに。

 そうでしょう?

 それなのにみんな、シシィが女王になるのではないかと思いはじめている。


 望まれて生まれてきて、無条件に愛してくれる人がいて、信頼できる友人もいて。

 そしてーー私が喉から手が出るほど欲しい女王の立場も、憧れの人までも奪おうとするのか。



 アルフレード様からのシシィ宛の手紙をすり替えて、彼女をひとり雨の中待たせたりもした。

 ずぶ濡れで意識が朦朧としているシシィはいい気味だったけれど、彼女を抱き抱えて学園寮に戻ったアルフレード様がいつになく心配そうな様子で、それを見た私は我知らず心の中で呟く。

(ーー死ねばよかったのに)


 それからぞっとする。自分の思考のあまりの恐ろしさに。

 どうしよう、星神様に私の心を見透かされていたら。


 今までの努力も人からの期待も、一瞬で水の泡になってしまう。

(ごめんなさい、ごめんなさい)

 私はひと晩中謝り続けていたが、それはもちろんシシィに対してのものではない。



 学年の節目に行われるスクールボールでは、シシィが着るはずだったドレスをひと目見て、衝動的にびりびりに破ってしまった。


 アルフレード様が贈ったというそれは、シシィの髪の色に合わせた銀色のドレスで、彼の眼の色を模したと思しき青い宝石が縫いつけられていたのだ。


「こんなものっ!!」

 破くだけでは飽き足らず、ピンヒールで踏みつけることもした。


 結局、シシィの信奉者である針仕事の得意な学友が機転を利かせて真新しいリネンとレースのカーテンで即席の見事なドレスを作り、メインのダンスパーティーには問題なく出られたようだ。

 ただ仕付けが甘いドレスは万が一糸がほどけてたら困るという理由でずっとアルフレード様が隣にいたけど。


 純白のドレスはまるで学園の中庭にある星の女神像のようだと囁かれていた。


 いずれも私がやったという証拠は残していないが、何となく察するところがあったのだろう。

 私を見るアルフレード様がどんどん冷たくなっていき、やがてこちらを見ることすらなくなったことにも薄々気づいていたけれど、どうしても自分を律することができない。



 そして、シシィが学園にきてから三年が経ち、降臨祭の日が近づいて来た。


 学園生活の終わりは、毎年星神降臨祭という、王都を挙げての祭で締め括られる。

 特にその年は、次期女王の選定が行われることが決定しているので、戴冠の儀と即位式も同時に行われることになっていた。


「いよいよね。この三年間色々あったけれど、誰が選ばれても、お互い祝福し合いましょう」

 シシィはそう言ってにこりと微笑むと、握手を求めてきたのだ。

 私はかっとして、もちろん差し出された手は握らず、思い切りシシィの頬を平手打ちをしていた。


「祝福!? 笑わせないでよ! 次期女王の座は17年前から決まっていたのよ、それを本来なら資格すらない貴女が、養子だなんて狡い手を使って。貴女の魔力だって、アルフレード様に好かれてるその容姿だって性格だって、何ひとつ自分で苦労して手に入れたものじゃないくせに!」


 途中から自分でも何を言っているのかわからないまま、私は完全に頭に血が昇って、シシィに掴みかかっていた。

「人が生まれた時から努力を重ねてきたものをあっさり盗むなんて、図々しい。消えてよ、今すぐ私の前から消えて!!」


 そう言いながら、私は、シシィを教室の窓から突き落とそうとしていた。

 私の大切なものをあまりにも簡単に奪っていくシシィが、憎くて恐ろしかった。


 周りの生徒や教師に止められた気がする。駆けつけたアルフレード様の、私を制止する声も聞こえたような。

 それでも私は、泣き叫びながら、シシィを罵ることを止められなかった。



 一旦屋敷に帰された私は、そこで官吏だった兄が不正で拘束されていることを知らされた。

 ずっと泣いているお母様では要領を得ず、沈痛な顔のお父様の言うことには、国庫を流用して聖務関係者や学園関係者を何人か買収し、選定の際私が有利になるように便宜を図ってもらおうとしていたらしい。


 最近私がシシィに押され気味なのを聞きつけたのだろうか。そんなことで告発されるなんて。多かれ少なかれどの家の者もやっているだろうに。

 よりによって、女王選定直前のこんなタイミングで。

 ーーこれも、あの女の陰謀?


 星神降臨祭は三日三晩行われる。国中がお祝いムードの中、うちだけは葬式みたいだ。

 自宅待機を命じられていた私は、女王にシシィ・マリアボーデンが選定されたことを、王家からの使者の言葉で知った。


 かつて次期女王間違いなしと言われた私がこんなところでひっそりと結果だけを聞くことになるなんて、なんという屈辱だろう。

 本当なら、みんなが見守る中、学園のホールで現女王から直々に託宣を告げられるはずだったのに。


 シシィは、これから星見の塔に向かうのだろう。

 女王に選ばれた者は、学園が所有する広い森の奥に建っている星見の塔に昇り、そこの最上部で星神様から冠を受ける。

 そして戴冠したまま地上に降りてきて、そのまま即位式が行われ、新女王の誕生を皆で祝うのだ。


 幼い頃から何度も、自分が行うのだと夢想していた光景。……それが、何故か私ではないという。

 そんなのはおかしい。絶対に間違っている。

「……行かなきゃ」

 私はふらりと立ち上がった。間違いは正さなくてはいけない。



 シシィ達を追いかけて初めて上がった星見の塔の最上部は、空中庭園になっていた。地上ではほとんど見ることのないような花が咲き乱れ、夜目にも淡い光を放っている。


 満天の星を背景に立つ美しい女神は、神話の世界の住人のようだった。その女神が、こちらをちらりと見る。それだけで足がすくみそうになった。

「ここは神聖な場所。女王に選定されたもの以外が立ち寄ること罷りならぬ」


「あの……っ」

 冴えざえとした言葉に、私は必死に訴える。友好的に見えるよう、笑みまで浮かべて。


「間違っています。本当は私が選ばれるはずだったんです。きっと、兄の不祥事のせいで、ちょっと評価が揺らいでしまったんでしょうけど、それならその女なんてもっと酷いわ。何せ下級貴族の出身なんですもの」


 私は必死に言い募る。

「だってそうじゃないですか? 私は生まれた時から女王になるようにって言われていて、誰よりも努力して、みんなにもそうなることを望まれてきたのに。その私を差し置いて、たかだか三年前に候補になった女が王位に就くなんて、おかしいでしょう!?」


「エリザベス、黙れ」

 おそろしく冷たい言葉はアルフレード様が発したものだった。

 私はふたりに向き直る。


「アルフレード様も、そう思いますよね? 私が女王になるべきだって。ほら、あんたも、選ばれたのは間違いでしたって認めなさいよ! そうでないと……」

 後半の言葉はシシィに向けながら、私は胸元から短刀を取り出した。


「やめろ、何をする気だ!」

 アルフレード様が顔色を変えてシシィを庇うように、一歩前に出た。

 聡明な彼まで間違えている。誰が女王に相応しいかなんて、こんなに明らかなのに。


 私は気づいているのだ。シシィの魔力。あれがきっとみんなをおかしくしてしまった。癒しの力を持つというあの歌声で、人々を魅了してしまったに違いない。

 早くみんなの目を覚まさせてやらなくては。


「どいてください、アルフレード様。その女をーーその魔女を消さないと」

 そうすれば、みんな我に返って、本当に女王に相応しいのがだれだったかわかるだろう。

 そして短刀を構えて、シシィめがけて突進する。


 シシィを抱き寄せるアルフレード様。

 仕方がない、こうなったら二人ともーー。


 次の瞬間、私は地面に尻餅をついていた。

 何かに弾き飛ばされたのだ。私とふたりの間には何も無いのに。


「見苦しいこと。人間とは権力を前にすると、かくも愚かになるものか」

 静かな声が割って入る。

 傍らを見上げると、星神様が、持っていた杖を振り下ろすところだった。


 突然、空間が歪んで、巨大な獣が現れた。

 嘴と翼を持つ獅子の様な姿のそれは、私と他の3人との間を遮るように存在し、虚無の眼で私を見る。


 何の感情も無い、私を人間だとすら認識していない、ただ主人あるじの言葉だけを忠実に実行しようとしている、深い闇のようなーー。

「その不心得者をさっさと排除しておしまいなさい」

 その声に応えるように、獣が大きな咆哮をあげた。


「いやあああああああっ!!!」

 女神が何を命じたのかわかって、私は慌てて背を向けた。走って逃げようにも、膝が震えてうまく立てない。


 這いつくばって逃げる私の姿は、はたから見ると随分と見苦しいだろう。いけない。仮にも女王候補がそんなみっともない真似をするなんて、また鞭でぶたれてしまう。食事も抜かれてしまう。


 獣から逃げながら、そんなことを考える。


「助けて……たすけてっ、アルさま!!」

 思わず幼い頃の呼び方が出た。この場所で、唯一私の味方になってくれるかもしれない人。


 しかし助けを求めてすがるように見つめたアル様の眼は冷たく、何の感情も映っていなかった。

 まるであの獣のような。


「アル、さま……」

 絶望しながらも、心の何処かでは知っていた。アルフレード様がもうずっと私をそんな眼で見ていたこと。

 でも女王になれたら、また昔みたいに優しくなって、求婚もしてくれるんだろうなって、


 ああ、でも、私は女王に選んでもらえなかったんだっけ。


 そう思ったら、不意に何もかもどうでも良くなった。

 だったら、もう、いいかしら。

 どうせお父様もお母様も、女王じゃない私には興味ないだろうし。

 女王じゃない私なんて、何の価値も無いし。


 私は追い詰められて、いつの間にか庭園の端の方に寄っていた。

 はるか下に森の木々が見える。軽く段差になっているだけで柵のようなものは無いので、足を踏み外したらあっさり落ちるだろう。


 獣が近づいて来る。大きな赤い口を開けながら。どちらがましだろう。あの鋭い爪と牙に引き裂かれるのと、高いところから落ちるのと。


 そこから身を躍らせたのが、足がもつれたせいなのか、故意だったのかは、自分でもよくわからない。ああ落ちる、と思い、一瞬浮遊した感覚があって、直後に手首に強い衝撃がきた。


 上を見ると、落ちそうになった私の手首を、凄い力で掴んでいる者がいるのだ。あの女だった。シシィだった。

 綺麗な顔を歪ませて、必死で私の手を掴んでいる。

「……っ」


 家族にも級友にも女神様にも、アルフレード様にも見放されたこの私を、シシィだけが掴んだ。

 その細腕では人ひとりの体重をぶら下げるのはつらいだろうに。そんな不安定な体勢だと、一緒に落ちてしまうかもしれないのに。


(ああ、これがーー)

 私に足りなかったものが、その時にわかった。それは魔力などではなかった。ひどい絶望だった。

 その時、私はようやく、自分がどうやっても女王になれないことを理解したのだ。


「シシィ!」

 慌てたように近づいて来るアルフレード様の声。彼は私を助けようとするだろう。でもそれは、彼が助けたいわけじゃなくて、シシィの望みだから。


 私は掴まれている右手に意識を集中させた。

 せいぜい小さな火花を起こすぐらい、相手が少し痺れるくらい。でもそれで充分だ。

 王女になれない私には、こうするしか道はない。


「あっ」

 ぱちっと火花が散って、シシィの小さな悲鳴と共に、彼女の手から私の手がするりと抜ける。そして私の身体はふたたび空中に放り出された。

 呆然としたシシィの顔が凄い勢いで遠ざかってゆく。


 落ちながら、私は少しだけ笑っていた。


 ーーさようなら。王女様。


 大嫌いだったけど。

 ずっといなくなればいいって思ってたけど。


 でも、もしもまた会うことがあるなら、その時はーー。

 

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