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2 これからのお話①

 (ひびき)くんと演劇部に行く途中、長い廊下を歩きながら、進路指導の提出物の話になった。二十年後の自分の理想図、と言われても想像もつかないまま、わたしは正直に打ち明ける。


「できることもしたいことも、何に向いてるのかもわかんない…………何だろう。保育士かなあ」


 なんとなくの答えに、響くんはいつものようには茶化さず、微笑んで立派だと褒めてくれた。


「これから人間に育っていく子たちを預かる仕事。素晴らしいと思うよ。尊く責任重大で、いつの時代も必要になる」


 そう言ってくれる響くんは表情のやわらかさと裏腹に声と瞳に熱が入っている。わたしはそこまで真剣に考えて言ったわけじゃないのでつい申し訳なく思ってしまう。


「なんとなくだから。なんとなくでそこまで言われると本気で目指してるひとたちに失礼な気がする」


 響くんは微笑みを浮かべたまま何のためらいもなく踏み込んできた。


「なんで。最初は、情熱とか意欲とかじゃなくても、興味本位でも好奇心でも面白半分でもいいじゃない。やってみたいことがあるなら何よりだよ。やるとなったらまじめにやればそれでいいんだ。みことはちびたちの面倒よく見てくれてるし、いいと思うよ」


 その大人の発言に感心しながら、そういうところがわたしはまだまだなんだよねと顔を伏せ、眉根を寄せてしまう。普段の響くんは幼稚園児や小学生と一緒になってなんとかごっこや変な遊びではしゃいでいるのに、いざ真面目に話すと保護者みたいな目線で応援してくれる。そういうところは素直に尊敬していて学ぶことも多い反面、特殊過ぎて真似できないとも常々感じる。こういう人こそ将来何になるんだろうと不思議でならない。


「響くんはやってみたいことってないの」


 さっきはぐらかされてしまった質問をもう一度率直に尋ねると、微笑みの奥で目がいつもの陽気さを取り戻した。


「あるよ。一度はやってみたいのはね、親友を狙ってるやつ相手に身を挺して割って入ってここは任せて先に行けっていう展開と、大切な人を守ったはいいもののそのせいでもう二度と会えなくなっちゃって、最後に一目幸せそうな姿を見届けてすれちがうけど向こうには気付いてもらえないラストシーンと、それから」

「演劇部の企画じゃなくて」


 つい遮ってしまった。あまりにも予想外の方向性だったので後から笑いがこみ上げてきたけど耐えて呑み込んだ。


「将来の話」

「みんなが幸せならそれが一番かな」


 響くんは少し困った笑顔で、そう抽象的にまとめた。


「それが一番難しいんだけどね。ぼくもひとの事を強く言えたものじゃないけど、最近はどこも過激派が暴れてて物騒だから。……にしても、保育士かぁ。保護者免許も保育士資格もで、勉強しないとね」

「うん……」


 わたしは少し考え込んでしまった。集合夢の普及でバベル景気と呼ばれる世界的好況が起きて、この国でもベビーブームが発生した。でも、長期化した晩婚化や核家族化、貧困で増加の一途を辿っていた育児放棄や虐待などの弊害もあり、乳児や特殊児童への接し方について国民全体に指導が必要、という結論に政府が至って、保護者免許制度が導入された。何か月か前に制度化十年目のニュースを見て、響くんが解説してくれたのを覚えている。

 この時代に保育士を目指す以上、保護者免許の取得は不可欠になる。それも、親になり子育てをするための第一種免許は当然のことながら、よそさまの子を預かり育てるための第二種免許も取る必要がある。さらにそれとは別に保育士専門の国家資格も取得する必要があって、なるまでにかかるお金のことを考え出すと目の前が暗くなっていくのを感じた。第二種があれば実務経験も受験料も免除されるけど、まず第二種を受けるまでのお金を貯めないとどうにもならない。

 もっとアルバイト増やした方がいいかなぁ……。


「生きていくって難しいね。幸せなんてもっと難しいよ」


 わたしが愚痴をこぼしてしまうと、響くんは遠くを見つめて頷いた。


「そうだねえ。せめて高校にいる間くらい毎日楽しく生きたいけど、なかなかうまくは、うん。でも、みことはもうちょっと前に出ていいと思うよ。せっかく演劇部にも入ったんだしさ」

「響くんが前に出過ぎなんだよ」

「そうかもしれない」


 神妙な返事だった。わたし自身は分相応に生きて、喧嘩もなくそれなりの毎日を過ごせれば充分だと思っている。でもそれを言うと響くんは、向上心があった方が人生にハリが出る、とデキるひとの理屈で軽く言い返してくる。お互いに押し付けはしないけれど、前にそんな話をしたことがあった気がする。響くんが来てそう経っていない時のことだったと思うので、わたしも響くんも小学三年生から変わっていないらしい。


「結局話逸らされちゃったから話変えるけどさ。今欲しいものってある?」


 ふと思い出して一度顔を向け、前々から気になっていた質問をすると、響くんも一度こちらを見た。


「特にないかなあ。この前アプリの権利売って入ったお金も、ろくに手ぇつけてないし。みことこそ、何か欲しいものあったら言ってよ」


 逆にそう言われてしまった。来月は響くんの誕生日だからささやかなプレゼントでもと思ってこの一か月それとなくリサーチしているのに、わたしがもらっても仕方ない。


「自分で稼いだお金なんだからわたしに気を遣わないでいいよ」


 響くんはうぅんと小さく唸って黙ってしまった。わたしも、また少し考え込んでしまう。お金かぁー……。

 そりゃわたしだって、欲しいものはたくさんあるけど、ねだって買ってもらうほどわたしたちは気安い関係じゃない。私がそう思うんだから、響くんもそう思っててもおかしくない。

 隣を歩く響くんをちらりと見る。天然の金髪に白い肌と青い眼、長い手足と高い身長。運動神経抜群だし、思い付きでアプリを作って売れる頭の良さと商才まである。比べてわたしは、地味だしとりえも特にない。セミロングの黒髪に茶色の眼、他に特徴なんかない。演劇部には天才のクローンと女神に生き写しの寺生まれの巫女がいるし、人生って不公平だな、といっつも思う。けど、響くんも境遇はわたしと同じようなものだから、性格とか行動力も大事かもしれない。

 響くんは、本人がこういう性格だから、ただ口でお誕生日おめでとう、いつもありがとうと言うだけでも喜んでくれそうな気がして、保護者が見ればまあなんて安上がりで素敵な子なんでしょうといたく感心する様子が想像できる。冗談なのか本気なのか、この前言っていた市販のチューブの歯磨き剤を本当にあげても、多分喜んで毎日使ってくれるとも思う。でも、そういう必要な消耗品は言えば買ってもらえるし、かといって手編みのマフラーみたいな目立つものも気が引ける。市販品でも値の張るものは手が出せないので、好みもセンスも未だによくわからない男子高校生に何をあげるのがいいのだろう、とずっと考えていた。

 それにしても、16歳の誕生日プレゼントに歯磨きセットで大喜びする様子が目に浮かぶって、社会的に見てどうなんだろう。裏を返せば、一人で何でもできるからなんにも要らない、欲しいものは自力で手に入れる、という自信や自負の表れなのかもしれないけど、やっぱり傍から見たらよほど今までいいことなかったんだな、と憐れまれてしまいそうで、それを思うと寂しさと哀しさと悔しさが胸の中で渦を巻いた。

 そんなことをなるべく顔に出さないように考えながら、掃除中の生徒に気をつけつつA組からH組までの長い普通棟の廊下を抜け、つきあたりの書道室と生徒会室の前にある東階段を降りる。今月は二人とも掃除がないけど、11月になったらまたどこかの当番になる。三階の職員室前を過ぎて三棟に入ると、まだ掃除中とはいえ一気に騒がしさが遠のいた。

 わたしが幸せと見栄の間で葛藤している間に何を思ったのか、響くんが不意に口を開いた。


「家族ごっこってどうだろう」


 思わず表情を窺うと、響くんは薄く笑みを浮かべたまま続けた。


「演劇部の新しい練習即興劇の題材にしてみたら面白いんじゃないかと思って。おままごとから思い付いたんだけどさ。そもそも今までの『話を合わせろ』シリーズって、アドリブ対応トレーニングだったから、言った者勝ちの後乗せサクサクでカオスになったわけだ。だから今度は、既にある最低限の設定だけでどう話を展開するか、あるいはストーリー性なんかなくてもいい、どう自分の演じる役柄、キャラクターイメージを死守するか、っていうのを考えた方がいいと思って」


 一通り聞いてわたしは、理に適ってはいる、と思った。話を合わせろシリーズはその名の通り、誰かが言い出した設定や状況に話を合わせてその場の流れと勢いで会話を進め、誰かの演じる役の目的達成にこぎつけば終了、というレクリエーションのような練習だった。まず演技自体に慣れる、照れや恥じらいをなくすという第一目標を概ね達成して、次の発表が半年近く先の部活動紹介まで空いていることを思えば、次のステップについて考えるのは、気の長い話に思えるけど悪い事ではない。それに、実際に舞台で発表するのは脚本の用意されているお話なので、そう言う意味では響くんの案はむしろ本来の演劇の在り方、話『に』合わせようという部活動演劇の原点に立ち返ったといえる。

 ただ、必要で十分な新メニューだと頭で分かってはいても、どうしても気になる点があった。家族ごっこ、というフレーズから否応なく酷薄さを意識させられてしまい、不穏なものを感じる。わたしは困惑しながら尋ねた。


「なんで家族なの」

「他意は無いんだ。さっきも言ったけど、おままごとから思い付いたってだけだよ。強いて言うなら、後出し設定改変を禁止して、純粋に演劇を追究するのに伝わりやすそうだったから。……みことは、いや?」

「いやじゃないけど」


 とっさに答えてわたしは、しばらく眉を寄せて、ただ、もやもやする、と付け足した。答えは自分でもわからなかった。ただ、響くんの口からその言葉を聞いたのがショックだったのだろうと想像はついた。わたしと響くんの関係を思えば尚更。

 俯いて黙ってしまったまま三棟の四階に昇ると、傾き始めた西日が向かいの廊下の窓から目に刺さった。すぐに顔を背けて廊下の日陰に逃げ込み、部室の掃除の進み具合を窺う。発声練習や稽古で大声を出す都合上、演劇部に専用の部室はなく、校舎の隅っこの四②という棋譜みたいな名前の空き教室を流用している。四②は準理数クラスの生徒が掃除当番を任されていて、やっぱりまだ男子生徒が廊下を自在ぼうきで掃いている最中だった。男子生徒の声が四②からも四①からも聞こえる。わたしは響くんとまだだねなどと言葉を交わし、退屈をまぎらわしに理数科の生徒が掃除する四①に何の気なしに顔を向ける。

 何もかもが一瞬途切れた。

 一人の女子生徒に、目を奪われた。

 両手を胸の前で組んで片膝を折り、光差す方へ祈り願うように俯いている。

 思慕、憧憬という耳慣れない単語が思い浮かぶ。パイプオルガンとステンドグラスがよく似合いそうな、そんな気がした。

 黒い二本の三つ編みを前に流して、上睫毛と下睫毛が重なっているのがわかる。表情は真剣そのもので、なにか痛切さ、苦しさを感じさせた。何に祈りを捧げているのか、何を願っているのか、そうしたあらゆる背景が無限に広がっているような、でもそのどれでもないような、まるで願いという題名の美術品みたいにそこにいて、物言わず微動だにしない。

 芯が真っ直ぐ通ってぶれず、震えも髪の揺らぎもない。日の光を正面から浴びている構図、横顔でもわかる端整な顔立ちとポーズ、古風な紫紺の女子制服や髪形と相まって、一枚の鮮やかな画として完成していた。

 幻想的な光景に目を奪われて詩人になった気分でいると、隣で効果音が鳴った。わたしは我に返り、響くんがこの光景を視界写真に収めたのだろうと風情のない撮影音から悟る。


「やっぱり自動モザイクかかるか。残念」


 わかりきっているはずのことを呟く響くんをよそに、わたしはまだ冷めやらない余韻に浸ったまま、言葉を失って目の前をぼうっと見つめている。

 すると、教室掃除中の男子生徒たちのやりとりが聞こえ、不調和の感覚を覚えた。状況を考えれば異質なのはこの芸術絵画みたいな女子生徒の方なのに、わたしにはむしろ彼女こそが自然で美しく、普遍的な存在のように思えた。

 美人、という単語をシンプルに体現する彼女が同じ演劇部の部員だと頭でわかってはいても、見つめれば見つめるほど言葉では捉えきれなくなり、よく似た別の誰かのような気がして背中がうすら寒くなった。

 西日を浴びる女子生徒が、音もなく顔を上げ、瞼を上げる。お下げをわずかに揺らしながら、首を回してわたしたち二人を向くと、黒い瞳がゆっくりと動いて、響くんを、次にわたしを、見つめる。こちらが緊張とじれったさそのままに見つめ返すと、そのひとは待って、ためて、やっと唇を動かす。

 何も聞こえない。

 目を見張って彼女を更に見つめる、丁度その時。


「またお逢いしましたね」


 声が遅れて聞こえてきた。わたしが困惑していると、響くんが声を出して笑った。


「いさしかぶり」


 響くんがなっちゃんの奇妙な挨拶に乗ってしまった。思わず二人を交互に見ると、響くんは面白そうな表情のまま学生鞄をクッションにして壁に寄り掛かった。

 なっちゃんが響くんに神妙な顔つきで口を閉じたまま見つめる。


「ここではやまとの言葉で話せ」


 声だけは不自然にはっきりと聞こえてくるものだから、響くんがまた笑って、日本語だよ、と応えた。わたしはまだ状況が理解できないまま二人を順番に見るけれど、うまい言葉が出てこない。

 なっちゃんがわたしを見て、大袈裟に肩をすくめた。


「腹話術だよ」


 やっと普通に喋り、オーラが薄れる。呑気で明るい表情になり、ようやく彼女はわたしが知る、いつもの草凪(くさなぎ)和沙(なぎさ)に戻ってきた。響くんは、声には出していないものの、まだ笑っている。


「楽しんでもらえたようで嬉しいよ」


 なっちゃんがおどけると、響くんは深呼吸を始めた。時々震えて笑いが再発する様子を見てようやく、わたしは深い息を吐いた。


「…………今のは、なに、なんだったの結局」


 横からハスキーな声が入ってきた。振り向くと、わたしが言おうとしたことを、苦笑を浮かべた理数科クラスの女子生徒が自在ぼうきを持つ手を止めて代わりに質問していた。少し背が高く髪はダークブラウンのポニーテールで、おでこの広い子だった。確かに、なっちゃんがそういうことをする子だとわかっていても、掃除中の持ち場でお祈りをしていれば気にもなるだろう。そう思いながら本人を見るとなっちゃんは、なんだったんだろうね、と肩の力が抜けるようなことを言った。


「いい感じに日が傾いてきてたからそれっぽいポーズを取って待機してたんだけど、夕陽の綺麗な色になるまであと四、五十分くらいかかりそうだったね、今見ると」


 あっけらかんとして言われてしまったので、わたしは理解が追い付かずに何も言えなくなってしまう。なっちゃんのクラスメイトがため息をついた。なっちゃんはちょっと楽しそうに笑う。


「それでまぁ、待ってるだけは暇だったから、次に来た人を驚かせてみようと思って待機してたら、二人が来た」

「掃除の邪魔ではなかった?」


 響くんが震える声で女生徒に聞くと、かなり気は散ったかな、と返ってきた。なっちゃんは、失敬失敬、と片手を挙げる。わたしは遅れて尋ねた。


「……お祈りのポーズは、なんで?」

「あんまり似合ってなかったかな。なら今度はなんか別の考えるよ」

「いや、似合ってたというかすごく真に迫ってたと思うけど、そういうことじゃなくて」


 じゃなきゃ写真なんて撮らないだろうし、と響くんに視線を送ると、笑いの発作はほとんど治まっていた。


「響くんは、なんて言ったの?」


 話の矛先を変えると、予想済みのように響くんは答えた。


「いさしかぶり」

「ほんとに日本語なの?」

「そうだよ」


 そう返事をする声は、笑い疲れたのか、少しトーンが低い。


「方言」

「っへーっ…………」


 なっちゃんが本気で感心するように響くんを見る。わたしはまた深い息を吐いた。


「二人が本気でふざけると、ついていけないや……」

「ミスターとやっさんがふざける分にはいいの?」


 なっちゃんが聞いてくるけど、聞かれても困ってしまう。


「あの二人は、想像つかない」


 そう返し、自在ぼうきを持つ女生徒に遠慮して少し距離を取る。掃除を再開した彼女は廊下中の綿埃を一か所に集めながら、なっちゃんに話しかけた。


「物まね完全再現できてムーンウォークできて腹話術できてとかさー、もう実質手品師か芸人だよね」


 なっちゃんの奇天烈な特技は理数科でも知られているらしかった。物まねに関しては今初めて聞いたけど、できるんだろうなあという信頼がある。なっちゃんはなぜか自信満々に右手の人差指だけを左右に振って訂正した。


「超天才美人マジシャンと呼んでいただきたい」

「呼ぶのはいいけどさー、いや、実際美人だと思うけどそうじゃなくてさ」


 女生徒が意味ありげに口ごもって言い淀む。


「自分で超天才って言うのはつらくない? ほら、実際超天才美人な研究者がマジでいたしさぁ」


 このひとが何を言わんとしているかはわたしにもわかった。二十年以上前、今のDR技術がインフラとして確立する少し前に、夢保存と感覚再現のしくみを技術統合して有名になった、榊詩織というなっちゃんと瓜二つの綺麗な人がいたのだ。その人は病死した後、その功績と容貌の美しさを理由にデジタル疑似再現され、今でも夢の塔BABELの女神と祀られている。

 生き写しといっても過言ではないほど自分そっくりなAIが夢の世界でマスコット化してやたら愛されているのに、それでもなお超天才美人を名乗るなっちゃんは、並大抵の胆力ではない。

 そんななっちゃんは、一瞬複雑そうに視線を下げてから、顔を上げて穏やかに微笑んだ。表情はいっそ安らかですらある。


「R.E.M.はもはや榊詩織のコピーですらない、偶像、似姿。でも、私は本物です」


 胸に手を当ててそう言い聞かせる優雅で理知的な表情は、しかし奇しくも、夢の女神そのものだった。


「固有性を喪失した本物の行方って言葉はご存知だよね、わさなぎさん」


 響くんが難しそうな話をし出すと、なっちゃんはにやりと笑って今の印象が吹き飛んだ。真面目にしていれば美人なので思わずどきっとしてしまうけど、演技をしていない素はこちらなのだ。こっちもこっちでたまにどきっとはするけど。


「勿論ご存知ですよ、その元ネタまで含めて」


 意味ありげな答えを聞いて響くんは満面の笑みを浮かべ、いぇーい、と掌を高く掲げる。陽気にハイタッチしようとする響くんをなっちゃんはかわして、おさわりはだーめーよ、と子どもをあやすようにゆるゆると首を横に振った。響くんは気を悪くする様子もなく、悪いね、と引いたけれど、なっちゃんの表情が一瞬こわばったのを見逃さなかった。

 掃き掃除を終えたのか、女生徒が声を出して息をつき、話に加わってくる。


「君……鏡名(かがみな)くんだっけ。漫画とか読むんだ?」


 響くんは薄笑いを浮かべたまま端的に、読むよー、と答えた。ほぼ確実に初対面であろう相手が自分の名前を知っていることも意に介さない。響くんは成績でも素行でも有名人だからわたしも特に気にはしない。


「ありがたいことに、繁原(しげはら)市の図書館は中神内人(なかがみうちひと)の全作品を網羅してくれてたからね」


 そう言い足したのを聞いて女生徒はへーっとかすれ気味の声の調子を上げた。


「地元のひとなんだ」


 初対面らしい二人が本格的に話し始めようとしたところで、中年の先生が手で割って入った。低く渋い声で、ちょっといいかな、と止め、四①掃除の確認号令に来た。


「古畑さん、挨拶だけ先に」


 掃除が終わったらしい教室に入るよう一旦促されて、古畑さんと呼ばれた子が会話から離れる。古畑さんが男子生徒たちのいる四①に先生と入ると、私たち三人の間に一呼吸分の沈黙が訪れた。すかさず響くんは笑みを浮かべたまま淀みなく喋り出す。


「おさわりはだめよで思い出したけど、みこと。こんな実験研究がある。幼い時期に愛情のある触れ合いや呼びかけを十分に受けなかった子どもは、ストレス耐性や後天的免疫が不十分で、六歳までに死に至るらしいんだ」

「…………なんでこのタイミングでそんなこと私に言うの?」


 よりによって響くんが、わたしに!


「知っておいた方がいいかと思って」


 大真面目な顔で言う響くんに、なっちゃんも真面目な表情で尋ねる。


「フリードリヒ二世の赤ちゃん実験ってやつですか」

「そう、わさなぎさん、よくご存じで。フリードリヒ二世が実際に行わせたかどうかは諸説あるけど、そういう実験結果が後世に残っているんだ。他にも20世紀初頭の北米の小児科医がまとめた、合衆国全土のさまざまな施設の幼児の死亡率に関する報告や、類似した動物実験がある。思いやりのある接触を幼児期までにたっぷり受けた動物は、落ち着いていて友好的で、免疫系と生理機能に優れ、ストレスの対処が上手い。反対に思いやりのある接触が不十分だと、食事と保護が十分でも、いらいらして攻撃的になったり、おどおどして神経質になったりするんだって。だから可能なら、ベビーカーより抱っこやおんぶ紐の方がいいらしい。……って、第二種保護者免許の初年度の参考書に書いてあった。保育士を目指すなら覚えておいて損はないと思うよ」


 唐突に重要な情報を振られるのももう慣れていたけれど、思い当たる節があって返事に戸惑った。視線でなっちゃんに助け船を求めると、動揺しているのかあからさまに大袈裟な身振りでわたしを見る。大きく片足を引いて正面から向かい合う形になり、眉を思い切り上げたひょうきんな表情で、保育士、とまた声を出さずに口の動きだけで聞いてくるものだから、こっちが恥ずかしくなってつい響くんの袖を手で払った。言わないでよ、と小さく呟くと、響くんは面白そうに、悪いね、と答えてなっちゃんに顔を向けた。


「今さっき将来のお仕事について話しててね。わさなぎさんはさっきの話から推察するに、超天才美人のままマジシャンになるの?」

「芸事は、学生の遊びとか隠し芸でやめておきたいかな……お寺のこともあるし」


 なっちゃんの冷静な声に混じって、教室からありがとうございましたと号令が聞こえた。二人につられて視線を向けると、喋りながら男子たちが出てきて、当番七人のうち女子は先ほどの古畑さんひとりだけだった。みんなそれぞれなっちゃんに視線を向け、軽く話しかけたり挨拶したりしながら通り過ぎる。理数科って女子少なくて大変そうだなぁと思いながら古畑さんに挨拶して見送り、先生が今度は四②の確認号令に行くと、三棟四階のこちら半分は静かになった。

 響くんはおもむろに廊下の一角に積まれた演劇部の備品入り段ボールの覆いを剥がし、一番上から『元気厳禁』と書かれた小さなひも付き看板を取り出して、四②教室の手前の出口横に引っかけた。これでここは空き教室から演劇部の部室に切り替わった。

 準理数クラスの人たちが号令を終えて出ていった後に三人とも中に入り、適当に座って残る部員二人と顧問の先生を待つ。わたしはふと思い出して尋ねた。


「そういえばなっちゃん、今日は写真部は行くの?」


 帰る前、同じクラスの写真部の子が今日は臨時で集まりがあると言っていたのを聞いたから、兼部しているなっちゃんもそっちに顔を出すのだろうと思っていた。けど、こうして演劇部の方に来ている。なっちゃんはきまりが悪そうに首を横に振った。


「途中退場しづらくなるから行かない」

「君なら行けるさ」


 響くんが面白がって笑う。


「写真部でも文芸部でも、好きなところに行って、お土産だけたかってくればいい」

「そう言われるとわるい後輩だな」


 なっちゃんが苦笑いすると、響くんは右の掌を上に向けた。


「その点うちの部長はいい先輩だよ。お土産買ってこないって前もってわかってるんだから」

「まあ、修学旅行行ってないからね」


 なっちゃんの冷静な返事に、響くんがつと出入口に振り向いて呟いた。


「今月ってやっさん部長、掃除なかったよね?」


 まさにそう口にした瞬間、からんという看板をひっくり返す音が聞こえた気がした。振り向くと戸の向こうに背の高いシルエットを見つけて、来たなと響くんが悪そうな顔でにやりと笑う。

 戸を開けて、部長の星野夜宵(やよい)先輩が入ってきた。後ろ手で戸を閉めて、猫背のまま長い黒髪の間からわたしたちを見下ろす。そして、片手に持っているビニール袋をわたしたちとの間に掲げた。


「土産だ」


掲載日 2023年 11月02日 21時00分


修正 2023年 11月05日 20時45分 サブタイトル表記変更


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