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4 天の光はおよそ偽⑥

次回以降の投稿も不定期になる見込みです。

ご了承ください。

 夜の帳が下りる中、鬱屈とした気分を晴らすように足早に正門を出ると、演劇部を辞めた男女が脇に立っていた。久々に見たなこいつら、と思いながら離れて見下ろすと、女生徒の方は大きく肩を震わせた。男子生徒の方がこちらに視線を向けて会釈する。


「ご無沙汰しています、部長さん」

「…………あぁ」


 返事にならない反応をした後、そいつの隣に立つ、40センチ以上あたしと身長差のある後輩を見下ろす。最後に見た記憶よりやけに萎縮している。小学生みたいな童顔と相まって、こう大人しくしていれば一見庇護欲を煽る容姿だ。だが、こいつが草凪と塚原を少なくとも2回おちょくっていたと思うと、妙に苛ついてくる。


「……久々に会って早々だが、お前草凪への態度改めとけよ」


 思ったより高圧的な声が出た。八つ当たりのつもりはなかったが、元々反りは合わなかったので詫びるほどでもないだろう。何かに怯えるような態度の千道彩音に、一応もう少し抑えて続ける。


「…………塚原との仲をしつこくからかう奴がいるって、あいつがうざがってたんだよ。こいつからお前の名前が出てた」


 傍らの塚原を示しながら、あたしは千道を睨みつけた。

 あたしが知る限り草凪は、家庭の事情を盾にしてその手の話を避けてきたやつだ。あの荒河(あれかわ)のカスがデマを広めた時でさえ、あいつは仮の彼氏役を立てて逃げようとはしなかった。それが、自分をピエロにして、寺に勧誘して断()られかけたとでっち上げてまで友情を強調せざるを得ないとは、よほどのことだ。


「演劇部は恋愛禁止だ。あたしの上の代の、頭と股のゆるい馬鹿女のおかげでな。今のところ言われた2人ともその気がないようだから見逃すが、てめーのせいで部内の人間関係がこじれたら、部長としててめーを許さねえ」


 ほとんど真上から睨みつける。どうせ反抗的な眼で言い返してくるだろうと思って威圧気味に言ったが、千道は苦しそうな表情を浮かべるだけだった。拍子抜けだ。そもそも理解できているのか?


「返事は」


 あたしは追い詰める。塚原の電車のことを考えると時間が惜しいが、ここでこいつを見逃すほどあたしはお人好しではない。

 千道は黙って俯き、鴾野聡正が間に入ってきた。男に守られながら自分は言いたい放題か、と一瞬思ったが、さすがに鴾野はそこまで愚かではないらしい。昔ながらの非生体義体の手を挙げながら、バイオ形成顔の口を開いた。


「そのことなら、すみません。昨日帰りの電車でエイジがマジギレしたので、彩音は今は心底反省しています。今日のところは様子を見てやってください」


 あたしは目を細める。


「マジギレ?」

「わざわざ彩音のトラウマをえぐるキーワードを並べるくらいには。効果は御覧の通りです」


 それでこのザマか。


「多少は効いたのか」


 あたしは千道を見下ろす。草凪は甘いのかぬるいのか、対話に信を置きすぎるきらいがある。力ある者が相手を尊重するとつけあがらせるだけだ、と常々思う身としては、塚原に尻拭いさせやがってという呆れが先行する。ただ、考えるとそもそも、こいつらは塚原の旧知だ。順番としては、塚原へのいじりにあいつが巻き込まれた形になるのだろうか。

 だとしたらこいつが黙らせるのが筋か、と塚原に視線を向ける。この会話自体に興味もないようで、駅への通学路を眺めていた。鴾野が補足する。


「エイジの名誉のために言っておくと、侮辱とか人格否定の類ではないですよ。相手の嫌がることはやめて言わないようにしよう、あの悲劇を忘れるな、って趣旨だけなので」

「悲劇」


 あたしが復唱すると、鴾野は儀礼的に浮かべる微かな笑みをしまい込んだ。


「万才での不幸です」


 底冷えのする声だった。鴾野は小さく息を吐き、合成音声であることを思い出させる声音に戻った。


「エイジに用があるなら少し先に行ってます」


 会釈して駅に向かうと、千道が慌てて続き、途中振り返って深々と頭を下げた。結局あいつは終始口を利かなかった。いつもああならまだ可愛げがあるものを、と思うが、人はそう簡単には変わらない。反省も長くは続かないだろう。

 ため息をついて塚原に顔を向けた。


「重ね重ねすまん、時間平気か」

「……余裕を持って申告しておいたので、間に合うかと」

「そりゃ何よりだ」


 駅のある正門南に顔を向け、視線を一度止める。


「…………話していいんだよな?」


 高校の敷地目の前の十字路を通り過ぎた辺りで、大前提を確認すると、塚原は目線を下げたまま呟いた。


「どうぞ」


 あたしは深呼吸をして、話の枕を振る。


「保健室では、唐突で悪かったな。この間倫理の授業で、同じテーマをクラスの奴らと話し合ったけど、どれも本質的じゃない気がして。考える材料が他に欲しかった」


 隣り合う塚原の相対位置が緩やかに前後する。


「本質的じゃない」


 歩幅を合わせようと行きつ止まりつしながら、塚原がそう言葉を切り取った。あたしは応じる。


「ああ。例えば、幸福とは何か。楽しいこと。不自由がないこと。この世に生を享けたこと。じゃあ楽しいとか自由って何だよって話になる」

「……無限後退ですか」

「多少の思慮の深浅はともかく、議論が成立しないのは厄介だ」


 高架下沿い方面を左に曲がると、車道側を歩く塚原の眼が少し細くなった。


「部長の意見に反対してみるべきでしたか」

「いいや。いや、どういう意味だ。何を聞いてる?」


 質問の意図を呑み込めずに問い返すと、塚原は淡々と答える。


「深掘りがしたければ、同意よりは」

「それは独りでもできる。聞きたいのは、他人の着眼点と論理の展開だ」


 把握してそう付け足すと、視界の横で頷くのが見えた。


「前置きで時間潰してもつまらんから、そろそろ始める。前もって聞いておくことはあるか?」


 数メートル先で横断歩道の青信号が点滅していた。塚原は特に急ぐ様子もなく立ち止まる。


「…………今、駅に向かっていますが、家の方向は」

「気ぃ遣わなくていい。時間ないんだろ。…………どうせ運動不足で、散歩しなきゃいけなかったしな」


 馬鹿みたいな言い訳をするあたしに、塚原は無言で頷く。他に質問はないようだった。駅まで、十分程度だろうか。赤信号に足止めされながら、ようやく本題を切り出した。


「お前、なるべくいつも幸せでありたいかって質問に、いいえと答えたろう」


 頷いたのを確認して、あたしは問いかける。


「お前はなぜそう思ったんだ」


 塚原は一度目を伏せて、切り替わった青信号に視線を向けた。


「自然は強欲です」


 人の業を糾弾するにしては、落ち着いた口調だった。むしろ、落ち着き過ぎていた。続きを視線で促すと、塚原は道路側を歩き出しながら続けた。


「人間に限らず、自然は常に情報との結合を求める」


 不可逆性理論か。

 新精神力学の理論だが、倫理の資料集にも載っている。塚原進路が出版した『結び合ういのち』でも、榊詩織との共同著書として出版した『存在の痕跡』でも触れられている、本能の源泉の話だ。

 忘却と孤立は死を招く。曰く、人が死を恐れ、より確かなものを求めるのは、揺らぎの中に消えていく量子の性質に怯えるからだ。弱者は手を繋いで生き残り、脳は神経細胞を繋いで思考を紡ぐ。散逸構造の"生命"は、自己組織化の規模が増すほど滅びから遠ざかる。人が巨大さや味方の多さ、歴史の長さに畏敬の念を抱くのは、その証だという。倫理の資料集で引用された思想では、ギリシャ神話<エロースとタナトス>を引き合いに出し、生は有機的結合であり、死はその途絶である、とまとめられていた。

 一度生まれたものは瞬く間に新たな基準となり、底上げと淘汰を延々と繰り返す。別の環境では、あるいは環境が激変すれば、別の基準で同じことが繰り返される。そうして、海でも、陸でも、技術でも、経済活動でも、絶え間ない開拓と発展に追い立てられ走り続ける。進化は生きて繋ぐための必死さであり、自然の強欲さでもある。自然界は時間発展に伴い不可逆な秩序のインフレーションを続け、一度発生した事象は取り返しがつかない。

 その意味で、拡大と進歩を究極原理に置く資本主義経済は本能に合致する。だが、同時に侵略と消費をももたらす。もし全人類が文化的価値や知足などを手放し、金銭というたった一つの尺度しか持たなくなるとしたら、それは単純明快で気楽だが不幸でもあるかもしれない。塚原進路は著作の中で、そう述懐していた。

 中神内人の『似姿のデュナ』がかつて不可逆性理論入門と呼ばれたのは、その普遍性を似姿とデュナという仕組みに落とし込み、あくまで娯楽漫画として描き切ったが故にだ。無論、あれらは擬人化に過ぎない。進化とは死ななかった結果の蓄積だ。ただ、この世界はフラクタルで、ホロニックだ。小石が星となり銀河を形成し、単細胞生物が複雑な多細胞生物に至り、ムラ社会がグローバル社会にまで広がった説明としてはこの上ない。デュナの集まるものは重力源のごとく振る舞い、それ自体がさらなる引力をもたらす。小さな秩序は逆説的にエントロピー増大をもたらし、秩序をよりいっそう拡大させていく。実時間の一生はスケールに支配され、情報量の多大な似姿ほど死は遠ざかるが、体感は変わらない。カブトムシも、ヒトも、太陽も、銀河も。

 眩しく点灯する自動販売機の前を通り過ぎる。

 あたしは隣を歩く男子の照らされた横顔を一瞥し、密かに息をつく。

 心の熱力学というアプローチから始まった新精神力学は、デジタル物理学者のアーネスト・マンスフィールドと真島総一郎がサイズ生物学の視点と一般相対論を織り込むことで心のマクロ物理学として成立し、高速世界を理論的に予言した。天体と生物は同じルールで動いている、情報はエネルギーに変換できる、非平衡開放系の安定した情報構造体の自己崩壊する寿命は構造体のスケールに依存する、などの知見に、塚原進路のセル・オートマトン『Rエヴォリューション』と『ミームライフ』に関する論文が加わり、4つの原理が定式化された。

 絶えず相互作用と自己改変を繰り返す情報系内部の過去の状態は、未来と同様に不確かである。

 情報構造体の自己改変性のパラメータは、内部時計と生命力の2つの意味を持つ。

 複雑開放系における自己改変は、常に上書き再構築でありやり直しが利かない。

 情報構造体は絶えず情報量の減少に抗うため、外部情報との結合を求める。

 これらはそれぞれ、痕跡のない過去は未来と区別がつかないこと、よく食べよく動きよく学ぶことが生存能力に直結すること、一度学んだことや体験したことは既知として過去になってしまうこと、そして、“生命”は存在を消されないために情報量=エネルギー量を大きくしようとすることを表す。塚原進路は当時17歳でこれらを発表し、1年後には心の量子重力理論は不可逆性理論として完成を見た。

 塚原進路は『まんがでわかる不可逆性理論』で、斉一性原理や学びを肯定的に捉えながらも、「過去はかつて存在したが今はもうない」、「充実している1日は短く感じる分濃密」、「ネタバレはだめ」、「置いて行かれないために努力は大切」と説いた。

 若くして栄光を手にした彼は、榊詩織の死後に彼女とセットでインターネット上で面白おかしく解説マスコットとして扱われたり、週刊漫画誌の早バレにブチギレて不可逆性理論を思い付いたとネタにされたり、本命の貧乳美人先輩が死んだから爆乳地味顔同期に乗り換えたなどと吹聴されていたりした。だが、小学生で人格関数エンジンを作るためにフーリエ変換と代数的位相幾何学を学んだ知性と行動力や、医者志望で姉の職場のケーキ屋で倒れた女性を迷わず助け起こしたら榊詩織だったという美談、『結び合ういのち』の結語の文学性、サッカー部仕込みの運動神経で榊詩織をストーカーから身を張って庇った動画、自身を失脚させるためのクローン製造の冤罪が晴れた後に忌み子であるクローンたちを引き取る高潔さなど、完璧超人エピソードには事欠かない。

 その、嫌味なくらい瑕疵のない、不自然なほど優秀な理論物理学者兼システムエンジニアは、自身のクローンを助けて亡くなった。

 史上の天才の命と引き換えに生き残ったクローン2人の片割れは、ここにこうして生きている。

 改めて思うと、不思議な気分だった。

 普段はただの、静かな独りの男子高校生でしかないのに。

 塚原影路は、道路を渡って細く暗い小道を歩きながら、さらに続ける。


「本来望むのは、強欲につき動かされることではなく、そういう世界から遠ざかることです」


 あたしは気分を晴らすため、笑い飛ばした。


「『隠れて生きよ』。いい言葉だ」


 まるっきり、古代ギリシアのエピクロスの思考だ。


「しかし塚原、この世界でそれは無理だろうな」


 顔ではまだ少し笑いながら真面目にそう言うと、塚原は頷いた。


「だから、理想は持たない」

「……なるほど」


 幸福になるにはこの世界から隔離されなければならない。しかしそれは現実問題として不可能である。ならば永久に幸福にはなりえない。そこで、『今より幸福になる』という発想そのものを捨てる。


「詭弁だな」


 あたしは否定する。一言で切り捨てた。悪意すらなかった。

 実際的ではない。実践の参考になるかと思ったが。

 車道を横断する塚原は怒らず、むしろ頷く。


「幸福を追いかけるより、不幸から逃げている」


 さすがに本人だけあって、的を射た表現だった。その反応に、少し喉の奥が固まってきたのを感じながら、慎重に言葉を探す。


「……別に、それが悪いとは思わない。反実仮想よりよほど地に足着いてるからな。ただ」


 一度言葉を区切って、ためらい、一歩踏み込む。


「…………お前は自分で、幸福になれると思うか?」


 そう問いかけてみると、塚原は暗く広い道を歩きながら呟いた。


「……どうしようもない」

「絶望か。まあ、だろうよ」


 つい癖で鼻で笑ってしまった。だが、同情してもいた。こいつの人生は常に、オリジナルとの対比が伴う。あたしも出来のいい義姉がいるので、スケールはまるで違うが理解できる気がする。

 返事はなかった。塚原は特に聞いてこないので、油断すると話しかけた方の自分語りに陥る。かといってこっちから何も言わないと、ただ人の不幸を嘲笑っただけで終わってしまう。


「すまん。調子に乗った」


 塚原はやはり何も言わなかった。

 少し考えて、さっき沢樫先生と何を話していたのか質問しようとした時、塚原がまた呟いた。


「逃げた先には何もない」


 やけに暗く静かな声だった。あたしは黙り込む。思い当たる節が多過ぎた。

 また車道に出て、塚原は渡っていく。

 ひたすらついていくと、また暗く細い道に来た。塚原が呟いた。


「逃げた先には何もない」


 何か続きを言おうとして、言えずにいるように聞こえた。

 あたしが何も言えずにいると、塚原は淡々としたトーンのまま、遠くの街灯に視線を向けた。


「影を振り払い続けるうちに、光を拒む癖がつく」


 …………身につまされる話だ。


「夜は好きか?」

「昼夜逆転は迷惑をかけます」


 普通の答えだな。あたしはなんとなく、説得でもするような言い方になる。


「皆して昼に生きなくたって別にいいだろ。あたしは名前からして夜の宵だ。そっちだって影の路なんだ」


 今や夜すら日陰者の時間ではない。夢が現実として栄え資本主義に呑み込まれ、通信衛星が青い星を覆い星座を奪ったこの時代で、闇は貴重だ。暗黒物質が幻想で、知性も五感も時空も宗教もブラックボックスから解き放たれてしまった。不明や暗黒は、もはや希望と言っていい。

 あたしはそう思っていたが、塚原の答えは淡白だった。


「影に影はできない」


 …………これも何らかのメタファーなんだろうが、解釈に困る。あたしは塚原の足元に落ちる影を指差した。


「これは何だ」

「影でないことの、回りくどい証明です」


 そうは思わなかった。影だの昼だの、暗喩だけで話している方がよほど回りくどいくらいだ。……楽しくないわけではないが。


「名前に意味なんてないってか」

「塩の瓶に砂糖のラベルを張っても構わないなら」

「急に家庭的な例えだ」

「話を逸らしました」


 ……冗談を言えないやつ、というわけでもないのだろうか。よく、わからない。だが、草凪が話したがる理由の一端は見えた気がした。

 口を開きかけた塚原を遮るように、あたしは否定する。


「いや、もう、いいよ」


 あたしが皮肉っぽく笑いかけると、塚原は口を閉じて歩き続けた。

 しばらくお互いに何も言わず、ただ黙って並んで歩く。

 当初の目的は果たされているというのに、得たのは答えではなく新しい問だった。しかも、茫漠たる心象、曖昧な輪郭、不安と焦燥が底で淀んでいる。

 何を聞けばいいのか、自分でもわからなかった。無言で歩いていても気は重くない。ただ、これ以上何か聞くのが恐ろしいように思えた。

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