嫌われる絵 自己顕示欲のデッドエンド
最近、「お絵描きの心得」みたいなツイートをX(旧Twitter)でよく目にする。
内容は色々だ。モチベを保つ方法、上手くなるには何をすべきか、誰かに誹謗中傷されてもへこまない考え方など。大体「こうするとお絵描きの敷居が低くなるよね」みたいなやつだ。
そういう「お絵描きTIPS」みたいなやつによく含まれているのが、「何も見ないで描けるようにならないといけないわけじゃない」というやつだ。資料を見ながら描いていいんです! 何も見ないでうまく描けないのは当たり前!
正直これはとても誤解を招きやすいんじゃないかと思う。自分は何も見ないで描けるに越したことはないと思っている。何かを見ながらしか描けないと自分の頭の中のイメージは描けない。だってそんなに都合よく自分の頭の中にあるのと同じようなポーズの写真もないし、ぴったりはまる角度の小物もない。資料を見ながら描くにしろ、その資料の物体を頭の中で回して光を当てて自分の欲しい角度に直さないといけない。どうしてもわからなければ、自分の体を鏡に映したり似た小物をおかしな角度で眺めてみなければならない。
そういう頭の中の作業のことに全然触れないで、ただ「資料を見ながら描きましょう!」というのは、色々とすっ飛ばしている。他人が撮った写真、他人が描いた絵、自分以外の誰かが用意したものはその「誰かの」ものであって、勝手にそのまま写し取って自分の絵にしていいものじゃない。資料を頭の中で再構築しないで描いたらそれは盗作だ。
ただし、盗作とか流用とか、著作権の話をしたいのではない。もっと個人的で自己中心的な話をしたい。
これまた最近の話だが、自分がフォローさせて頂いてる人たちの中で複数の方が、ある人物に構図をトレースされているようだ、という話があった。
構図というのは、もしトレースされたとしてもよほどのその作品の骨子だと認められない限り、盗作とは見做されない。個性を発揮しづらい部分だから。ただ、自分は構図だけであっても、人のものをそのまま借りようという気にはどうしてもなれない。実は色さえ人の絵や他人が撮った写真からスポイトツールで抜くというのが嫌で、人様のキャラを描かせて頂くときであっても、自分で似た色と思える色を目で見て作っている。わざわざカラーチャートをもらってなお。自分はこういうことに相当潔癖な方だと思う。相当。頑迷な老人のように。
構図トレースの件も、自分の中では「トレースされた人達はさぞ悲しかっただろう、だからそんなことはしないで欲しい」という話ではない。本当に申し訳ないけれど。純粋に「何が楽しくてそんなことをやるのか理解できない」ということだ。
誰かの何かを使う、というのが気持ち悪くないんだろうかと思う。
なんでそう思うのか? 自覚的に、側から見ると間抜けなほどに他人のものを取り込むのを避ける、自分でもなぜなのかその原因がわからなかった。ただ嫌で嫌で仕方がない。誰かの構図を、色を、姿形を、景色を借りる、それがぞっとするほど嫌だ。
実際のところ、誰かが撮った写真を見て「この景色の中に自分のキャラを置きたい」と思うことはある。そういう時はまずその写真をじっと見る。何がこの景色をこの景色たらしめているのか? 何を描けばこの雰囲気を持つのか? 自分はこの景色の何を描きたいのか?
で、その「じっと見る」で頭の中に残ったものを描く。もちろん元の写真と比べれば格段に落ちる。イメージがおぼろにしか残らなかった部分が変化している。描けるようにしか描けない。でもそれでいい。同じように自分の頭の中にいたキャラとちょうど釣り合う。誰かの写真の世界では私の中の人物たちは窒息する。あまりの克明さに。そして「誰かの写真」だった風景は私の不完全な目と脳と手によって、ある部分は誇張され、ある部分は省略され、似ても似つかない景色になって「私の」世界のワンシーンになる。
こうでなければならない。少なくとも自分の絵は。他の人は好きにしたらいい。
そんなんだから、二次創作というのにもとんと興味がなかった。原作があるならそれだけでいいと思っていた。ところが、一昨年、好きな絵を描く人をみつけた。
これは自分の中でものすごく大きな事だった。なんだこの絵は、と思った。こんなに、こんなに自分が好きなラインで、こんなに自分が好きな陰影で、こんなに美しい絵を描く人がいるのか、と思った。生まれてから食らったことのない引力だった。自分は二次創作というのを、この潔癖のせいもあってやったことがなかった。でもそれはただ「他人の作品」に対する情熱が欠乏していただけだったのがわかった。
というわけで、その人にお願いして(頼み込んで)、その人の作品の二次創作をさせてもらっている。その人の絵が好きすぎるので、二次創作をするときはできるだけその人の絵に寄せようと努力している。寄せようとしたところでそもそもの画力が段違いなので、とても寄らない。でもそうであっても、その人の絵をなぞるというのはやったことがない。本当は、上からなぞって練習して、バランスや線の太さや、どこに特徴があるのか捉えた方がいいんだろうと思う。でも今度は「この人の絵に自分の線を重ねるなんて畏れ多くてできない」というのが来て、結局似ているような似ていないような、不思議な絵を描いている。そもそも、この人と同じ絵を描きたいわけじゃないのだ。「この人に」「この人の絵(世界)を」描いて欲しいのだ。自分が同じ絵を描けるようになったってしょうがないのだ。自分の世界とは全く別の世界であってほしいのだ。
そういうことを考え合わせると、少しわかってくる事があった。誰かの絵や写真や、そういうものをそのまま自分の絵に取り入れるのが嫌なのは、「誰かの世界あっての」自分の世界になるのが嫌なのだ。全然道徳の話ではない。
誰かのアイディアや、構図や世界観を下敷きにした世界を、「これが自分の世界です」と差し出すことがどうしても腑に落ちないのだ。混じり気のない「これが100%、どこを取っても自分の世界だ」というのを見せたいのだ。私は凡人だから、その世界はつまらない。全然輝かない。誰のことも惹きつけられない。それでも、自分で作ったと言い切ることができる。誰かが目を留めるどこかで見た世界より、見向きもされないけど全部、積み上げられた石の一つまで自分で選び運んだことが、そしてそれを自分が知っていることが自分にとって重要なのだ。
これは一つの凄まじい自己顕示欲なんだろうと思う。これほど酷い、強烈な自己顕示もなかなかない。誰の介入も許さない。誰の承認もいらない。誰かの作品が自分の世界に混ざり込むことは自分に対する侮辱である。人の物を借りたのであれば、誰のものなのかを明記する。それは著作権上そう決まっているからではなくて、借り物だと明記しなければ自分に対してフェアじゃないからだ。その評価はお前のものじゃない、その引力は自分の力じゃないと、ちゃんと自分にわからせなければならない。