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4 天の光はおよそ偽⑤ ☆

7月7日は草凪和沙の誕生日なので3話連続投稿です③

 もうほとんど薄暗くなった部室の前で、草凪は改めて一同を見回す。


「そういうわけで皆さん! 言うまでもないとは思いますが、私とミスターが役の上でそういう仲になったとしても、役者本人のことであーだこーだ言うのは、今後も、めっ、ですよ」

「…………あぁ」


 あたしは部室の看板を外しながら返事をする。言われるまでもない、という感想と、ぶっちゃけめんどくせえな、という反感はどちらも呑み込んだ。それだけ注目されているやつの心情はあたしには共感できない。かといって、正面から踏みにじって喧嘩を売るほど恨みも憎しみもない。こっちだって、礼を尽くして接してくる後輩にくらい、真人間らしくありたい気持ちはある。

 実際に寺に勧誘をし始めたかどうかは知らない。ただ、草凪自身は方便として、自分は重い女だからからかわれても困る、と塚原の口を借りて伝えることで、2人の関係を誤解しないよう周囲に理解させたいのだろう。自分で言えよ、と思わないでもないが、そこには人間関係の機微や事情があるように思う。あたしにはそこまではわからないが、塚原が言えば間接的被害者面できるとか、好意が結婚就職に直結しかねない寺生まれの事情の再確認とか、効果があるのは考えつく。

 仮に今後そういう可能性があっても、草凪も塚原も、お互い軽々しく深入りはしないだろう。考えてみれば、そもそも草凪に既に親が決めた許婚がいる可能性だってある。どこも家庭の事情に軽々しく踏み込めば、血が流れる。


「ご理解ありがとうございます。二人も一応、めっ」

「はーい」


 夢方が返事をすると草凪は口角を上げた。


「はい、いいお返事」

「わさなぎさん、これは?」


 鏡名が自身の右目を指差す。


「目!」

「これ」

「耳!」


 鏡名がふざけだしたのを夢方が横目で咎める。


「響くんちゃんとわかった?」


 鏡名は、半笑いの面構えに対して声は落ち着きを取り戻していた。


「わさなぎさんがまだ、春のネガティブキャンペーンで負った心の傷が癒えてないことはわかった」


 草凪は薄く渋面を作る。あたしなら、厄介なことわざわざ言葉にしやがって、と毒づくが、草凪は反感は持たないようだった。鏡名があえて引っかき回すやつなのは全員知っていたし、こいつなりのフォローだとも理解できていた。

 かつての謂れのないクソビッチ呼ばわりに比べたら、友人以上の男子云々なんざ意に介するほどの噂話でもないはずだ。だが、事実確認もしない口さがない連中に面白半分で話を盛られたり好き勝手に吹聴された経験は、草凪を多少過敏にさせるのだろう。悪い想像を次々に膨らませてしまえば、最悪の事態に備えて釘を刺すのも無理はない。


「そこまでちゃんとご理解いただけていればあとは何も言いますまい」


 草凪は気取った態度で真面目に応え、歩き出した。4人とも、つられて歩き始める。鏡名が尋ねた。


「わさなぎさん、中学の時はそういうことなかったの?」

「中学の時の噂は、ほぼ誰も真に受けてなかったから。ご存じでしょうけれども」


 草凪はうめくように答えた。

 入部当初にざっくりと聞いた話では、高校入学以前、つまり中学時代にも一度ネガティブキャンペーンはあったらしい。その時は草凪を敵視する派閥との勢力争いの一環として、クラスや部活動を超えて他学年も巻き込んだ情報戦があったという。ただし、ネガキャンを始めた派閥のボスである当の女子生徒がそもそも逆恨みだと知れ渡っていたり、草凪は空手部だ実家の手伝いだ友人との遊びだと人目につく外出が多くアリバイ多数で証拠不十分であったりで、本気の潰し合いには到底至らなかったそうだ。草凪の意向もあって派閥争いが激化することはなく、敵味方双方とも無実だと信じながら言いがかりと悪魔の証明の応酬が行われる、本人曰く劇場型コントやプロレスじみた状況だったと聞く。結局、ボスの気が済んだら派閥連中は早々に和睦に向かって、デマは誤解という噂で上書きされたらしい。

 だが、高校ではそうはならなかった。入学2、3日目で人間関係が構築されていない以上敵味方も派閥も何もなく、ただ噂と本人の弁のどちらを信じるか選ぶことになる。草凪に近しい者は当然否定してみせるだろうが、一度疑いの目を向けてしまえば、たとえ潔白でも怪しく映る。会ったことすらなく人となりがわからない以上は、信じるも真に受けるも、難しい判断ではあるだろう。あたしは草凪本人から生まれと実家に関するかなり踏み込んだ話を聞き、信じてみることにした。そして賭けに勝った。

 ただ、鏡名が言いたかったのはその話ではないらしい。


「いや、好きなのー? みたいな方」

「私が誰かを好きだと思われることはなかったよ。寺生まれアピールしまくってたし。彼氏持ちの子とか片想い中の子からはちょくちょく確認されたりしたけど」


 聞いていた夢方が尋ねる。


「そういうのって、わたしこのひと狙ってるから、とかって協定結ぶものなんじゃないの?」

「結んでも疑うときは疑う。私は疑われないようにする。がんばって李下に冠を正さないでいても、やっぱり疑うときは疑う」


 さもありなん、という感想だった。一挙手一投足が人目を引く美少女が身近にいたら、想い人の心変わりを恐れるやつが出るのは当然だ。一度恐れてしまえば、例え潔白でも怪しく映る、という理屈はこちらでも通用する。草凪が以前よく恋愛相談に乗っていたと言っていたのは、その辺りの対策も兼ねてだろう。それでも失恋して草凪のせいにするやつもいただろうが。

 鏡名はさらに首を横に振る。


「それは災難だったけど、そっちでもなくて。男子が君のことを、ってパターン」

「最近私と仲いいよねーって? 登場人物全員女子でなら何度かあったけど」

「あー」


 鏡名と夢方の声が重なる。あたしも内心で声を重ねていた。確かに、草凪は男が寄ってくる面だが女が寄ってくる性格でもある。文化祭でこいつに会いに来ていた他校の女子がママ呼ばわりしていたことからも、こいつの中学時代のポジションが窺える。あたしは同級生をママ呼ばわりなんざ心底気持ち悪いと思う方なので、どちらかといえばこいつを敵視する連中に同情する。こいつ自身がいい奴であるかどうかと、周囲からのこいつの評価への心証は、しばしば一致しない。

 三棟を出て、一棟の東階段を下りながら草凪は続ける。


「そもそも特定の男子と積極的に話す用事なかったし、私と1人と長々と話す前に、男子も女子も誰かしらまざってくるからね。女子グループの中ですらそんな感じだったし。登場人物全員女子の例だと、大抵グループの中で、あの子ばっかりずるい、わたしにもかまえーって意味だから、今回の件とは違うと思う」


 何の自慢なんだ。

 草凪はやや振り向き、口元を手で隠しながら上品ぶった笑みを浮かべる。何しても似合うなこいつ。


「私がかわいくて面白いからつい話したくなっちゃうのはしょうがないよ怒らないであげてうふふ、みたいなフォローしてもなんかミスターの場合違う気がするから、いい感じに丸く収める台詞大募集です」

「なっちゃんでさえ思いつかないなら、わたしなんかもっと思いつかない」


 夢方がお手上げとばかりに首を振ると、鏡名は面白がって笑う。


「ご同輩の場合、話したくなっちゃうのわさなぎさんの方だもんね、見た感じ」

「やめてくれカガミー。その指摘は私に効く」


 否定はしないのか。


「ご同輩に頼んだみたいに、『それって暗にミスターに出家しろって言ってる?』ってはっきり言った方が伝わると思う」

「私が言うと、本気で応援しかねない子たちがいるから……ミスターの気も知らないでそういうことしてほしくないしさ」


 あぁ、そういう事情もあるのか。

 この2人も、傍から見れば気安く軽口を叩き合う見た目の整った男女のはずだ。なのにこちらには何も感じないのは、まさに鏡名が指摘した、塚原に対して特に発揮される積極性の差だろうか。あたしは階段を下りながら、数歩距離を置いて歩いている塚原を肩越しに振り返りながら言う。


「他人事だからこそ適当に思い付くアイディアを期待してるんだろうが、あたしたちは肝心の実態を知らないしな」


 草凪の主張をまとめると、塚原は友人であって寺の後継ぎや伴侶の対象としては見ていない、ように取れる。本人にあえて言わせることで恋愛感情を削ぐ効果もあるだろう。ただ、塚原に遠慮して周囲にそういうポーズをとっているだけで、当人さえその気なら一気に祝福ムードにさせるための仕込み、とも取れる。少なくとも、明確な否定や拒絶ではない以上、意識的であれ無意識であれ、どちらに転んでもという打算はあるように思う。草凪が好きだと公言している『似姿のデュナ』のダブが好んだ手法だ。

 もちろん、本人の手前はっきり言えないだけで、内心は決まりきっているかもしれないが。


「実態……」


 草凪が眉を寄せて呟く。当事者の片割れである塚原は、終始蚊帳の外とばかりに他人事のような表情だった。……こんな男子が草凪と二人なら話し込むと言われれば、話の種にしたくもなるのはわかる。


「単純に塚原が誰かと長々話してる絵面が面白すぎるんだと思うが」

「あ、そういうこと!?」


 踊り場で草凪が振り向き、塚原を探した後驚いた面を見せつける。美人のくせに無駄に表情豊かなやつだな。

 塚原は草凪に追いつき、顔を背けた。


「…………相対的に特別扱いに見えてしまうのであれば、相性の問題に帰結する」

「相性ねぇ…………」


 草凪が塚原の横顔に、意味ありげな視線を向ける。塚原といてぽんぽん話題が出て続くなら、確かに相性がいいのは間違いない。だがそれは単に草凪のコミュニケーション能力の賜物だろう。他に塚原と話すのは、あたしが知る限り鏡名や鴾野くらいだ。その2人も、口も頭も気も回るタイプだ。


「ご同輩、話短いから盛り上がるタイプでもないしね」


 鏡名からすらこの認識らしい。盛り上がればそれでいいタイプではないので、そもそもコミュニケーションの価値基準が違うはずだ。


「なっちゃんはわかるけど、塚原くんもなっちゃんと時々一緒に帰ってること誰かにからかわれたりするの?」

「数回あった」

「あんのか」


 こいつにそんなことを言うのは、やはり千道か。あるいは千道と同レベルの色ボケか。


「やっぱり、一々うっとうしいとか思う? 無視?」


 夢方にさらに聞かれ、一棟の一階に出ると、塚原は短く答える。


「真に受ける価値がない」


 草凪と夢方の雰囲気が変わった。草凪が塚原の顔色を窺いながら、緊張した様子で口を開く。


「……………………ミスター、すごくさらっと怖いこと言うね」


 あたしと鏡名は、特に変わらない。


「そうか? 深く考えずに無責任に言ってる、って意味じゃ、その通りだろ」

「男子より女子の方が自分の評判とか気にしちゃうって聞くし、ご同輩はこうだしね」

「でも、今の聞いたらやっぱり、迂闊に塚原くんに話しかけるのやめとこうかなってなるよ」


 夢方は不安げにしているが、その論理展開はおかしい。言葉に責任を持たない連中が勝手に遠ざかるなら、願ってもないことだろうに。特に、こいつにとっては。


「それはそれで結果オーライなんじゃないか」


 あたしが遠回しに塚原の孤独を称えると、草凪が異様に低姿勢で塚原に並んだ。


「ミスター。うざかったらちゃんと意思表示してくださいね。なるべく気を付けてはいるんですが」

「なっちゃんまで怖がってる……」


 夢方が憂うと、鏡名が声を出さずに笑った後、草凪の口調を真似た。


「ミスタ~、私の悪いところ直すから捨てないで~」

「私の台詞捏造するのやめなさい……」

「もー!」


 夢方が鏡名の制服の袖を叩くと、鏡名は笑って流した。

 茶化されたので本人も自覚したろうが、飛び抜けて顔のいい女がああまでへーこらするのは新鮮だ。面だけなら草凪の方こそ男女問わず阿諛追従させていそうなものだが、気安く話しかけやすい雰囲気を作っている草凪にとっては、塚原の態度は思うところでもあるだろう。

 そこまでして塚原と今後も交流したいものだろうか、と指摘してやりたい気分に駆られるが黙っておいた。あたしも今から塚原と話しながら帰るのだ。自分の話も内心では真に受ける価値がないと思われたら、と考え出すと、あれを媚びと断じる気にはなれなかった。

 鏡名は草凪に詫びる。


「ごめん。でもわさなぎさんにここまで言われてもちゃんと反応しないご同輩も、甘えが過ぎると思う」


 また黙って聞いていた塚原が、ようやく口を開く。


「……他意がないなら、堂々と」

「はい」


 草凪の返事はしおらしいものだった。


「距離感に自覚があるのは、どうだっていい。ただ、過ぎたるは猶、ということもある」


 言葉を重ねない、要点だけの発言だった。試すような物言いにも聞こえるが、忠告は多かれ少なかれそういうものだろう。


「…………気にしすぎない方がいいって受け取り方でいい?」


 塚原は首肯した。かつてはママ呼ばわりされた草凪も、塚原の前では小娘同然だった。


「尊重しすぎなんだろうな」


 あたしはざっと分析し、呟く。好意ゆえに嫌われたくないのか、自己主張しない相手に押し付けたくないのか、草凪の動機はわからない。ただ、ある種の神格化や盲目に近い何かを感じた。草凪は聞こえたらしく、あたしに苦笑する。


「ミスターを雑に扱える自信がないもので」

「…………それは、あたしもない」


 苦い顔を返した。鏡名が気楽な調子で背を反らす。


「これが同性ならもっと大雑把で気楽なんだろうけどね」


 そうは言うが、同性だからとずけずけ言えるのは、お前か鴾野くらいのものだろう。

 のたのたと歩きながら、ようやく昇降口に差し掛かる。4人は一年生の靴箱に回った。定時制が登校しているこの時間は、一年生の靴箱の出入口は施錠されている。あたしが二年生の靴箱前で自分のローファーを履いていると、鏡名が薄汚れたスニーカーを持って来た。


「……一番おちょくりそうなもんなのに、思ったほどネタにしないな」


 鏡名は神妙な面構えを向ける。


「中学高校で2回も貞操観念ネガキャンされた寺生まれの女子を色恋沙汰でいじるのは、色んな意味で喧嘩の元でしょう」


 その割にさっき捨てないで~とか言ってやがったよな。


「その辺りのラインは意外と弁えてるから絶妙に文句を言えないんだよね」


 ローファー片手の草凪が続きながら言う。自転車にその靴は、どうなんだろうな。

 塚原は黒地に青と白のスニーカーを左手に持ってくる。鏡名は左利きの男子を横目に呟いた。


「それに、ネガキャンなら相手も相手で、冤罪死刑未遂をネタにされてそうですし」


 今度こそ全員絶句した。

 それを引き合いに出されてしまえば、塚原本人以外に反応する権利はない。

 CBE研究センターのクローン(Burning)襲撃(Clone)事件で、乳幼児認知研究室に預けられていた7人のクローンは2人きりにまで減った。その事件で塚原進路が焼死したため、彼が命がけで助け出した赤子2人は別々の場所に預けられた。その話は、少し調べれば誰でも知っている情報だった。一人は大海原一属の万才養成所へ、もう一人は塚原進路の両親である医師と看護師のもとへ。両親に預けられた方は、塚原進路の妻・旧姓最上美幸と幼い娘・愛美と、年に数回交流があったらしい。……塚原進路の両親が殺害された事件で、クローン少年が容疑者として報道されていた時期に、あたしも何度も聞いた。

 その報道を、ただ万才で受け取ることしかできない立場。…………鏡名の言った通りだった。親殺しの同類。運命が少し違えば性病持ちヤク中は誰だったか。そういう罵倒がすぐに浮かぶ。……あたし自身、濡れ衣だと知らなかった頃、こいつもまとめて死んじまった方が世のためではと義憤に駆られていたから。代理出産ガイノイド(メイトレス)生まれ(・チルドレン)差別の本場である万才で何があったかなんて、想像すらする気にもならない。

 推定無罪なんざお構いなしに、容疑者と犯人は直ちに等号で結ばれ、既成事実が生まれる。実態からも真相からも離れた思い込みが一度共有されてしまえば、そこでは真実は価値を持たない。容疑者が犯人でなかろうと、事件そのものが起きていなかろうと。鏡名が指摘しているのは、そういう話だ。草凪のかつてのデマも、本質的にはそこに通ずる。

 塚原に視線を向けるのが怖ろしくなって、一足先に昇降口を出て、蒼暗い空と半月に視線を向ける。

 左手、武道場の二階から聞こえる、竹刀で打ち合う音。体育館から聞こえる運動部の、ボールをつく音、床とシューズの擦れる音。正面からは、車の時折通る音。右手には、グラウンドのサッカー部。日は落ちて、もうそろそろボールも追えなくなる。

 押し黙る一行を意に介さず、鏡名はよれよれの靴紐を結ぼうと座り込みながら続けた。


「風評や外聞だけで誰かを殺せるっていうのは、『デュナ』でも重大だったじゃないですか」


 今度はまた『デュナ』か、と思ったが、その話題も切実だった。望まぬ形で愛されることも、他人の手柄を押し付けられることも、当人には地獄だ。草凪が反応するかと思ったが、彼女は口を利かなかった。鏡名はさらに続ける。


「やっさん部長は孤高の理数科トップって扱いで済むでしょうけど、ぼくは普通科トップの方より、同級生殺人未遂で有名ですしね」


 ……………………反応しづらい話題ばかり畳みかけてきやがって……!!

 誰かこいつの言葉を遮れよ、と思いながら、あたしは適当に返事をする。


「…………それ、聞いていいやつなのか」


 初めて聞く話ではなかった。こいつの中学時代、友人である潮崎兄とやらが潮崎妹を妊娠させ、それにブチ切れたこいつが暴力沙汰を起こした、という噂が、草凪のデマと同時期に広まっていた。先生方が不在の間に鏡名がその潮崎兄を殺しかける勢いだったところを、学年女子最強の草凪が引っ張り出されて割って入った、とも聞いていた。初めて聞いた時、何から何までラジカルすぎるだろ、と思ったものだ。

 彼は施設育ちであるという情報も出回っていたので、事実なら身近に性関係や出産関係、あるいは親子関係等のトラブルがあったのだろうと同情していた。両親共に保護者として不適のため施設へ、というのは9年10年前に社会問題となっていたし、そういった児童がしばしばその手の話題に過敏な反応を示すのは、身に覚えがあった。

 鏡名はくたくたの靴紐を両手で引っ張りながら、顔を上げずに答える。


「いいんじゃないですか。わさなぎさんが割って入ったから相手は致命傷を免れたって美談もありますし」

「どういう美談だよ…………」

「あー、中学一緒だったんですけど、女子で一番物理的にパワーキャラなのが私だったんで、駆り出されたんですよ、先生が来るまでの保険で」


 草凪は手刀を構えてみせた。


「…………いや、にしても、殺人未遂?」

「殺す気はありませんでしたよ。あいつのことは」


 下足場で立ち上がった鏡名は、突き放すように言い放った。


「それを語るには余暇が短すぎるので、また別の機会にしましょう」


 その表情は、夕暮れの陰影に紛れて見えなかった。

 短い沈黙を破ったのは、昇降口から出てきた夢方だった。


「…………なっちゃんと塚原くんのことで誰かが話してたら、わたしは何か言った方がいい?」


 続いて出てきた草凪は、場を和ませたいのか明るい声を出して塚原に話を振る。


「おー、それどうしようね。どうしようミスター、どうだっていい以外で」


 どうしようも何もやめさせりゃいい話だろ、と思うが、あえて塚原にも聞くのはやはり、あたしにはない繊細な心理の揺れ動きを感じさせる。鏡名に押されるように出てきた塚原は、草凪から顔を背けるようにして、思慮深く答えた。


「……………………本人に聞いて、と誘導するのが一番確実ではある」

「まぁそうだけど、同じ部活のメンバーとしてどう、とか聞かれたらさ」


 食い下がる草凪に塚原が振り返る。鼻の頭が塚原の口元と触れ合いそうになり、草凪は慌てて2歩下がった。夕闇で頬を染める彼女を塚原は無感動に眺め、目を見て答える。


「…………恋愛には発展しないと思う、とでも」

「…………ふーん…………ま、そうだよね」


 含みのある声色で塚原を見つめ返した後、草凪は視線を外した。恋愛禁止の演劇部副部長の答えとしては正解だ。鏡名がやっと出てきながら気安く突っ込む。


「なんで不満げなのさ」


 あたしにも、他意はあるように聞こえた。だが単に、塚原と仲がいい分には一部の女子から共通の敵扱いされずに済むから、という打算かもしれない。その手のことは、あたしにはわからない。

 にしても、殺人未遂云々の話の直後で、鏡名と草凪は、よく今もさっきも、目だの耳だのと戯れていられたな、と思ってしまう。だが、その手の事情もあたしには理解できず、何も言えなかった。

 初めて詳細を耳にした時、妹を無責任に孕ませる兄が友人ならぶちのめしてやるのが情けとこいつなら言う気がしたし、草凪も過剰さを窘めこそすれ、鏡名の行い自体は咎めないような気がした。あれから半年が経った今でも、やはりこの二人はそうする気がした。正義と善良が平時では友人なのは自然なことだし、暴力と武力が力の振るい方以外では余計な干渉をしないのもごくありふれた構図に思えた。陰鬱で無力なあたしには、理解できない領域のコミュニケーションだ。

 この二人から気にかけられている塚原は、何なんだろうな。

 草凪は、塚原の返答に思うところでもあったのか、鏡名への返事を塚原に話しかける。


「寺生まれとしては気軽に好きになられても困るからありがたいんだけど、ミスターから一切矢印がないのもなんかこう……私が声かけなくなったら一瞬で疎遠になりそうでさみしいなって」


 先に断りを入れてあるとはいえ、後半は思わせぶりな物言いに聞こえた。誰にでも言いはしないのだろう。だとしても、どんなつもりで言ってるんだか、という呆れは残る。本当にただ言葉通りか、あるいは差別される相手に優しくありたい偽善か。あるいはシンプルに、社交的で面倒見のいい草凪だからこそこういう言葉が出てきて、相手が沈黙と孤独を苦にしない塚原だからこそ勘繰られるのか。

 言うに事欠いて、一瞬で疎遠になりそうで寂しい、か。


「友情ってそういうもんだろ」


 あたしは切り捨てる。そんな感傷が通じるほど、塚原は揺らぎやすい奴ではあるまい。

 鏡名が真顔でこちらを見る。


「やっさん部長友達いるんですか?」


 濁さず聞きやがって。


「いないから言える」


 そもそも、一方的に話しかけたり付きまとうような関係性を友情とは呼ばない。依存か押し付けとでも言うべきだ。淡交で充分そうな塚原と対等に付き合いを続けるなら、相応にどっしり構えるぐらいでなくては務まらないだろう。それこそ、塚原を振り回せる鏡名か、塚原を引っ張り出せる鴾野のように。

 …………無論、人や関係性を無理に型にはめるのが間違いではあるんだが。


「……じゃあ、ミスター。程々に、コンドトモヨロシク」


 草凪はぎこちなく呼びかけ、塚原は口を開かずただ頷く。こいつは草凪に友情を感じたりするのだろうか、とふと思ったが、友人のいないあたしが聞いても理解できそうにないので聞かなかった。

 正門と駐輪場へは、途中まで同じ道を行く。5人がばらばらになんとなく同じ方へ向かう途中で、保健室前を通り過ぎる。カーテン越しに灯りが透けて見えた。

 鏡名がふと空を見上げた。


「この麗しい友情が終生続くことを祈る吉宗であった」

「急に何?」


 夢方が真顔で追及する。確かに、鏡名の唐突さは毎度毎度不愉快だった。見透かしたような口を利いたり、思慮深い発言をしたり、かと思えば友人のネガキャンや友人親類の冤罪の話題をわざわざぶち込み、己の暴行をも自ら話題に挙げる。こいつこそ友人はいるのだろうか。

 あたしと同じく友情を強調した鏡名は、草凪をちらと見た。


「わさなぎさんは顔に似合わず気を遣うなぁって」


 感慨深げな呟きに、あたしも連想する。

 草凪は、類稀なる容貌の持ち主だ。こいつなら、超然と息を吸うだけで他人を黙らせ、無言の微笑み一つで人の心を奪うような芸当も容易だろう──それこそ女神のオリジナルのように。だが、こいつは思い出したように自分の面の良さで遊ぶことはあっても、それを本気では使わない。協調し、雑用を引き受け、ころころと表情を変え、動揺も困惑も顔に出す。それは女神の振る舞いからは遠い。

 女神によく似た女は、微苦笑を浮かべた。


「美にかまける者は醜いでしょう」


 なんてことのないような、当たり前の口ぶりだった。

 あたしは思わず、彼女から顔を背けていた。

 こいつが好かれ、信頼される理由がよく分かる。同時に、こいつの悪評が流れた理由も、よく分かってしまう。

 女向けの創作で、恋敵の美人は常に性悪だ。でなければ主役に勝ち目がないから。仮に好人物であっても、歪んだ視界からは、悪そのものとしてしか描かれない。女の敵は常に女だ。恋敵が自分より運動も勉強もできて、顔も人当たりもいい努力家なら、自分は粗探しで喜ぶ悪役でしかない。さぞ惨めだろう。

 仮に人柄を信用できるなら、好きじゃないなら彼から離れてくれと一言伝えれば好転の目はあるかもしれない。誤解ということもある。だがそれは敗北宣言だ。屈辱に思う奴も出るだろう。しかも、その敗北宣言を経て、何なら元恋敵の手を借りてすら、自分の恋が実るとは限らない。離れた程度で恋敵の魅力が目減りするわけでもなければ、想い人に近づいた程度で自分の魅力が底上げされるわけでもない。

 こいつが素直に努力を重ねて伸びていくほど、傍からは他が、無能で怠惰な捻くれ者に見えてくる。悪意がなくとも劣等感を覚え、拗らせた感情を投影して、逆恨みするやつが現れるのも、疑問の余地がない。半端にプライドや自信がある奴ほど、憎悪は深くなるだろう。プライドや自信に満ちているなら恋敵すら称えて競えるだろうし、並以下なら最初から悟りの境地だ。

 だから余計に、羨ましく、恨めしくなるのだろう。美人なら美人らしく、媚びずにお高く留まってやがれと。さもなくば何物にも囚われず、我が道を進んでやがれと。

 いいやつだから疎まれるのだ。そして馬鹿共の逆恨みを買う。夢の女神の生き写しを肉の奴隷と貶め、魅力も価値も、全否定する。人物評価の定まった中学半ばならまだしも、高校入学当初なら効果は絶大だ。先入観で遠巻きにするようになれば、不誠実と非道徳が寄り付く隙も生まれ、まともなやつは余計に離れる。嘘は既成事実になる。それを利用するストーカーも出てくる、というかまさに演劇部にいた。

 草凪が心は女神とのたまう時があっても、それが本音なのかどうか定かではない。寺生まれの巫女を自称し、俗っぽい口調で話し、漫画やゲームの話題も平気で出す。まるで自分が凡人だと、堕天した神聖ならざる者だと知らしめて生きるかのように。自分は信仰されるべき器じゃない、恐れるに値しない相手だから、どうか仲良くと言わんばかりに。

 間違っているとは思わない。ただ時々、無性に気に入らなくなる。

 神なら人に媚びてんじゃねえよ。


「美人は毒だな」


 あたしは呟く。目の毒だ。強すぎる光は、虫も人も星さえも狂わせる。

 草凪はわざわざこちらを向いて微笑んだ。


「生きる薬でありたいものです」


 あたしは顔を背ける。こいつを毒だと思う時点で、そいつが間違っているのだろう。それでも良薬は、口に苦いものだ。

 鏡名が後ろから応える。


「中毒を起こさせるなよってさ」


 そのまま体の向きを逸らした鏡名は、立ち止まる。あたしもそれ以上触れる気はなかった。もう、暗くなる。


「じゃあ、この辺で。さようなら」


 鏡名は冷ややかに会釈した。夢方も頭を下げる。


「気ぃ付けて帰れよ」


 なんとなく先輩風を吹かすと、夢方は顔を上げて遠ざかりながら手を振った。


「さようならー」


 手を振り返したのは、草凪と塚原だった。草凪は、塚原も手を振っていたことに気づいて嬉しそうに笑うと、慌てて振り返ってこちらに向き直る。


「あぁそうだ、すみませんやっさん先輩、長々と」


 女神だったり巫女だったりする後輩は、今はずいぶん腰が低いようだった。


「謝られる筋合いはない」


 電車大丈夫か、という点だけは気にかかるが、塚原が焦っていないなら口を出すほどでもない。

 それにしても、と目の前の草凪を見下ろす。澄ました顔で黙って見つめられるとなかなか、何というのか、目が離せなくなる。黙っているだけで威厳が生まれてしまう顔立ち、というのも、こいつの生き方を決定づける要素なのだろう。雰囲気がそうさせるのか刷り込みなのかはともかく。

 それを言うなら塚原もか、と視線を向け、草凪に呟く。


「……ろくにしゃべらないのによく話続くよな」

「話題を振るときちんと相手してくれますから。ミスターはね、味わい深いんですよ」


 そう楽しそうに笑う彼女は、女神の威厳とも天才の風格とも程遠い、ただの美のつく少女だった。どんな表情もポーズも絵になるやつだ、とあたしは苦い顔になる。


「引き出せる人柄とコミュニケーション能力ありきだろ……」


 塚原こそ超越的な態度が目立つやつだ。他者を寄せ付けず、かといって拒みもせず、空気に紛れ、端的に片付ける。本心は明かさず、自らを語らない。

 だからこそ、この二人の交流は傍から見ていて気を引くのだろう。アイドルと暗殺者のようなアンバランスさと、そこに生まれそうなドラマが。──今の世界を作った天才たちの生き写しという意味深さも含めて。


「それじゃあ、やっさん先輩。火曜日も、お待ちしてます」


 偶像を振り払うように巫女は笑う。


「ミスターも。また月曜日ね」


 人形のようにクローンは笑わない。


「…………じゃあ」


 2人も別れて歩き出す。草凪は鏡名と夢方を追いかけるように駐輪場へ。塚原はあたしと同じ正門の方へ。

 この光景が、なぜだか鮮烈に心に焼き付いた。

 多分こういう瞬間も、青春の一頁と人は言うのだろう。

 ふと、居心地の悪さを覚えた。

 どこかよそよそしく、惨めな気分だった。特別な連中のドラマに偶然映り込んだ一般人が、主役に親しげに接しているような。たまたまただ居合わせただけの、観測者。誰の物語にも名を残さない、その他大勢の1人。

 そんな気になった。

 一際輝く星の隣に別の輝く星あらば、線で結んで人は描く。神話を、ドラマを。一方的に、勝手に。そのすぐ傍で弱々しい輝きがかすんでいても、気付くことはない。気にすることもない。

 天球に描いた星図では、星々の本当の距離や歴史は測れないというのに。

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