ちいさな魔女ベリィ・ムーン~捨てられた子供は猫に拾われる
設定はふんわり。
「バッカだねえ。それは血の色じゃなくて、ベリィ色っていうんだよ」
そう言って嗤うのは猫だった。頭から尻尾の先まで真っ黒な猫。立派な成猫で、大きさは幼子と同じくらい。普通の猫よりかはやや大きいだろうか。それでも見た目はただの黒猫だった。見た目は。
金色の目を光らせて当たり前のように人語を話す猫が普通の猫のわけはない。高位の魔獣であれば人語を操り、人を食らうという。
だが、幼子はそんなことは知らなかった。ただただ人恋しくて、お腹がすいていて、くたくたに疲れていた。暖かさと、やさしい言葉に飢えていた。
だから信じた。会ったばかりのこの奇妙な猫を。
「おいで、ちびっこ。あたしがあんたを拾ってやるよ」
これが後に偉大な魔女と呼ばれるベリィ・ムーンと使い魔カシスとの出会いである。
◇
生まれてくる時に、自分の纏う色を選べる生物なぞいない。
もし選べるならばその子供は自分では絶対選ばない色を纏って生まれた。
暗赤色の髪と瞳。
その色が生まれた場所でどれほど特異であるか知りもせずに。
もし、その周囲に魔法を使う者がいれば、赤子の髪と目に魔力があると見て取っただろう。そして魔法使いとして喜んで引き取っただろう。
だが赤子が生まれたのは魔法使いとは無縁の辺境の村。
不貞を疑った男と不貞を疑われたその妻。両親から見捨てられた赤子がそれでも殺されずに生きられたのは、無類の子供好きであった妻の母親が嘆願したためだ。
かろうじて祖母の元で命脈を保ったものの、周囲の誰もが赤子を厭った。
「なんと気味の悪い血の色の髪と目!」
「きっと魔物の血をひいてるんだ。おぞましい」
忌子と呼ばれ、最低限のものしか与えられなかった。呪われそうだからとたいていは舌打ちされ侮蔑される程度であったが、母親だけは違った。
「おまえのせいで! おまえなんかが生まれたせいで!」
本来、母親には何の咎もない。
普通に村娘として育ち、年頃になって結婚・出産しただけ。村娘とは思えぬほど突出した美貌を生まれ持って、いささか周囲を見下すようなところがあったが、中身はただの村娘だ。せいぜい悪態をつくくらいで、望まれて村長の息子に嫁いだのちは比較的貞淑な妻となっていた。不貞を楽しむような精神構造もない。宗教上、離縁が許されぬため、今も村長の息子の嫁に変わりはないが、産んだ子供のせいで周囲から遠巻きにされ、夫にも顧みられなくなった。
そんな彼女が元凶である子供に愛情を注げるはずもなく、ひたすら憎悪をつのらせていくばかり。当然、暴力という行為に直結する。女の母が止めなければ、度重なる折檻に赤子はとっくに死んでいただろう。
そう、命綱は祖母だけだった。
村はずれに追いやられ、文字通り細々と祖母と孫は暮らしていた。明らかに肩身の狭い日々であったが、それでも祖母は赤子を慈しんだ。
「おかあさんに似てこんなに可愛いのにねえ」
髪と目の色を変えてみれば、かつての鳶が鷹を生んだと言われた娘の幼い頃とそっくりだった。ほんの少し色に目を瞑れば、愛らしい普通の女児でしかない。祖母以外の誰もそれには気付かない。
だが、孫を優先して食べ物を与え、家族にも頼れず働きづくめの日々は、確実に祖母の身体を蝕み、早春のある日、覚めぬ眠りについた。
生まれて3年が過ぎて歩けるようになり、言葉も覚えて話し始めたといっても、手のかかる幼児に何の手伝いもできるはずがない。ましてや、人の生死のことさえまだ知らない幼子は、起き上がらなくなり、何も話さず動かない祖母の傍らにただ横たわっているしかなかった。
一向に仕事に現れない祖母を訪ねた村人に発見された時には、祖母の身体は冷たく硬くなっていた。
「ちっ、子供の方は息があるな」
「でもいつ死んでも不思議はないぞ」
村人に知らされた村長は幼子を森に捨てることにした。直接手をくだすことも、ただ衰弱死を待つのも、どちらも呪われそうで避けたかったからだ。
村の奥に進むと森がある。
浅い場所で村人は薪を得、獣を狩ったが、決して中ほどまでも進もうとはしなかった。
そこは魔獣の住む森。人の手の入らぬ魔の地。
魔のものならば森に返そう。
そんな建前のもと、速やかに眠る幼子は森に捨てられた。
◇
「ばあちゃ?」
目を覚ませばあたりはただほの暗い。朝なのか昼なのかもわからない。だが何も見えぬほど暗くはないので、夜ではないだろう。
起き上がった幼子は祖母を探す。覚束ない足取りで木の根をいくつも超えて。道もない森の中は木が茂りあって、至る所に藪があった。小さな身体を利用してそれを潜り抜け、ひたすら祖母を探す。
だが、いつもはすぐに応えてくれる祖母の声が聞こえることはない。それどころか、どんな人の声も聞こえない。
「ばあちゃ、ばあちゃ」
ついに地面に座り込み泣き始めた幼子の周囲は見えないざわめきに満ちてゆく。頭上はるか上で鳥たちが騒ぎ、何かがうかがっているような気配ばかりが濃厚になっていった。
森の獣にとって、これほど獲物にしやすい生き物もない。素早く走ることも、武器になる牙も爪も嘴もない。それでも、獣たちは幼子に襲い掛からなかった。簡単に屠れる獲物。けれど何故か手をかけてははいけないと本能に訴えかける存在。それでも気になって、他の獣に出し抜かれるのも許せなくて。
そんな緊張感は音もなくにょろりと近づいた存在が簡単に砕いてみせた。
「おやまあ、やけに森が騒ぐと思ったら人間の子供じゃないか」
一匹の黒猫がその場を支配する。
獣たちは黒猫が現れると同時に四散した。あれには勝てないと本能が叫ぶ。下等な魔獣なぞ一瞬で灰にしてしまうだろうと分かってしまったから。
ただ泣いていた幼子にそんなことは分からない。だが自分が話しかけられたのかと顔をあげ、目を輝かせた。
「にゃーにゃ! にゃんにゃん!」
「まあ、あたしは猫だけどもさ」
幼子は、満面の笑みを浮かべて黒猫ににじり寄り、両手を広げた。その意図は明白だ。
「ちょっとお待ち! 涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔で近寄るんじゃないよ」
前足でたしっと幼子の額を抑えて突進を止めた黒猫の言葉に、再び幼子の両目が潤む。
「にゃーにゃも、ちらい? あたちをちらい?」
「ちらいって、ああ、嫌いってか。別に嫌いじゃないけど汚い顔で毛皮を汚されたくないだけさ」
ふいにどこからか手ぬぐいが現れて幼子の頭に落ちてきた。
「ほら、顔拭きな。拭いたら鼻をちんするんだよ」
「うん!」
覚束ない手つきで自分の顔をぬぐった幼子は、どうだとばかりに顔を近づける。
「ちょっとはましだけど、あんまりきれいじゃないねえ」
誰の手も借りず浮き上がった手ぬぐいが、幼子の顔をこすり始めた。
「いにゃい!」
「痛いってか? そりゃ力入れなきゃきれいにならないからね。どれ? 後で顔洗うまではそれでいいだろう」
黒猫は仕事を終えた手ぬぐいをちゃいと払い、幼子の前で香箱を組んだ。
「さて、あんたはどこの子だい? 名前は言えるかい?」
こてんと首を傾げた幼子の様子に黒猫はため息をつく。
(さてさて迷子ではここまで来れまい。やはり捨て子か)
「おっかさんはどうした?」
そう問いかけた途端、幼子は震え、またも泣き出す寸前だ。
「ああ、もう泣くんじゃないよ! これじゃいつまでもあんたのことが分からないだろ!」
黒猫が自分の額を幼子の額にかるく当てると、額から額へ何か温かいものが移動した。
(母親を恐れている、か。日常的に暴力? そういや、呼んでいたのも母親じゃなかったね)
「誰を呼んでたんだい?」
「ばーちゃ!」
「あー、ばあちゃんね。ばあちゃんはどうした?」
「ばーちゃ、ずっとねんね。ばーちゃも、ちらいなった?」
(ああ、倒れたか死んだかしたね)
「ばあちゃんは可愛がってくれたんだね?」
「うん。ばーちゃだけ。みんにゃ、ちらいだって。あかいの、ちにょいろっちぇ」
「ちにょいろ? ああ、血の色、ね。それでみんなが嫌いっていうのかい?」
こくりとただ頷く幼子は、肩まで伸びた自分の髪を引っ張った。
話す黒猫はただの猫ではない。何百年と生きてきた魔をあやつるもの。そして、かつての主からの使命を与えられた存在だった。
(このあたりの民は皆、金髪だったはず。その中でこの髪と目は悪目立ちしただろう。迫害されていたのに違いない。よくぞ生まれてすぐ殺されなかったものだ。森の意思が働いていたんだろうけどね。たいした潜在魔力だこと。こんなに早く森に迎えられた魔女はいなかったはずだけどねえ。とにかく、あたしはこの子を引き取って育てなきゃいけないってことか)
未来を思ってため息をつきたくなる。けれどこの幼子のせいでは決して、ない。だからわざと明るく話した。
「バッカだねえ。それは血の色じゃなくて、ベリィ色っていうんだよ」
「べりい?」
「そうさ、知らないかい? ちょっとお待ちよ」
藪の中に顔を突っ込んで、いくつかの実を器用に咥えて出てくると、幼子に渡した。
「ほら、これがブラックベリー。こっちのがラズベリー。これは食べても大丈夫」
素直に実を口にした幼子はたちまち笑顔になる。
「気に入ったかい? 家の裏にもあるから後であげよう。
ね、あんたの色だろう? 赤くて黒くて甘くて酸っぱい。ああ、自分の名前も分からないみたいだから、あんたのことはベリィと呼ぼうか」
食べたベリーに染まった口の横をぺろりと舐めて、黒猫はやさしい声で誘った。
「おいで、ちびっこ。あたしがあんたを拾ってやるよ。あたしはカシス。森の魔女の使い魔だ」
◇
「とは言え、あんたが自力で家まで歩けるわけないねえ」
ベリィと呼ぶことにした幼児の足元は裸足だ。もっとも、この年の子供に靴があったところで森を歩くのはほぼ無理だろう。
よいしょ、っとカシスはその場で猫らしく伸びをした。
伸びをしている間に、カシスの大きさが変わっていく。倍に。そのまた倍に。ここから遠い南に住むという虎よりやや大きいくらいで変化は終わった。
「にゃんにゃん?」
「カシスとお呼び。さて、あんたを運ぶからね。じっとしておいで」
カシスはベリィの後ろ襟をそっと銜えると、ゆっくり歩き始めた。猫の子ではないのだから、首の皮のように服の襟が伸びるはずもないのだが、何故かベリィの首が締まることはなかった。
そしてカシスが進むと目の前の藪が次々と左右に分かれて道を作っていく。巨体となったカシスは器用に木々の間をすり抜け、そうして徐々に速度を上げた。
どんな法則やら魔法やらが働いているのか、幼子に分かるはずもないが、風の抵抗ひとつなく、ぐんぐんと過ぎ行く景色にベリィは歓声をあげる。
そうやって進むことしばし、ふいにぽっかりと開けた場所に出た。木々すら遠慮するように不自然な広場があり、燦燦と日が差して暖かだった。そこには澄んだ泉と一軒の赤い屋根の小さな家が建っていた。
カシスは足を止めてそっと家の前にベリィを降ろす。
「着いたよ。ここが森の魔女の家。今日からベリィ、あんたの家だよ。さ、おはいり」
誰が何するでもないのに勝手に開いた扉の中へと、いつの間にか元のサイズに戻ったカシスが頭で押してベリィを進ませるのだった。
◇
森の中のちいさな家、と聞けばかわいらしい印象だが、中はずいぶんと広々している。玄関からそのまま居間まで進まされたベリィは、家の様子にただただ目を見開いていた。
「何せ魔女の家だからね。外観よりはずっと広くなってるのさ。さて、と」
カシスは思いっきり息を吸い込むと
「起きな! ジェム! おまえさんの出番だよ!」
と叫んだ。
それに反応したのは部屋の隅に蹲っていた人影だった。メイド服を着た若い女……に見えたが、よく見ると違和感がある。
「ベリィ、こいつは自動人形のジェムだよ。
ジェム、次代を見つけた、ベリィだ。何か食わせてやって、身体を洗って、あとは服もいるな。それから部屋の準備だ。あたしにはできないことばっかりだから、さっさと頼むよ」
自動人形と教えられてみれば、そのボディが木であることに気付くだろう。その目が宝石だと気付くだろう。もう少し年を重ねていればベリィにも分かったかもしれないが、動き出したその存在を、自分を否定してきた村人たちと同じだと思い込んだベリィはカシスの後ろに隠れようとした。
ジェムと呼ばれた人形は、立ち上がってベリィの前に進むとスカートを両手につまんで一礼する。
「お待ちしておりました~、次代さま~。わたくしはジェムと申します~。先代さまに作られた自動人形で~、これからあなたさまの身の回りのことをいたします~。何なりとお申し付けくださいませ~。ええと、まずはお食事ですね~。お嫌いなもの、食べられないものはございますか~?」
後ろでふるふると震えているベリィを眺めたカシスが代わりに答えた。
「あまり食わせてもらってなかったみたいだから消化のいいものでも見繕ってやってくれ。あと、いちいち語尾を伸ばすんじゃないよ、うざい」
「カシスさま~ひどいです~。先代さまがわたくしをこういう風につくられたので~諦めてください~。お食事は了解です~」
のんびりした話し方とは裏腹に、ジェムはさっさと台所らしき所に消え、そう経たないうちに何やら美味しそうな匂いが漂ってきた。ベリィはカシスに促されるまま食堂に行き、長机の前の椅子のひとつに座るよう言われるが、椅子は大人用で、子供の、更に年齢からしても小さなベリィにはよじ登れそうになかった。
「ああ、無理だったね。お待ち」
カシスが右前腕を振ると、居間のソファーの上にあったクッションがとんできて、椅子の上に着地する。
「ひとつじゃ足りないか」
もうふたつソファを重ねた上にカシスが腕を振ると今度はベリィの身体がふんわりと浮き上がった。
「明日にでもジェムにあんたの合う椅子を作らせるから、今日はそれで座っておいで」
クッションの山の上に乗せられたベリィは、テーブルの上をようやく見ることができた。端に素朴な刺繍の施されたテーブルクロスがかかり、真ん中には花を生けた籠が飾られている。
「次代さま~お待たせいたしました~。今日はポトフですよ~。具はどれもうんと柔らかくしておきましたからね~。あと、少し冷ましておきましたから~」
さして待たされぬ内にトレイと共に現れたジェムは、ベリィの前に深皿を置く。
スプーンを握らされたベリィは、机の下のカシスを、そして椅子の横に待機するジェムの方を見た。
「それはあんたの食事だからね。食べていいんだよ」
「はい~。おひとりで召し上がれない場合はお手伝いいたしますよ~」
湯気の上がった深い器にスプーンを入れておそるおそるスープの部分を口に入れると、ベリィはふにゃんと顔をほころばせ、不器用な手つきで一生懸命、脇目も振らずに食べ始めた。
「これは~これから沢山召し上がっていただかないといけませんね~」
「そうだね、まずは子供らしくふくふくにしてやらないと」
「お風呂とお部屋の準備をしてまいりますね~。カシスさま~、次代さまがおかわりがいるようでしたらお願いします~」
「わかった。ここは見ておくよ」
満腹になったベリィを少し休ませてから、ジェムは風呂へと連れて行った。食事を与えられたことで、ベリィのジェムに対しての警戒もすでにない。
祖母と住んでいた家には風呂がなく、湿らせた布で拭くのが常だった。髪もただ水で洗うだけ。そんな生活から風呂を知らなかったベリィは、何をどうするかどうされるか分からぬままジェムによっていい匂いのする石鹸や洗髪料を惜しげもなく使われ、全身を洗われた。徹底的に洗われた。まさしく丸洗いだった。それが終わってからたっぷりと沸かされた湯舟につけられる。
「魔法を使えてもカシスさまは猫なので~、お水は苦手でいらっしゃるんです~。それに猫のお手ではこうして洗うのもできませんし、わたくしがこれからもお手伝いいたしますね~。さあ、きれいにおなりですよ~」
風呂から上がるとシャツのようなものを着せられ、居間で髪を乾かされた。乾かしたのはカシスの魔法である。その髪をジェムが丁寧に梳いてやるころには、疲れ果てたベリィは船を漕ぎはじめている。それを横目にカシスはジェムに話しかけた。
「本人、分かっていないかもしれないが、迫害されて捨てられたのだと思うよ」
「はい~。お身体に沢山傷やあざがありました~」
「やっぱりね。とりあえず今夜からあたしが一緒に寝るよ。うなされて起きるかもしれないし。その間、あんたはこの子に必要なものを作っとくれ」
「はい~。しばらくは先代さまのお部屋を使ってください~。客間を改装してうんと可愛いお部屋を作りますから~。今夜は次代さまのお洋服を用意しますね~」
「その辺はまかせた。あたしじゃできないからね」
「はい~。カシスさまにできないことをするために作られたわたくしですから~。むしろ遣り甲斐があって嬉しいです~。先代さまがお隠れになられてから、お掃除くらいしかすることがなくて~。次代さまは、ふくふくになられたらとてもお可愛らしくなられますよ~」
「ああ、当面の目標はふくふくだ」
「はい~、ふくふくおまかせください~」
こうして森の中の家で、使い魔の猫カシスと自動人形のジェムの3人でベリィは暮らすことになった。
◇
翌朝、顔の横にある温かいものがくすぐったくてベリィは目を覚ました。同じベッドの上、ベリィの枕元に黒くて丸いかたまりがある。触るとほわほわで、無意識に顔を摺り寄せていた。
「擦り擦りすんのは猫の方だと思うんだけどね」
黒いかたまりはそう言ってほどける。
「にゃんにゃん!」
「カシスだよ。言ってごらん」
「かしゅしゅ?」
「……まあ、おいおいね。おはよう、ベリィ」
「おあよごじゃーす」
「ベリィはいくつだい?」
少し考えてベリィは指を突き出す。
「しゃんしゃい!」
「あー、三歳ね。でも出してる指は二本だよ」
「におん?」
「三歳ならもっと喋れそうなもんだが、まあこれから毎日喋っていたらましになるだろう。さてと、ジェム!」
扉に向かってカシスが呼びかけると何やら抱えたジェムが入室してきた。
「おはようございます、次代さま~。よくお休みになれましたか~?」
「あい! おあよごじゃーす!」
ジェムは部屋に用意してあった小さな台を引き寄せて、その上に乗せてあった桶の水でベリィに顔を洗わせた。
「では、お着換えいたしましょうね~」
ジェムによって白い肌着と、シンプルな黒いワンピースを着せられる。それは寝間着がわりに渡されたシャツとは違い、ベリィにぴったりのサイズだった。
「一晩でよく間に合ったね」
「クネル夫人ががんばってくださって~。はい、次は髪を梳かしますよ~」
丁寧に梳かれた髪には、ワンピースと同じ黒いリボンが飾られる。
「ああ、御髪の色が映えますね~」
「黒は魔女の色だからね」
言いながら、自分の身体をさりさりとカシスは舐めて整えていく。まるで黒い毛皮を主張するように。ジェムはそれをさらっと流す。ジェムの髪は薄い茶色である。
「はい、可愛らしくできましたよ~。では朝ごはんにいたしましょうね~」
ジェムはベリィを抱え上げ、食堂へと連れていく。見ると、昨日にはなかった子供用の椅子がきちんと用意されていた。
「これが次代さまのお椅子ですよ~」
椅子に座らされると、テーブルに丁度良い高さだ。既にランチョンマットとカトラリーが準備されている。カトラリーも木製の、子供の手に合ったものだ。ランチョンマットの隅には黒猫の刺繍まであった。
「とりあえず、カシスさまを図案にしましたけれど~、お好きなお花とか教えてくださったら縫いますね~」
「さすが家事特化の魔法が使える自動人形。一晩で色々作ったもんだ」
「わたくしには睡眠も必要ありませんし~、時間はたっぷりでした~。それに、次代さまのためのお品と考えると楽しくて~」
ベリィも刺繍された黒猫を嬉し気になぞり、テーブルの下のカシスを見て笑う。
「にゃんにゃん!」
「カシスだよ。いつになったら呼んでくれるのかねえ」
スープとふわふわのパンケーキの朝食を、ベリィは喜んで食べた。ただ、がんばっても全部は食べきれなかったようだ。残ったパンケーキを惜しげに見つめるベリィの考えていることは分かる。
「余った分も無駄にしないから安心しな」
「はい~。小鳥とかリスとかが喜んで食べますから~」
そこで初めて、ベリィは食事したのが自分ひとりだと気がつく。
「にゃんにゃんとじぇむのごあんは?」
「あたしは、食べなくても森の魔力をもらってるから大丈夫なんだよ。まあ、食べたきゃその時は食べる」
「わたくしも~お食事は必要ありません~。でも次代さまはこれからた~くさん召し上がりましょうね~」
沈んだ表情のベリィを椅子から降ろしながらジェムはカシスの方に押しやる。
「さ、ベリィ。今日は探検だよ」
「たぁんちぇん?」
「家の周囲を案内してやるってことさ。ついておいで」
猫と人間の幼子であれば、どちらが素早いかは分かり切ったことだ。だからカシスは常にベリィの周囲をくるくるとしながら先導し、玄関へと導いた。
木製の扉にはその上部に硝子の嵌った覗き窓があり、窓の下に取っ手がある。もちろん、ベリィに届く高さではない。
「あんたは既にこの家に登録されている。だから開けたいと思えばこの扉は開く。やってごらん」
「おちょと、でる?」
「ああ、外に出るよ」
「あい! おちょと、いく!」
ベリィの声と共に内開きの扉が滑らかに開いていく。光と緑がたちまち溢れた。
「あ~お待ちください~。次代さま~、お靴はきましょうね~」
「猫には必要ないから忘れてたよ」
どこかから飛んできたジェムがあっという間にベリィに靴を履かせる。黒い、革らしきちいさな靴は、誂えたように――実際、誂えたのだが――ベリィの足にぴったりだった。
「痛くはないですか~?」
「にゃいでしゅ!」
「んじゃ、行くよ」
幼子に合わせてのんびりと、黒猫は家の外を歩く。
木々の遮らない土の上は、背の低い柔らかな草がまばらに生えていた。それを区切るように、しっかりとした柵に囲まれた場所がある。
「ここは薬草を植えてある。今は時間を持て余したジェムが管理してるが、あんたがもう少し大きくなったら、あんたの仕事になるからね」
そこにはこの周辺ではお目にかかれないような薬草たちが元気に日を浴びていた。
「基本的に、森の中にいる限りは金銭なぞ必要ないが、外に出りゃあった方がいい。まあ、魔女の財源ってとこだ。育てて収穫して、加工して薬にするんだ。料理にもつかうね」
「おはにゃ、ちれい」
「きれいな花でも毒があったりするから触るんじゃないよ。あたしかジェムが一緒じゃない時は薬草畑には近づくのは禁止だ」
伸ばしかけた手をあまりにも残念そうに見るベリィの様子に、カシスは笑う。裂けるようにぃっと広がった赤い口内と牙が見えたがベリィがそれを恐れることはない。
「はいはい、触ってもいいのはこっちにあるよ」
それは様々な『ベリー』と呼ばれる実をたわわに抱えた灌木だった。
「先代、つまりあたしの主人だった人がベリー好きでね。で、どうせなら一本でいろんなベリーが食べたいって、力業で作っちゃったんだよねえ」
カシスは少し遠い目をして先代魔女のかつての行動を思い出す。
「まあ、あんたがこれからは好きに食べればいいよ。季節感もなしに年中生ってるからね」
「あい!」
どれだけカシスの弁を理解したものかは分からないが、ベリィが両手いっぱいに掴んだ実を迷わず口に運び、無邪気に笑った。
べたべたになったベリィの手と口を魔法で呼び出した水で洗ってやったあと、カシスは家の裏に建つ塔に向かう。円柱を伸ばしたような石造りの建物は、壁に蔦を這わせ、随分と年代ものに見えた。
「ここは、塔。魔女の塔だ。この森の司である代々の魔女が学ぶ場所だよ。もしかしたら森と同じくらい古いかもしれない。もうちょっと大きくなったら、あんたもここで学ぶ。ジェムがあんたを次代と呼ぶのはあんたが森に認められた次の司だからさ。まあ、今は何言われてんのか分かんないだろうけどね」
塔には一切の窓がなく、外からでは何階建てかも分からないようになっていた。唯一の入り口の前でカシスは片手を示す。
「時が来ればあんたは塔に招かれる。そしたら中で修行することになるだろう。中には数えきれないくらいの本と道具と、あとは精霊っていうか幽霊っていうかそういうのがいる。怖いのはいないから安心しな。多分、あんたに怖がられたら向こうが泣くだろうさ」
塔には入らず、カシスはその先の泉に向かった。中央から湧き出る清水が絶えることなく、楽し気な音を立てている。
「この泉は枯れることがない。森のある限り湧き続ける。実は森中の水源でもある。魚はいないよ。よそから釣ってきて放しても、何故か消えてしまう。飲んでも大丈夫。美味い水さ。あたしやあんたには特にそう感じられるはずだ」
泉に身を乗り出すようにしてカシスが水を飲み始めたので、ベリィも真似するように顔を水面に近づけ……カシスの手で止められた。
「頭が重いんだから落ちるだろうが! 猫じゃないんだから手を使うんだよ!」
掬うよりもこぼす方が多かったとはいえ、小さな両手に残った水を口に運んだベリィは満面の笑みでカシスへと報告した。
「ちべたい! おいちぃ!」
「ああ。森の魔力がたっぷり溶け込んでる水だ。これを甘露というのさ」
カシスは口のまわりの水を舐め取って顔を上げる。
「家ではすべて、ここの水を使ってる。料理にも茶にも風呂にもね。味も良くなるし、飲んでも浴びても肌はぴかぴかだ。ちょっとした怪我も治る。あんたの肌も一晩で随分ときれいになったよ」
ベリィの身体に残された傷はほとんど消えかけている。そして、栄養状態の良くなかった肌は幼児らしいハリと艶、柔らかさを取り戻しかけていた。
「もちろん、あたしの毛皮だってぴかぴかだろう?」
ふふんと告げる黒猫に、ベリィは大きくうなずく。
「あい! にゃんにゃん、ぴかぴか!」
しなやかな毛皮はどこまでも黒く、そして光を反射している。カシスの自慢だ。
「この水を外で売れば、世のご婦人方が騒ぐだろうねえ。まあ外に持ち出すことはないけどさ」
泉から離れれば効能は徐々に薄れ、やがてはただの水となって森の外を流れるのだという。カシスの話す内容をどこまでわかっているのか、日差しをきらきらと反射させる泉を指差してベリィは笑う。
「ちれいねえ」
「ああ、きれいだね」
幼子と黒猫は泉のほとりに座り込んで、しばし光と水の遊ぶ風景を眺めた。
その後、歩き疲れたベリィが船を漕ぎ始めてカシスが慌てて家に運び、ベリィに無理をさせたこと、新しい服を座り込んで汚したことなどをジェムに叱られたと、南向きのソファーに寝かされたベリィが知ることはなかった。
◇
そうして穏やかに日々は流れた。
子供の成長は早い。
黒猫と自動人形から注がれる愛情と知識を吸い上げて、拾われた頃とは見違えるように、ベリィはすくすくと育つ。寿命を持たぬ保護者たちからすれば、そうして大きくなっていくベリィの成長こそ、どんなものより不思議な魔法だった。
魔女の館の離れに住む蜘蛛の魔物、「クネル夫人」を紹介されて大泣きしたのも今は昔。光沢のある糸を吐き出し、それを器用に布へと織っていく夫人には、背が伸びる度に世話になっている。今では夫人の仕事を眺めるのもベリィの楽しみのひとつになっていた。
「すごいね、クネル夫人はすごいね!」
舌足らずだった言葉もすっかり滑らかになり、むしろさかんにお喋りする様が愛らしいと、保護者たちはいささか親馬鹿になりつつあった。
ベリィにはこの家に暮らす前の記憶はほとんどない。生まれた時からカシスとジェムと暮らしていたような、そんな気がしている。
けれど時折、夢で酷く魘された。
そんな時は枕元で眠る黒猫がざらざらした舌で涙を舐め取り、自動人形が甘い蜂蜜入りのホットミルクを作って慰めた。
森の家は、箱庭だった。どんな魔物も獣も、悪意ある人も入り込まない楽園。ベリィ本人さえ知らぬ心と身体の傷をゆっくりと癒し、穏やかに過ぎる毎日。
ベリィは七歳の誕生日を迎えた。
◇
ベリィ本人は元より、カシスもジェムもベリィの誕生日を知らなかった。知っていたのは森だけ。
その朝、目覚めたベリィは、自分が行かなければならない場所があることに気付いた。
「おはよう、カシス」
「おはよう、ベリィ。何、首を傾げてんだい?」
「あのねえ、ごはんのあとにいかなきゃならないの」
「行くって、どこへだい?」
「んっと、とう、だって」
丸まっていた黒い毛皮が解けて、猫になった。
「とう……ああ、塔かい!」
「ベリィね、そこでおべんきょーしなきゃなんだって」
「なるほど。修行できる年齢になったと判断されたんだね」
ジェムの手助けがなくともできるようになった洗顔と着替えをしながら、まだベッドの上にいるカシスに答える。相変わらず、着るのは黒いワンピースだ。フリルやリボンが付いているので、デザインは可愛らしい。
ベリィがドレッサーの椅子に座ると、計ったようにジェムが部屋に現れた。
「おはようございます~次代さま~」
「おはようジェム」
「カシスさまもおはようございます~」
「うん、おはよう」
ジェムはベリィの服のリボンを整え、ブラシを手にする。
「今日はどんな髪型にしますか~?」
丁寧にベリィの髪を梳かしながらジェムが尋ねると、ベリィは真面目な顔をする。
「きょうは、おべんきょうするんだって」
「次代さまがですか~?」
「うん、とうにいかなきゃなの」
ジェムの視線を受けたカシスが代わりに答えた。
「ああ、どうやら森から指示されたみたいだよ」
「ついにですか~。では、今日はお勉強の邪魔にならないようにしましょうね~」
ジェムの手によって高い位置にふたつに結ばれた髪には、それぞれリボンが飾られる。
ベリィの暗赤色の髪は随分と伸びていた。ジェムの手入れにより、その髪は光沢を帯びて艶やかだ。大きな瞳は黒に近い赤の睫毛に縁どられ、幼いながらもその容貌は整っている。年頃になれば花のような可憐な乙女となることが約束された美貌。まさしく森の魔女に相応しいと、ジェムは内心称賛していた。正しくは絶賛である。カシスが知ったならば鼻で笑うだろう。
ベリィのために整えられた愛らしい設えの部屋を出て朝食を取りに食堂へと移動する。ベリィ専用の椅子も年々高さを変えていたが、大人用の椅子ではまだテーブルに届かなかった。
パンとスープの簡単な朝食のあと、食器の片づけを手伝ってから、ベリィは家を出た。後ろからのんびりとカシスが付いてくる。
基本的にジェムは過保護でカシスは放任だったが、それでも厳密にベリィをどちらかの視野に置いていた。森の館を攻撃するようなものはないが、幼い子供がどこで怪我をするか分からなかったからだ。
実際、派手に転んだりぶつかったり、泉にはまったり木から落ちたりと、それなりのことはあった。つまり普通の元気な子供の行動であり、目を放すのは危険すぎた。決してひとりで空き地の外に出ないよう教えていても、子供の好奇心には勝てない。何度カシスに襟首掴まれて引き戻されても懲りなかった。
「さて、おとなしく修行できるのかねえ?」
カシスは自分が育てたせいで、猫のように敏捷に身軽に塔へ向かって走るベリィの後ろ姿を眺めながら、誰にともなく呟くのだった。
◇
「あけてくださいな。ベリィです」
塔の扉の前に着くと教えられてもいないのに、そうするのが当たり前のように声をかけた。応えるように古い樫の扉が開く。
「おじゃましまーす」
飛び跳ねるように中に突入したベリィだったが、戸外との明暗の差でしばし目を瞬かせる。
「そこは、おはようございます、ね、ベリィ」
「はいっ! おはようございます!」
反射的に答えてから、ベリィは声の主を探して部屋を見回した。塔の一階は机と椅子と本棚があるだけ。壁は由緒のありそうなタペストリーで覆われ、上下に続く螺旋階段があった。だが人影は見えない。
「ふふっ、こっちよ」
小さな光が明滅してベリィの周囲を飛び交い、柔らかな女性の声がする。光をじっと見つめていると、徐々にくるくる回った光は緩やかに大きくなり、やがて黒衣を纏った女性の姿となった。赤みを帯びたストロベリーブロンドの髪は自然なカールをしてその顔を彩っている。瞳は新緑の鮮やかなグリーン。
「はじめまして、ベリィ。私はあなたの先代、十代目の森の魔女レニア。今日からあなたの先生ね」
「ベリィです。よろしくおねがいします!」
「はい、元気でよろしい」
親しみをこめて向けられる笑顔は声同様に柔らかい。年齢はベリィにはよく分からない。ただ大人の女性だと思った。
「レニアーっ! ずるいの! 自分ひとりが先生のような顔して! あっ、ベリィちゃんはじめまして。私は八代目の魔女シンシアなの」
「四代目の魔女アイリーンよ。 会えるのを楽しみにしていたよ、ベリィちゃん!」
「ふふっ、まん丸なお目々が小動物っぽくて可愛いこと。三代目の魔女イサベラですわ」
「私は九代目のセオラ。歓迎する」
「いやっ! かわいいわっ! 六代目のグリューネよ!」
「五代目のエルマです。よろしく」
「いっぺんに言われてもわかんないわよねー、でも言っちゃう。七代目のイリューラ!」
「順番を守りなさい! あ、怖くありませんわよ? 二代目のオルディアと申します」
「本当にかしましいこと! 小娘ども静かにおし!」
目まぐるしくレニア以外に九人の女性の姿が現れた。髪の色、目の色もばらばら。肌の色も同じではない。共通項は黒衣に身を纏った若い女性というくらい。
最後の女性が手を打ち鳴らして注目を集める。彼女は漆黒の髪に濃紺の瞳の持ち主で、他の誰よりも威厳があった。
「わたくしが初代の森の魔女シレーン。本日より修行を開始いたします」
ベリィの心象風景では、カシスが驚いた時のように毛を逆立て尻尾をぴんと立てている自分が見えた。今は無くても、いつか尻尾ははえるんじゃないかと期待している。
「シレーン様、ベリィちゃんはこんなにちいさいのですし、ゆっくり優しくいきましょうよ」
「ええ、まずは美味しいお茶とお菓子で懇親のためのお茶会をしましょう」
「実際にはベリィちゃん以外飲食できないけどねー」
黒髪の魔女シレーンは深く深くため息をついた。
「単におぬしらがこの子を可愛がりたいだけであろう」
「そうとも言う」
「否定はしません!」
「だって可愛いもの!」
シレーンはいつ取り出したのか長い木の杖で床を打ち付ける。どんっと低い音が塔内に響く。
「たしかに魔女修行をこれほど若くはじめた者はおらぬ。大抵は十歳を半ば越えて森に呼ばれるのが通例であった。しかしこの者は三歳より森に育ち十分な土台ができたと認められて塔に来たのだ。下手に甘やかすでないわ」
「(でも賭けてもいい。シレーン様が一番甘やかすに千ラン)」
「(私もそれに三千ランで!)」
「(そんな分かり切った……五百ラン)」
「(だから賭けにならないって)」
「おだまりっ!!!」
シレーンの発言にこそこそと囁きあっていた女たちは怒声にきゃあきゃあと楽し気に悲鳴をあげ、くるくる回る光となって部屋中に散る。シレーンはため息をひとつ落として、ベリィを椅子に座らせた。
「よいか? 大昔、この世界ができた時。八つの聖域も生まれた。聖域から魔力は生まれ、世界中を満たしていった。聖域は自らの意思を持って管理者を選んだ。管理者は聖域の護り手であり、世界の監視者となった。八人の魔法の司。昼と海を司るのは男の司。魔法使いもしくは賢者と呼ばれ、サンの姓を名乗る。夜と森を司るのは女の司。自然と魔女と呼ばれるようになり、ムーンの姓を得る。八人の司は長くその役目を果たしたが、やがて次代に後継を任せた。次代を選ぶのは聖域の意思。次代は人から生まれ聖域の魔力を浴びて変質する。だが元が人であるから、いつしか生に倦み、孤独に病む。その為、時期が来れば先代の司は上位存在となってこの世を去り、創造主の使い、すなわち天使と化す。ここにいるのは、そうして世を去ったこの森の魔女たちの記憶の欠片。新たな司を育てるために塔に残された森の意思だ。
……ところで、どこまで話が分かったかな?」
シレーンの問いに、大きな瞳をまあるくして聞いていたベリィは元気いっぱいに答える。
「ぜんぜん!」
「あーまあ、そうだろう気はしておった」
肩を落としたシレーンに光の珠と化した魔女たちは追い打ちをかける。
「シレーン様、いきなり固いんですよ!」
「最初から飛ばしすぎですわ」
「言葉だけで理解させるのは無理がある」
「ならば、誰ぞやってみい!」
「では私が」
激昂したシレーンに応えたのは八代目のシンシア。光がほぐれて人型になった彼女は、水色の髪に海松色の瞳の清楚な印象の魔女だ。
「こういうのは目で見た方がわかりやすいの」
彼女が手を振ると、壁のタペストリーが光って、海に囲まれた大陸が映った。
「これが私たちのいる世界。そして八つの聖域がここ」
シンシアの言葉に呼応して世界の図の上に八つの光点が光る。海に四か所、大陸に四か所。
「そしてこの東の森が私たちの森。ベリィちゃんが住んでいるここよ。だから私たちは東の森の魔女と言うの」
シンシアが再び手を振ると、大陸の右側、光っている場所が大きくなり、緑の森だけとなる。よく見ると中央部に空き地があり、赤い屋根の家と塔、そして泉があった。
「おうち!」
そこが自分の住む場所だと分かったベリィは目を輝かせる。
「そうよ。この空き地の下こそが森の中心、聖域なの。ここは、とってもとっても大切な場所だから守らないといけないの。私たちがここを守ってきたけれど、次はベリィちゃんのお仕事になるの」
「ベリィが守るの?」
「そうよ。そのためにこれからお勉強しましょうね」
シンシアの見て諭す方法は、ベリィにも分かりやすかったらしい。
「魔女は、森の巫女。森の意思を聞き、森の魔力を纏い、世界に循環させる者。それができるようになってはじめて森の魔女を名乗れるのだ」
「ああっ、もう! だからシレーン様は急ぎすぎです!」
「そうそう。私たちがゆっくり教えていくからね」
そんな風に、賑やかにベリィの修行が始まった。
◇
母のような姉のような先代たちの教えをベリィは素直に吸収していく。最初は自分の魔力さえ分からなかったけれど、一旦分かってしまえば、森と一体になることも容易かった。森のすべてがベリィの目となり手となった。動物たちの営み。魔獣の存在。そして森の外から入ってくる人。
「魔獣は、必要以上に人が森に入らないように作られました。ですから入ってきた人を襲います。けれど、決して森から出ないようにするのも魔女の仕事なのです」
「何から森を守るか。それは主に人からだ。人は動物と違い、生きるために手段を考えて生み出す。だが生きたいという願いは、より多くより良いものをと欲っするようになる。欲望の全てが悪いわけではない。それは人を動かす力になる。けれど欲望のままに森を蹂躙させれば結果、世界が滅びる。森を守ることは人を世界を守ることに繋がる」
「魔女になってしまえば、自由に森からも出られるわよ。離れても森を守れるようになるから。そうして人間の街で暮らしたり、他の魔女を訪ねたりしてもいいわ。人間の街は刺激的で楽しいわよ」
「魔女だからって一人でいる必要はないの。年頃になったら恋をしたっていいの。普通の人間のふりをして家庭を持つこともできる。子供は……生まれにくいけどね。ただ魔女は長く生きるから、先に死んでいく相手に取り残されてしまうの。中には海の司と恋仲になった例もあるけれど」
「世界を自分の目で見ることも大切なのだ。自分が何を守っているのか、知らなければ本当には守れない」
「いつか、森を出なさい。そうして誰かと知り合って繋がって、喜びと悲しみを覚えていくのです」
「今はただ、健やかに育って。いつか耐えられないほどの感情に晒されても揺るがない土台を作っていくのよ。カシスもジェムも私たちも、あなたを愛して見守っているから」
◇
そんな修行が五年ばかり続いて。十二歳になったベリィは森と先代から認められて東の森の魔女となった。最年少の魔女だ。
背も随分伸びて、丸みを帯びた頬がすっきりし、逆に身体は緩やかな曲線を描き始める。まだ大人にはなりきれていない危うさと、叡智の宿る瞳と、好奇心いっぱいに駆け回るしなやかさ。どこか猫を思わせる少女へと育った。
跳ねるように塔から家へと舞い戻ったベリィは、ひだまりで丸くなっていたカシスを見つけると、魔女にならなければ許されなかった契約を結ぶためにその前に座り込む。そうして。
「カシス、わたしの使い魔になってくれる?」
「いいとも。十一代目の魔女ベリィ。おまえさんはあたしが拾って名付けたんだ。最後まで面倒みてやるさ」
「うん。ずっとずっと一緒にいてね?」
「ああ、ずっと一緒さ」
この日、世界に魔力を生み出す聖地のひとつ、東の森を守る新たな魔女が誕生した。その名をベリィ・ムーン。暗赤色の髪と瞳を持つ愛らしい少女である。少女が乙女となり大人の女性となってその身の時を止めて長くその役目を果たすことになるが、その傍らには常に一匹の黒猫がいたという―――。
気が付いたら登場人物全員女でした……。カシスも一人称から分かるように雌猫です。
ベリーでなくベリィなのは字面の可愛さで。
カシスは元は森で生まれた猫の魔獣でしたが、先代に拾われて使い魔に。通常の使い魔は主がこの世を去ると契約が解除されて死にますが、『森』と仮契約を結ぶことで永らえました。次代の魔女がいつ現れるか分からなかったための保険として。結構な魔力持ちで、先代の死後も森をパトロールしていました。
ジェムは先代のレニアが家事をしたくないからと作りました。メンテ不要のAI搭載みたいな人工生命で永久機関持ち。家事に関してなら魔法も使えます。ただし、家事特化型なので攻撃も防御もできません。ボディは神樹製で防水仕様。髪は魔獣の毛を移植。目は宝石。心臓は魔石。黒のロングワンピースに真っ白エプロンのメイドスタイル。ブリムもあるよ。自分以降の魔女に仕えるようにと残されました。DIYもお手のもの、革靴やバッグも作れます。有能。
ベリィの衣装は小さい頃はフリルとかリボンがついているようなお子様ワンピで、段々ゴスロリ系になります。ジェムの趣味で。
魔女たちは四~五百年程生きて上位存在になることを選びます。人との恋愛も出産も可能。歳を取らないので長くは留まりません。この世界での魔力持ちは遺伝ではなくランダムなので、魔女の子供だからといって魔力があるとは限りません。あっても母親が長生きするので後継にはなれないという。一般の魔法使いにはなれます。
一般の魔法使いと司である魔女賢者の差は魔力の器が桁違い。あと、司たちは呪文や魔法陣などで補助する必要がありません。自分の手足の延長みたいな感じで使います。一般の魔法使いも体内に魔力を留めるので、普通の人間よりも長命。
聖域のある森は東西南北に配置されており、単純に「東の森」とか呼ばれます。海の聖域は島となります。こちらも東西南北にあって、「東の海」もしくは「東の島」と呼ばれます。
いつかベリィはカシスを連れて海を見に行って、そこで東海の司(ツンデレ少年)に会ったりもしますが、カシスは猫なので海が嫌いです。でも海産物は好き。ベリィは食べ物の好き嫌いなく育ちましたので海産物も喜んで食べます。南の森の次代も同年代に代替わりするので仲良くなる予定。