4 天の光はおよそ偽②
静かに授業セットを視聴覚室の机に置くと、奥の席の男子が顔を上げた。本間はあたしを認めて眉を上げ、なぜか薄く笑みを浮かべて小声で話しかけてきた。
「保健室行ってたって聞いたけど、大丈夫なんだ」
あたしは半ばにらみつけるように一瞥して無視した。本間はまだ何か言おうとしていたが、その奥の席の前川に話しかけられて顔を向こうに向ける。
「見りゃわかること一々聞いてやるなよ」
「いや、でも一応」
本間はすぐに口を閉じた。沢野先生がプロジェクターの準備を終えてこちらを向いたからだ。
二限続きの前半はただの映像授業で、東理工大工学部教授の外部・一般聴講者向けオープンコースウェアの動画の視聴だった。動画タイトルは、『工学のための大学数学シリーズ① フーリエ変換』。メインは後半で、フーリエ変換を利用した科学技術について、ご本人直々のオンライン授業となる。講義の後が数分空白になっているのは、質疑応答や提出データをまとめる時間だろう。
彫りの深い顔立ちのじいさんが動画の中で一礼し、フーリエ変換とは何か、前説が始まる。あたしはあくびを噛み殺しながらスクリーンから視線を外し、聞こえてきた要点を手元のタブレット端末に走り書きし始めた。波の重ね合わせで様々な関数を表現できる。フーリエ変換はその分解を行い、時間の関数を角周波数や周期の関数に変換、空間の関数であれば波長や波数の関数に変換する。何年か前に同じような動画を興味本位で既に見たことがあるせいで、この先何を話すかもおおよそ読めてしまっていた。とはいえこの授業で学んでいないことをうっかり書くわけにもいかないので、結局は真面目に聞く必要がある。
続いて歴史的経緯と定義に入る。フーリエ変換はフーリエ級数展開の拡張で、周期関数にしか使えない計算を非周期関数にも使えるように、周期が無限の関数として扱うことでフーリエ変換を可能にした。高校生向けの言葉で話すと、ある絶対値付き関数を無限区間で定積分して有限の値を取るような関数があり、かつ、その関数が区分的に滑らかならば、フーリエ変換が可能である。その場合、その関数は三角関数の和、つまり波の重ね合わせで表せる。条件の一つである絶対可積分を満たさない身近な関数も多い。余談として言うことには、工学部と数学専攻の学生とでは扱う数学的な厳密さが異なるため、フーリエ変換に触れるタイミングがずれるらしい。あたしは今のところ数学に人生を捧げる気はさらさらないので、これからの人生で超関数を深く学ぶ機会はきっとないのだろう。
動画の内容をまとめたスライドのPDFが事前に配布されているため、一応背筋を正して提出用にメモの整理も黙々と続けていく。
ベクトルは直交しているベクトルの和で表せて、関数は成分が無限にあるベクトルと考えられるから、関数は直交している関数の和で表せる。以前見た動画ではこの、直交しているなら内積が0という点が重要で、量子力学では関数の内積という概念の理解が大前提となる、と言及していた。粒子はベクトルで波動は三角関数なら、橋渡し役の何かがあるのは言われてみればそうかと納得した覚えがある。
時間フーリエ変換については、オイラーの公式を用いて代入して指数関数の和で表し、角周波数の異なる関数ごとの係数を求めれば完了、という流れだった。待ってましたとばかりにスクリーンに大写しになるオイラーの等式と解説を半分聞き流しながら、ファインマンではないが、よくもまぁこんな式を発見したものだとため息がこぼれる。三角関数と自然対数と複素数がこれ一つに詰め込まれている。
合理的な美しさと利便性の調和。神聖さと感心、それと同時にわずかに呆れも覚える。虚数まだ習ってねぇよ。
同じことを考える生徒が多いのか、視聴覚室中のあちこちでため息が聞こえてきた。一旦数学の湯川先生が一時停止して虚数と複素数の簡単な説明を挟んだが、焼け石に水だった。一応準理と理数科とはいえ、ここまで理解するのがやっとの生徒にとっては、習っていない概念まで出てきたらお手上げだろう。サイエンス部数学班を中心とした数学好きの連中は生き生きとしているが少数派だった。
結局最終盤の理解が不十分なまま動画の再生が終了し、授業が中断されて休み時間になる。知的探求の旅は半ばで止み、話し声が視聴覚室に溢れ出した。
ふと、何度来てもここは苦手だ、と感じ始める。座るときに後ろの席から座面を倒す形式なのも面倒だし、横三人で座面や机を共有するのも、隣や後ろからの軋みや振動が響いて不快だった。間の席の人間が通るたびに一々断って端の者を一度立たせる手間に至っては、煩わしいことこの上ない。
そして、ここはよく音が反響する。
昔から、ざわめきが嫌いだった。
普通の人間は、カクテルパーティ効果がはたらいて選択的聴取ができるという。だが、あたしはなぜか、遠くの会話も真横の会話も同時並行で聞こえ、正確に脳内で処理される。
「この間助っ人で練習試合行ったとき突き指しちゃってねー」
「最後全然わかんなかったんだけどどうしよう」
「なぁー今日一文字行かね? カラオケ一時間無料クーポン配ってるってよ」
「妹がDRで待ち合わせ寝過ごされたって彼氏にキレてたけどノンレム優先に決まってるよな」
「おなかへったーチョコ食べちゃお。いる?」
「オレ粘菌の流量強化則で経路積分の最小原理を説明してる動画が好きでさ」
「やだよお前の歌ヘタクソ超えてクソじゃん」
「今日の夜オリオン座流星群が極大なんだけど、ぜってー観測できる気しねぇ」
「あーまじ肩いてぇー」
「息子の誕生日プレゼントの第一希望が去年までずっと木刀だったんですけど、今年とうとうギアプラスになりまして」
会話の中身だけではない。音源もその動きも、眼を閉じたままで把握してしまう。全ての会話がどこで何人となされているか聞き分けられ、天井や壁の反響も、屋内の構造や材質の推定も、世界が意味のあるノイズとして流れ込んでくる。先の授業内容に照らして言えば、頭の中で音波と位置のフーリエ変換が全自動で行われていると言えるかもしれない。
これだから、集団行動は嫌いだ。
講座が再開し、後半はフーリエ変換がどう役立っているか、上田教授直々のご紹介と相成る。率直に申し上げて、こちらもアーカイブ垂れ流しでよかった気がしなくはない。
電気回路、画像処理、制御工学、音響、追感、表象工学、人格関数エンジン……。平たく言えば、ノイズを消したり、特定の波を抽出したり、それを再現したりが主な使途だった。人格関数エンジンは言語を取り扱う性質上、膨大な量の次元の関数と成分が出てくる点が強調された。微分方程式やスペクトル解析などにも言及されたが、生徒の七割は手が停まっていた。
後半に関しては、特筆するようなことはさしてないと言っていいかもしれない。専門家や塾講師による初学者向けの書籍や動画やブログがいくらでも見つかる時代なので、新しい学びはさほどない。ただ強いていうなら、フーリエ変換という大きな柱をテーマに各分野を横断して、ある程度体系化された知識を身に付けることで工学と数学への興味を持たせるという意味では、講座の意味は十分にあっただろう。個人的興味の観点だけなら、去年見学した無響室であったり、先週の南極基地の氷やオーロラの話であったり、夏前にCRISPR-Cas9で実際のゲノム編集実験をさせてもらったりして、あれらの方が新鮮で面白みがあったが、汎用性と応用性では今回が勝る。
講義は早く終わり、質疑に移る。が、誰も挙手しない。沢野先生が、せっかくの機会ですよと促すが、誰も手を挙げそうになかった。そもそもフーリエ変換自体の理解が追い付いている生徒がどれだけいるか考えれば、無理もあるまい。フーリエ変換の便利さと落とし穴について質問しておけば間違いないのだが、あたしの場合、どういう質問をしてもあまり関係ないような気がしてしまうのだった。
仕方なく挙手すると、沢野先生がほっとしたようにあたしを指名した。隣でひそひそとさすが学年一位だのとささやく声を無視してあたしは立ち上がり、会釈してマイクを受け取った。
「今回のお話と直接関係ないかもしれませんが、よろしいでしょうか」
理数科と準理の生徒たちの視線が集まる。あまり気分のいい感覚ではないが、お前らが質問しないのが悪い。少し遅れて、スクリーン越しに返事が来る。
「構いませんよ。あまり遠すぎない質問でしたら、お答えします」
「ありがとうございます。追感や表象工学の分野で、感覚強度の制御や感情中毒防止のフィルターにフーリエ変換が利用されているというお話でしたが、それらのフィルターは自作は可能でしょうか?」
愚問だと、自覚はあった。精神活動は神経系と分泌系の複雑な相互作用の果てに成り立ち、あたしが真に必要としているのはノイズキャンセリングフィルターでもミラーニューロン抑制信号波でもなく、耳栓とアンガーマネジメントだった。だがまぁ馬鹿丸出しの質問でもしないよりマシかと思ったまでだった。
上田教授は、一通り聞くと大袈裟に眉を上げて笑みを浮かべた。
「おー、自作ですか。熱心ですね。可能かどうかで言えばもちろん可能です。プリセットされているフィルターとはまた別にという形であれば、東理工大でも実際にフィルターを自身で作成してみるという課題があります。ある特定の色や音域をカットしたり、いくつかの感情の喚起を打ち消したり、年度によって異なりますが、専攻分野によってはそういった確認テストを行うこともあります。ここからは宣伝になりますが、そういった課題用の便利なソフトを大学の私の研究室のページから配布・販売していますので、興味がおありでしたらぜひ覗いてみてください」
「……ありがとうございます」
私は平静を装いながら一礼し、着席した。結果的に教授と大学の活動の宣伝になったようで、大学教授という肩書の連中の強かさを思い知る。一方で、こんな格好の宣伝材料をなぜ先程は黙っていたのか気にかかったが、最後に紹介するつもりでいたのかもしれない。
他に質問はなく、教授と沢野先生の儀礼的な挨拶と準理の学級委員長の号令の後、スクリーン越しの交信は途絶えた。
データをまとめる時間に入るや否や、本間が宣伝ナイスパスと親指を立ててくる。あたしは無視して確認メッセージを連打して提出ファイルを送信し、さっさと席を立った。後ろで本間が早いなと呟いたのが聞こえたが、反応してやる義理もない。すれ違う時、沢樫先生に会釈したが、さっきの続きはないようだった。
部活の顧問で二年目も継続して担任となれば、必然的に面談以外でも話す機会は多い。教職者に限らず目上のヒトや年長者は、目上の者や年長者には敬意を払えと言うが、そういう奴に限って敬意を勝ち取ることができないから権威権力を濫用するものだ。その点では、彼女は懐が深い部類だったので素直に敬意を払っている。あれでもう少し体型を絞りさえすれば他の生徒になめられることもないのだが、というのが率直な感想だ。
うるさい連中が来る前に行こう、と思い、歩幅は大きくなる。普段癖で猫背になってしまうが、身長はクラスの男子の半数より高い。もちろん足も女子としては長いから、早歩きは得意だ。ただ、心拍数が上昇するから好きではないだけで。
心身の安定を保てる安全な速度で歩行し、二棟四階から三階中央通路を抜けて一棟三階を経由し、大きくUの字を描くように移動して、三棟三階の階段を上り、三棟四階の部室に到着する。息を整えながら『元気厳禁』の看板を裏返し、『活気厳禁』を廊下側に向ける。耳を澄ませても、人の気配はない。
ドアを開ける。やはり人はいなかった。
入ってドアを閉め、適当に荷物を置いて座る。時計を見ると、丁度七限終わりのチャイムが流れた。
「早すぎた」
埋葬のように早すぎる。
「あたしも仮死状態になりてえ」
ショートホームルームも掃除も今日はない。だから金曜日は好きだ。
机の上に腕を伸ばし、その上に頭を横にして載せる。安定する位置を探して、そこから部室の様子を眺める。
教室前後面の黒板。廊下側壁面に控えるホワイトボード。クラス教室とは違う、掲示物のないシンプルな壁。音もなく滑らかに回り続ける壁掛け時計。放送用スピーカー。巻き上げられているプロジェクタースクリーン。そして、整然と並ぶ机と椅子。
その昔、一学年10クラスだった頃に増築され、少子化で誰も拠点としなくなり、特殊カリキュラムと朝夕の補講でしか使われなくなった、人気のない教室。ここの隣を去年掃除したおかげで、窓の外には霊園があることをよく知っている。
あたしが入部させられた時と、まるで変わっていない空間。
多分数十年前から、ずっとこうだったのだろう。世界が夢を現実にするよりもっと前から。世界が電子の網を張り巡らすより遥か昔から。
この教室は、いつでもここにあるのだろう。高校生活の喜びと憂いの前では、どんな社会の変革も青春を彩るフレーバーに過ぎないと、包み込みでもするかのように。
そしてきっと、数十年後でも。
「……眠い」
この時間のために学校に来ているのかもしれない、とさえ思う。体育や音楽の授業、部活動の音声も聞こえない、放課後のざわめきも独り言も聞こえない。この時間のために生きていると言っても過言ではない。
静かだ。
瞼を下ろし、力の抜けた声で呟く。
「みんな死ねばいい」
昔授業で詩を作ったとき、そんな題名を付けたことがあった。クソ女が家からいなくなって間もない頃だったので、感情の起伏が激しい当時の担任が妙に親身で不愉快だったことを覚えている。
だが、もう、どうでもよかった。
今は、眠い…………。
***
「寝てる分にはいい姉貴分っぽいと思う」
すぐ近くで声が聞こえ、はっと目を覚ます。
目の前に、草凪の顔があった。
「お目覚め?」
瞬き一つに視線が離せなくなる。長い睫毛、大きな黒目。骨格からして精緻な輪郭、その整った面立ちに、純粋な興味の色が浮かんでいる。綺麗な肌、垂れ下がる二本の三つ編み。
次の瞬きで魔法は解け、あたしは顔を背けた。
「…………永眠したい」
草凪が三歩下がると、もう部員は全員集まっているのが見えた。
「おはようございます」
座ったまま夢方が微笑む。
鏡名と塚原は、机を挟んで前後に挟んで座っていた。鏡名は中空で何度か指を弾き、手を下ろす。ホロバースでの量子チェスか何かを中断でもしたのだろう。やつは視線をこちらに向けた。
「やっさん部長、あまり強く死を連想させる言葉を遣うべきではないと以前言いませんでしたか?」
その声は珍しく落ち着いていて、それだけに怒りがこもっていた。
「……寝起きなもんでな」
適当な言い訳をすると、鏡名は不満げに失笑した。
「本気で言っているのでないならやめてくださいね。三回言っても聞き入れていただけないようなら、狼少女は駆逐するか焼いて食っちまうかしないといけませんから」
「お前に真実の耳があるのかよ」
鏡名はそれ以上言い返してはこなかった。草凪は適当な席に座った。
あたしは、体を起こして、軽く頭を振り、深呼吸。そして、刮目する。
「出席率100%か」
鏡名がたった今向けてきた怒りなどなかったかのようににやついた。
「今わさなぎさんが来たところです。……一番来そうにない人間が一番乗りでしたね」
「早く来れたから来たまでだ」
あたしが応じると、草凪と夢方は目を丸くした。
「大変お待たせしましてございます。これ今日行ってきたところで作ってる自己修復素材のサンプルです。あげられませんけど帰るまで爪立てていていいですよ」
「出てくれるんですか……?」
聞かれても、困るが。
「出るとは言ってない。出るつもりもないが、後々のことを考えると、結果だけ押し付けられるのは最悪だからな。あとそれ去年貰ったから戻しとけ」
苦渋に満ちた声色でそう吐き出すように言うと、鏡名がにやにやと笑った。
「つまり、口出しだけはしたい、と?」
癇に障る言い回しだった。
「そうも言ってない」
「じゃあどういうことを言いたいんですか」
にやつく鏡名に問われて、少し躊躇った。
「…………口を出すつもりもない。ただ、眺めさせてもらう」
「なるほど」
鏡名はにやにやと笑みを浮かべたまま、草凪に目配せした。
「厄介な裏方だ」
「ただし、進行があまりにふがいないようなら、あたしが取って代わってやる」
あたしが予告すると、草凪は鞄から手を抜き、面々を見回しながら右人差し指の第二関節を顎に添え、左手を右肘に添えた。一々絵になるのがうざいやつだ。
「監督兼裏方・やっさん先輩、脚本・私、主演・この五……四人の誰か」
「まあ、そうなるよね」
夢方が相槌を打つ。草凪が顔を上げた。
「じゃあ、今日は、できれば具体的な話の内容と、誰がどの役をやるかまで決めましょうか。台本共有と修正や読み合わせ辺りを次回以降できるといいかと思っとります」
「今日だけで決まるかな?」
面白がっている鏡名に、夢方が言う。
「早いほうがいいよ。あんまり時間ないんだし」
草凪は立ち上がり、顔を上げた。
「それじゃあ不肖わたくし草凪和沙、脚本担当として司会を務めさせていただきます。どうぞよろしく」
そのままホワイトボードの前に立つと二本の三つ編みが揺れた。あたしは遮る。
「いきなり口を出して悪いが、具体的な手順としては、何からどう話し合って決めてくんだ? 無駄は省きたい」
聞くと、腕を組んだ草凪が口を開くより早く鏡名が茶々を入れてきた。
「無駄は豊かさですよ、部長」
「……えーと、それなんですけどね。まずは皆さん、というか私達の大前提を今一度確認したいと思うんです。どういったゴールを目指すのか、どこまで出来ればひとまず良しとするのか」
慎重な言い回しだった。
「目的の共有か」
「ええ。ただベストォォ! とか頑張れ頑張れやればできるとか言うのは、それ一直線の個人ならそれでいいかもしれませんけど、我々それぞれが他との兼ね合いとか都合とかを考慮して動かにゃならん集団なわけですし」
「要は妥協点を探ろうって話か」
「まぁ、聞こえは悪いですけど、落としどころをね。そもそも何を以てベストを尽くしたと言えるかですよ」
「事によっちゃ一番大事なところだね」
「ですので、何をやるか話し合いを始める前に、来年度の春の新入生歓迎会まで視野に入れて、部全体の目標、課題を決めておこうと思うんです」
顧問や部長よりそれらしいことを言う。反対はしないが、来年度まで視野に入れるのは早計に感じた。
「それ自体はいいが、来年の事を言えば鬼が笑うぞ」
はっきり言えば部としては長期的な視野を持つレベルに達していない。鏡名が茶々を入れてきた。
「今日より素晴らしい明日を目指さなきゃ生き続ける甲斐がないでしょう」
「資本主義の権化がよ」
あたしが毒づくと、やつは神妙な微笑を浮かべる。
「不可逆ですからね、この世界は」
「…………えぇと、名前はわかんないけど、アイデア賞とか主演何とか賞とか、そういう感じ?」
夢方が困惑しながら話を戻すと、草凪は何もなかったように頷く。
「目指す分には。ただ、その目標のために何ができるか、途中で諦めない程度に実現可能性が見込めるかも考えて決められるといいなと思っております」
「んなこと考えるより先に何やるか決めて、その後で話し合えばいいだろ」
「それをやると後々喧嘩やら仲間割れやら、不満とか個々人のやる気のばらつきが出てきてしまうと思ったので、今……」
それを言われると筋は通っている。だが、合理的であることは必ずしも成功を意味しない。それこそ、楽しみたい者と巧くやりたい者と意欲に欠ける者が志を共にできるとは到底思えなかった。
「……………………全員が心から納得できる結論があると思うか?」
「探してみる価値はあると思います」
「塚原くんなんか意見ない?」
夢方に意見を聞かれ、塚原は顔色一つ変えぬまま呟いた。
「……どうだっていい」
「ほら。ハナから話し合う気のねぇ奴すらいるんだ」
あたしは否定する。だが、塚原は席を立ち、ホワイトボードへ歩き出した。
「…………四人が納得するのであれば」
そう言いながら草凪の隣に並び、ペンのキャップを外す。『①部全体の課題、方針』。
「ですって」
「ミスター自身もきちんと納得できるものじゃないとだめだよ。ミスターも部の一員なんだから」
塚原はただ頷いた。だがあたしはまだ食い下がる。
「そもそも文化祭ぐらいしか人前で何かやったこともないような連中なんだから、部としての課題なんて……」
何事も基礎が肝心だ。まず最低限の体裁を取り繕える段階に、この5人は達していない。いや、草凪・塚原・鏡名の個々の演技力は確かに即戦力だが、あたしと夢方がどう贔屓目にも見劣りする。調和と均衡の観点から、あたしたち2人が前者3人と同じモチベーションを維持するのは不可能に近い。そう言及しようか、するまでもないか考えあぐねていると、鏡名が不敵な笑みを浮かべた。
「じゃあ部長、こういうのはどうでしょう」
やつは折衷案とばかりに人差し指を立てる。
「結束を深めるために最もシンプルなのは、共通の壁、共通の敵です」
鏡名の自信たっぷりの断言に、あたしは猜疑心と警戒心をむき出しにして応じる。
「…………何が言いたい」
「決めつけるつもりはないんですが、部長の場合成功報酬について考えるより、失敗恐怖の回避策を考える方が性に合っているのではないか、と。あくまで考え方の違いです」
「……………………それは、そうかもな」
「そういう方向性の目標でもいいと思いますよ。自分の役割を全うする。それぞれのフォローに回る。とにかく失敗したと観客にバレないように頑張る」
思っていたよりも、まともな提案だった。夢方が頷く。
「それでいいと思う」
「うん。役を取り合えるほど人もいないし、初心者集団の当面の目標としては、妥当かと」
「部長はどうです」
塚原に問われ、答えを探す。どうだと?
「……………………たった一つ不満があるとすれば」
この程度のことを思いつけなかった自分が恨めしかった。
「それを提案したのがお前という事実だ」
「テイク2、ご同輩よろしく」
鏡名は即座に腕を振った。振られた塚原は、急に小憎らしい不敵な笑みを見せて人差し指を立てる。
「じゃあ部長、こういうのはどうでしょう」
「いいよやらねーで」
すぐさま遮った。抑揚も面構えも再現しやがって。なんでこういう時だけ乗るんだよ。塚原はすぐ無表情に戻った。切り替えの早いやつだ。
こういうお遊び程度でも演技力の差を思い知らされるから嫌なんだが、適材適所だ。主役以外にも引き立て役や音響照明衣装小道具、やることはいくらでもある。
「自分の役割を全うする、失敗はカバーし合ってごまかす。塚原は異論あるか?」
首を横に振る。草凪が後を引き取った。
「決まり……で構いませんね」