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絵画から見た君

作者: かがみ百年

 彼女は必ずそこにいた。朝も、昼も、夜も、どんなときもそこにいた。

 眩い照明を上から当てられても、その青の瞳は瞬きをしなかった。

 その場所にいるのは私だけ。青の瞳の彼女と、壁に一寸の傾きもなく飾られている幾つもの絵画が私を捕らえる。

 閉館を告げる人工声音は、まるで絵の中にいる彼女が私に話しかけているようかのようだった。




 彼女と出会ったのは数十年前の冬である。

 旧友が館長を務めることになった美術館が、彼の就任と建物の改装工事が終了したことを記念として特別展を開いたときのことである。

 私は平日に訪れたということもあり、来場者は思いのほか少なかった。旧友の彼とも短い挨拶を交わし、特別展を堪能した後、私はその足で常設展示の方へも行った。

 やはり、向こうに人が集まっているのか、こちらの方には誰もいない。

 展示品の並びは時代の流れに沿って配置されており、絵画が中心であった。


 ゆるりゆるりと進んでいく。展示品は人の歩幅に合わせて飾られているのか、一歩一歩踏み出していくたびに一枚一枚の絵画が私の視覚を埋めてくれていた。



「これは……」


 身体と眼の動きがその一瞬にして止まる。絵画たちの流れがある一枚で滞る。

 長い癖のある赤毛の髪を垂らし、白いワンピースを着て微笑を落とす少女。

 斜め上から描かれたその少女の顔は彫刻のように均整が取られ、ほんの少し下ろされた瞼から青の瞳が零れていた。

 どれくらいの間そこで立ち止まっていただろうか。この日の記憶にはその絵画の中の彼女の姿だけしか残っていなくて、旧友と話したことも、特別展のことも、彼女以外のすべては私の記憶棚には収納されなかった。


 その日を境に彼女は私の日常の登場人物になった。職場の同僚や上司、通勤で乗る電車の運転手や同じ時間に通勤する誰かは知らないが顔だけは知っている人たちと同じような、必ず私の一日に現れる人。

 数年経っても、数十年経っても、彼女は変わらずそこにいた。




 数千回彼女を見た。彼女に出会った。

 美術館に足を運ぶことも少しばかり辛くなってきた。もう立って長時間彼女と向き合うことも難しくなり、彼女を映す視界も狭まってきた。

 生活に杖が必要不可欠になった年のある日、美術館を訪れた私と向き合ったのは白い壁だった。

 彼女は、その姿を消していた。

 その壁に薄く滲んだ照明焼けがジリジリと私の心まで焼け拡がった。ふらついて座り込んでしまった観賞用に置かれた椅子がトスンと音を立てる。

 ああ、そうか、彼女はいなくなったのか。

 最後に見た彼女はどうだったか。あの青の瞳は変わらず美しかった、はず。いやどうだろうか。

 思い起こされる絵画の全体像は自分の想いとは裏腹におぼろげだ。

 館内で奏でられる音楽が雨の日の湿気のように私を包み込んだ。



「あなたの瞳って、少し緑が含まれているのね」


 湿っぽい音楽とは違う、潤いのある澄んだ声だった。

 自分の右耳から入ってきたその音の主は美しい少女。束ねられていない長い癖のある赤毛、ふわりと揺れる重みのあるフリル裾のワンピース、そして、照明の光を吸い込む青の瞳。


「保管倉庫ってとても退屈なのね。明かりが入らないから、昨日話した相手がいつの時代の人なのか、男性なのか、女性なのか、全くもってわからないのよ」


 女性特有の愚痴を吐き出す彼女はあまりにもこの空間に溶け込んでいる。

 絵画から飛び出してきた彼女は油絵の具で描かれた質感とは違う、瑞々しい白い肌をしていた。


「きみは、抜け出してきたのかね?」

「そうよ。学芸員の話だとね、再展示はいつになるか決まってないんですって。そしたらね、倉庫に私を置いた人が『おやすみなさい』って言ったの。眠れるわけないのにね。絵画の中の私たちは捨て焼かれる日まで変わらず生き続けているんだから」


 彼女は自身の指で赤毛を掬い、巻き上げていく。

 唇を尖らせながら、彼女は自分が飾られていた壁を眺めていた。


「たとえ幻覚でも、君をこうやって見ることができて良かった」

「あら、あなたはこれが幻とおっしゃるの?」


 現実よ、と言い、立ち上がった彼女は裸足だった。

 彼女が描かれた時代や、彼女を描いた画家ははっきりしていたが、その背景や、彼女という人物については何もわかっていないらしい。

 実在した人物なのか、それとも想像の人物か。

 どちらであったにせよ、この少女を描いた画家は彼女に靴も靴下も履かせなかったようだ。

 


「お別れね」


 裾を舞わせ、くるりと私の方を見た彼女は青の瞳を零れ落ちそうにさせながら目を細めて微笑んだ。


「こうやって現れてくれたことはとてもとても嬉しいのになぁ。どうしてか、最後に見る君は絵画の中の君が良かった」


 ペタペタと床を踏む彼女の足音が、座り込む私の前で止まる。

 彼女の滑らかな両の掌が私の顔を包んだ。


「わたしも。最後はあなたのこの瞳で、絵画の中の私を見て欲しかったわ」


 私の眼を捕らえる青が燃えていた。


「一緒に、私を焼いてくれてもいいのよ」


 熱さに耐え切れなくなって瞼を一度閉じると、彼女は消えていた。

 絵の中に帰っていった。

 館内の音楽が流れを途切れさせないように閉館のアナウンスへとつなげた。




 夜の世界から見た美術館の外観は美しくて、もういない旧友の館長就任と同時に改装をしてからずっとそのままの姿でいるらしい。

 彼女がいた常設展示の会場である二階の照明が丁度落とされる。その瞬間が彼女なりの別れの挨拶のように感ぜられた。

 しかし、もう彼女はあそこにはいなくて、倉庫の暗闇の中で誰かとおしゃべりをしているんだなと考えてみたら、私は大きく口を開いて静かに笑うしかなかった。

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