280:最低な私と最高の貴方(side:ツバキ)
――彼は、行ってしまった。
白く埃一つない空間で、私は壁に背を預ける。
エレベーターに目を向ければ、既に下へと到達していて。
アレが再び此処へと戻って来る時には、マサムネは自分の進む道を決めているだろう。
本当は行かせたくなかった。
あの子にだけは会わせたくなかった。
他の誰でも無い。あの子とマサムネだけは交わってはいけない。
優しいマサムネと人類の為にだけ尽くす彼女。
彼はきっと、助けたい人たちの為にその命を捧げようとする筈だ。
それが私は堪らなく嫌だった。
自己犠牲の精神は素晴らしいものかもしれない。
でも、自分の愛する子供にだけは、そうならせてはいけない。
私は人間だ。
人間の女であり、あの子たちの母親で……私は最低だ。
子供さえ幸せなら、あの子たちが生きているのならそれでいい。
世界も何もかもいらない。
あの子たちが生きてくれさえすれば、私はそれで満足だった。
アザーロフの話を聞かされて、彼がどれだけ辛い目にあったか理解した。
嘘ではないとすぐに分かっていた。
だからこそ、私はあの子の傷を癒してあげたいと思った……でも、それはダメだった。
あの子は違う。
マサムネは、私に対して傷を癒して欲しいなどと一言も言わない。
彼は私に協力して欲しいと言っていた。
立ち止まることも無く、弱音を吐くでも無い。
それだけで息子がどれだけ長い道を歩いてきたのかを実感できた。
長く険しく。辛く苦しい筈なのに。
マサムネは前へと進む事だけを考えていた。
複雑な気持ちだった。
息子が逞しく成長してくれたと嬉しく思う反面。
あの子が一気に遠い存在になってしまったかのように感じて寂しくも思った。
「……母親らしいことなんて……まだ、何も出来ていないのにね」
くすりと笑う。
そうして、白衣のポケットに手を突っ込んで床を見つめた。
マザーは優秀だ。
彼女は此方が与える全てを完璧に理解していた。
そうして、独自の進化を遂げていき、新たな技術を確立しようとしていた。
私の研究は、ハッキリと言ってしまえばそこで終わっていた。
彼女を生み出した時点で、第二の世界の構築は確実なものとなったと言っても過言ではない。
彼女は今ある技術を学び、独自に改良を施して自らを常にアップグレードさせていっていた。
完全自立思考型などという言葉では最早、言い表せないほどの存在で。
このまま行くのであれば、恐らくは十年ほどで研究は実を結ぶ……本当に、危険だ。
それだけの力を彼女は持っている。
この世界を統治できるほどの力を手にするのも時間の問題で。
第二の世界しか見えていない彼らは、何ら危機感を抱いていなかった。
過ぎたる力は身を滅ぼす。
それは、彼女が知恵を付けて行く過程で何が起こるのか分からないという事を表している。
彼女も心を持っているのだ。
それは自分で考える事が出来ると言う事で。
今は人類を守護する事だけを考えているものの、この先の未来で何が起きるかは分からない。
彼女は私にとっては子供の様だ。
マサムネと同じように、自分の知らない世界を知ろうとしている。
探して見つけて、考えて納得する。
常に成長しているのだから、心が変わる事だってある。
私はマサムネもアルタイルもマザーにも、後悔するような選択をして欲しくない。
間違ってもいい、失敗してもいいのだ。
間違っている事は大人たちが正してあげればいい。
失敗したのなら次の糧すればいいだけだ。
子供たちは純粋で、悪い大人たちを知らない。
いや、悪という定義すら彼女は曖昧かもしれない。
全ての人類を守るという事は、誰かを不幸にする存在も含まれているという事だ。
彼女は私に言っていた。全ての人間を”管理”すると。
それはダメだ。一方的な愛を与えられた人類たち。
考える事も無くなり、何かへ挑戦する意欲も消えて。
誰かを愛する気持ちも、打ちひしがれるような挫折を経験する事も無くなってしまう。
それは違う。そんなものは人間ではない――ただの”機械”だ。
マザーは人類全てを正しい方向へと導く為に。
人類全てに常に最適な答えを与え続けると言った。
完璧な環境で命を育み、完璧な教育で正しい知識を与える。
争いを起こすことなく、全ての人間たちに平等な衣食住を提供する。
相応しい職を与え、相応しい相手を選び。
何を食べて、日常生活のスケジュールを考えて。
人間たちが各々で考えていた”無駄な事”をしないように、彼女は全てを管理するのだ。
「マザー……貴方はまだ子供……ゆっくりと貴方が無駄だと言ったそれらを学んでいけばいい……私が死んでも、貴方を教えてくれる人はいるわ」
完璧でなくたっていい。
失敗だらけでもいいじゃない。
与えられた使命を果たすだけが、貴方が生まれた理由じゃない。
私が生きている間は、私が貴方に世界や人間を教える。
年老いて足腰が弱り、目が見えなくなってもよ。
貴方も私の愛する子供で、一緒に学んでいきたい存在だから。
私は大きく息を吐く。
そうして、ポケットから片手を出して髪を触る。
頭を抱えるような姿勢で私は自らの汚さを吐露した。
「……私はずるいよね……貴方に何も教えないから……マザーに会わせたくなかった理由はそれだけじゃない……違う世界の私が何をしたのか、私は理解してしまった……私は貴方を……差し出した」
気づいていた。気づいてしまった。
マサムネが遥か未来からやって来て。
彼から聞いた話を全て聞いて、すぐに分かった。
マサムネやアルタイルから一時的に離れて。
タイミングよくマサムネを眠らせた。
そして、私が彼にあてて送った手紙。
まだある。その手紙が入っていたという古いアルバム。
それは私が大切に持っている家族たちとの思い出のもので。
それを保管していたのは他でも無いマサムネが大切に想っている子……出来過ぎているよ。
狙い通りと言ってもいいほどに、全てが揃っている。
これで気づかない方が可笑しいとすら言える。
別の世界の私は、マザーと協力して計画を実行した。
マザーは私の”息子”を救い、未来へと遺伝子を繋げた。
そして、私はマサムネを手放し、彼に対して悍ましい経験をさせてしまった。
そうしなければいけなかった。
マサムネが言っていたオーバードがどういうものなのかは完璧に把握していない。
でも、自らの求める存在が大罪を背負うものであるのなら……傷を負わせる他なかった。
私は全てを知っていた筈だ。
マサムネがこれからどれだけ傷つき、世界から憎まれるのかを。
純粋で優しいあの子が、ボロボロになるまで傷ついて。
死ぬ事も出来ないほどの苦痛を味わい続ける事を……視界が揺れる。
両目の視界が水面のように揺れて。
ポツポツと床に落ちていった。
溢れ出るそれが、床を濡らしていって。
私は唇をきゅっと結びながら、自らの穢れた心を呪った。
「……そんなに、自分の産んだ子供が可愛いのか……お腹は痛めていなくても、マサムネもアルタイルも……貴方の子供でしょうッ!」
気持ち悪い。心の底から軽蔑する。
世界を救う為、人類を守る為――どうでもいい。
私は自分が許せない。
あの子たちを自分の手で死地へと送り。
兄妹同士で殺し合いをさせて。
初めて出来た友達も、あの子の前で奪わせた。
あの子は幸せだったと言っていた。
でも、誰が聞いても分かる。
幸せ以上に、あの子は多くの苦しみを味わった筈だと。
誰だってそうだ。
親や兄弟。恋人や親友。
そんな掛け替えのない存在を目の前で奪われ続けて。
普通の人間であれば、心を閉ざすような経験をしてきた。
私は汚い水をせき止めようと顔を手で覆う。
ずるずると壁を擦って床に尻をついて。
手の隙間から水を零しながら、私は鼻を啜った。
「辛かったでしょう……苦しかったでしょう……それなのに、私は……」
何も言えない。
あの子に対して、私が言葉を掛ける資格なんて無い。
マザーは理解している筈だ。
私があの子たちを切り捨てて、世界や息子を取った事を。
私は怖かった。
あの子が真実を知って、私をどのように見て来るのかが。
軽蔑し、憎悪の籠った目で私を見て来るのか。
当たり前だ。それほどの事を私はしたのだから。
殺されても文句を言えない。
あの子がどれだけ汚い言葉で私を罵ろうとも、当然の事だと分かる。
私は恐れていた。
あの子とマザーが会って真実を知り。
私の手から離れて、また一人になってしまうのが。
私はゆっくりともう片方の手でポケットからあるものを出す。
それは銀色のロケットペンダントで。
それを静かに開ければ、カブトムシを掴んで無邪気に笑う息子がいた。
泥だらけの顔で、今にも声を掛けてきてくれそうで……私はまた、失敗したのかな。
「……宗、お母さん。また失敗しちゃった……ごめんね」
マサムネやアルタイルを犠牲にして。
私はそれでも、心の何処かで――ホッとしてしまった。
宗が生きているという事実。
それが分かってしまった事で、私は安堵した。
二人を見捨てた私がだ……最低だ。
会わせる顔が無い。
彼だって、もう私の顔を見たくないかもしれない。
こんな最低な母親なんて……エレベーターから音が鳴る。
ゆっくりと視線を向ければ、マサムネが立っている。
あの子は私が泣いている姿を見て、驚きながら駆け寄って来た。
私はハッとしてごしごしと両目を拭う。
そうして、何時も通りの笑みを浮かべながら彼に対しておかえりと言う。
「……ツバキ、何で泣いてたんだ」
「……あぁ、違うよ。目にゴミが入ってね……あぁ痛かった! さ、行きましょう!」
私はパンと手を叩く。
また、この子に対して嘘を吐いた。
嘘を吐く度に、私の心はズキズキと痛みを発する。
顔には出すことなく、私は彼の手を握ることも無く歩き出す。
これでいい……これでいいじゃない。
マサムネは真実を知った筈だ。
そして、それでも尚。この子は私を気遣ってくれている。
本当に優しい子で……私には勿体ない。
全てが終わり、彼が臨んだ結果を得られるように私は協力を惜しまない。
一度は捨てた私が何を言うのかと思うかもしれない。
でも、そうでもしなければ私は彼の母親を名乗る資格はない。
もしも、嫌だと言うのならすぐに消える。
触れられるのも、視界に入れるのも嫌と言うのなら――手に何かが触れる。
思わず足を止めて、私はゆっくりと振り返った。
すると、そこには可愛い顔をしたマサムネが立っている。
その小さな手で私の汚い手を掴んでくれていて――
「ツバキは、悪くないよ」
「……違うよ。私は最低なの……貴方たちを、私は……」
「アルタイルは俺の所為だった。それが真実だ」
「でも、それでも、貴方は!」
私は声を震わせながら、彼を見る。
彼は目をゆっくりと光らせながら私を見つめる。
そうして、掴んだ手をゆっくりと自らの胸に当てた。
「ツバキは――俺の夢を叶えてくれたじゃないか」
「――!」
違う……そうじゃない……。
私は、貴方を捨てた……天秤にかけて、それで……っ。
「過程なんて関係ない。俺は人間になれた。マザーやツバキのお陰で、俺は夢を叶える事が出来たんだ」
「……違う……違うの……私は、私は……っ!」
マサムネが私の手を軽く引く。
私は体を前にゆっくりと倒して。
彼はその体で私をそっと受け止めてくれた。
優しく、それでいて強く――声が聞こえた。
「ツバキ――ありがとう」
「――っ! ぅ、ぅぅ、ぁぁ」
私は温かい息子を抱きしめる。
壊れものを扱うように優しく。
心の中に溜まった汚れを全て吐き出すように私は泣いた。
泣いて泣いて、涙を彼の頭にぽたぽたと垂らす。
マサムネはそんな私の背中を摩ってくれた。
これで許される事なんて無い。
これで終わりに何てさせたくない。
他の私であったとしても、私は自分を許せない。
だからこそ、此処で誓う。
私はどんな事があってもマサムネたちの味方で。
どんな事であろうとも叶えて見せる。
例え世界中の人間が敵になったとしても――今度こそ、貴方の”心”を守って見せるから。




