3 夢見る力⑥ ☆
D表がミスターに質問すると言って教室を出て行った後ろ姿を見送って、会話が一瞬途切れると、またミスターのあの表情が気になってきました。せんどぅーにはとっさにああ言ったものの、実際、思い返せば思い返すほど、やはり、あれは私に見惚れる人の顔つきには思えなくなっていました。何か変なことを口走ったかなと何度も気になっては、昨日のことを反省して、ネガティブな言動はよくないとか踏み込まない方がいいかもとか色々意識にフィルターをかけて、深く考えないようにしていました。ですが、D表がすぐに動いたのを踏まえて、この引っ掛かりをスルーしてしまって本当にいいのだろうか、という疑問が浮かびます。
私は違和感から目を背けました。それは、私の自意識過剰もさることながら、ミスターが主義者の一団の声明文に注意を払っていた意味を深読みしてしまうことを恐れて、あえてことさらに意識に蓋をして、日常から締め出そうとしていたせいかもしれません。千道彩音ちゃんに大袈裟な接し方をしたのも、ミスターのあの眼の意味を勝手にすり替えて、それを否定することで不安を紛らわせようとしたからではないでしょうか。いえ、こうやって過剰に懐疑的になること自体も、不安を紛らわしたいだけなのかもしれません。
特異な出自の友人の、決定的な不吉な連想を追い払うために、私は自分をごまかしているのでしょうか。
視線を横に向けると、そのせんどぅーも眉を寄せて考え事をしているようでした。私が見ていることに気づいたのか、すぐに顔を上げて困ったような微笑みを浮かべます。
「種子はDNAだって。かなり違う気がするけど」
「対応ルールがわかんないから、2人が意見分かれるなら私はお手上げだよ」
私はお手上げポーズを取ってみせました。言われてみると、前にミスターと同じクラスの図書委員の彼我氏が、そんな題名の作品を好きなアニメとして挙げていました。パラジナムみたいな新人類と現生人類の絶滅戦争を描いた昔のロボットアニメだそうです。もしそれと関係があるなら、出自が特異な立場上、パラジナムと一般生徒の架け橋役として扱われていてもおかしくないミスターが、その作品に強い関心を示したとしても理解できます。が……その作品の話を急にしたくなった、というわけでもないでしょうし。私とミスターがその作品の話をしたことは今までありませんし、ミスターは私と違ってノーヒントでそういう話を振る厄介なオタクではないので、これは無関係でしょうか。
次の授業が始まってもずっと、じわじわと、私の知らないところで何かが進行している、その感覚がごまかし切れなくなっていくのを感じていました。
DR至上主義者への警戒をミスターが口にしたあの瞬間、無意識に私は、日常が異常に侵されていく未来を連想しました。安定志向で保守的な自覚がある私は、さすがに考えすぎだろうかと、気のせいだといいなと自分に言い聞かせる意味も込めて、冷やかしを疎んじる方に意識を逸らしていました。……ですが、話に出た情報が揃うと即座にD表がミスターに裏を取りに行ったのは、ミスターを監視する立場の人物が無警戒でいられない状況を物語っていて、そこに何かあることを裏付けようとしていました。それらを整理すると、考えずにはいられないような、気のせいで済ませてはいけないような緊迫した気配を感じます。
そうした疑念を前提に振り返ると、やはりミスターのあの様子は、別の意味を持っていたと認めざるを得ません。……ただ見惚れるだけなら、あんな、探るような眼を向けるはずがないのですから。
私は何か変なことを言ったのか、あるいは、誤った認識を与えるような真似をしてしまったのか。
そして、あの会話の背景に何かあったなら、私は何から目を背けたのでしょう?
それが気になって、世界史の授業そっちのけで考え事ばかりしてしまいます。あのときミスターは、何と言ったか。
変人脈関連のメッセージが気にかかる。10月31日。午後11時の10分前までであれば。当日と前日は家にいた方がいい。台風。そして、小枝と種子。
……考え方を変えてみましょう。私は誰かと話している最中、急にその人をじっと見てしまうとしたら、それはどんなときか。D表が挙げた以外なら、根本的に価値観や文化が違うとき。何を考えているんだろうと不思議に思ったとき。誤解やすれ違いを感じたとき。…………あるいは、私がミスターを見る目と同様に、ミスターが、私のこの顔に意味を見出だしたとき? あの探るような眼は、何を見出だそうとしていたのか?
考えても私にわかる気はしませんでした。手がかりが揃っている保証もないのです。それでも、私の都合でミスターを軽んじてしまったのではという罪悪感と、何かあってからじゃ遅いという無根拠な焦燥と危機感、そして考察型オタクとしての哀しい習性とが、授業と並行して私の疑問を加速させていました。考え過ぎで済めば笑い話ですが、浅慮は大きな不幸を招きます。
わかることから考えていきましょう。私に解けずD表には解けた謎。その差は知識量か、立場上手に入る情報量か、あるいは単純に、万才での付き合いの長さか。
万才養成所。DNA。……パラジナム。クローン。メイトレス・チルドレン。でもそれが何だというのでしょう?
なら今度は、変人脈。無差別一斉送信。主義者の一団。DR。日付変更前。BABELのアニバーサリー祝い。同志よ我がもとへ集え。集え……。
そういえば、ミスターはそもそも、先約があるとは言いませんでしたが、先約がないとも言わなかった気がします。主義者の一団の祝辞に単純に興味がある、というのが一番素直な回答でしょうか。
逆に、私は何を恐れたのでしょう? ……怖いのは、ミスターが三実主義者に合流することです。生きていたくないとあえて嘘をつこうとしたあのやりとりが蘇り、肉体を捨て均質化された存在に同化したいとミスターが願うことを恐れ、それが大々的に主義者の一団の象徴化することをも恐れ、拒絶しました。ですが、考えてみれば、あのニュース記事程度の情報量しかないメッセージに、そこまで心惹かれることがあるでしょうか?
メッセージ。チラシ、ビラ。手紙、郵便、恋文………………。
恋文。
私ははっと顔を上げました
────あるいは、主義者の一団から個別に招待を受けているとか?
そこに思い至ったと同時に、授業終了のチャイムが鳴りました。板書だけで進める先生だったのでこの時間は切り抜けられましたが、次は移動授業で実験です。不注意が事故につながる前に、この引っかかりはどうにかしたいものです。
化学実験室に向かう準備を整え、廊下のロッカーから白衣を取り出したとき、ちょうどD表がいたので声をかけました。
「あ、いいかな。さっきミスターに質問しに行った件で」
「うん」
D表は、せんどぅーがまだ教室にいるのを横目で確かめながら頷きます。私は、せんどぅーがこの会話を聞いていてくれた方がいいのか、いない方がいいのかわからないまま、用件を伝えます。
「何の話だったのか、聞ける範囲で、教えてもらえたらと思って」
一応そう切り出してみました。前に得た情報によると、D表はこういう状況のとき、偽情報を用意したり情報を握り潰したりを平然とできる人なので、どこまで情報を得られるかはわかりませんが……参考程度にはなるでしょう。
「…………エイジに何をわざわざ聞きに行ったか?」
「はい」
探り合うように互いに見合っていると、せんどぅーが廊下に出て、私たちが話しているのに気づいてこちらに来ました。D表はせんどぅーに軽く顔を向けます。
「さっきの話、エイジに何聞きに行ったかって。どこまで話したものかな」
伝える情報を絞る気満々のようでした。聞くとまずい話じゃないなら知りたいんですが……もちろん、全部話してくれたとしても、裏に通じている立場のD表でさえ真相をつかめていない、あるいは裏で得た情報のせいで誤った推論に至ってしまう、ということもあるでしょうからね。群像劇現象も警戒は必要です。
D表はにこやかな態度を崩さないまま、うーんと考えるそぶりを見せました。
「少しならいいか。僕が答えないとエイジが答えざるを得なくなるから」
少し、ということはやはり全容は言えないのでしょう。この言えないは、言える情報を持っていないではなく、秘密の方ですね。
「エイジ、午後11時からBABELで先約があるらしいんだ」
「なぬ」
私は驚きの声を挙げました。想定内でしたが、やはり驚きます。私が先約かどうか聞いたときは教えてもらえなかったのに、という不満も少しあります。せんどぅーも意外そうに眉を上げました。
「へーえ?」
「その合言葉が、種子と小枝だったらしい。………………気になる?」
「それは、もちろん」
合言葉。なるほど。
D表は事態を面白がっているように笑みを浮かべます。
「君がエイジの先約相手を尾行するなら、僕らも乗ろう。他に誰か誘う相手を尾行のときどうするかは置いておいて」
言い方からして、家族や友人が先約の相手という雰囲気ではなさそうなのが気になりました。
「…………何者? 怪しい人じゃなさそう?」
「本人は答えなかったけど、予想はついた」
なるほど、D表も確信がない、と。私が無言で耳に手を当てて大きなお耳のポーズをとると、D表はやや渋い表情で続けました。
「グレナ・グレートグロウン。…………クローンとパラジナムの、進路相談ってところかな」
……………………そっちかぁー………………。
私は嘆息しました。
思想ではなく、出生。
…………別の意味できな臭くなってきた……。
……合言葉が自分の所属を示すのは、シンプルでかっこいいような、もう少しひねったり隠した方がいいような。
♡♡♡
「でも、誘えたんだしよかったんじゃない?」
メリーさんが教室前の廊下で自在ほうきを動かしながら、そう前向きに応えました。先約云々は伏せたため、ミスターの反応が不自然だったことはメリーさんもそれほど気に留めていない様子です。さっきの私と同じ反応ですね。
「ミスター、別に乗り気ではなさそうだったし、どうだろうね」
私は壁一枚隔てた向こうで掃除をしているであろうミスターをイメージしながら、本人に聞こえないように言いました。そして、メリーさんの掃除の邪魔にならないように数歩下がり、お互いの全体が見える位置に移ります。
「それで、今更だけど、ハロウィーン、他の人も誘うかもって一応言ったんだよね」
メリーさんは腰を曲げた状態で顔を上げ、上目遣いで私を見ました。背が高いメリーさんを上から見るのは珍しいですね。
「あ、誘ってくれるの?」
この言い方、やっぱり一緒に行くつもりはなかったみたいですね。……まぁ、以前DR趣味について話したときに、メリーさんのおうちはDRの回線がダメダメで、ラグがひどいからリアルタイム通信はしない方針と聞いていたので、そういう意味でも知ってて誘っていいものかどうか考えていたんですけれど。どう言い出したものか。
「さっきは許可取ってなかったから言いそびれたけど、せんどぅーとD表に、他の人も誘うかもってミスターに言った、って報告したから、これでちゃんと誘えるよ。せっかくの機会だし、ね」
メリーさんは姿勢を戻し、自在ほうきを握る手を緩めながら体を傾けます。
「行きたいし、行けるなら行くんだけどさー……」
「やっぱり難しい?」
「リアルタイムだと色々とねー……」
「私の家に泊まりにおいでよって言ったらどうする? 私家に友達泊めたこと一回しかないからちょっと興味あるんだ」
「お寺じゃん!」
「そーなの。でもお客さん用の場所ちゃんとあるし、友達が泊まりに来るって言ったらおじいちゃんお肉買ってきてくれると思うよ」
お肉アピールは寺生まれとしてどうなんだと思いますが、先代住職の祖父はその辺は自由です。お寺を継いだ父が肉食は極力なしという方針なので一応従うけど、くらいの気構えなので、きっとメリーさんが来たらこれ幸いとばかりに動物性たんぱく質祭りが開催されるでしょう。ちなみに、お寺に泊まってみたい人用の場所とは別に、草凪さん家のお客さんとして親戚が泊まるような場所もあります。後者は普段は備蓄スペースとして有効活用されています。
お寺に泊まって怖い話しよー、と言おうかどうか考えていると、メリーさんは素直に嫌そうな顔をしました。
「ええー……だったらせっかく泊まって寝てばっかりより、現役ランカーKnowTuberのお話直々に聞きたいな」
「そりゃそうだ」
私は引き下がりました。昔の大人は幼少期に、友達ん家でゲームばっかりやって、と叱られたそうですが、現代っ子はもっと絵面がアレですからね。だったら元住職の霊感じいさんとして巷で人気らしい我が祖父の話を生で色々聞きたい、と思う方が健全です。膝を痛めて早期引退した祖父が去年ネットミームの賞と盾をもらってた、という話を前にしたとき、メリーさんは興味を示していたのを思い出しました。ちなみにミスターには祖父の話はしていません。
メリーさんは別の観点からも、あまり行きたくない様子で続けます。
「それにさ、もし一緒に行くにしてもだよ? 2人が並んだら、仮にコスプレに見えるにしても、有名人と有名人とでお似合いでしょ? うちは一人だけめっちゃガクガクのなんかだよ」
「私ん家ならガクガクしないってば。それに、私目立ちたくないから鎧騎士フォームで行くから、顔関係ないし」
見た目の有名度のつり合いという意味なのでしょうが、お似合いと言われても微妙な心境です。そもそもミスターも私も好きで似てるんじゃないしなぁと思ってしまい、反応に困ります。あえてスルーしましたけど。
別の意味でお似合いと言いたいのなら、そもそも恋愛したくないですし、条件が合わないなら残念だけどね、でおしまいです。
私とミスターがそれぞれ瓜二つと言われる、榊詩織叔母様と塚原進路氏は、どちらも若くして名を上げた壮業大学の先輩後輩として、何かとセットで語られることが多いです。その副産物として、教科書の偉人に落書きする学生のノリでアングラ界隈で動画素材にされて無数のショート動画に出演していたり、一頭身解説マスコット化してコンビで酷使されたりと、割とカップリング的な扱いを受けることもあるようです。なので傍から見ると重ねてしまい、私とミスターもそういう仲に見えるのかもしれません。ただ、元ネタを考えると、塚原進路氏は叔母様の没後に大学の同期の女性と結婚していて、叔母様のことは『最良の友人』という認識だったようです。なので、引きずって生涯独身を貫くような関係じゃない2人に重ねるのは、どう答えたものかわかりかねます。
私は話を戻してみました。
「なら、メリーさんはそこまであんまりって感じかなぁ」
「うーん……。なんだかんだ、アーカイブ追感とか見る専で、それに慣れちゃってるから。なっちゃんが対面とメモだけで連絡平気なのと一緒でさ」
「なら強くは言えないなー」
一緒ということにしておきました。メリーさんはそうせざるを得ないのですが、私は半ば望んでそうしているので、実は一緒ではないんですけれども。
確かに、ダウンロードして再生するアーカイブなら読み込み待ちも表示バグも無関係です。リアルタイムでも高速世界なら情報が軽量化されているのでサクサクですが、高速世界はその分体感速度もサクサクなので、普通のユーザーと同じペースで楽しめないという難点はあります。ハロウィーン・パーティーは出店者や出展者にとっては一大宣伝祭りでもあるので、その場限りのお祭り騒ぎで終わらせるのが美しいという方針のスタッフもいれば、後から話題になったけど乗り遅れたユーザーのために公式イベントログや公式追感で盛り上がりを共有してほしいというスタッフもいて、どれにリアルタイム参加してどれを後回しにするか、コース計画は既に始まっています。
「でも、えー、メリーさんと一緒にお化け屋敷行きたかったなー。超能力脱出デスゲームとかブレボカートとか一緒にやりたかったなー」
「なっちゃんそういうの好きなんだ……」
「どっか食べに行ったり何か見に行ったりはリアルでもできるから。あ、疑似観光とか無限コスプレはリアルだと難しいけど。でも、そっかー……じゃあメリーさんいなくてさみしいなーって思いながら楽しんでみるよ」
「そんなに? じゃあ、リアルでまたどこか行こうよ」
「行こう。そういうことになった」
「なったんだ。なんだろう、今度こそ一緒に献血は? ……だめ?」
メリーさんの提案に、私はかぱっと口を開けて苦い顔を作りました。意気投合して夏に二人でお出かけしたとき、高校生になったし献血しようという約束だったのですが、二日前に私が瓦割りでミスって擦り傷を作ってしまったため、私だけ出血者お断りということで付き添いしかできなかったことがあったのです。その時は2人とも、仕方ないからまた今度ねと軽く流したのですが、帰って母に献血の話をしたところ本気で怒られてしまったため、今度はいつになるかわからないとメリーさんに平謝りしました。
「…………お母さん次第だけど、当分は付き添いかなぁ、あの様子だと」
「そっかあ。わかった」
メリーさんは少し寂しそうに笑います。
「いつかちゃんと一緒にできるといいな」
「ね。献血以外で、危なくないことならある程度はいいみたいだけど」
「献血以外ならいいんだ? じゃあ前に話してたゼッフェのハイタワーパフェ、うちも食べてみたい」
「あ、いいね。たまーに食べたくなるけど、一人だと食べきれないんだよね、あれ。寒くなる前に行こう」
「パフェはいいんだ」
「パフェはいいの」
そして、明るく朗らかに薄く笑っているメリーさんと一度目を合わせ、笑い合いました。
母に怒られた件について、メリーさんには、詩織叔母様と私が瓜二つだからたまに重ねてしまって、献血は倒れちゃわないか心配になるらしい、と伝えてあります。でも本当の理由は、言っていません。
異能の血を外に流すな、なんて、どれだけ仲良くなっても、言えませんから。
私は視線を外し、ターンしました。制服のスカートがふわりと広がるのも構わず、メリーさんに片手を挙げます。
「それじゃ、聞いてくれてありがと。掃除中に長々とお邪魔しました。またね」
「こっちこそありがとね。ばいばーい」
手を振り合ってその場を離れ、通り過ぎる瞬間に、空いている通路から教室内のミスターが見えないか横目で窺ってみました。
どうやらミスターは今、私の見えないところにいるようでした。
♡♡♡
図書当番も茶道部のお誘いも写真部もないので、私は早々に一人で自転車を漕いで真っ直ぐお家を目指しました。色々気にしすぎてメリーさんともミスターとも変な接し方になっちゃった気がするなー、と内省しています。いつもみたいに深く考えずにお喋りしたいものですが。
メリーさんとは連絡先を交換してありますが、学校で直接話してだいたいなんとかなるので、たまに遊ぶときを含めても、特に学校外で連絡を取り合ったりはしません。私はSignやSNSなどを極力しないレアキャラとして認知されていて、メリーさんはそれでも負担や面倒に感じないでくれるタイプですし、気兼ねせずに付き合える貴重な友人とは今後ともよろしくしたいのですが、あんまり共通の趣味はないので、こういう機会を逃してしまうのはけっこう残念です。
メリーさんがいない、私と万才組3人のグループだと、私が明るさと元気担当ですね。でも、その後ミスターは誰かと落ち合って危ないことするかもしれないんだ、と考えると私も押し黙ってしまう気がして、どうしたものでしょう。
昨日の記憶と一緒に心にうつりゆく由無し事がぐるぐるとかき回され、ミスターと話すとなぜか親戚の”礿”おじさまを思い出すんだよね、とふと考え、知らず自転車のペースが落ちます。あの口癖がきっと、おじさまの人生哲学とオーバーラップするのでしょう。どうだっていいとほっとけではスタンスがまた異なりますが、二人の雰囲気が似通っているのは確かです。
おじさまがあの日、私にかけなかったおまじない。
────本当に苦しい時はね、いいかい。
────この世全ての中で、自分だけを信じればいい。おじさんみたいに。
────でも、“祭”ちゃんなら、人間たちの、人間社会の中で生きていける。
────自分が信じた生き方を、信じて生きてほしいな。
私の力を知って遠ざけない数少ない大人の一人の、幼子相手にも誠実なその言葉は、幾度となく夢に見てきました。
おじさまに懐いた私がミスターに関わるのは、そこに面影を見るからという理由もありましょう。他にも思うところはいくらかあります。けれど、それはおじさまにもミスターにも、あまりに礼を欠いた物言いというものです。
私は結局のところ、ひとに好意的に関わってゆく理由など、なんとなくで済ませておく方が精神衛生上よいと思っています。理由という土台など無くたって、いくらでも関わっていけるのですから。昨日の帰りにミスターと話した後でそう思いました。どういうところが好きか羅列することは、好きではなくなることへの第一歩になりえてしまいますから。どちらかというと、気に染まない嫌いという感情こそ、自己分析し尽くして冷静に俯瞰するために言語化すべきだと思っています。女子は特に、敵か味方か区別してそれっきりの子が多いですからね。ただ何となく嫌だからでシャットアウトするよりは、理由や信条を自己分析して説明する方が理解を得られる気がするので、気を付けて生きたいところです。
脳裏をよぎるのは、ホロン・フラクタル博士が口にした言葉です。出典は中神内人作品の確か、セルフクロスオーバー企画だったでしょうか。勇気と敬意と向上心、謙虚さと好奇心を兼ね備えてようやく精神的に自由に生きていくことができる。それでもやはり好き嫌いと本能からは解放されない。私は感情に左右されずに何事にも向き合いたいのですが、どうしても相容れないものや感情移入してしまうことは出てきます。
今度はまた別の、二歳上のみいとこの言葉を思い出します。
──寺田寅彦っていう物理学者、知ってる? 漱石先生のお弟子さん。
──その人の随筆で読んだ話だと、人は猫を愛してもヒトは愛せない。
──ヒトを愛するには、ヒトより高みに立つ存在、言ってみれば神にでもならないといけないんだって。
──なんか、わかるけど、人の中で生きる限り無理だよね、それって。
今思えば、あれが彼女と交わした最後のまともな会話だった気がします。
そろそろ仲直りできるといいんですけど。