幕間2 隣り合う
延々続く石の階段を、一つ一つ昇っていく。鎮守の杜の木々がさわさわと柔らかな音を立て、木漏れ日の陰は刻一刻と斑の形を変える。
ずっと見上げた先にある鳥居の緋色が、抜けるような青空に映えていた。
袂の大鳥居をくぐった瞬間から、ここはもう神域の中。肌に触れる空気は清涼そのものだ。
だが、それを台無しにする騒音があった。
「弐千佳さぁぁん! この階段どこまで昇るんすかぁぁ!」
振り返れば、遥か下から叫ぶチャラ男の姿。
今日は依頼の仕事ではない。新しい霊符をもらいに神社へやってきたのだ。
駅前で待ち合わせして、会うなり「弐千佳さん私服もいっすね」などとヘラヘラしていた有瀬くんは今、踊り場で屈んで脚をさすっている。
「もう膝死んだー」
「まだ半分くらいしか来てないよ」
「えぇー! つれぇー!」
なお私は普段通り上から下まで黒一色コーデで、有瀬くんは薄ベージュの半袖開襟シャツに黒の細身のスラックス。参拝ということで配慮したらしく、驚きのシンプルさである。
やっと追い付いてきた有瀬くんに歩調を合わせて、一緒に上を目指す。
「有瀬くんさ、なんでそのガタイで体力ないの? 何かスポーツでもやってるんじゃないの?」
「え、別になんもやってないっすよ。ガキのころに合気道やってたくらいで。まぁ、やってたっつーか、やらされてたっつーか……親父が家で道場やってるんすよ。だから兄貴たちと一緒に。でも俺、全然だったから中学上がる前に辞めちゃった」
声のトーンがやや下がった。
あ、これはセンシティブなところに触れかけたかも……
と思ったのも束の間。
「でも海行った時とか、ヒョロガリだと女子にモテないじゃないすかー。だから大学の体育センターのトレーニングルームでめちゃ身体作りましたよね。あと時々ツレとフットサルやったりとか」
「うん、なんかイメージ通りだった」
その向上心を他に向けられないものなのか。
「合気道の経験はあるんだね。事故物件みたいなところで平気でいられるのも、もしかしたらそういう素養のおかげかも。異能の資質って家系で継がれることが多いし、ある程度の基礎は有瀬くんの中にあるんじゃないかな」
「えー、マジすか。俺、自分が痛いのもヤだし、誰かに技かけるのもヤだったんすよねー。親父にクッソ怒られたりしたんで正直あんまり良い思い出もないんすけど、無駄じゃなかったんなら、まぁいっか」
石段を昇りきるころには、二人とも息が上がっていた。
「弐千佳さんも人のこと言えねえじゃん。今度一緒にジム行きましょうよー」
「えー……やだ、面倒くさい」
「ちょっとそーゆーとこあるよね、弐千佳さんて」
「うるさいよ」
鳥居をくぐる一歩手前で一礼。
広々とした境内は、参拝客の姿もない。平日の昼間であることも加えて、あの地獄みたいな階段がネックだろうと思う。
手水舎で手を清め、拝殿へと向かう。
「ここ、よく来るんすか?」
「うん、行きつけの神社」
「えっ……ここが?」
有瀬くんは口元を両手で覆う。
「俺……初めて彼氏の行きつけの店に連れてってもらった女子の気持ち、今めちゃ分かりました」
「なぜ女子の気持ちを?」
ときめいた表情で見つめるなし。
賽銭箱へ小銭を放り、ほぼ同時に二礼二拍手一礼。十秒程度で早々に合掌を解くと、有瀬くんはまだ真剣な横顔で拝礼していた。意外と長い睫毛が、ぱちっと開く。
「よっし!」
「ずいぶん熱心だったね。何か願い事?」
「えー、それ訊いちゃうー?」
「あ、やっぱいいわ」
「ひどくないすか」
社務所の方へ足を進めていくと、関係者口から見知った人物が姿を現した。
白い着物に浅葱色の袴を纏った小柄な女子である。
「弐千佳! そろそろかなって思ってたんだ」
「芙美、お疲れさま」
黒髪を一つ結びにした、瞳の大きな美人。アイドルっぽい雰囲気でやや幼く見えるけど、私と同い年だ。
有瀬くんがぱちくりと目を瞬いた。
「お知り合いっすか」
「友達だよ。この神社の娘」
「えー! 女性の神職の方! めちゃかわいっすね!」
芙美が首を傾げる。
「新しいアシスタントの子? これまでとだいぶ毛色が違うね」
「はいっ! 弐千佳さんのアシスタントの有瀬 安吾でっす!」
「可愛いじゃん。大型犬みたい」
「あざっす!」
有瀬くんがへらりと愛想よく笑う。
大型犬という評価は妥当だけど、あまり調子に乗せないでほしい。
「弐千佳、いつもので良かったよね?」
「うん、お願い」
「うおおっ⁈」
ゴールデンレトリバー有瀬が吠えた。
「うわー、やっぱあれすか! 行きつけの神社で『いつもの』って言うとあの御札が出てくるっていう!」
「そうだけど……」
「やべえ! ガチのやつだった! マジやべえ!」
すごい勢いで振られる尻尾が見えるようだ。
芙美はお腹を抱えて笑っている。
「あっはは! 面白いね有瀬くん」
他に参拝客がいなくて良かったと、心の底から私は思った。
芙美の生家であるこの神社は、陰陽師の流れを汲んでいるらしい。芙美のお父さんは、除霊の相談も請け負っている。
私がいつも作ってもらっているのは、一般向けに授与されている御守りや御神札とは違う、特殊な文様の描かれた霊符だ。私の気と適合するように文字を入れてもらっている特別仕様なのである。
社務所の中の休憩スペースを借りて、もらった霊符を確認する。頼んだ通りの枚数だ。これでしばらく仕事をするにも困らないだろう。
決まった代金を支払うと、芙美がにやっと笑った。
「毎度あり」
「神職としてどうなの、そのセリフは」
「いやいや、大事な技術料よ。わたしもだいぶ上手く描けるようになったでしょ」
「あ、今回も芙美が作ってくれたんだ。この前のも良かったよ」
「やだー、弐千佳に『良かった』とか言われるとドキドキする」
「めちゃ分かりますそれ」
「でしょ?」
なぜか意気投合している芙美と有瀬くん。
「除霊界隈、横の繋がり結構あるんすね」
「あるよ。情報交換も大事だし、協力して除霊に当たったりとかね。弐千佳とは、元々親同士が知り合いで」
「へぇー」
そう、芙美とは親の仕事の関係で年に何回か顔を合わせる間柄だった。私にとっては唯一の友人と言える相手だ。
「しかしいいね、有瀬くんみたいにとびきり明るい子が弐千佳のアシスタントってのは。この仕事、油断すると闇に引っ張られちゃうからさ。弐千佳、一人になってからなかなかアシスタントに恵まれなかったでしょ」
「……芙美」
「えっ、弐千佳さん、前は誰かと一緒にやってたの?」
「……まぁね」
「あー、何にせよペアを組む相手は重要ってことね。あんたたち二人、隣り合った気の状態がいい感じだよ。弐千佳をよろしくね、有瀬くん」
「任せといてください」
何そのやりとり。
そうは思ったものの、芙美の笑顔を蔑ろにはできなかった。自信満々の有瀬くんはともかくとして。
「芙美さん、めちゃ良い人っすね。可愛いし」
「うん、良い子だよ。可愛いし」
有瀬くんと二人、長い石段を下っていく。行きもキツかったけど、帰りは帰りで膝にくる。
「変な話っすけど、弐千佳さんはちゃんと実在してる人だったんだなって思いました」
「は? どういうこと?」
「だって事故物件に泊まり込みの時も二人だけじゃないすかー。もしかしたら俺にしか視えてない人の可能性もあるなって」
「私は怪異か」
「でもなんか、そーゆー雰囲気あるんすよ弐千佳さんて。芙美さんも言ってたけど、半分くらい闇に紛れてるっていうか」
「むしろ妖怪人間」
「いや割とガチで」
ピチチ……と、頭上で鳥が囀った。
別に茶化すつもりもなかったけど、否定する材料もない。
嘘みたいに明るい視界の中、麓の鳥居が少しずつ大きさを増していた。
「あのさ、一緒にごはん食べたでしょ、私たち」
「っすね」
「黄泉竈食って知ってる?」
「よも?」
「あの世に行って、向こうのものを飲み食いすると、この世に帰って来られなくなるっていう日本神話のアレ」
「あー、はい」
「……まぁ、とにかく。その逆っていうか、除霊師もあの世に近い場所まで行って仕事する人は、先にこの世で飲み食いしとくんだよ。自分の現し身をこっちにしっかり紐付けするためにね」
下りゆく石段を数えるともなしに数えていた。わざわざ振り返って、ここまでの道のりを確かめるわけでもなく。地上はもう、すぐそこだ。
鳥居の一歩手前で一礼し、神域の外へと出る。
柔らかな風が頬を撫でていき、思わず口元が綻んだ。
「だから少なくとも、有瀬くんの作ってくれたごはん食べてるうちは大丈夫だよ。分かりやすい因果でしょ」
有瀬くんが目を見張った。
「それってもしかしてプロポーズ?」
「なぜそうなる」
「えー、でも、えー! そんなんで良ければいくらでも! やったー俺ちょっとその辺走ってきますっ!」
「落ち着いて」
リードが要るのでは。
そうしてまた並んで歩き出す。
降り注ぐ日差しが、行く道を隈なく照らしている。
身を隠す場所すらないという、あるかなしかの心許なさも、今日はなぜだか悪くないと思える。
隣にいる大型犬みたいな青年からは、相変わらず日向の匂いがしていた。
—幕間2 隣り合う・了—