さびしかった?〈入江視点〉
急に風が変わって、あっという間に季節は夏から秋になった。
10月になって長い夏休みが終わったので、今まで午前中から出てもらうことが多かった藤原さんの勤務時間が夕方からになって、出勤日数も減ることになった。
大体私たちが定時に帰る頃に入れ違いで出勤してくるようになる。
時短で早く帰てしまう春田さんは、藤原さんにほとんど会う機会が無くなってしまうと嘆いていた。
餞別というわけでもないんだろうけど、藤原さんからは、お菓子をもらった。
お菓子屋さんの前を通りがかったら、目についたらしい。お餅を黄色い栗あんでくるんで、栗の実を意匠している、ひと口大のかわいい和菓子だった。プラスチックのケースに入っているそれを、まじまじと見てしまう。
「可愛い……。どうも、ありがとうございます」
「お世話になりました」
そういって微笑む藤原さんを見て、何だかお別れの挨拶みたいだなと思う。
「もう、別に辞めちゃうわけじゃないんだから、こんなかしこまらなくていいのにー」
春田さんの言葉に、わたしもほっとして頷いた。そうだ、別にいなくなるわけじゃないんだから。
「それはそうなんですけど。だいぶシフトも減るし、今までに比べたら、全然出られなくなっちゃうんで」
「本業は学生なんだから、仕方ないです。むしろ、残ってくれて、ありがたいですよ」
そう言うと、藤原さんは、申し訳なさそうに笑った。
それが数日前のことだ。
そして、久しぶりに藤原さんを除く四人体制で仕事をしている。
基本的にはみんな無言の作業なので、そこまで彼の不在は気にならないのだけど。
それでも、ふとした瞬間に、背後からいつもの気配が消えていることに気がつく。藤原さんがここに来てから2か月ほどだというのに、すっかり馴染んでいたことに気がついて、そのことに戸惑ってしまう。
時短の春田さんが帰り、百々子さんと二階堂さんとわたしの3人で黙々と作業を続けていると、定時になる30分ほど前、執務室のドアが開く音がした。
「おつかれさまです」と言いながら入って来た人影は、予想通り藤原さんだ。
百々子さんが軽く手を挙げる。
「おつかれー。今日から帰り少し遅くなるけど、頑張ってね」
「はい。よろしくお願いします」
藤原さんがぺこりと頭を下げる。わたしはなんだかぼうっと彼を見ていた。たかだか数日会っていないだけなのに、ひどく懐かしい感じがした。
「僕からの指示は、チャットで送っておいたから。わからないところがあったら、返信するか、町田さんに訊いてください。今日中に終わらせておいて欲しいところは、ファイル名の頭に星印をつけてあります」
「了解です」
二階堂さんの指示に、藤原さんが心得たように頷く。
「そんなに難しいところはないから、大丈夫だと思いますよ」
「できる人が言う『難しくない』って、当てにならないんだよなあ……」
「言っとくけど、私教えるの下手だから。英理みたいにわかりやすいの期待しないでね」
「それは何となくわかってます」
3人が話しているところを聞くともなく聞いていると、百々子さんの口から私の名前が出た。
「え、あ……わたしですか? 教えるの、そんなに上手くないと、思いますけど」
何せこの口下手だ。謙遜とかではなく、本心から言うと、口ぐちに否定の言葉が返って来た。
「英理は上手でしょ」
「わかりやすいですよ、すごく」
「入江さんは指導者向きですよ」
「え、ええと……」
そんなことを言ってもらえると思わなかったので、言葉に詰まってしまう。
「俺なんか、何訊いていいのかすらわからない時から、こっちがわからないこと先回りして教えてくれたし」
「相手の気持ち考えるのが上手いよね、前から」
「意外と指示は明確だから、こちらも迷わなくて済む。下に付く人はやり易いでしょう。指示がはっきりしない上司だと、何度も何度も手戻りが発生する上に、すべて無駄になることも少なくないですからね」
二階堂さんが神妙な顔で語る。経験者だろうか。
それにしても、こうやってほめられると、何と言っていいのかわからない。わたしが金魚のように口をぱくぱくさせていると、定時のアラームが鳴った。救われたような心地で、そっと熱くなった頬に手をやった。
二階堂さんはさっとモニターに顔を戻すと、素早く勤怠ソフトに時刻を入力し、PCをシャットダウンした。
「では失礼します。おつかれさまでした」
「おつかれさまです」
彼はよほどのことがないと、定時のアラームと共に帰ってゆく。その潔さを尊敬している。
今日は特に残ってまでやることもないので、わたしも定時上がりだ。
同じように勤怠メールに記入して、PCを閉じた。
おつかれさまです、と言って席を立つ。百々子さんと藤原さんから同じように挨拶が返ってくる。
わたしは何故か、後ろ髪を引かれる気分で職場を後にした。
職場のマンションを出ると、もうすっかり暗い。つい最近までは家に着くまで明るかったのに。年が明けて春が近づくまでは、ずっと暗いままだろう。雪が降るのももうすぐだ。
そう考えると、少し気が重くなった。
そこでいつも朝ごはんにしているパンが切れていたことを思い出したので、職場の近くにあるショッピングモールに寄ることにする。
夜ごはんも、パン屋さんでサンドイッチかなんか買って食べよう。
暗い道からぴかぴかと光る建物の灯りを見ると、無性にほっとする。
ここの地下一階には、スーパーの食品売り場、ベーカリーやお菓子やお惣菜のお店が何軒か入っているので、帰りがけに利用することが多かった。
店頭のデコレーションはすっかり秋仕様になっていて、ハロウィンのイラストが描かれたポップやポスターが並んでいる。店内は全体的に黄色と茶色と赤が多い色合いになっていて、すっかり秋になったことを感じさせた。
栗やかぼちゃやさつまいもを使ったパンやお菓子は、見ているだけで美味しそうだ。藤原さんがつい買ってしまったのもよくわかる。
それから少し経って、私は再び、オフィスのマンション前に戻っていた。
少し躊躇った後、思い切ってドアを開ける。よく知っている光度の照明を浴びてひどく安心する。走って来たので、少し息が切れていた。
執務室スペースに入ると、百々子さんと藤原さんが驚いたようにこちらを見ていた。
「英理かー。誰かと思ったよ。どした? 忘れ物した?」
確かに、この時間にここを訪れる人は皆無だ。驚かせてしまっただろうか。わたしは慌てて手に下げていた紙袋を持ち上げた。
「あ、あの、これ、差し入れ、なんです、けど……、良かったら……」
全部言い切る前に、わたしはうつむいてしまった。
もしかして、迷惑、かもしれないと、土壇場で気がついてしまって。
せっかく、ふたりきりでいるところに、わたしが入ろうとするのは、よく考えたら、相当邪魔だろう。
そういうことに気づくのも遅くて嫌になる。差し入れも、余計なことだったんじゃないだろうか。
わたしは急に怖気付いていた。
百々子さんと藤原さんが嫌な顔なんてするわけがない、と頭では考えるのに、どうしても、疎まれているという想像が抜けない。
こんなに親切なふたりに対して、あまりに失礼な思考だろう。そう思うのに、袋を持った手が、少し震える。
ふたりの反応を見るのが怖くて、顔を上げられないでいると、藤原さんが近づいて来て、袋を受け取ってくれた。
「俺ちょうど、すごい腹減ってて。昼以来なんも食べないでここに来たから。滅茶苦茶、嬉しいです。ありがとうございます」
明日からはちゃんとなんか買ってから来ます、と笑っていた。拒絶されなかった。それだけの言葉で、わたしはひどく安心する。
「どれどれ。お、栗おこわだ。嬉しい、ありがとね」
ひょい、と紙袋を覗きこんで「一緒に食べよ、15分休憩」と百々子さんが言ってくれたので、わたしはここに居ていいんだと安心して息を吐く。
「な、なんか急に、すみません。なんでかわからないんですけど、どうしても、ここに戻りたくなっちゃって」
「さびしかった?」
当たり前みたいに発せられた百々子さんの言葉にわたしは少し驚いて、そしてやっとわかった。ずっともやもやしていた気持ちがなんなのか。あやふやにひとつ頷く。そうか、わたしは寂しかったのか。
「……はい」
百々子さんが簡単にわたしの胸中を当ててくれたのが嬉しくて、何故かわたしは泣きそうになってしまった。
だからもう一度頷いた。今度ははっきりと。
「そうなんです。だから、おふたりと、ご飯食べたくなったんです」
「俺も寂しいですよ、入江さんと時間別々になって」
早速おこわに箸をつけながら、藤原さんがさらりと言う。
「だから、またご飯一緒に食べに行きましょう。焼肉とか」
そして、念を押すように付け加える。
「言っとくけど、これ、社交辞令とかじゃないですから」
「あ、ありがとうございます……! 行きましょうね、また、3人で!」
あんまり嬉しかったので、力一杯頷くと、藤原さんはなんだか微妙な顔をしていた。社交辞令じゃないって言ったけど、やっぱり社交辞令だったのだろうか。
慌てる私の隣で百々子さんが、思わずといったように「……ふっ」と吹き出している。
気を取り直したように藤原さんが笑った。
「そうですね。じゃあ、3人で。何処がいいですか?」
そして、3人で次の予定を立てる。その約束があるというだけで、寂しさが消えてゆく。まるで夜道で見る灯りのようだと思った。