4 天の光はおよそ偽⑦
もう既に暗くなって顔も見えない道を並んで歩きながら、あたしはこの沈黙を埋める言葉を探し始める。
部活の話? 塚原の演技は文句をつけようがない。
保健室に来てたのはJBCの取材避け? ……聞くまでもないことだ。
「沢樫先生に帰りに呼ばれてたな」
あたしはそう切り出した。塚原は簡素に答える。
「舞台では、メイクやヘアアレンジで素顔をごまかすことになりそうです」
それだけで、用件はわかった。
「……そういやお前、普段は変装とかしないで平気なのか」
「近寄られなければ、眼鏡は大半の注意を逸らします」
「ほんとかよ……」
「目立つ顔ではないかと」
そうだろうか、と思ったが、顔立ち自体はそう言える部類かもしれない。日頃から笑顔なら興味を持つ女子が学年に一人二人くらい出てきそうではあるが、こう考えが読めない不健康そうな面では、ただの疲れた男子高校生に紛れる。
「目立つかどうかで言われれば、草凪やあたしの方が目立つか」
あの顔貌やこの長身は、女子としてはどうしても視線が集まりやすい。塚原は小さく頷いて何も言わなかった。喋れよ、と思ったが、身体的特徴の話題はこいつにはまずかったかもしれない。
かといって、何か二人だけで話したいことや聞きたいことも思い浮かばない。適当に話題をでっちあげることにした。
「……草凪がさっき言ってた、寺に勧誘がどうのこうのってあれは、どういうつもりで」
「…………部長が聞いた通りです」
「……そうか」
終わってしまった。無理に聞くほど親しくもないしな、と納得していると、塚原は少し視線を上げた。
「……………………本人があの場でその話を出したので、部長にはもう少し伝えます」
どうやら、言い触らす形になるのが嫌だったらしい。塚原は、こちらに視線を合わせないまま言い切った。
「あの話題で草凪に干渉する人物たちの動向を、誘導するためです。……草凪を取り巻く複雑な状況を鑑みて、一番穏便な対外的ポーズがあの内容です」
「…………長くなる話か」
「駅に着くまでには」
「なら、聞いてもいい分だけ教えてくれ」
深入りする気もないが、どうせ、沈黙は気まずいだけだ。
塚原は、いつになく滔々と語り始める。
「前提として、草凪をからかう彼女ら彼らの思惑は、一辺倒ではないそうです。……からかったときの反応が楽しみ、見ていて焦れったい、くっついてもらった方が都合がいい、自分のおかげでくっついたという自尊心が欲しい。逆に失敗させて独占したい、誰のものにもなってほしくない、塚原は血以外に見るべきところがない」
最後のそれは、草凪が会話で挙げるとは思わない辛辣ぶりだった。恐らく塚原自身の見解だろう。説明が続く。
「……一方で共通点もあります。恋愛以外の男女の親しい関係を想像できない、あるいは想像しようとしない。この共通点を持つ人物の集合を、今後Aと総称します」
どうあがいてもコイバナにしたい、あるいは目が眩んで正常な思考と想像力が欠如した連中か。あたしは眉をひそめる。
「定義が必要な話か」
「草凪が友情と公言しても信じない人物の集合、とも言い換えられます」
もうその一言で、あいつの話が通じない連中ということがわかってため息が出る。恋愛観だのなんだのは、ただでさえ荒れる話題だ。明るくお堅い顔のいい女子が特定の男子にだけ積極的なんざ、女も男も気にならないといえば過言だろう。
「まず、草凪自身はAに対して、不用意な発言や干渉の結果をきちんと想像させ、よく言い聞かせる、という方針になりました」
「当然だな」
草凪は、自分の友人が自分をからかってくる、という言い方をした。なら、その手のことは、塚原を巻き込む前に自力で何とかするのが筋だ。塚原は続ける。
「草凪は当初、塚原は自分をそういう対象として見ていないから、というかわし方をしていました。Aは引き下がらず、聞いたら案外乗り気かもよ、と押し続けます。その論拠を崩すには、塚原が嫌がり、次の失敗は許されないと草凪に、ひいてはAに思い知らせる必要がありました」
「そういうことか」
話が読めた。応援という形で恋愛感情前提で押し付けてくる連中には、草凪の友情宣言は言葉通りには聞こえず、重い女の慎重さに見える。だからAの後押しに乗ったふりをして、こいつに口裏を合わせてもらう。元々塚原にその気がないなら、負担や面倒にはならない。
「だがそもそも、そういう目で見てないって言えば済む話じゃないのか」
「それに関しては、あちらから注意点がありました。草凪がこちらをそういう対象として見ていない、あるいはこちらがお寺に興味がないと言ってしまうと、問題が4つ発生します。……まず、一方がもう一方を明確にフる形になると、周囲からの扱いが変化します」
塚原は歩きながら指を1本立てる。
「草凪曰く、フった相手に引き続き親しく接するのは、失恋の傷に塩を塗り込むに等しい行いだそうです。また、フラれた相手と今まで通り接するのは、未練があるように映るそうです。……どちらがどちらを演じるにせよ、互いの人間的評価が下がりかねない」
言葉が止まった。あたしは眉をひそめて、小さくため息をつく。
「めんどくせぇな」
言われてみると御尤もだ。結局実態を知らない以上、見えているものでしか判断しようがない。そして、笑顔で元気よく話しかけに行く草凪と、他の誰かと話し込んでいる姿を見たことがない塚原、という取り合わせは、どうしても判断力を鈍らせる。
男女間の友情は成立する。だが、互いに魅力を感じる異性なら惹かれ合わないはずがない、という本能的なバイアスが、目の前の現実を歪めてしまう。……そして、どちらかが片方を恋愛対象として見ないと宣言したなら、単なる目的の不一致や相性ではなく、性的欲求の欠落、加えて人道的配慮の欠如に問題を還元してしまう。そして、フラれた側は憐憫の視線を一身に受け続けるだろう。
友情の維持のために、それ以外の感情を表立って否定できない矛盾。
塚原は短く頷き、2本目と3本目の指を立てる。
「次に、草凪が対外的にこちらをフった場合。アプローチを始める男子が増え、彼らに好意を抱く女子生徒たちから再び目の敵にされるようになる。あるいは、こちらが草凪を対外的にフった場合。草凪の味方であるAは、恨みを込めて塚原の陰口を始める。……いずれにしても、良き友人のまま放っておいてほしいなら」
「それで2人とも、どっちつかずの対応になるわけか」
あたしが話を引き取ると、塚原は頷いた。
女子は普通、そういうのは男子には隠すものだと思うんだが……。とはいえ、寺生まれの巫女と天才のクローンという二点が周知されている以上、あえて互いのスタンスを打ち合わせた上で茶番を演じるのも手ではある。
お互い合意の上でキープごっこというのも、言葉だけだと随分打算的で情のないやり口に聞こえるが、こいつらにとっては友情の確認の形なのだろう。
「4つめは?」
「男除けと女除けがなくなると困ります」
「……………………お前モテるの? いや、失礼のない正確な聞き方が咄嗟に浮かばないんだが、その」
草凪はわかる。あの面で人当たりがよく、真面目で成績も運動神経も上澄みだ。おまけに就職先も確保できるとなれば、ダメ元で挑みたくなる思考は、理解はできる。
つい先月の球技大会の日に、バスケ部の部長の何某があいつにフラれた話をしていたのが聞こえた。その時何某は草凪のことを、失礼のないようにきちんと気遣いながら明確にお断りしてくれるのは、傷つく分いい子だなと思う、そして余計に傷つく、と語っていた。そういうやつだから男除けを兼ねて塚原に絡みに行く、その構図は了解している。
だが、こいつはどうだ? 成績は優秀とはいえ、遺伝子のブランドを剥がせば典型的な理系男子。面自体は悪くはないが、ホログラスで隠しきれない目の下の隈。食欲不振を連想させる頬のこけ。無表情から発せられる、どんな感情も読み取れない静かな声。しかも自分からはほぼ話さない。これだけでまず女は寄ってこない。何なら男だって近寄り難い。意外なことに演技力も協調性もあるが、それが知人ではなく異性というカテゴリに対して向けられることはまずないだろう。
入学当初ならいざ知らず、こいつの人物像がある程度確立した今になって、新しく恋人に立候補するようなやつが出るとは思えない。
あたしの何のフォローにもならない弁解を聞き流して、塚原は3歩の間だけ目を閉じた。
「……草凪をフった男子と付き合えたら、草凪より女性として上に見える、だそうです」
「…………あぁ」
女同士の。
「そりゃあまぁ、そういう女はな」
草凪がこいつに向けていた笑顔の数々を思い出す。あれは単純に、楽しさや嬉しさ、驚きといった感情を共有したくて笑っていた顔だ。あれをみすみす手放して、周囲への示威行為のために笑いかけてくる女を歓迎するのは、たとえ草凪への恋愛感情がなくとも御免だろう。
塚原は、感情を悟らせない声で結論を述べた。
「総合的に判断した結果、『お寺に興味はないかと草凪が問いかけ、聞いてみただけで返事は急がないので、三年生になってからでもいいと伝えてきた。こちらは、恋愛禁止の演劇部仲間である都合上、興味があるともないとも明確に言えずに困っている』……と言うことにしました。付け加えて、『草凪に勧誘を唆した友人がいるようなので、こちらとしてはその人物に苦言を呈したい』、とも」
「…………Aの恋愛フィルターをそう使うわけか」
草凪が寺に勧誘したかもしれないと思わせることさえできれば、返事を急がないのはあいつが本気だからだと錯覚させられる。そして2人の友情は、恋愛禁止の演劇部で秘められた一途な片想いに早変わり、か。草凪はこれでこの話を終わりにできて、塚原は立場上嬉しいとも嫌とも言う必要がない。対外的な評判を気にしないのであれば、確かにほぼ最適解なのだろう。
「考えたもんだな」
「事実に聞こえるなら、打ち合わせの成果です」
珍しく、達成感のこもった口ぶりだった。思わず吹き出してしまった。2人で随分と練ったのだろう。そして、話し合い秘密を共有する姿は、傍から見るとますます親密に映ったことだろう。
あたしは深く呼吸してから、まだ笑みを消せないまま頷いた。
「部内で面倒が起きそうにないことはよくわかった。ありがとう」
ふと、自分で言ってから、部内で? と自問してしまう。部外でも面倒は起きないと断言できるだろうか。あたしは否定こそしないが、疑問を呈する。
「……だがそれで、そのAどもが黙って引き下がるかは怪しいな」
男は論理で動くが女は感情で動くとはよく言われる話だ。草凪が年単位の長期戦扱いをしても、周りが根競べに付き合い切れるとは、とてもじゃないが思わない。何しろ草凪の話を聞かない連中というのがAの定義だ。ママ呼ばわりされているあいつの躾の見せ所だが、現状維持は全方位を煽るようなものでもある。
「どうせ1か月もすればまた誰かやらかすし、来年の今頃になっても進展がなかったら、お前が悪者にされかねない。……老婆心ってほどでもないが、気を付けとけよ」
女の同調圧力は悪い意味で非常に高い。友人の恋路のためなどという名目で無理やり告白の場を設けたり、何ならオトモダチが数人で押しかけて詰め寄ったり、勝手なものだ。中学時代にたまたまそういう場面に遭遇して、遠くで聞こえただけのあたしですらうんざりしたくらいだ。その気もないのに気持ちに応えろと言われる男はたまったものではないだろうし、その気もないのに余計な世話を焼かれる女だってたまったものではあるまい。
……本気で怒った草凪と塚原相手にそこまで言えるやつらがどれだけいるのか、という話ではあるが。
塚原は頷いた。
「向こうもその点を憂慮していました。長く待たせるほど、断る側の罪が重くなると」
当然そうなるだろう。付き合う気もないのにはっきり拒絶もしないというのは、Aでなくともキープだけして弄ぶ最低野郎扱いしたくもなる。……当人たちの本意や翻意を度外視するならば。さらに言えば、一般的な男女ならば。
塚原は視線を夜の闇に向ける。
「その場合には、こう言うそうです。『あの塚原影路が進学すると言えば、誰に止めることができようか』」
あまりにも当然の一言だった。
人類史に名を刻む天才は非業の死を遂げ、彼の血を引いた7人のうち5人はオリジナルと共にこの世を去った。
残りの片方は殺人冤罪とデジタルドラッグ中毒の末に、消息不明。
今まともなのは、この塚原影路だけなのだ。
そう考えるとますます、呑気に他人の恋愛話で盛り上がっている連中の気が知れなかった。
「あたしは常々恋愛はクソだと思っていたが、周りが勝手に恋愛認定したがるのも負けず劣らずクソだな」
あたしは否定する。きっとAは、草凪の友情を恋だと決めつけたその口で、無責任な助言や忠告を繰り返すのだろう。友人の恋愛を娯楽として消費し、実っても敗れても面白がる。そういう、根本的に他人を軽んじている連中は、自分が同じことをされた時だけ激昂するものだ。
要するに草凪は、実らないことを承知の片想いを続ける、というポーズで塚原との交流を続けるらしい。
しかしあいつがその腹で何を思っているのか、あたしには到底推し量れそうもない。
ただ、そうまでして今の友情を大切にしたいと思っていることだけは、理解できた。
あいつもこいつも、異性の友人1人のために、お互いよくそこまで手間をかけるものだ。人間関係維持にそこまでの労力を払うくらいなら、あたしはAごと友人も切るだろう。
塚原は静かに、草凪の言葉を諳んじる。
「『時期が時期だから、この顔とあの顔がよく並んでいると、連想する人が増えていくんだと思う。それでもし、私のせいでミスターが不愉快な扱いを受けるようなら、あくまで、困る、とだけ言ってほしい』……そう本人が」
まぁ、草凪の方から塚原に近づいている以上、そちらが気を遣うのはわかる。だが、関係性としては歪だとも思う。
そして、そういう話を一通りした後に、まさにその2人で恋愛劇をやるとは、笑ってしまう。あいつのあの渋りようも、今ならわかった。
あたしはつい笑みを浮かべ、皮肉っぽく軽口を叩いてしまう。
「……毎日のようにあんなのから笑顔で話しかけられてたら、愚痴でも周りは惚気に聞こえるかもな。結婚相手と就職先が一石二鳥なんて、その辺の男子からしたら羨ましい限りだろ」
「他人事なら聞こえはいいでしょう。……高校入学半年で一生が決まってしまうとしても」
「……………………悪かったって」
また余計なことを言ってしまった。こいつはこいつで、進学しないという選択肢は与えられていない側だ。将来どうするかは知らないが、かつて万才にいた以上は、壮大合格を目指さざるを得ないだろう。あたしでさえ壮業大学の話を振られるくらいだ、況やあの塚原影路をや。
塚原は気分を害した様子はなく、小さく息をついてから、棘のない声で呟くように言う。
「…………部長や部員に頭を下げて偽装恋愛路線、という意見は、出ませんでした」
「出たらどうしたんだよ……」
大して残念でもなさそうな口ぶりに、引きながら笑いがこぼれる。寺生まれの娘に惚れて壮大進学を不意になんて、進路指導主任が聞いたら卒倒するぞ。
だからあたしは、ほとんど聞き逃しかけていた。
「……………………出なくてよかった」
その呟きは、聞き違いのような微かな声だった。
あたしはそれを、どう解釈していいか少し迷ってから、演劇部副部長としての責任感だと思うことにした。…………人間関係が目の前でこじれていくのは、御免だ。
「……まぁ、一応は恋愛禁止の名目で、あいつ目当ての男子追っ払いまくってたからな。それで部内で付き合い始めるやつらが出たら、人聞きがいいとは言えない」
塚原はいつになく力強く頷いた。
「規則違反者認定は、人間性を疑われる元です」
実感のこもった一言だった。どうやら、この方向性で当たっていたらしい。
こいつの真意もまた、どこにあるのかわからない。
草凪のお願いは、どこまでいっても、こいつを信頼しているともナメているとも取れる。あいつの片想いごっこが本気にならない保証だってない。その時こいつは、と疑いかけて、あたしは苦笑が漏れる。
「あれだな……………………家業がある女子と進学実績の筆頭候補じゃ、違うよな」
改めて思うが、有望な男一人捉まえれば将来安泰な呑気なやつと、自分で選んで決めて経済競争に飛び込んでいく様を期待されているやつとでは、人生観も世界観もほとんど根底から異なるだろう。そういう2人が友人らしくしている、という状況は、おそらく今しかありえないものだ。死体を見に行く映画じゃないが、成熟から生まれる決裂の予感というものはある。終生麗しき友情を、と口にした鏡名の考えは、そういう意味では、理解できる祈りだった。
だが同意はしない。どちらかが結婚すれば自然と疎遠になる。むしろ、結婚してもあの距離感が続くとしたら、それぞれの結婚相手が快く思わないだろう。それこそ、草凪を牽制した恋する乙女共のように。
あれだけミスターミスターと飼い犬のように寄っていく草凪が、どういう男と結婚するのか興味はある。…………ただ、鏡名の祈りが届くとしても、どうあっても2人が今の関係に戻ることはないだろう。あたしの祈りは、せめて思い出を汚すことにはならないでほしい、というものだった。
…………ただの友人同士だって本人が言ってるのに、あたしもあたしだな。草凪が塚原に向けたあの笑顔が、赤面が、どうも思考を狂わせる。
あれがどんな感情であれ、この世から永久に消えてしまうのは惜しいと感じる。感じてしまう。
気分をどうにか切り替えようと大きく深呼吸し、ふと気になったことを尋ねる。
「なんであいつは、そういう、Aと縁切らないんだろうな」
Aみたいな連中と、なぜ仲良しこよしを演じるのか。あたしには納得できない。風評をコントロールするために社交性が必須なのは理屈ではわかるが、不快なやつもリスキーなやつも、面倒の元だ。最低限そつなくこなして、危うきには近寄らないのが吉だろう。
塚原は推察を語る。
「一つの見解の相違が全ての見解の相違ではないからかと」
「……例えば?」
「草凪は、恋愛禁止の部にいるからといって、世の恋愛を否定はしないでしょう」
「…………他には?」
「草凪は、生身の妊娠出産を尊ぶからといって、他の手段で誕生した人間を否定はしないでしょう」
「……………………そうか」
実例が目の前にいる以上、そう呟くのが精一杯だった。塚原はあくまで冷静で、恬淡としている。
「以前その手の話をしたことがありました」
あたしは思わず塚原に顔を向けた。静かで穏やかな横顔には、儚さに似た何かを感じた。
「近い内容は、部長も以前聞いたと思います。……互いの常識や信条が互いを否定し合うなら、喧嘩になる話をする必要はない。労力をかけて無理に相手を変えるよりも、わかり合える部分だけわかり合って線を引く方が誰にとってもいい」
…………そういう腹を割った話ができるのは、きちんと友人という感じがする。
あたしは俯き、感心と苛立ちが同時に募り、もつれてほどけないまま言葉を吐き出す。
「…………お友達の多いいい子ちゃんらしい言葉だ」
甘い女だ、と思う反面、それができるから信頼され好かれるのだろうと深い納得もあった。欠点も地雷もさておいてまず握手、という人間性は、本意はどうあれ尊敬に値する。その割り切りと冷静さは、明らかにあたしに足りないものだ。同時に、日和見の八方美人め、という苛立ちも沸き起こる。そんな聖者みたいなやつがいてたまるかという、我ながらみっともない憤り。誰とでもうまくやりたいなんて、本気でそんな境地に至れるなら、それこそ女神か何かだ。
「どう言ってたかなんて細かいこと、よく覚えてるもんだな」
「……恋と友情と平和主義について話していたので」
その話題でそうなるのが、こいつららしい。なんとなく微笑ましかった。塚原は顔を伏せる。
「喋り過ぎました」
秘密を漏らしてしまった自分を責めるような口ぶりだった。これは言い触らすに該当するのだろうか、とふと思った後、あたしは笑って先輩風を吹かした。
「…………思ったより、ちゃんとお前ら友達なんだな」
あたしが度々草凪を悪く言うように聞こえたのが耐えられなかったのだろう。あたしだって別に、あいつが嫌いではない。ただ、理解が及ばないだけで。
こいつにも、どうだっていいで済ませたくないことはきちんとあるらしい。それがわかっただけで、今は充分だった。
「いつも何話してるんだ」
「部活動、学業、文化、科学、それと引用元当て、他」
お堅い話題に聞こえるが、雑談でも広く括ればそんなものだろう。あるいは単に、2人の共有できる関心領域がその辺りなのかもしれない。
「ふぅん」
大雑把すぎてどう反応すればいいのかわからない。引用元当ては面白そうだったが、なんとなくイメージがつく。もう少し突っ込んで聞いてみてもいいものだろうか。
「…………他に何か印象に残った話ってあったか」
「……最近印象に残っているのは、芸術鑑賞会の帰りに話した、媒体による演出の違いです」
「ほう」
演劇部と文芸部と写真部を掛け持ちしていて、漫画とDRゲームの好きなあいつらしい着眼点だ。
「動きとカメラワーク、内心と────」
話し込んでいる間に、高架下沿いの道の一本隣に来ていた。
コンクリートの高架下、そこから金網を越えたアスファルトの道。さらに低い街路樹越しの、今歩く道。
電車が通過する震動と金属音が響き渡る。
咄嗟に耳を塞いだ。
足を停め、歯を食いしばって屈み込んでやり過ごす。
…………騒音は去った。
あたしは立ち上がり、掌と耳にまとわりつく長い髪を整える。遅れて早鐘を打ち始めた胸に手を当て、パニックを回避して一息つくと、塚原が数歩先でこちらを振り返って見ていた。心配でも困惑でもない、分析は済んだとでも言いたげなニュートラルな眼差しだった。
あたしは苦笑しようとして、頬の筋肉が上手く動かなかった。
「…………電車がうるさかった。悪い」
それだけ言うと、塚原は聞こえたのかどうなのか、興味をなくしたように視線を外した。
「……話は変わりますが、変人脈は今も利用していますか」
何を急にと思ったが、あたしが変人脈の簡易アカウントを持っていることは、合宿の時点で万才組が知っていた。
「……利用っつったって、見る専だけどな」
「変人脈に登録しているアドレスに、何か一斉送信されたと聞きましたが、部長は」
「いや…………知らね」
あたしは否定する。特に変わったことはなかったが、明後日にでも病院前で会えたら角成に聞いてみよう。あいつが送られていなくても、壮大や万才の知り合いから何か聞いているかもしれない。
「わかりました。この話は終わりです」
終わったらしい。
やがて車道で立ち止まり、駅前アルカードが視界に入る。あたしは視線を落とした。
「…………さっき、聞いといて遮って、悪かった。申し訳ない」
「……………………大きな虫がいてもPTSDでも、そういうことは起こります」
塚原は車道を渡り始め、あたしも一歩遅れてついていく。
「ごめん」
「別の場所でそういうことが起きた時、許容してあげられるならそれで」
塚原は既に興味を失っているらしかった。つい10分前の草凪の、塚原を尊重し過ぎるあの態度の理由を思い知った気がした。
今度こそ何か、あと1、2分、と思っていると、引用元当てという遊びを思い出した。少し、試してみることにする。
「『生と死とを分つ境界はどう見ても影のような漠然としたものである。どこで生が終りどこで死が始まるのか、ということは誰が言えよう?』」
あたしが塚原の横顔を見つめると、向こうは視線を合わせてから答えた。
「……『彼らは眠るようにさせられなければならぬ。でなければ我々は滅びるのだ。』」
題名じゃなく引用で返してきたか。思ったより難易度は高いらしい。
今度はそちらの番だと視線で促すと、塚原は少し悩むように視線を逸らして、口を開く。
「『人間の喜怒哀楽も、舞台裏の演出家はたゞ一人、それが死だ。人は必ず死なねばならぬ。この事実ほど我々の生存に決定的な力を加へるものはなく、或ひはむしろ、これのみが力の唯一の源泉ではないかとすら、私は思はざるを得ぬ。』」
妙なところを引っ張ってきたな、と笑みが浮かぶ。一番有名な一節を省略する小技が面白く感じられた。あたしは言い返す。
「『私の青春は暗かつた。私は死に就て考へざるを得なかつたが、直接死に就て思ふことが、私の青春を暗くしてゐたのではなかつた筈だ。青春自体が死の翳だから。』」
今度はまたあたしが出題する番になる。天空文庫だけじゃつまらんな、と思うが、知らない作品では面白くない。
「『いくらお前が氷のように貞潔で雪のように清純であろうと、人の口に戸は立てられぬぞ。尼寺へ行け、尼寺へ。』」
あたしは吐き捨てるように諳んじる。本当なら半端に切らずに、長台詞を言いたいところだが、そういう趣旨ではないので自重した。塚原の返答は早かった。
「『生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生き方か、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押しよせる苦難に立ち向い、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが。いっそ死んでしまったほうが。』」
途中から熱の籠もった暗唱になっていた。少し簡単すぎただろうか、と思ったが、この程度で充分だろう。今度は塚原の出題だった。
「『かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう』」
これはもう高校生には有名過ぎて、サービス問題だ。難易度まで合わせてくるとは、奥が深い。あたしは何を引用し返すか迷わずに済んだ。
「『恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか』」
言い含めるような声のトーンになってしまう。当てつけのつもりはないのだが。
書名をいちいち確認せず矢継ぎ早に問題が繰り出されていく感覚は、新鮮で楽しかった。いつもこういうことをしている草凪が羨ましいな、とふと思い、内心で自虐する。
改札口が見えて、引用ゲームは打ち切られ、塚原は一度こちらを振り返った。残念だな、と心から思った。
そして、挨拶でもしてくれるのかと思えば、違った。
逆光でこちらから表情が見えないまま彼は呟く。
「行き着く先が虚無と知っていながら」
光源を背にしたその姿から、何か、黒い気配が吐き出された気がした。
「何を求めても、どうしようもないです」
そのまま小さく頭を下げて、人の形をした影は、眩しい改札口前の吹き抜けへ歩いて行く。
何も言えなかった。あたしは否定できなかった。もはや、否定され終えていた。
不幸から逃げている。
逃げた先には何もない。
どうしようもない。
世界から遠ざかることが理想。
行き着く先が虚無と知っていながら。
「……………………やべえ」
無意識に、立ち眩みを起こしかけて、踏み止まった。
そして、小さな鬱憤を吐き出すように、ため息をついた。
引用:『早すぎる埋葬』Edgar Allan Poe 佐々木直次郎訳 青空文庫
『暗い青春』坂口安吾 青空文庫
『ハムレット』William Shakespeare 福田恆存訳 新潮文庫
『こころ』夏目漱石 青空文庫