表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/23

1 存在の痕跡 ☆

 


 


 


      文庫版 おわりに    より確かなものを求めた先に


 


 


 新書版「おわりに より確かなものを求めて」では、故・榊詩織女史の視点から、本文の総論に関する雑感や補則が書かれていました。ここでは塚原進路の視点から、本書の誕生の経緯や反響などを振り返ろうと思います。

 まだ当書の新書版の構想すらなかった頃、存命だった榊女史と雑談をしていた何度目かの席で、彼女が「人類の次の地球の支配種が現れたとき、かれらは神様を奉るでしょうか」と問いかけてきたことがありました。私はひとまず「進化の方向性にも因るでしょう」とお茶を濁しましたが、結果としてその後数年にわたって思い出したように同じテーマで意見を交わすこととなり、議論するたびごとに話は様々な方向へ枝分かれしました。生物一般の本能や自然選択と進化、身体構造上の有限性と新人類の可能性、歴史上の出来事の因果と自由意志の有無、それらを取り巻く多様な環境の成立と変遷の奇跡的な確率、そしてその背後を斉しく貫きミクロとマクロを統一する普遍的解釈の可能性へ、といった具合に着眼点を変えるたび、未来図は大きな変貌を遂げます。最終的には、この問いに実現可能な程度に精確な答えを提示するにはこの世界は摩訶不思議で、我々には荷が過ぎるという結論に至りました。そのため、当書の「はじめに」では、「未来は文字通り未だ来ておらず、予測された仮定は過去に等しい」という一節が、自戒を込めて添えられています。

 また、別の機会に、科学的思考を重んじるべき科学者がどうして神様を持ち出すのか、彼女に尋ねてみたことがありました。聞くと、彼女は実家の神社の手伝いで、巫女として駆り出されたことがたびたびあり、その経験が彼女の人格形成に大きな影響を与えている、とのことでした。その話の中で、神社も今やただ伝統を守るだけに留まらず、時代に合わせて謂れや祀っている神様の解説をインターネット上のアプリケーションと連動させたり、地域の神社と連携してスタンプラリーのようなゲーム性をもたせるなど、参拝客に身近なものとして親しみをもってもらう試みが必要な時代が来ていると教えてくれました。科学も同じように、堅苦しいだけの退屈で縁遠いものとして遠ざけられることのないよう、その本質的な在り方の意義や楽しみ方を、教育を受ける全ての人々に届けることが、災難の多い現代を健やかに生き抜くヒントになるのではないか、という彼女の力強い言葉が、この本を世に出す第一歩でした。

 ありがたくも無事に出版の運びと相成ると、下は小学生から上はご高齢の方々まで、幅広い読者の皆様からお便りが届きました。物理学や数学、哲学や生物学に興味が湧いたと感激やお褒めの言葉を頂いたり、かと思えば、存在の本能の呪いに対する虚無感や絶望的心境の表明もあり、お便りの内容も一様ではありませんでした。特に多く見られたご意見は、自分の意志と決断だと思っていたものがそうではなかったことに傷ついている、その上で榊女史があとがきに記した雑感で救われた気分だ、というものでした。

 榊女史も私も本書の刊行に際して、批判的・懐疑的・否定的意見を真摯に受け止め、導き出された法則を基により洗練された理論的解釈を目指すことを使命としていましたので、文庫化に際して加筆・修正され生まれ変わったこの文庫版『存在の痕跡』を以てお返事に代えさせていただきます。

 我々科学者の仕事は、より確からしい見解を反証可能な形で提示することと同時に、その理論が将来にどのような展望を切り拓くか、またどんな技術に転用されうるか考え、倫理的是非を峻別することです。昨今、勃興期にある表象工学が改めてメディアで取り沙汰され、技術を生み出す科学への関心も一層高まっています。そこで改めて皆様にご理解いただきたいのは、科学的思考はあくまでもイデオロギーの一種であり、究極的には道具の一つということです。

 古くは神話と宗教が担った自然現象と社会規範の説明は、その役割の大部分を、より確かな現実の理解を求めて編み出された科学と法規に譲りました。しかし、文化的・歴史的重要性において今なお神話と宗教が占める偉大さが失われることはありませんでしたし、これからもないでしょう。物理学における運動方程式も質量とエネルギーの等価式も同様です。科学それ自体は絶対的なものではなく、絶えず検証と不備の訂正を必要とする壊れやすいものです。ニュートン力学やアインシュタイン力学がかつて通った道のように、より普遍的な理屈を求めれば新しい視点が必要となります。今や私の代表的自説ともてはやされている不可逆性理論も、いずれはより確かな理論に取って代わられることでしょう。

 今確かだと信じられている理論が何もかもに通用するという慢心は危険で、この世界の謎はすべて解明されたと思考停止してしまえばその態度はもはや信仰と変わらず、科学への盲信に付け込んだ似非科学を蔓延らせる隙が生じます。そういった意味で、科学とは学ぶ全ての人々の不断の努力によってのみ成り立つものであり、ある特殊な一方向へ先鋭化した極端なパラダイムの表れといえるでしょう。そこには時代が生まれ世相が反映されますが、善悪は存在しません。

 同じ事が技術にも言えます。近年推し進められている遺伝子治療やパラジナムプロジェクトなどを見てもおわかりいただけるように、技術開発それ自体に善悪はなく、ある社会集団や個人の目的や立場にとって有益か不利益か、ひいては好都合か不都合か、それに尽きます。一度踏み出してしまったら引き返すことは至難ですから、一つの発明に対しては、悪用の危険性や予想される副次的社会問題の深刻さ、早急に練られるべき対策の適切さなど、どれだけ考慮してもしすぎるということはありません。私は楽天家を自認していますが、軽率かつ安易な楽観視の道は破滅へと続いていることを経験と歴史に学んでいます。

 技術革新による特需で世界的に無子超高齢社会から抜け出しつつある現在だからこそ、その渦中の科学者という立場で考えるのは、誤った方向へ勢いづかないよう、社会全体で自問と自制が求められるということです。混迷の時代を生きることが必至であるこれからの世代のことを思えばなおのこと、目先の利益に飛びつくより先に長期的視野を持ち、引き返せなくなるほど潮流が速くなってしまう前に一旦踏み留まって、自らの行いや主張が何を招くのか、それらは果たしてどういった立場や意見と衝突するのかなど、慎重に考える必要があるように思えます。

 話題が政治に関わると難色を示す方もおられるようですが、事が重大であればあるほど当事者も増加していきます。ですから、人間の定義や生命の概念を根底から覆してしまうような技術に対しては、門外漢も素人も他人事ではなく、可能な限り一人でも多くの方々に我が事として考えて頂くに越したことはないのです。世界がこうあってほしいという理想は人の数だけあり、進もうとしている方向がそもそも違えば、どれが好ましくどれが疎ましいかを判断する基準もまた人の数だけあって然るべきなのですから。

 ウマとクジラとスズメに明快な序列などないように、みんな違ってただそれだけです。そこに優劣や善悪を持ち込む前に、それぞれがどこを目指しているのか、何を未来に遺そうとしているのかを互いによく理解し、尊重し合いながら、共存と棲み分けの可能性を模索していくことこそが、喫緊の課題となるでしょう。

 それでは、最後になりましたが、文庫化にあたり尽力してくださった編集部の白川郷里様、当書のアップデートに際し最新の研究情報やアドバイスをいただいた壮業大学特設合同ゼミの皆様、新書版から引き続き表紙デザインを担当してくださったひらかたピーク様、そして、この本の製造と流通に携わったすべての皆様へ、改めて厚く御礼申し上げます。

 皆様のご多幸を心より祈り申し上げると共に、共著者であった私の最良の友人に謹んで哀悼の意を表します。



 


                            十二月吉日  塚原進路


 


 読み終えた本を詰襟の学生が閉じると、裏表紙の著者近影に彼と同じ顔が映っていた。学生が装着している眼鏡型電子端末(ホログラス)のみが二人の容貌を区別する目印であり、彼の視界の端にはユーザー名『塚原影路(かげみち)』の文字が絶えず浮かんでいる。

 塚原の視界の端で赤い光が明滅した。新規メッセージの通知欄に二と算用数字で表示されている。塚原はメッセージ・ウィンドウを視線で開き、それぞれの見出しを眺めた。一方の送信元は『不特定』、件名は「最後通牒」。もう一方の差出人は演劇部長、件名は「悪いニュースがある」。

 教室正面の黒板に大きくチョークで書かれた自習課題を一瞥して横目で周囲を見渡すと、課題に黙々と取り組む者、近隣の席同士で会話する者、机に伏せて寝息を立てる者、ホログラスをかけ手を宙で動かす者が目に付く。教室右前方に座っている塚原に近隣の生徒が注意を払う様子はない。

 塚原は人目を引かぬよう注意を払いながら、順番にメッセージを開いた。


 


 Subject:最後通牒


 このメールがあなたの目に触れる頃には、我々は既に行動を開始していることでしょう。

 12日後に行われるGONSのBABEL20周年記念式典前夜祭に、ぜひともお出で下さい。そこで我々と貴方の立つ位置をはっきりさせましょう。

 来たる10月31日の夜11時に、第8会場のエントランス第3入口を入った右手にて、お待ちしております。所要時間は最短2分、最長1時間となります。

 白い髪留めと黒い髪、緋色の着物の若い娘です。間違えないようにお願いしますよ。合言葉は『種子』と『小枝』です。

 来てくれないと、大切なお友達が帰って来なくなっちゃっても、返してあげられませんからね。

 楽しみに待ってまーす。


 


 Subject:悪いニュースがある

 CC:草凪和沙(なぎさ)鏡名(かがみな)(ひびき)夢方(ゆめかた)みこと


 我らが顧問、沢樫先生からの通達。修学旅行の土産があるから今日の放課後は全員部室に集まってくださいとのこと。

 なお、サボりはダメ、ゼッタイ。だそうです。

 あたしも顔を出すので、全員来るように。

 遅れる際は理由と所要時間を明記の上、七限終了までにあたしに直接送るかグループメモに書いておくかしてください。


 以上。



 


 周囲の声を聞きながら、ホログラスに表示されたメッセージを閉じる。塚原は眉をひそめて視線を落とした。

 授業の区切りを示す録音のチャイムが鳴り、教室内のざわめきが一気に増していった。



  ──―



「あれさ、山手線の電車に轢かれたってさらっと書いてるけど、よくよく考えるとよく生きてるよなって思ったわ」

「それはうちも思った。昔の電車がやわらかかったとか遅かったとかじゃないよね。今と同じような感じだよね、あれって多分」


 短髪の詰襟の学生が自在箒を片手に呟くと、窓の桟を子箒で掃いていた丸眼鏡の女子学生が頷いた。別の詰襟の学生が癖毛を伸ばしながら尋ねる。


「あれっていつの話だっけ。明治?」


 肩にかかる髪を翻して振り向いた女子学生が黒板消しを置いて教壇を降り、目の前の角の席からホログラスを取り出した。


「発表確かせんきゅうひゃく……じゅう何年。あ、1917年発表で、1913年に体験した話だって」


 報告が終わると彼女はホログラスをケースに入れて机にしまい、癖毛と短髪が小さく唸った。


「第一次大戦あたりか。じゃあ別に今とそんな変わんないんじゃね」

「ホームの端の方にいたとか、とっさに隣の線路に逃げようとしたとかかね」

「自分で救急車呼んだって書いてたよね」

「あれでしょ、アドレナリン出まくってたんでしょ」


 丸眼鏡と短髪が塵と埃を集め始めると、教壇の女子学生が癖毛に質問する。


「人身事故って現場けっこう大変なんでしょ?」

「あぁ。遅延は確実だし、死んだら一時間ぐらい通行止めでしょ。百年以上前は知らんけど」


 細眼鏡の詰襟の学生が自在箒を操りながら嘆息した。


「よく生きてたよな作者。実話でしょ?」

「だと思うよ。教科書とか国語便覧にはそう書いてある」

「死んじゃってたら話書けないもんね」


 教壇と丸眼鏡の女学生がそれぞれ応えると、短髪はさらに呟く。


「やっぱ死にかけると人って変わるもんなのかね」

「変わんねーだろ」


 癖毛が即答し、教室にいた五名はしばし沈黙した。廊下を濡れ拭きする男子学生の内履きの音が他所のざわめきに混じっていたが、止んだ。

 教壇から降りた女学生は濡れ雑巾を手にして、チョーク置きの溝を一息に拭き終えると口を開いた。


「私さぁ、死に親しみを感じるっていうのが理解できないんだよね。死にかけたらそうなるものなのかな? それとも元々?」

「いいんじゃね別に理解とかしなくて。小説書くような人はだいたい病んでるって堀先生言ってたし」

「うーん……」


 短髪の返答に女子学生が眉を寄せながら濡れ雑巾を裏返して背面黒板に向かうと、癖毛が鼻で笑った。


「文芸部の奴らってだいたい頭おかしいよな。草凪とかほんと」


 彼女は振り返ると少し強い語気で返す。


「別にみんな、おかしくないよ。なっちゃんだってただちょっと変わってるってだけで」

「寺生まれの巫女を自称するのはちょっとか?」

「まぁもっと目立つところあるし」


 癖毛に小声で言い返した女子学生は視線を巡らし、ホログラスを装着している詰襟の学生が廊下から戻ってくるのを認めて声をかけた。


「そういえばつかはらもなっちゃんと同じ部活だけど、つかはらから見てなっちゃんってどう? 最近結構一緒に帰ってるって聞くし」

「えっそうなの?」


 丸眼鏡の女子学生が大きな声を上げた。塚原が答えようと口を開くと、先に短髪が聞き返す。


「あれ塚原くん演劇部って言ってなかったっけ? 文芸部だっけ」


 塚原は洗った濡れ雑巾を干しながら静かに答えた。


「草凪が両方に所属している」

「そうかそうだよね。文化祭で落語やってたのに変だと思って」


 短髪が頷くと、癖毛は小声で呟いた。


「あいつ写真部も掛け持ちしてるんだよな、一応」

「写真部も文芸部も個人活動だから割と掛け持ちしやすいって聞くよね」


 背面黒板の溝を拭った女子学生が話を広げると、短髪が尋ねる。


「あれ、千重波(ちえなみ)さん文芸部だっけ? 詳しくね?」


 千重波はかがみこんで、チョークの粉で汚れた濡れ雑巾をバケツに浸しながら答えた。


「生徒会室のすぐ隣に文芸部あるから顔見知りだし、書記の先輩が両方やってるのもあってね」

「あぁね……」

「生徒会っていつも何してんの?」

「あーそれオレも聞きたい」


 細眼鏡の男子学生が千重波に聞き、癖毛が同調した。千重波は少し顔を上げる。


「ふつーだよ。会計報告の書類整理とか、生徒会ホームページの更新とか、たまにお菓子食べたりとか」

「へー」

「楽しい?」

「面白いよ。学校のいろんなあれこれとかわかるし」

「へー」


 千重波がバケツの中の雑巾を指でつつく様子を男子三名が眺め、短髪が顔を上げた。


「そういや塚原くんさ、さっきの話だけど、演劇部って何か発表とかしてるの?」


 塚原は千重波に背を向けて黒板の掲示を整頓していて、振り返らずに答える。


「……文化祭での公演と、夏休みに合宿」

「だけ?」


 丸眼鏡の女子学生がちりとりにごみを集めながら聞き返し、塚原は頷いた。


「……先月の地区予選を棄権したから、しばらくは」

「それ先生とか怒んない?」


 細眼鏡の男子学生が聞くと、塚原は黒板から手を引いて振り返り、静かに答える。


「……元々部員不足で今年は諦めていた」

「理数科の二人辞めちゃったもんね」


 千重波が補足すると、短髪が思い出したように髪をかき上げた。


「あー部長以外一年生しかいないって言ってたもんな」

「えー。なんか大変だね」

「普段は何かやってんの?」

「……発声練習か、簡単に役を決めてのアドリブ遊戯(ゲーム)か」

「へぇー」


 癖毛と共に相槌を打っていた丸眼鏡の女子学生がごみ箱にちりとりの中身を入れ、辺りを見回した。


「へー。……ねえごみどうする」

「さすがにもう今日は無理だと思うこれ」


 千重波がごみ箱から溢れかけている内袋を見遣って答えると、癖毛が半笑いを浮かべた。


「いやまだいける」

「いや無理だろこれどう見ても」


 細眼鏡の男子学生が早口で言い返すと癖毛は翻意した。


「じゃやるか」

「新しいごみ袋ある?」

「ある」


 丸眼鏡の女学生に聞かれて塚原が掃除用具入れを開き、取り出すと千重波が受け取って広げた。


「あーありがとつかはら」

「今日誰行く?」

「ホークよろしく」

「いや俺ついこの間行ったわ」

「じゃあじゃんけんか」


 短髪と癖毛と細眼鏡の男子三名が話しながらごみ箱から満杯の袋を取り出して口を縛ると、塚原が受け取った。


「……行ってくる」

「おおいいのか、じゃあよろしく」

「ありがと」

「ペットボトルの方も今日行く? どうする? これ」


 千重波が可燃ごみの隣の箱を見ながら聞くと、丸眼鏡の女子学生が苦笑した。


「微妙」

「こっちはまだ大丈夫だろ、ギリで」

「予備の袋はあと3枚残ってる」

「多いな」

「だって毎回取りに行くの面倒じゃん」

「じゃあ出す?」


 話し合っているとセーターと綿パンツの女性が教室に入ってきて、生徒たちを見た。


「どんなもんすか」

「あー先生。掃除は終わりました」

「おおー。じゃあ今は、これ、ごみ出しじゃんけんか何か?」

「はい。あーじゃあ先に号令していいっすか」

「了解しました」

「気を付け。礼」

「あーとーざいましたー」


 礼を終えると教諭は頷き、もう一度一礼した。


「よし。ではみなさん、ごみ捨てまでよろしくお願いします」


 教諭が教室を去ると、詰襟の襟元の徽章とボレロの胸元の徽章に『Ⅰ-G』と表示されている六名の話し合いは再開する。


「はい。ねえ、ペットボトルどうする?」

「出すならそれも持って行く」


 塚原が空いている片手を伸ばすと癖毛が笑った。


「おお、悪ぃな。じゃあついでによろしく」

「別に明日でもいいけど、大丈夫?」

「今日出すかどうかの判断は任せる」


 千重波と塚原のやりとりを聞いて、男子学生三名は別のごみ箱を囲んだ。


「よーしハゲ、箱押さえろー」

「黙れタコ」

「じゃあ、塚原くん、これもよろしく」

「いいの? 私一緒に行くよ?」


 千重波に聞かれて塚原は首を横に振った。


「いい」

「つかさん、それ、一人で持てる?」

「大丈夫かつかさん、ふらついてるぞ」


 ペットボトルの大袋を受け取った塚原は、左右の大きなごみ袋に合わせて重心を動かしながら答えた。


「なんとか」

「頼むぞ勇者」


 癖毛がまた笑い、細眼鏡の男子学生が癖毛に言う。


「次お前やれよ」

「今日19だから今月あと8日登校か。じゃあ逃げ切れねーな」

「いや逃げちゃだめでしょ」

「じゃあつかはら、いってらっしゃい」


 千重波が顔を覗き込むようにして見送るのを横目に、塚原は教室を後にした。その背後では、残る生徒たちが教室の前方に押しやられた机を元の配置に戻し始めている。

 塚原は数歩歩くごとに手首を捻るように動かし、階段の踊り場まで来て肩を下げ、一息ついてまた歩き出した。



  ──―



 東階段を下りて三階と二階の踊り場に差し掛かったところで、背後から明朗な男声が届いた。


「エイジ」


 塚原は振り向かずに階段を降り、二階に降りると義体の詰襟の学生が追いついてきた。義体の男子学生の襟元の徽章には、『Ⅰ—H』と表示され、片手のごみ袋にはペットボトルの輪郭が浮き出ている。


「片方持とうか」


 自然な合成音声で尋ねられても塚原は答えず、階段掃除の生徒を避けながら早足で降りてゆく。


「今日は演劇部に顔を出してくのかい」


 塚原はただ頷いた。

 一階の通用口に到着すると、先に義体の男子学生がサッシを開いた。彼はそのまま外履きサンダルを三足手前に用意しながら、笑顔で続ける。


「お土産がもらえるといいね」


 塚原は両手の塞がった状態で足元を見下ろし、無表情のまま呟いた。


「……ありがとう」

「どういたしまして」


 義体の男子学生の返事も待たず塚原は外に出て、隅の壁を背に内履きサンダルを脱いで義体の男子学生が用意したサンダルに履き替え、そのまま歩き出した。


「ちょっと待って塚原」


 すぐ後ろから女声に呼び止められ、塚原は振り向かずに一歩脇に動く。隣に並んだ小柄な女子学生は、可燃ごみ表示の袋を持っていた。


「授業中、あんたのところにも変なメール来た?」


 後ろで義体の学生がサッシを閉める音を聞きながら塚原は歩き出した。


「十月三十一日」


 塚原が抜き出すと小柄な女子学生は頷いた。


「おそらく一斉送信。反応した面子を考えると変人脈の人間に無差別に。……って彼が言ってた」

「文面は?」

「確認した範囲では同一」


 塚原が質問を続けようとすると数歩後ろから義体の学生が呼びかけた。


「二人とも、僕抜きで話を進めるとは寂しいな」

千道(せんどう)が情報不足なら聞く」


 塚原が短く返すと千道は二人の男子に視線を往復させた。義体の学生が薄く笑みを浮かべる。


「エイジはどうするか確認したくってさ」

「異変は?」

「今のところはまだ。連絡が取れない人間も出てないし、これからだね」


 屋外の手洗い場に着くと義体の学生は袋を開いた。塚原はその隣にペットボトルの袋を置き、燃やせるゴミ置き場に向かう。ごみ捨てーションの閂を千道が無言で外すと、塚原と二人同時に両開きの戸を開け、交互にゴミを投げ入れた。再び同時に閉めて、塚原が閂を戻して手洗い場へ歩く。

 塚原は、空きボトルの中身をすすいでいる義体の学生の足元の一袋を開け、数本取り出した。千道も並び、無言で作業を終えると、塚原と義体の学生は洗い終えた二つの袋の口を再び結んだ。義体の学生はそのまま塚原の手から大袋を奪い取り、微笑を浮かべたまま片眉を上げて見せ、ボトル置き場に歩き出す。無言でその様子を見ていた千道が指先の滴を流しに払いながら呟いた。


「もう冷たいわ」


 千道は、義体の学生が袋の山の上にさらに二袋を積み上げる様子を見つめながら、塚原に話しかける。


「最近は現実でも三実でも物騒になったものね」


 無反応の塚原に千道は続ける。


「一昨日マリンスタジアムでコンペの最中に機獣を暴走させたあれ、アンチレーシスの連中こっちに逃げてきたって話が入って来てるの。捜索が遅れてるなら仲間がいる可能性もあるから、いつも以上に警戒が必要って」


 千道はそこで一度言葉を切ると、声を潜めた。


「万才でも原因不明の停電があったわ。しばらくはそちらに人員が割かれるから、今日からは一緒に帰る方が安全そう」


 なるべく唇を動かさずにそう伝えた後、元の声に戻る。


「でも、なっちゃんに聞いたけど、この後部活に行くって?」


 塚原は頷いた。千道はわずかに鼻白んで視線を落とす。


「帰りはまたなっちゃんが駅まで一緒? なら、鴾野・千道両名は繁原駅付近にて待機、了解。……尊重と無関心の線引きはどこかしらね」

「……どうだっていい」


 塚原は低い声で流した。


「あんたはいつもそう言うけど、事と次第によっては意見を表明することが求められるの」

「大きな流れの中では、ひとえに風の前の塵に同じ」


 暗く穏やかで静かな塚原の声に対し、千道は強い口調になる。


「求めているのは質で、あんたの意見よ」

「……クローンの意見だろう」


 弱い語気のまま塚原が返すと、二人は沈黙した。

 戻って来た鴾野(ときの)が千道の後ろを通って水道の前に立ち、発泡体素材を覆うシリコンの手を洗ってハンカチを取り出しながら二人を見遣る。


「僕はお呼びでないかな」


 明朗な声色で取り成す鴾野を千道は睨み、塚原は通用口へ歩いて行った。鴾野は千道に微笑みかけて塚原の後を追う。


「それでエイジ、一応聞いておくけどこの後は」

「部室に寄る」

「わかった。また何か動きがあったらすぐに連絡する」


 塚原は鴾野に頷きかけながらサッシを開け、サンダルを脱いで脇によけた。入れ替わりでごみ袋を持って出る三年生がそれを履き、数歩先で塚原に軽く手を挙げた。その様子を見て、鴾野は微笑みながら千道を流し見る。


「今度近いうちに、どこかに遊びに行こうか」

「また? どうしてよ。どこに、何しに」


 千道が訝しみながら問うと鴾野はさらに笑った。


「どこがいいだろうね。またBIGSモールでも行こうか」


 三人とも屋内に戻ると、千道がサッシを閉めながら唸る。


「あー……そういうこと。だったら、今度はなっちゃん呼んで2・2がいいな」

「草凪さんか」


 鴾野は笑いながら、階段を上ろうとする塚原を見る。


「エイジはどう思う?」

「……どうだっていい」

「はは。じゃあ後は草凪さん次第か」


 階段を上りながら、三人のやりとりは続く。


「日程が合えばなっちゃんは来ると思う」

「とは言っても、もし行くなら来月以内かな。もう既に肌寒くなってきてるみたいだから、12月に入るともっと冷え込んで億劫になるし」


 考える素振りを見せ、鴾野は塚原の様子をうかがう。


「再来週の模試の前と後なら、どっちがいい? 学校の用事以外でこの日は予定があるとか未定とかは、わかる?」


 塚原は少し間を置いて首を横に振ると、小さく言い添える。


「3・1なら」

「なっちゃんと2人が嫌?」


 提案した千道が真意を問い、鴾野は手短に答えた。


「エイジ一は趣旨に反するから棄却」

「……趣旨は」

「明理ちゃんと2人はいいのにね」


 千道が塚原を見つめると、鴾野がまた笑った。


「その節は、僕の不徳の致すところで。じゃあまた千重波さんを誘ってみるかい? もう事実上クイズ研は解散したから、打ち上げの打ち上げ直しってわけにはいかないけど、来週ならGONSのハロウィーンもあるし」

「あんたはどうしたい?」

「……どうだっていい」

「趣旨は特に決めてないけど、交流かな」

「DCでいい」

「何言ってんだよ。…………(AC)より(DC)か」


 鴾野が呆れたように聞くと、千道が鼻を鳴らした。


「冗談はともかく、あんたはその件について要望は?」

「……どうだっていい」

「あんたねぇ……!」


 塚原の低い声色に千道が呆れ、鴾野が小さく笑った。


「またそれか。僕らはいいけど、エイジ、草凪さんにはなるべくそういう態度取るなよ」

「そのなっちゃんが……でも、違うか。あんたは悪平等だから。で、一応聞くけど、あんたはどうしたい? 行きたい? それともやめておきたい?」

「どこに辿り着きたい」


 塚原は問うた。


「来いと言われれば行く。行かなくていいなら行かない」


 千道がため息をつき、鴾野は前を向いたまま答える。


「別に僕らは強制はしないよ、親愛なる友人としてはね」

「そうね。あんたの様子を見て、丁度いい機会があれば外でもBABELでも連れ出して、気分転換になればと思ってる。少なくともここに二人と、多分なっちゃんも」

「近場の散歩でもどこでも、行きたい場所があれば聞かせてほしいね。今後の参考に」


 鴾野の質問を無視して塚原は呟く。


「……行ってどうなる」

「状況は人を浮き彫りにする、だよ。普段は見えない見せない一面を、見たいと思うのが人情だ」


 鴾野がそこまで言うと、鴾野と千道は一年H組の教室前の廊下で足を停めた。二人はロッカーの上の各々のリュックに同時に手をかけ、同時に背負う。千道が呟いた。


「嫌ならやめでいいから。また急にいなくなられたら、怖いし」

「行けたら行く」

「あんたその台詞……」

「了解。しつこく食い下がってごめんよ。でも、大事なことだからね。あと、千重波さんと草凪さんの名前は僕らが勝手に出しただけだから、その二人には悪く思わないでくれ」


 塚原はG組へと少し歩いて、学生鞄を背負ってから振り返り、鴾野を見た。


「仮に一面を見て、それでどうなる」

「ある程度の満足か不満は得られるだろうね」

「当然ね」


 三人は並んで中央廊下へ向かう。


「得てどうなる。この先は問わない」

「そこでやめるのが賢明だね。命ある限りコミュニケーションに終わりはない。……そうだ、なら、また僕ら二人が梅雨桐家にお邪魔するって形でも」

「やめろ」


 塚原の端的な拒絶に、千道が二人を交互に見る。鴾野は控えめに苦笑した。


「やっぱり今でもかい」


 中央階段を降りながら沈黙する。ややあって、三階に着くと塚原が息をついた。三人は足を停める。


「……気持ちだけでたくさんだ」


 塚原の無表情を見て、千道がかすかに鼻を鳴らす。


「気が向いたらでいいから。行ってもいいか、ぐらいの気になったら、いつでも誘って」

「部室、行くんだろ。じゃあな。また明日」

「じゃあね」


 鴾野が手を挙げると千道も倣った。塚原は黙ったまま二棟への中央通路のサッシを開けて、踏み越える。そして、サッシを閉めながら吐き出すように呟いた。


「……じゃあ」


 すりガラスの向こうで背を向けた塚原を眺めると、二人は顔を見合わせてから階段を降りた。


 


 


 

掲載日 2023年 10月31日 23時55分

最終修正日 2025年 3月17日 22時15分

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ