わたしたち、野菜を食べましょう〈町田視点〉
昼の休憩時間に「ごはん食べに行こうよ」と言って藤原くんを連れ出すことに成功した。
「近くにこんな穴場があったんですね」
藤原くんが食券を買う列に並びながら、感心したように呟く。職場から徒歩10分かからないところにあるここは、区役所の食堂だ。
「結構人気あるんだよ。部外者も普通に食べられるし、何より安いからね」
日替わり定食は3種類で、肉がメインのA定食、魚介類がメインのB定食、少しだけ豪華なC定食だ。
値段はA定食600円、B定食650円、C定食800円、大盛りはプラス100円とわかりやすい。ほかに固定メニューのカレーや麺類はワンコインで食べられるようになっている。
「じゃあA定食で」
「別にC定頼んでいいのに」
「いや、美味そうなんで」
今日は私が奢ると言ってある。この前のお詫びのようなものだと言ったら、特に断られなかった。安上がりでありがたい。
私はB定食にする。今日のA定食のメインは回鍋肉で、B定食はカキフライだ。
これにごはんと味噌汁、小鉢一品とミニサラダが付いてくる。コスパの良さはこの辺では随一だろう。
トレイを持って空いている席を探して座る。長テーブルの席はかなり埋まっているけど、回転も速いので、ほとんど待つことはない。
運良く隣同士の席が確保できた。いただきます、と手を合わせて食べはじめる。味噌汁の具はわかめと高野豆腐だった。
「なんか、百々子さんがこういうところ来るの意外です」
「そう? 結構来るよ。はるちゃんがお弁当じゃない日は一緒に来たりする」
客は圧倒的にスーツを着たサラリーマンが多いが、一般人らしき人もちらほらいる。長居できる雰囲気ではないので、主婦の集団のようなものはいない。
「あ、美味い。キャベツが甘くてしゃきしゃきしてる」
回鍋肉を口に運びながら、藤原くんが目を見開いた。
「でしょう? こういうお店にしてはあんまり濃くないところもいいよね、味付け」
そう言いながらカキフライにレモンを絞る。まあこれは冷凍なんだろうけど、揚げたてというのは、それだけで美味しく感じるものだ。
フライなのでキャベツの千切りが添えてある。熱々サクサクの衣と、瑞々しいキャベツは相性がいい。
「本当だ。キャベツ、甘いね」
「ここ、入江さんとは来ないんですか」
「それがさあ、鍵開けてる間は私か英理のどちらかがオフィスにいないといけないから。お昼ってあんまり一緒に食べたことないんだよね」
なるほど、と藤原くんが頷く。
「心配してましたよ。百々子さんの食生活。ちゃんとこういう定食みたいなの食べてるとこ見せてあげたら安心するのに」
「英理に会った時は、結構酷い食生活だったからな」
いまだにあの子は放っておくと私がアルコールを主食にすると思ってる節がある。
「英理と食べに行くと、つい不健康そうなものばかり食べちゃうんだよね」
「何でそんなことするんですか」
「心配してくれるから」
私がきっぱり言うと、藤原くんがごはんを頬張りながら「ええ……」と呟いた。
「英理と会ったばかりの頃は、お互いあんまり自炊しない同士だったんだよ。英理はまだ十代なのにひとり暮らししててね。ちょうどコロナだったから外に食べに行くとかもあんまりできなくて。英理はそれでも少しは野菜とか食べてたみたいだけど、私は主食といえば酒とコンビニごはんとかカップ麺とかばっかりだったわけ」
隣で藤原くんが引いている気配があるけど、気にせず続ける。
「流石に英理が見かねて、たまに料理作って持ってきてくれるようになったんだよね。このままじゃ体壊しますよって。最初はゆでたまごとか、切って混ぜただけのサラダとか、簡単なやつばかりだったんだけど。そのうちカレーとか混ぜごはんとかちゃんとしたやつになってきて。そしたらいやでも同じもの食べることになるでしょ」
「百々子さんは作らないんですか」
「私が作ったら、英理は安心して作ってくれなくなっちゃうから。あの子は自分のことにはほとんど無頓着なんだけど、私が不健康そうにしてたら料理作ってちゃんと一緒に食べてくれるからさ」
なんて、単に料理しない口実なんだけど、と言って私が笑って隣を見ると、藤原くんは箸を持った手を止めて、遠くを見るような眼をしていた。
「確かに、そういう人ですよね、入江さんて」
ぽつりと言って、食事を再開する。
「そういえば、小津さんには最初なんて説明したんですか? 俺のこと」
「んーなんか、かつて運命を誓い合った人が面接に来たから雇うことにしたよーみたいな?」
「最悪だ。なんでわざわざそんな誤解されるような言い方するんですか」
藤原くんが本当に嫌そうな顔で詰めてくるので、さすがに悪いことをした気になってくる。
「いやちょっと、焦らせてみたかったっていうか、ちょっとした好奇心っていうか。どんな顔するかなーって。普段あんまり顔色変えることない奴だからさ。会ったなら何となくわかるでしょ?」
「さっきから動機がいちいち面倒くさいんですけど。入江さんのことといい」
「藤原くん最近私に対して遠慮しなくなってきたね」
「百々子さん俺に対して本性隠さなくなってきましたよね」
「確かに、ちょっと軽率だったね、ごめん。……なんか、藤原くんのことを何も知らせないのも不誠実な気がしてさ。だからって前世で夫だったなんて言えないし。難しいよね。君のこと説明するの」
「小津さんは知ってるんですか、百々子さんに、その、前世の記憶があること」
前世、と言う時、藤原くんが声をひそめた。
「まさか。言うわけない。冗談だと思われるか、可哀想なものを見る目で見られるだけでしょう」
「全部言うつもりがないんなら、中途半端に知らせる方が不誠実な気がするけど」
「だからって、まったく何も言わないのはしんどいよ。藤原くんだったらどうするの。彼女には言わない派?」
「……さあ。今いないんで、わからないですね」
「ずるいなー」
私は少し笑った。
「悪かったよ。遙にはちゃんと訂正しといたから」
「……いや。小津さんは別にいいんですけど。別に嘘ついてるってわけでもないし」
藤原くんは少し迷ったあと、言いにくそうに口を開く。
「どっちかっていうと、入江さんの方が間に受けるでしょう。運命だの何だのって言葉使うと」
「あ、困るのそっちの方なんだ」
「そっすね」
へえー、自覚あるんだ。
食べ終わって席を立つ。ごちそうさまでーす、と言いながらトレイを下げると、忙しそうな洗い場からありがとうございました、と威勢の良い声がいくつか返ってきた。
建物を出たところで「ご馳走様でした。美味かったです」と藤原くんが律儀にお礼を言ってくる。
「どういたしましてー。じゃあこれで、藤原くんのこと遙に変なふうに言っちゃったのはチャラってことで」
そう言うと藤原くんがそうですね、と笑った。
ーー良かったら、今度英理も連れてきてあげて。
そう言おうとしてやっぱりやめたのは、人混みが苦手な英理にこの食堂は少し人が多すぎる気がしたからだ。
それとあと、ほんの少し、悔しかったから。
「そういえば、初めて英理と一緒に食べたのもキャベツだったなあ」
「キャベツ料理ですか」
「ううん。ほんとに生のキャベツ。むしってマヨネーズつけて食べた」
「どういうシチェーションなんだろう……」
英理と初めて会って間もない頃、ほぼ恒例になっていた週末のリモートのおしゃべりで、最近コロナで外食もできないからほとんどレトルトしか食べてない、という話をしたら、英理がひどく心配そうな顔をしたのだ。
「ああの、で、でも、それだけじゃ、か、か、身体に悪いんじゃ」
「まあね。ただこんな時代だし、健康に気をつけてたって死ぬ時は死んじゃうよ。だったら、好きなもの食べてた方が良いじゃない?」
ビールを片手にそう言うと、英理が悲しそうな顔をしたので、少し慌ててフォローする。
「まあ、大丈夫だよ。たまに彼氏が作ってくれたり、実家からお惣菜が送られて来たりするし」
頻度としてはせいぜい年に数回だけど、それは言わない。
英理がうちに初めて来たのは、そんな話をした次の週末だったと思う。
だらだらとした休日を過ごしていたら、いきなり英理から着信があったのだ。
「あっあの、いいいまももこさんのうちの最寄駅にいるんですけど! い、今から、い、行っても、いいいですか?」
「え、嘘。もう来てるの?」
まだ実際に会ったことは数回しかない頃の事だ。それでも、お互いのおおよその住所は教え合っていた。うちは地下鉄の最寄駅から徒歩5分ほどしか離れていない。
いきなりの訪問に少し驚いたものの、近くに来ているというのに断るわけにもいかず、建物名と部屋番号を教える。少し経ってチャイムが鳴った。ドアを開けると、ビニール袋を下げ、小さな顔に大きなマスクをした英理が立っていた。
そしてビニール袋を両手で掲げて見せる。
「もも、も、も、ももこさん、わた、わた、わたしたち、野菜を食べましょう!」
前もっての約束も連絡もなく、いきなりやって来た英理は、手も声も震えていた。
ビニール袋には、丸ごとのキャベツとトマト、それにマヨネーズが入っていた。
私は、とりあえず英理を中に入れた。
「これ、どうするの?」と聞くと、「ち、千切ってマヨネーズを付けて食べます。トマトはそのまま齧ります」というのでマジかよ、と思いながら、とりあえず洗って丸ごと皿に乗せた。
英理がキャベツを千切ってくれたので、マヨネーズをつけて食べてみる。「あ、おいしい」意外と甘かった。
私はキャベツをむしゃむしゃ食べながら、英理に人のうちを訪ねるときには前もって連絡することなどを教えた。
「休日に在宅してるって保証はないんだから。あと仕事が繁忙期のときは汚いから部屋に人を入れたくないし、来客中かもしれないし、寝てるかもしれないし」
たまたま、今日はそのどれでもなかったけど。
私が理由を言うと、英理は初めて気がついたように、なるほど、そうですね、といちいち感心して、それから慌てて謝ってきた。
聞けば、ひとりで他人の部屋を訪ねるのは初めてだったらしい。
毎回思うけど、びっくりするほど対人の経験値が低い子だ。それなのに、心細かっただろうに、私に野菜を食べさせたい一心で部屋まで来たのだろう。
それから英理は、たまにごはんを作って持ってきてくれるようになったのだ。
料理のレパートリーは増えたし、もう連絡もなしにいきなり訪ねて来ることはしない。
「なに笑ってるんですか」
藤原くんの声で我にかえる。
「ん? ちょっとね、思い出し笑い。いやー、人って成長するよね……」
「入江さんのことですか?」
ちょっと藤原くんが聞きたそうな顔をしてくる。でも、あの時のことはまだ人に言う気にはなれない。それぐらい大事な記憶だった。だからつい、意地悪を言ってしまう。
「教えてあげない」
いまは、まだ。
「いつか、英理に聞いてね」