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4 天の光はおよそ偽⑨

 アラームは定刻通りに鳴った。日付を超えてから30分。オリオン座流星群の極大の30分前だった。

 起き上がり、窓を開けて夜風を確かめる。十月下旬の今日は暖かい。幸運にも雲一つないので、明日は放射冷却で冷えることだろう。着替えついでに念のためセーターを着て、反射たすきと懐中電灯を装備し、ホログラスをケースごとポケットに忍ばせる。レジャーシート片手は不自然だが、この格好ならさすがに補導はされまい。

 忍び足で部屋を出て、軽く口をゆすいで台所で水を控えめに一杯飲んで、ようやく玄関を出る。静かで、薄ら暖かい夜だ。

 半月が煌々と夜の静まり返った街を照らしている。あたしは歩きながら呟く。


「やっぱり月が出てちゃ観測には向かないよな」


 こんな名前なので、夜は好きだ。こんな苗字なので、星も嫌いではない。流星群は、本音を言えば楽しみだ。……夜の星空を見る機会など、もはや意味はないとしても。

 空を見上げても、街灯と月の光で星はあまり見えない。中学生の通学路なので、地方の田舎でも夜は多少明るい。この時間帯に通る車や人はなく、時々何か空で瞬いたかな、と思うと、夜の飛行機や人工衛星、さもなくばドローン。そういうこともある。

 リンクステラシステム。

 膨大な量の通信衛星によって実現した、地球上の人類活動領域の屋外非圏外化という通信革命。

 その代償として失った星空と天文学、そして宇宙開発事業の四半世紀後退。

 誰も使わなくなった狭い公園に入り、滑り台を上る。ここからならせめて、街灯の光も遮れるだろうか。

 そのままレジャーシートをスライダーに広げ、滑り出す直前で腕をひっかけて、斜めに寝そべったまま空を見上げる。

 静かだ。

 静かなこの時間が好きだった。普段ならDRに逃げ込んでインナースに引きこもるところだが、今日なら大手を振って夜を歩くことが許される。

 ぼんやりと寝転んでいても、そう簡単に星が流れるものではない。視野を広く取って、全体を見るようにゆっくりと気を鎮める。

 深夜の安全を見守る街灯。ちかちかと点滅を繰り返す空の人工物。夜を照らし星明かりを弱める半月。時折、鮮烈な光が走っては消える。

 せめて新月ならば、と思いつつも、人工光に遮られるより諦めはつくか、と小さく息をつく。

 星はいい。俗世間の雑事に煩わされず、いつでも燦然と輝いている。

 遥か古に発した光が何億年もの時を経て今ここに届いている。それは当然のことながら感慨深い。見えるのは近くにある星の反射光や遠く強大な恒星の光だけだ。そこに思いを馳せれば、人が一生のうちに知りうる人や遺物の数に似ている気がしてくる。歴史上人間などいくらでもいたはずだが、記録に残っている者はほんの一握りだ。遺跡や書物だって歴史上何度も葬られてきた。ごく少数の偉大なる光だけが後の世に語り継がれ、ちっぽけな光はより大きな光に隠れて瞬く。

 今では光さえ偽造は思うがままだ。捏造だの剽窃だの、やれ整形だやれAIドールだと、光の正当性が揺らぎ続ける。編集された追感は実在しない現実を語り、加工され尽くした夢動画は無修正の虚妄を撒き散らす。血の繋がった我が子を優秀にするべく親とかけ離れた他人の遺伝子を組み込まれるパラジナムもいれば、人工臓器や義肢を取り換えてテセウスと自虐する者もいる。虚構と現実の壁は見えなくなり、AIも義体もヒトと区別はもはやつかない。

 あの空に、本当の星はどれだけあるのだろうか。

 感情や思想が厭になると、星が心を落ち着かせる。だからあたしは、インナースより夜空が好きだ。

 流星が見えない時間が続くと、連想や物思いが捗ってしまう。

 今の文明が滅んだら人類はもうここまで再発展できない、そう言われて久しい。

 なのにまだ、人の争いが終わる気配はない。

 民族と宗教の歴史的怨恨を政治的対立と資本主義が煽り立て、今も地球のどこかで何百もの血が無為に流れる。

 うんざりだ、と思う。


「地雷とかテロとか俗語にすべきじゃないよな、本来」


 自嘲交じりに呟いた。常に気を付けていないとあたし自身も、いつの間にか毒されてしまう。あまり強く死を連想させる言葉を遣うべきではない、という鏡名の注意も、そういう意味では正しい。

 ニイジュク。東アジア。中東。東欧。……思いつくのが東ばかりだが、極西から見ればどれも東だろう。他にも報道はあったかもしれないが、そこまで真剣な考え事でもないので一々思い出さない。

 宇宙船地球号の言葉を有名にした書籍と共に生まれた子供が、ひ孫を持つ齢になった。それだけの歳月が過ぎてもなお、今を生きる人間は何も学ばない。歴史を顧みない。変わる機会すら与えられない。

 草凪は入部前、生まれが少し違えばどんな人生を辿ったかわからない、だから偉そうなことを他人にあまり言う気にはなれない、とあたしに話した。罪を憎んで人を憎まずは殊勝な心掛けだと当時も今も思うものだが、人類の9割9分に想像力と思慮深さはない。むしろ、本能的に気付いてしまうからこそ、争いは加速するのだ。

 痛みへの気付きは、過激派を生み出す。闘争と逃走の二極へ。戦争も、恋も、技術革新も。戦い貶め踏みにじるか、嫌がり身を引き遠ざかるか。

 生存とアイデンティティの危機に陥れば、人は容易く極端に走る。

 流星が一条の筋を作って、消えていった。なんと鮮やかで、潔い在り方だろう。

 余裕がなければ殺し合いが起こり、余裕があれば利益分配で揉める。自然は強欲だとは、よく言ったものだ。

 差別について考える会だの義体体験学習だの、義務教育で色々とあったが、追感は所詮他人事で、子供には物珍しい娯楽でしかない。切実な実感には永久になりえない。

 自分への恐怖や警戒がなければ、痛みを伴う体験からも何も学べない。凄惨な過去も積み上げられた業も、すべてよそよそしく過去にしてしまう。文明人には関係ない、野蛮な頃の昔の話だと一蹴してしまう。

 ヒトはまだ、争いを過去にできてはいないのに。

 散漫になった思考は、不可逆性理論と世界史を雑に結びつける。

 老いた生命は枯れ衰え、老いた文明は膨れ上がる中で渇いていく。さながら星の如く。やがて彼らはその寿命を全うして、質量に応じた末路を辿る。強すぎる光はその重みに押し潰され自壊し、全ての光を呑み込まんとする。強い光は一気に爆散してコアだけを残す。星には分相応の死に方があるのだ。人間は精々白色矮星よろしく、結びつけられた情報を(ほど)いて少しずつ縮み、最後には物言わぬ姿となり、死ぬ。


「生けるものは結び合い、絶ち切って死にゆく」


 それはまるで、ヒトが一生をかけて学び自らを覆い尽くしてきた記憶や教養が剥がれ、干からびた体に赤子の精神と邪悪な知識だけが取り残されるようだ。学習した経験が少しずつ失われ、結局は遺伝子と痛みの蓄積だけが残る。まだ若いあたしには想像もつかないが、それは途方もなく恐ろしい責め苦のように思える。長生きすることに意味があるようにはとうてい思えなかった。


「昔の方がよかったんじゃねーかな……」


 思わず弱音が口をついた。輻輳と錯綜を繰り返し高度に複雑化していく情報通過社会のシステムでは、個人さえ消費の対象として幾らでも使い捨てられてゆく。建前では自由と体験を謳い権利を重視するようだが、そのためにあらゆる人格も行動も見世物と化し、監視と関数化で雁字搦め。さらに水面下で似た者同士を寄せ集める習合知、五感や感情や知性を搾取する産業構造を見るに、先行きは暗い。進歩をお題目に掲げた拡大と侵略の歴史を繰り返すが如く、実態とは裏腹に矛盾ばかり深めてゆく。


「不便な時代には戻りたくない、けどな…………」


 何もかも人類には早すぎたのだ。いや、人類の大半の愚者には。

 星を眺めているのに我ながら下らないことを考えている、と自嘲が漏れた。せめてもう少し風が冷たければ考えずに済んだだろうにと思うが、言っても詮無きことだ。


「はぁーっ…………」


 まだ息は白くならない。当たり前だ。冬に雪が降ることもない町の、まだ十月下旬。


「月が明るすぎるな…………」


 太陽光の照り返しごときが、我が物顔をして夜空を照らす。

 また星が流れた。今度はくっきりと、燃えている音まではっきり聞こえた気がした。

 賢者は学びたがり愚者は教えたがる、という諺に恒星との相似をこじつけることもできる。それは些か牽強付会に過ぎるだろうか、と塚原進路は書いたが、あたしは否定する。



 ***



 次に流星を見たら帰ろう、と思ってから数分が経った。人工衛星なのか本物なのかはっきりしないことに不満を抱えながら、諦めて上半身を起こす。明日は休日なのでもっと見ていても構わないのだが、これ以上は費やした時間に対して満足が得られる気がしない。切り上げてレジャーシートなどを回収し、公園を去ることにした。

 ふたご座流星群の頃にあたしが乗るまで、誰かこの滑り台で遊ぶのだろうか、とくだらない想像を置いていく。あたしやその前後の世代はバベル景気でベビーブームと言われていたが、経済的事情で子供を諦めていた層が1人目を出産し終えると、結局また緩やかに少子化に戻っていった。親世代の高齢化による育児負担もさることながら、高齢出産による遺伝子異常の治療には多大な金額が必要だからだ。当時の掲示板やブログを掘り起こすと、健康優良児は贅沢品という記述が目に入る。

 保護者免許法と学歴ショックを経て教育コスト問題がどれだけ緩和されたのか知らないが、ベビーブームの波が去った後に特殊出生率が2を超えたという話は聞かない。学歴の要らない社会を作ったところで、学歴はあるに越したことはないのは同じだ。それに何より、自由恋愛という名の刹那主義と権威主義を刷り込まれた連中が、結婚と子育てなんて責任を地道に負いたがるはずがないのだから。

 明るい夜道を歩きながら、連想はシームレスに移行する。

 演劇部でも今日は、恋愛劇の企画に決まって、帰りは友情と恋愛みたいな談義ばかりしていた気がする。恋愛禁止という統一された見解を持っていてすら面倒な話題なのに、禁止されていなかった上の世代は本当に地獄だっただろう。特に、色狂いで放送部との亀裂を生んだ代はなおさら。

 ふと、合宿で、鴾野を含めた一年生の優秀組4人が話していたことを思い出す。曰く、演劇部は性質的に異常者の集まりになって当然なのだという。

 目立ちたい、脚光を浴びたいという欲求はさておき、恋してもいない相手に真剣に愛をささやき、何の恨みもない相手を切実に仇と憎み、必要があれば抱擁も侮辱も厭わない。そういった人間と人生そのものの衝動を無から創造し、他人の人生を心から歩んで表情や動きで見せる。それが常人にやってみろと言ってできるわけもなく、まぎれもない才能の世界となる。適性を持つ者は自然と自分を飼い慣らすか逸脱するか、さもなくば狂気()に呑まれる、と。

 あの時は、詐欺師の才能に話題が一瞬移り、舞台俳優と映画俳優と声優の表現の違いに発展していた。4人とも感情的になることもなく、なんとなく自覚しているような雰囲気だった。あれは、精神的に成熟しているからというよりは、クローンだの義体だの生き写しだの施設育ちだの、アイデンティティに強烈な揺さぶりをかけられ続けている連中ばかりなので、多分どこかに共感じみた連帯感でもあったのだろう。

 なら、他所ではどうなんだろうか、とぼんやり思う。参考にしようにも先生以外の伝手はないし、演劇を題材にした作品にもあたしは興味を示してこなかった。流行りの作品であらすじを見かけることはあっても、演劇を創作で扱う意義、あるいは学生演劇のテーマや価値を見出だせるほど深掘りしている気はしなかった。たいていは恋愛の味付けか、部活動に賭けた青春。

 青春か、と内心で毒づく。黄昏時の別れと、宵闇の引用が脳内で結びつく。天空文庫の坂口安吾、『暗い青春』のフレーズが脳裏に蘇る。


『青春ほど、死の翳を負ひ、死と背中合せな時期はない。人間の喜怒哀楽も、舞台裏の演出家はたゞ一人、それが死だ。人は必ず死なねばならぬ。この事実ほど我々の生存に決定的な力を加へるものはなく、或ひはむしろ、これのみが力の唯一の源泉ではないかとすら、私は思はざるを得ぬ。

 青春は力の時期であるから、同時に死の激しさと密着してゐる時期なのだ。人生の迷路は解きがたい。それは魂の迷路であるが、その迷路も死が我々に与へたものだ。矛盾撞着、もつれた糸、すべて死が母胎であり、ふるさとでもある人生の愛すべく、又、なつかしい綾ではないか。

 私の青春は暗かつた。私は死に就て考へざるを得なかつたが、直接死に就て思ふことが、私の青春を暗くしてゐたのではなかつた筈だ。青春自体が死の翳だから。』


 坂口安吾は、死んだ文芸同人3名の回顧と共にこの文章を書いた。こうも書いている。


『青春は暗いものだ。

 この戦争期の青年達は青春の空白時代だといふけれども、なべて青春は空白なものだと私は思ふ。私が暗かつたばかりでなく、友人達も暗かつたと私は思ふ。発散のしやうもないほどの情熱と希望と活力がある。そのくせ焦点がないのだ。』


 そう書く安吾自身には、書かずにはいられぬような言葉も書かねばならぬ問題もなかったらしい。その彼岸の情熱の3人と此岸の自分という構図に、演劇部の一年生3人とあたしを重ねてしまう。夢方もどちらかといえば、あちら側だろう。

 街灯と街灯の間、ちょうど影の落ちる場所を通り過ぎる。

 死。

 人口動態統計の最新版では、未成年者の自殺件数が更新を続けているという。ベビーブーム世代で『若きウェルテルの悩み』が流行っているという話は聞かない。だが、追感規制で15歳の壁を超えた連中が社会的な格差に直面して絶望しているとか、幸せなうちに死にたいとか、同世代が増えた分だけ全国高卒試験の競争が激しくなるからリタイアとか、推論の材料となる弱音はwebニュースで目に入る。シルバー民主主義や年金制度の意義への憤りや悲嘆もコメント欄で同意票を集めている。個人的理由よりは、社会的事情が大きいのだろう。

 あたしは身近に死んだ人を知らない。父方の祖父母は存命で、再婚した母方の祖父母は既にいない。

 草凪は寺生まれであるからには、墓参りの檀家をしょっちゅう目にするだろう。

 塚原や鴾野、千道と角成は、万才で後輩の遺体を目撃している、と変人脈で読んだことがある。さらにいえば塚原は万才で育ったので、殺人冤罪事件と直接の関わりはないはずだが、物心つく前に塚原進路の死に立ち会っている。

 夢方に関しては知らない。鏡名は児童養護施設にいながら電脳化していて、あの性格や成績なのを考えると、こちらも保護者か家庭が訳ありだったのだろう。

 案外、この世界は死で満ちている。考えると、食事も生物の死を前提にしている。

 今は淘汰の時代なのだろうか。最近そう思うことが増えている。

 たわいないことを考える間に、家に着いてしまった。

 今から眠れるか、夜更かしでもしてしまうか。



 ***



 ポケットから取り出したホログラスのケースを勉強机に置き、部屋着に着替える。恵さんがくれたこのハニミルとかいうブランドのパジャマは、手触り肌触りはいいが、むやみやたらにかわいいデザインだわ静電気がひどいわで、着脱の最中にむずついて困る。敏感肌ではないとはいえ、静電気は、ホログラスやギアプラスを扱う際には非常に困る。

 まぁ、あたしに合うサイズがレディースにはめったにないのにわざわざ注文してくれた気遣いに感謝しているので、静電気防止グッズを自分で買ってこうして着ている。あたしがこういう性格なのは別に、かわいい服が着れない体格で拗ねてこうなったわけではないので、デザインはもう少し落ち着いているとありがたいが。

 時計を見ると、ちょうど丑三つ時だった。腹が大きい音で鳴った。ホログラスは眠れなくなるから嫌いだがやむを得ない。ホログラスをケースごと手に取り、台所に向かった。

 夜食用のテープが貼られているお茶漬けの素を引き出しから取って、冷凍白飯を電子レンジで解凍しながら電気ケトルで水を沸かす。待っている間にホログラスをかけて、起動した。

 ホログラスは元々眼鏡型電子端末の総称で、狭義にはホロジェクト社が開発する幽体機能を備えたものを指す。ARやMRと表象工学を連動させて簡単な幽体離脱気分を味わったり、ホログラスを装着した自分の顔を真正面から見てファッションコーディネートやメイクなどに活かすという代物だ。体熱充電機構とweb広告排除によってシェアがスマートフォンを突破したのも束の間、開発競争の最中に、ユーザーが幽体離脱から戻ってこれなくなる事件が起きて自滅した。ホロジェクト社は幽体事件の後、GONSを擁する大海原(わたのはら)一属の傘下に入り、幽体機能はDRのインナースや電脳体でのみ使用されることとなった。そして、ホロジェクト社の特徴的なUIであるAREX(アーレックス)は、DRでもDAREX(ダレックス)として流用され続けている。

 宙に浮かぶウィンドウに表示されたアプリの中から、上向きに螺旋を描く矢印のアイコンを探してタップする。

 人格関数エンジン(PerFE)が起動し、ホーム画面が出る。おはなしづくりを選び、特にどんな既存キャラを利用しようという気もないので、そのままアーキタイプに進む。基本人物像に味付けをして個別化というオーソドックスな手法だ。登場人物に文脈が付与されるほどキャラクターベクトルがはっきりしてくる構造上、シンボルや役割、対比などの入力欄が充実している。

 どんな奴らを出そうかという段になって、少し考えあぐねた。サンタと恋する男子と美少女は欠かせない。どんな役でもうまくやる草凪と男子2人なら、大概の芝居はこなせるだろう。草凪の女神ごっこと茶目っ気は言わずもがな、塚原は素の性格と乖離し、鏡名は素の性格のままのような演技を見せる。男どもはそもそも人としてのスタイル自体が、言うなれば水と炎のようなものだから当然と言えば当然だが、その辺りは演劇というか、個性の不思議なところだ。

 キャラクターの人物欄は、今回はほとんどパスした。ジャンルが決まり、あとはテーマを設定すれば、自動的に最適な幾つかのあらすじが出てくる。登場人物が少ないと時間は短くて済むが話のバリエーションが制限される、という難点はあるが、20分程度の内容であまり込み入っていても困る。

 適当に三人の登場人物を配置し、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンのように決められた到着点へとひたすら転がしてゆく。

 キャラクターという名の矢印がぶつかり合い、そのたびにストーリーの進行方向が変わっていく。

 山あり、谷あり、横道あり、逆戻りあり。仮想空間で繰り広げられる彼らの物語は迷路に似ている。初めからいる者、途中参加する者、脱落する者、辿り着く者。役割は個々の人格と関係性によって大きく異なり、適当な二人の配置を入れ替えるだけで完成形は大きく変動する。途中で人物や出来事を追加・削除すれば、あみだくじに線を足し引きするようにゴールを変更することも容易い。面白くなるように配置して誘導し切り取る。言うは易いが行なうは難い。幾つかパターンを変えて、同時並行で生成されるシナリオの完成を待つ。

 電気ケトルが点灯したのを見計らって、大きめの椀に白飯を入れ、箸で軽くほぐしてお茶漬けの素を振りかける。そして沸いた熱湯を注ぎ、ホログラスのレンズが曇らないよう脇にどけて手を合わせる。


「いただきます」


 便利な世の中になったものだ。

 充分にフレーバーが湯に溶け出してから、箸で少しずつ引き上げ、何度も息を吹きかけて口に運んでいく。

 温かい。

 PerFEの使い勝手の良さが生んだカオスの効用は計り知れない。人格分析や電脳体管理に留まらず、初期条件の微細な差が後々予測不可能な結果を引き起こす例を意味する歴史シミュレーション『Butter-Fly Effect』や、自作の軍隊を構築・対戦する『Command0』が地政学・組織マネジメント・戦術研究に取り入れられたりなど、家庭用ゲームなどを通じて社会学方面へも大きく発展した。

 不可逆性理論によれば、記憶と予知は本質的には区別がつかない。ただ記録という存在の痕跡だけが、過去を確かなものとして実在せしめる。そして、時に記録そのものが未来の予言にもなる。歴史は繰り返すというトゥキディデスの言葉も、帰納的に導き出された科学の法則の存在も、ある意味では同じ方向を向いていると言えるだろう。より確かなものを求めて普遍性と再現性こそが真理であり神だと信奉する一方で、ランダムから生まれるカオスを娯楽として楽しむのも人の性だ。

 便利だと言ったが、箸を止めてホログラスをかけ、幾つか読んでみては、鼻白む。


「…………めんどくせえ」


 当然、投げかけられた光が落とす影もある。

 PerFEはその発展性・応用性・拡張性諸々において優れていた。しかしその設計思想の根幹たる「描写に勝る設定なし」という方針が裏目に出て、どこまで多機能になろうとPerFEには、「登場人物一人一人を重んじる」という補うことのできない欠点が存在した。それはつまり、ストーリー優先でキャラは薄くてもいいというスタンスを拒み、人物を作るためにその価値観を多面的に入力し続けなければならないことを意味する。言ってしまえばモデルがいる二次創作向きの機能であり、オリジナル制作には不向きだ。要素入力で食い合わせを間違えれば、支離滅裂な言動を繰り返す人格破綻者や奇っ怪な狂人が多発することとなる。こんな風に。


「ボツ」


 あたしの都合で生まれてきた彼らは、口先ひとつでまた跡形もなく消え去って行った。

 かすかな感傷と罪悪感を振り払って、すぐにまた再入力を始める。今度は矛盾をきたさないように、慎重に。

 また食事を再開する。

 中神内人がPerFEを利用して小説を書きデビューしたように、使いこなせればリターンは大きい。だがその中神内人はPerFEを巡る騒動も巻き起こしており、提起された社会問題と論争の顛末はテキストにも載るほど有名だ。24年前の価値観は生まれてもいないあたしにはわからない。ただ、『人格関数エンジンは自動車やスマートフォンと同じツールに過ぎない』と意識づけられ、『問われるのは利用者の良心と注意力である』という運動が過熱した、とは記されている。その辺りは変革期の(ほとぼり)とでもいうべきもので、まぁ、文明の病への予防と言えよう。

 どのみち、どれだけツールが進歩してもそれを使いこなせないのなら使う意味は無い。サルがタイプライターでシェイクスピアの戯曲を打ち終える可能性が限りなく零に近いように、人でも人格関数エンジンで名作を生み出せる可能性はわずかだ。それでも成功例が確かにある以上、適切なアプローチは存在する。

 入力し直した短編三作が出来上がったと表示され、それらを読み流す。今度は削除するほどの出来ではなかったが、どれも期待したものには程遠い。


「ぱっとしねぇな」


 端的に否定した。……面白くないわけでもないような気もしてくるが、かと言って面白いかといえば。


「…………やっぱり、自分で書くしかねーのかな」


 いつもなら苛立ってくるところだが、腹の中が温かさで満たされていると、多少気が和らぐ。


「ごちそうさまでした」


 ケトルのプラグを抜き、箸と椀をスポンジでさっと洗っていく。そのまま消灯して、ホログラスケースを回収して部屋に戻る。歯磨きはもう少し落ち着いてからでいい。

 その昔にAIが将棋の定石をぶち壊したと語られるように、常識フィルターを解除すればAIの方が発想は遥かに柔軟だ。だが将棋とは違い面白さに勝利条件は存在しない以上、結局は人間サマの裁量に依存する。高校生らしいものというふわふわした基準なら実質何でもありで、無数に提示されるランダム要素の取捨選択も最後には人間性が問われる。なおかつ面白いものを求めるとなればそれはもう至難の業だ。


「大体面白いって何だよ」


 経済学的に人は、選択肢が多すぎるものに対しては考えることをやめ、「いつも通り」を選んでしまいがちだという。また、経済活動を通じて他者からのイメージを買い、消費することを楽しむ輩もいるから、味など求めない連中のために行列は長くなっていく一方だ。流行そのものが流行を正当化し加速させる事態は、文化史で散々目の当たりにしたことでもある。資本主義は欲望を消費する経済だ、と角成は言っていた。どんなに旨い霞も食い続ければ誰だろうと疲れ果て、いずれは厭になる。そこに中身は無い。

 段々考えることが嫌になってPerFEを閉じ、ウィンドウの視界追従が邪魔でついでに瞼も閉じた。そのまま仰向けにベッドに倒れ込み、両腕を広げ、ため息をつく。鮭の香りがした。少し腹が重い。

 結局、効率を突き詰めた先に幸福があるわけではないのだ。その袋小路に待つのは人間ではなく、ひどく削ぎ落とされ痩せ細った何者かだけなのだから。


「無駄の豊かさか」


 口の中で呟く。角成も鏡名も同じことを言っていた。豊かだから無駄を喜べるだけだろうとあたしは思う。今の演劇部に、無駄を楽しむ余裕は、人数的にも時間的にも、ない。

 あたしが入部した時、演劇部は既に恋愛禁止で、3年生が数人いるだけだった。2年生に上がって部員が7人増えた。男女4人ずつでバランスがいいと思ったのも束の間、男子は女子の悪評を流すだけ流して瞬く間に自主退学した。夏には2人退部して5人になった。部員の減少の理由の半分は色恋絡みで、もう半分は活動内容への不満だった。

 思い返してみると、荒河(あれかわ)はマジでカスだったな、と再確認する。鏡名の証言と鴾野の調査の結果、草凪のネガキャンが志場高校で最初に発生したのは演劇部だった。

 昨日の帰りの話のせいで、つい記憶が遡る。

 入学2日目の部活見学の日、訪れた草凪が茶道部も見たいと言って立ち去った直後にそれは始まり、翌日の放課後には1年生全体にまで広まっていたという。地元組4人のうち2人は証拠不十分・どこまで本気かわからないと訴え、本人の事実無根宣言で同じ理数科の2人が噂の信憑性を疑った。噂は噂が広まったという理由で正当化され、あるいは面白半分に、あるいは疑いの余地を残して、あるいは嬉々として話題に上る。あたしは部活見学の翌日の昼の時点で草凪側につく方に賭けていたため、詳しい趨勢は知らない。ただ、草凪を嫌う理由のある女が一定数いると聞いたこと、演劇部で中学時代の噂を蒸し返した荒河自身は異様なほど草凪に親身だったこと、塚原は冤罪なら晴れるべきだと断言したことを覚えている。その後は草凪から、噂を真に受けた茶道部員だかそのカレシだかのせいで茶道部にいられなくなった話や、写真部見学に行ったら丁度自分の噂が広まっている最中だったという話を聞いた。

 何しろ見目麗しい高校生女子の性的なネガキャンなんて、成人男性の痴漢冤罪と同程度には社会的抹殺の意志に満ちている。違うとムキになれば疚しいんだろと言われ、黙っていれば延々と拡散され続ける。大人や先輩に頼ればそいつに媚びたのかと言われる始末だ。男子の下衆な側面を刺激し、女子の薄暗い感情を煽る噂は、本能に作用して既成事実を形成する。そしてその状況こそが、噂を蒸し返した荒河の真の狙いだった。味方が擁護しきれなくなればなるほど草凪は孤立し、庇う者との連帯感と依存関係は深まっていく。周囲に敵しかいなくなれば、たった一人の味方に容易くなびく。

 だが結局、鏡名・鴾野・塚原の尽力の前にはその計画は無意味だった。草凪が言うには親友の双子姉妹も随分骨を折ったそうだが、詳細は知らない。

 噂は反転し、噂そのものが目的だったと知るや生徒たちはすぐに飽きていき、草凪のネガキャンに尾ひれを着けていた女どももこれ幸いと全て荒河に押し付けた。

 そうして荒河は自分が悪評で孤立する側に回り、自主退学した。後には無意味に有名になった演劇部の女子生徒と、真偽の疑わしい噂が残った。

 そこまでして手に入れる価値があいつにはあるのだろうか、とあたしは思う。悪意と策略に満ちていたにせよ、それが恋愛感情に起因したことくらいは理解できる。

 夢の女神に生き写しの、寺生まれの巫女。

 顔は見るからに整っている。あの初見殺しじみたネガキャンに折れず腐らず、落ち着いて振る舞う賢明さと精神的な強さがある。広く友人を作る社交性も、周囲を尊重する協調性もある。成績も現時点では上位で生徒会の女子と競い合う位置にいるらしい。空手では県内トップクラスだったと聞く。ざっと数えても、上澄みも上澄みだ。

 だからこそ疑問に思う。およそ欠点を見出だせない相手を対等に見るのは、よほどの自信家か自分が見えていないだけではなかろうか、と。少なくともあたしは、劣等感を刺激されずにいられない。

 もちろん、有性生殖における繁殖対象としては、貞操観念さえ伴えば理想的だろう。モテる奴の子は十中八九モテる、だからモテる奴がモテる。容姿の優れた男女は大抵、地位か財産か口説きに秀でた父と容姿の優れた母を持つ、だから人は本能的に容姿で人を格付けする。信頼される人間は誠実で裏表なく、夫婦間においても良好な関係を築けるだろう。どれもこれも、『存在の痕跡』にある通りだ。だからあたしは、女として人として、あいつに裏があってほしいと願い虚偽の醜聞を広めた連中の感情自体は、理解できてしまう。無論、他人の足を引っ張っても惨めになるだけだとわかっていたから関与しなかったが。

 そういうすごい奴に一方的に好かれる主人公はすごい、という趣旨の作品を書店の棚でも広告でもよく見かける。その度に、恋愛で自尊心が満たされる奴は楽でいいよな、と鼻で笑ってしまう。同時に、自己認識が他人に依存する奴はさぞ生き辛かろう、とも同情する。

 そういうことを延々と考えてしまうのは、結局あたしが恋愛を見下していたいからなのだろう。恋愛を高らかに喧伝するのは、幸せに愛し合う者たちではなく、踏みにじるために愛を振りかざす連中か、裏切りを愛と思い違いしている間抜け共だから。

 大きく深く、息を吸ってため息をつく。そして瞼を上げて、今やるべきことを思い出す。


「恋愛劇のプロット作れとか無茶言うなよな」


 しかもハッピーエンドで。

引用:『暗い青春』坂口安吾 青空文庫

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