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3 夢見る力⑧ ☆

 入眠までの時間というのは、意識すると長くて退屈なものです。

 私は目を閉じたまま頭に手をかざしてギアプラスを操作し、環境音を再生しました。演劇部で使うかと思って保存しておいたフォルダの中は雑多で、洞窟の中で水が滴ったり、風で草木がざわめいたり、土砂降りの音が聞こえたりします。

 寝床で目を閉じていると自分が今いつのどこにいるかわからなくなる、という一節がマドレーヌの思い出の小説の冒頭にありました。時計の音で目を覚ますところから始まった脳髄の地獄の小説もあります。夢と時空の関連性は古来より深く、夢を神託と信じた時代もあれば、夢に出てきた人が自分を想っていると解釈する時代もありました。

 今では夢は、世間一般では、ただの現実の延長で、遊び場で、ビジネスの空間です。

 それでも、私は…………。



 ♡♡♡



 インナースというのは、詩織叔母様が理論化した、個々人の夢時空とでも呼ぶべきところを内部から操作可能にした、いわば人為的明晰夢です。夢のデバッグモードという例えが使われることも多いです。

 表象工学的技術で夢のあいまいさを安定化させることによって、夢の中をある程度人工的に規格化し、現実に近い感覚を再現した、想像力が支配する世界です。

 ホログラスの操作と同様に宙にメニュー画面を呼び出して、今までに保存した夢追感フォルダを表示します。

 即座にずらりと並ぶ他者の夢のリストを眺め、神妙な気分になりました。これは、私が今までに見てきた夢と、夢動画サイトの片隅の夢追感広場からダウンロードしてきた、知らない誰かの見た夢の蓄積です。ウィンドウとサムネイル画像の数々を視界に入れながら、最近ダウンロードしたものをリネームする作業に取り掛かりました。

 夢追感は、詩織叔母様が研究責任者となって成立させた、眠り見る夢を追体験する技術です。再生すれば、普通の追感同様に、主観で夢を追体験します。夢なので支離滅裂なことも多いですが、心にじんわりと染み入る童話のような夢や、知らない映画の一幕のような夢、これ著作権とか大丈夫かと心配になるような創作のキャラが多数登場する夢まで、多岐に渡ります。

 ごく普通に眠り見た夢を保存した夢追感も、インナースでの想像を保存した夢動画も、ファイルサイズは高速世界の速さに依拠します。インナース、ひいてはDRネットワークにおいて、速さとは軽さであり、あいまいさであり、忘れっぽさです。

 書籍によると叔母様は、あんなに時間が長く過ぎた気がするのにまだこんな時間、という『一炊の夢』の故事から話を始め、あれを人為的に発生できないか、という発想から、時間と情報処理と認知について考察を深め、高速世界を実現させるインナース理論を提唱しました。

 高速世界の原理自体は至極シンプルで、見ているもの、感じたことの意味を保ったまま情報量を減らせば成立します。綿密で長大な小説をあらすじにまとめるとなんとびっくりすぐ読み終わっちゃう、というような情報の取捨選択と抽象化が、情報量を減らすということです。これに、追感の強みである、脳内感覚として何の説明もなく前提をすっと理解できる、という現象が組み合わさると、細部は漠然としたまま大事な部分の意味が保たれている、高速世界での夢追感が体験できるようになるのです。保存した夢の中に登場する人を見て、恋人とか亡くなった祖母とか裏切り者だとかの関係性が一目で理解できたり、あるいは、ペットや食べ物なら、この子は生前もよくこうして飼い主の布団の上で丸まっていたんだなとか、この文化圏では手づかみで食べるのが自然なんだなとか、知らない記憶が紐づけされる、そういう感じです。

 実験当時は追感はまだ電脳化した人専用だったので、電脳化している被験者にケーブルを直結して電磁的刺激を与えたり、電脳化していない被験者に試薬の投与や生分解性インプラント等を用いて生化学的アプローチを行う手法もありましたが、一般実用段階までに脳と意識のリバースエンジニアリングが大幅に進んだため、電脳化していないユーザーでもあのちょっとごつめの重たい帽子型デバイスを被るだけで8割近い効果を得られるようになりました。残り2割と引き換えに安全性とユーザビリティを取ったのは、妥当な判断だったと思います。

 情報の抽象化、あるいは情報の粗視化に関しては、塚原進路氏が開発した人格関数エンジン(PerFE)に拠るところが大きいです。元々翻訳エンジンにおける意味空間から着想を得て設計されたPerFEは、文章を対応する意味空間座標上に関数化するシンプルなものですが、その関数を図形化して縮小ができる、つまり再翻訳される文章を短く大まかに圧縮できる、という大きな特徴がありました。文章の要約のみならずテーマの抽出が可能になり、これが情報量の調節、すなわちインナースでどのくらい夢を高速化するか選べる今のシステムに繋がっています。

 ちなみに、個人開発規模の初期PerFEではどうしても文脈を理解し反映させる機能は未実装でしたが、PerFEの方法論が各テキストAI開発企業に取り込まれる中で、意味関数の図形の拡大、すなわち文意解説の出力やメタファーの数学的解析も可能になりました。こちらは人間の脳には負荷が大きいため、外部装置での使用に限定されています。

 また、PerFEは関数の合成・分解も可能で、関数で記述した登場人物たちをベクトルで表示し直して、複数を組み合わせることでその人物たちの二次創作ストーリーを作ることができ、シミュレーターとしても高い評価を受けました。一般的な説明としては、登場人物たちの人格関数とその組み合わせが、音楽のアンサンブルにおけるパート別楽譜と総譜で、文章・会話としての出力が実際の重奏にあたる、とのことです。おはなしづくりには構造的欠点もありますが、そこは置いておきましょう。関数の合成・分解は、高速世界においては、感覚の合成と意味の合成に利用されており、PerFEで予め入力した登場人物たちを夢に多数登場させて物語を進行させたり、複雑な文脈や文化的背景を直感できる手法などに応用されています。これらは後に表象工学として一分野に発展し、追感やDRのサービス充実、脳科学全般の発展、ひいては言語学や文化人類学、社会学や地政学、軍事学などに大きな貢献を果たしました。

 余談ですが、PerFEの進化でオリジナルの文章や脚本は作品構成の巧拙が明確に数値化されるようになり、商業文筆家は厳しい批評に晒され、素人web小説の感想欄はそれはもうすごいことになったそうです。

 叔母様は、インナース理論によって睡眠工学という分野を切り拓きました。夢を動画化する技術と追感の統合、及び夢の中での体験の規格化。そして、夢同士の安全な接続と干渉を可能にするための理論的示唆。これが彼女の功績です。身内贔屓を抜きにして、夢の塔の女神と祀られるに恥じない偉業と思います。

 ですが、本人は、いつか私以外の誰かが同じことをやっただろう、と母に言っていました。母はその言葉を、幼い私に何度も語って聞かせました。

 映像・音声面から脳内活動の表層を外部装置で読み取り動画化する夢保存技術と、五感や精神活動を電磁的・生化学的記録として保存し追体験する追感技術がちょうど実用化されようとしていた時代に、たまたまうまく立ち会ったのが自分だった────在りし日の彼女は、姉にそう漏らしていました。

 発見は一人の偉大な天才がなすこともあるが、大半は数多の先人の積み重ねを踏み締めて辿り着くもので、私でなくてもよかった。謙虚な天才などと呼ばないでほしい。巨人の肩の上に立てばこの景色は誰でも望める。それでも、一番にこの景色を見られたことは、発見者の特権として素直に嬉しい。

 そう穏やかに微笑んでいました。

 叔母様は心の底から学問の徒で、同時に、謎を解き明かさなければ気が済まない貪欲な探求心の持ち主でした。

 母にそれを語る機会はそう多くありませんでしたが、義務教育に馴染めなかった叔母様が壮業大学で各分野の教授や第一人者と出会い、塚原進路という年若い知己を得たことを楽しそうに話し、深遠な語らいをしていたことは伝わってきました。同じ時期に、塚原進路氏の姉である塚原歩実さんとも個人的に偶然知り合い友人となった、とも話していました。

 詩織叔母様は、女神ではなく、神社生まれの巫女で、ただの人間でした。

 母にとっては加えて、心臓の悪い儚げな少女で、自慢の可愛い妹でした。母は幼い私に何百回も彼女のことを語って聞かせ、私はそれを聞くたびに母と叔母様の幼い頃の日々を夢に見ました。その夢の劇は母の言葉と寸分たがわず、さらに、母が語らなかった一幕までもが夢の舞台で演じられていました。

 私が触れた相手の過去を夢に見ると最初に気づいたのは、母でした。

 私は一通りリネームを終え、夢追感フォルダを眺めます。

 ここにあるのは、世界のどこかで誰かが見た夢と、私が見た夢です。

 つまりこれは、私の原罪証明といえるかもしれません。

 母の夢の幼少期には、叔母様と祖父母のみならず、数多くの親戚が現れました。かれらは榊一門と呼ばれる血族及び姻戚の集団で、大きな秘密を共有する仲間でもありました。そして、そこに生まれたがために、叔母様の絶群の知性は指向性を固め、自身の正体を探していたような気がします。

 母が、一目見ただけで私の思考を見抜いたように。

“礿”おじさまが、寄せる体質として定期的にお祓いを必要としているように。

 叔母様は、見た人の未来を知る力がありました。

 無論、予知能力があったといっても、彼女の栄誉にはほとんど関係ありません。『人はなぜ夢を見るのか』、『人はなぜ本を読めるか』をただ人の未来が見えるだけの小娘が解き明かせるのだとしたら、人類五千年の叡智などトイレットペーパーほどの役にも立たないでしょう。そう当人が自嘲していました。

 常人が得れば人生計画の中核に据えられていたであろうその能力は、彼女の前では余技に過ぎませんでした。その意味では、叔母様の顔貌の美しさもまた、彼女の人生においてはあまり価値のない余禄のようでした。

 叔母様は確かに偉大な功績を残しました。塚原進路氏の人格関数エンジンと不可逆性理論も、人類史を左右する大きな転換点となりました。

 ですが、この世にはまだ、それでも説明できない事象が残っています。夢やサトリ、予知のことではありません。私や母、叔母様の力はおおよそ、共感覚で説明が付きます。もっと別の話です。

 眠らぬままこの世ならざる領域へ足を踏み入れる力。見えないものを感じ追い出し祓う力。物を別物に見立てて扱う力。触れずに物を動かし操る力。他にももっとあります。

 根本的に物理法則から外れたあの力を、不可逆性理論でさえ納得のいく説明はしてくれませんでした。

 古今東西、オカルトや神秘の類の発見や研究は無数に行われてきました。ですが、幽霊は枯れ尾花で、錬金術は化学で、終末思想は杞憂で、魔術は奇術でした。解明されていない超常現象はいくらでもありますが、人が仕立て上げたものや再現性のないものも多く、やがてそれらは取るに足らぬ偽物として一笑に付され追いやられていきました。

 ただし、オカルトや神秘への願望は、今でも世界中に通底しているようでした。占い、厨二病、カルト。人が人である以上は、逃れられぬ本能ですから、致し方無いことですけれど。

 脳と夢がロマンを失った今、私たち異能者は何なんだとますます謎が深まります、

 私は忘れないうちにメニュー画面から『Chaos Issue』を選択し、数か月ぶりにログインします。パーティのうち私の他には引退したと聞かないので、親戚の誰かしらには会えるかもしれません。

 知っている人がいるとも限りませんが。



 ♡♡♡



 何かにもたれかかって座り込んでいることを自覚しました。チームハウスの一室。腰に差した剛剣。渋いおじさんボイスの吐息。そして、全身を覆う黒い鎧。手を握るしぐさでわかる、空手経験者の女子高校生の手とは違う、屈強な男性の大きな掌の、この力強さ。

 懐かしさに浸りきっていると、視界の端で通知が大量に発生しました。久々に来たからなあと思いながらメニュー画面を呼び出し、復帰ログインボーナスと未読メッセージを確認します。お金とアイテムが少々、本作世界を舞台にした劇場アニメ制作の進捗。後は、前に知り合ったプレイヤーたちの、辞めますやら復帰しましたやらまたログインしたら会いたいねやらの数々、ついでに、半年以上前のオフ会のお誘い。遅いです。どうせ行きませんけど。

 私はのっそりと立ち上がり、成人男性の鍛え上げられた体躯を動かして部屋を出て階段を降り、チームハウスの外に出ました。

 巨大なご神木が目の前に現れ、ここが森の奥深くだということを思い出します。振り返って見るハウスの表札は大きな筆文字で、榊。まんまです。

 私はアイテムボックスから黒馬を出現させ、首筋を一撫でした後一息でまたがって、森の外へ走らせました。

 行く当てもすることもありませんので、ただ10か月と半月ぶりにこの世界を満喫しましょう。

 たまには走ってもらうぞ。

Chaos(ケイオス・) Issueイシュー』、通称ケイシューは、かつて母方の親戚同世代と遊んでいたDR大規模(M)多人数同時参加型(M)オンライン(O)RPGです。実時間プレイ非対応、高速世界専用の全年齢対象ゲームで、5つの勢力が争う世界で生きるプレイヤーが、15のスキルスタイルから2つを組み合わせたユニークステータスを鍛えながら、モンスターと戦ったりプレイヤー同士で戦ったり、アイテムを作ったり交易をしたり、クエストやイベントを遊んだりします。世界広しといえど、暗黒鎧殴り騎士とビキニアーマー魔法テイマーと黒フード二丁銃有翼人と陸宙両用自立四脚装甲高速駆動機体と正統派好青年ヒーリングバッファーでパーティを組めるゲームはそう多くないと思われます。

 黒馬を走らせながら少しずつ操作を思い出してきて、フレンドリスト設定から今ログインしている知り合いがいないかチェックします。親戚は今はいないみたいでした。

 森を抜け、林道で商人の隊列とすれ違い、飛びかかってくる鳥型モンスターを一撃で殴り払い、風車の草むらに来ました。広がる緑の斜面を一望して、どこかぼんやりとした気分で風を浴びたまま、私は黒馬をボックスに戻してその辺に寝転がりました。

 僻地とはいえ、人に会わないなー、と思うと、ちょっとつまんない気分になります。それも仕方のないことではあるのかもしれません。『ケイオス・イシュー』を原作とするオリジナルアニメ『ケイオス・イシュー ロイヤルストレートフラッシュ』がヒットしてから、プレイヤー層に変化がありました。DRオン好きばかりの中にアニメに魅力を感じた層が大挙して押し寄せてくると、元々のコミュニティは崩壊します。ドラマや出会いを期待して人真似をしがちな流入組が多数派を占めるとゲームの雰囲気自体も変質し、コアユーザーを残してアニメ前組は去っていきました。次第にアニメ後組も潮が引くように減っていき、アクティブユーザーはプラスマイナストントンになった、と親戚に聞いています。アニメオリジナルキャラのスピンオフ漫画『ケイオス・ドグマ』の連載は続いていて、今度はそちらが劇場でアニメ化するという話なので、またプレイヤーは一時的に増えるだろうとのことです。

 余談ですが、アニメはNPCアイドル争奪戦という一夏ぶっ通しの大規模イベントを軸に描かれた群像劇で、ゲーム世界を魅力的に描いてDRオンのゲーム体験を訴求することに主眼を置いています。対する漫画はオリジナルキャラクターたちのドラマを重視していて、背景の小ネタでプレイヤーをニヤニヤさせるサービスもきちんとありました。アニメの略称がケイイロで漫画はケイグマなので、映画の『ケイオス・ドグマ ランデブー・ポイント』はケイドラでしょうか。

 しばらく青空を漂う雲を目で追っていましたが、モンスターすら寄ってきませんね……。

 親戚以外でも知っている人がいないかフレンドリストを見直すと、3年に一度だけ年を取る職業のアルファイエさんの名前がありました。クエスト中のマークが点いているので、挨拶もお邪魔でしょうか。

 私はもう一度黒馬に乗ってチームハウスへ戻り、ログアウトしました。



 ♡♡♡



 インナース・ホームに戻ってきて、自分の姿の電脳体に切り替わると、何しに行ったんだったか、と肩が下がります。たったかたったったーですよ。平日でもこの時間帯なら誰かしらいると思ったんですが、まぁ、当分は演劇部優先なので下手に会わなくてよかったと思い直しました。

 それにしても、祈れば手が塞がる、となりきりごっこをしていたのが2年前ですか。寺生まれの巫女の過去としては一生ネタに事欠きませんね。

 BABELに行く気もしなくなってしまい、夢追感広場を開いてスクロールして閉じてを繰り返し、そういう気分でもないんだなーと伸びをします。浮かんでくるのは〈R.E.M.〉とミスターの二人の顔でした。

 夢の塔の女神と、塔を建てた天才のクローン。

 叔母様の姿の電子的複製と、進路氏の姿の遺伝子的複製。

 神と人。電脳体と肉体。宗教的象徴と科学的象徴。

 また、さっきまで考えていたことに意識が立ち戻ります。

 私はDRのオンラインゲームを通じて、夢で世界中のプレイヤーと戦い、殴り、一人一人の過去を覗き見てきました。

 国内プレイヤーの多くは、宗教観念の希薄な国民性とゲームオタクの気性が相まって無神論者を自認し、ある者は『似姿のデュナ』に絡めて、神は死んだ、残ったのは偶像だけだ、と声高に叫びました。別のある者は『存在の痕跡』を引き合いに出して、俺たちは所詮パターンの寄せ集めだ、迎合こそ信仰だと自嘲気味に笑いました。また、慣習として文化的に信仰や礼拝を日常とする者は、いてもいなくてもこの世界は何も変わらないなら信じた方が気楽になってお得、と親指を立てました。私の眼には最後の方々の考え方が一番身近で理解できる存在に映りました。敬虔な信者を自認する者は、多分あんなゲームしません。

 私はかねてより、自分の中に問題意識を持っていました。

 神も仏もない世界で、人は何に依って立つのか。

 人は言語と宗教、すなわち神話によって共同体を急激に拡大した、と言われています。ならば、聖書や経典が占めているはずの精神的地位に、彼らには何があるのでしょうか。国家か、民族か、はたまた別の神話か。

『存在の痕跡』のあとがきでも触れられていたように、叔母様には神や宗教について考える機会が人より多くありました。その彼女にとって、神様とは何だったのか。自分が奉られている事態をどう思うのか。私はたびたび考えてしまいます。

 叔母様と進路氏が神様についてどういう議論をしていたか、それを証明する文献はありません。ですが、信仰に関しては、アニミズムや祖霊信仰、一神教と多神教の文化的価値観の差異などの考察があったことが『存在の痕跡』に言及されています。

 最先端の科学者には信心深い方も少なくないと聞きます。創作でも現実でもマッドサイエンティストの例に事欠かないことからわかる通り、科学それ自体に倫理は含まれません。できるから、やってみたいからと禁忌を破り神の領域を侵し、未知に迫り大業を成すこともまた、科学の一側面です。それ故、真っ当であろうとすればするほど、あるいは世界の精緻さを思い知れば知るほど、頼り縋るべき寄辺を求めるのだとか。この世界は神様が作りたもうた、生命はインテリジェント・デザインであるという思想も、この地球やそこに生きる生物って本当に本当によくできてるよねという驚嘆と畏敬の念の表れと思えば、軽んじるにはあまりに惜しい態度です。

 先進国が半ば押し切る形で進められた遺伝子治療によって生命倫理は少しずつ綻び始め、精神活動を現象に解体し生命の本能を物理学的に解明したインナース理論と新精神力学、不可逆性理論によって宗教倫理にもひびが入ってしまった現代はいつしか、パラダイム・ロストと呼ばれるようになりました。

 かつて時間や脳がブラックボックスだった頃の空想の豊かさを、DRベビーブーム世代の私たちは本当の意味では理解できません。私たちはただ確率的な存在で、パターンの集積で、車輪の再発明を無限に続けて生きています。

 我々にまだフロンティアが残されているとすれば深海と宇宙ですが、海には海底サーバーがそこかしこに沈められ、空は大規模高速通信のために大量に打ち上げられた人工通信衛星で満ちています。どこも人の手が入らないところはなく、誰かの足跡を追いかけるばかりです。そういう意味では、未来だけが真の秘境でしょう。

 世の中では、あらゆる分断と衝突が規模の大小を問わず繰り返されています。人種、国籍、宗教、性別、貧富、世代、身体性、価値観、情報格差。

 追感によって自意識が相互に侵食し自他の境界は崩れ、DRに溺れて夢現の境界は曖昧になり、自身の価値観と世界観の確立が困難な時代です。それでも自身のアイデンティティを求めようとする者は、生きてきた固有の過去と生まれ、そして身体的特性に制約されます。

 肌の色、顔のつくり、身長や体型。親や保護者の社会的地位。運動や勉強の才能。生まれつきの障害や病気。それらは昔と何も変わりませんが、今ではさらに細分化を迫られる人々が出現しています。

 人工子宮技術から発展した代理出産ガイノイド、メイトレス。そこから誕生した、メイトレス・チルドレン。倫理・法の両面から禁じられている、ヒトクローン。晩婚化や高齢出産が引き起こした遺伝子異常への調整特例として先天的にゲノム編集を施された、パラジナム。事故や病で肉体を手放し人工素材で身体を構成された、義体。DRで動き回るための自由に換装可能な、電脳体。今はなきホロジェクト社の、幽体なんてものもありました。相互追感の果てに個を喪失し異体同心として混じり合った、習合知もこの中に数えていいかもしれません。

 そして、それらが広く社会に周知されると、それらを礼賛する思想やカウンター思想も発生します。

 電脳体至上主義の思想集団、主義者の一団。義体差別反対運動の過激派から分派した、アンチレーシス。人は生身の女性の腹から生まれるべきと訴えた、メイトロス運動。習合知を推進し感情や未言語感覚のダイレクトな入出力で思考・言語能力を減退せしめた最大コミュニティ、ハイブハブ。

 人は誰も一枚岩ではなく、思惑と関係が錯綜し、それぞれが自分たちの正しさを信じて疑いません。

 その点では、我らが榊の一門もまた、理外の異能の血筋として、独自の勢力に数えられます。何かしようという気はさらさらなく、単純に人間社会に溶け込んで生きることが我々の望みです。ただ、異能と知られればただ生きることさえも叶わぬ願いに変わりかねません。

 世界中、そこかしこに歪みと軋みは表れています。もういろんなことが、対症療法でごまかしきれる領域を超えている気がしてきてなりません。GONSの存在とベビーブームによって一時は盛り返したかに思えたこの国も今では、国外の経済戦争の煽りを受けて疲弊し、機獣の愉快犯事件などもあって人心は荒みつつあります。

 ただでさえこの時代は急速に変化しつつあります。推定できる太陽系史以来、一際大きなターニングポイントにさしかかっているのではないでしょうか。

 夢と現実の境界は埋められ、脳も遺伝子もリバースエンジニアリングされ尽くし、さらに手を伸ばしたらヒトの先の段階(ステージ)はもう指先に触れているのです。地球ヤバいです。

 マルチ・インナース。存在の痕跡(エントロピー)。価値の疑似引力(おもみづけ)。情報エネルギーと時空。身体性とアイデンティティ。

 いつかやっさん先輩が言っていたように、もはや人間文明は爛熟し尽くし、腐れた果実が落ち弾けるのみだというなら、産み落とされるのは何物でしょうか。

 繁殖派vs不老派。

 人間vs習合知。

 生物vs情報体。

 貧者vs富者。

 人類の分化はすでに始まっているのです。

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