無用の造花
いつもの帰路の中、小学生男児は、ある少年を見つめていた。交差点のすぐ、細い道路の端っこで、悪い目つきでどこにも焦点を合わせずに、ただぼうっと立っていたのだ。手にある紙とその少年の姿を交互に見ていると、その視線に気づいたのか、少年は児童にぼそりと話しかけた。
「何?」
児童は、少年の様子を窺って、その壁に寄りかかり気だるげに全身の力を抜いているあたり、特に暴力を振るってくるような印象を受けなかったので、一歩一歩、地面と靴が擦れる音を鳴らしながら、ゆっくりと近づいていった。
「これ」
互いに触れることが出来る距離にまで近づいた後に、児童はその手にある紙を少年に見せた。少年はそれを受け取り、読みやすいよう顔の前に持っていく。題は、不審者情報。
「黒いパーカー、ジャージのズボン、青いビーチサンダル、168cmの男……」
少年は自分の特徴が詳細に書かれたその紙の字を読み、ため息を吐いて肩を落とした。元の持ち主である児童にそれを返し、助言を与える。
「あーそれは要らないものだな。適当に、折り紙にでもしてやんなさい」
「わかった」
児童は素直に返事をした後、黄金比であった紙を1:1になるよう、ビリビリと破いてしまった。背にあったランドセルを地に置き、土台にして紙を布く。まずは半分に折りながら、少年に尋ねた。
「ふしんしゃじゃなかったら、なんでずっとあんなとこにいたの?」
その言葉に、少年は児童に目を向けるが、折るのに夢中なのか、顔を下に向けており、また帽子が遮りとなって表情が分からなかった。少年はふと周りを見る。児童が紙で遊ぶところを一瞥する者は何人かいたが、少年に視線を送る者は誰も居なかった。
「いつから見えてた?」
「おとといのあさから」
連日朝も夕方も、何もないところで、同じ格好で突っ立っていれば、不審者と呼ばれても仕方が無かったことに、少年は納得し、同時にこの児童みたく不審者として見る者がいるならば、声くらいかけてきてくれても良かったのにと、心の中で悪態をついた。「ここに居たくて居る訳じゃないよ。」
転がっていた小石を足で遊ばせながら、少年は話始める。
「離れたくても離れられないだけ。地縛霊だから」
ほら、と児童に呼びかけて、『目撃者求む!』の看板を顎で差して見せた。事故を目撃された方は警察署まで通報してくださいと書かれたそれは、少年と同様、人目に触れられていない寂しさが感じ取られた。すこし目に写った児童の手元にある紙は、折り目をつけるところであった。
「ゆうれいっていたんだ」
「それ俺も思った。自分自身が霊になって初めて知るなんて、皮肉も良いところだよな」
乾いた笑いを飛ばし、少年は、自身の最期を思い返す。
「受験生だったからさ、夜遅くまで勉強してて、夜中に気分転換でコンビニに行こうとしてたんだ。したら、一瞬だった。ここで、凄いスピードの車を見たと思ったら、気づいたらここに居ついてたんだよ」
本当に、何の脈絡もなかった。少年が、自分の死に気づいてから最初に抱いたのは、「人はこんなにもあっさりと死ねるものなんだな」という呆れであった。何度か死にたいと思ったことはあったが、どこか自分は死なないものなのだろうと勝手に考えていた。しかしこうして死んでみてから、そういった感覚は実はただの心のストッパーであったことを知ったのだ。かといって、霊になってしまったからにはやることが無くなってしまったので、今日までまるでぼうっと過ごしていた。時間より早く、一日が過ぎていくような感覚であった。
足に当たった小石は、すぐそばにあった看板に衝突し、跳ね返ってきた。その石を軽く踏みながら、少年はぽつりぽつりと言葉を漏らした。
「俺まだ何も出来てないのにな」
踏んでいた石を強めに蹴ると、それは勢いよく道路の真ん中に突っ込んで行った。そして無情にもそれは車のタイヤと衝突し、明後日の方へ飛んだと思ったら、近くにあった小川に落とされ、消えていった。飛んでいった距離はそこそこあったが、それでも、ぽちゃんと呆気ない音は、彼には聞こえたように感じていた。
「いじめにも耐えてきてさ」
少年は声を張る。否、声帯が強張っているのだ。息をすることが苦しい事を思い出したように、首を折りたたんで、その苦痛に耐えるように、顔をゆがませた。
「兄貴とずっと比べられてさ」
児童は紙を折っていた手を止め、少年をじっと見つめた。恥ずかしかったのか、その屈辱に耐えかねたのか、そっぽを向いて顔を見せまいとしていた。こんなことなら帽子でも探して、被ってから出かけていればよかったのにと、そんな事を考えていた。
「見返してやろうと思って頑張ってきたのに、何も残せずに死んじまった。このまま皆に忘れ去られるなら、俺の人生ってホントに何だったんだろうな」
こんなことを小学生にぶつけてどうするのだと、冷静な少年は自分にあきれ果てていた。しかし、その涙を、その嗚咽を止めることは、やっと久しぶりに人と会話が出来た事を歓喜、そして生前の虚しさを思い出した少年が許さなかった。足元にはもう、八つ当たりする小石が残っていなかった。静かに佇む看板に身を寄せ、触れた肌から冷気を感じながら、今まで何かを待っていたのだ。しかし、もはや自分など、誰かに蹴られるのを待っているだけの小石にすぎなかったのだと、少年は打ちひしがれていた。
「じゃあ、ぼくはおぼえていてあげるよ」
少年は声をかけた児童に顔を向ける。児童も心配そうに少年の顔を見つめる。見上げるように顔を向けていたので、帽子が邪魔にならず、目が合った。そこで初めて、児童の綺麗な目に映る情けない自分の姿を認識したのだった。咄嗟に涙を拭い、真の意味で声を張った。
「忘れてくれて構わないよ。どうせすぐ忘れるだろうし」
「じゃーわすれるまでおぼえてるから」
「都合いいな」
少年は思わず吹き出してしまった。そうか、小学生はこんなにも希望を見つめる生態だったのかと、彼は初めて自分より年下の男の子の事を知ったのだ。すると、児童は、さっきまで折っていた紙を差し出す。手にあるのは花であった。朝顔だろうか、折るには簡単そうな真っ白で綺麗な花──ではなく、花弁には黒いインクで印字された汚れが浮き彫りになっていた。このインクさえなければ、この花はもっと美しかっただろうに。
「やっぱり折り紙は折り紙用じゃないと綺麗にはならないな」
「そうだね。でもいらなかったから」
少年は差し出されていた花を受け取る。花弁を撫で、少しばかり感じられる温もりを、しばらく離さなかった。ため息を吐いた。さっきとは違う、自分にあった後悔や執念、そして僅かに残った、死者にあるべきではない、希望を身体から追い出した。
「そうだな──要らないよな」
花は捨てられたように宙に舞い、道端に落ちた。しかし、元握っていたはずの手は、その場から消えていた。手だけではない、石を蹴る足も、ぐしゃぐしゃだった顔も、何も無かった。そこにあったのは、手向けのように置かれた、寂しい紙の花だけ。吹けば飛んで行ってしまうくらいに儚い、たった一輪の花だけだった。しかし、そんなことはお構いなしに、児童はその花をすくい上げた。その花を夕日にかざし、美しさを保ったままであることを再認識して、片手に持ったまま帰路に戻った。
その後、家に戻りその花を確認したところ、不思議なことにその花は、汚れ無き純白の花弁をそなえていたらしい。