269:焦がれた情景
――音が、聞こえてくる。
優しい風の音、草花が揺らめく音。
遠くの方から鳥たちが羽ばたいていく音が聞こえて。
ゆっくりと体の感覚が戻って来た。
――光が、漏れ出す。
目に小さな光が灯り、それが広がっていく。
眩い白い光の先には何かがあった。
一面に広がっているそれを暫く見つめる。
光が満ちていく。
パチパチと線香花火のように視界が弾けて。
定まっていく視界の中で、目の前の景色を見ていた。
青い。何処までも澄み渡った青だ。
少しも淀みがなく、自然な空の色がそこにはあった。
形が様々な真っ白な雲が浮いていて、鳥たちが羽ばたいている。
視界一杯に青が広がり、俺は体を硬直させてそれを見つめていた。
体を撫でる風も、さらさらと触れる草花も”本物”だ。
俺の記憶が。過去の想い出が、それらを本物であると認識させる。
綺麗な音だ。
鳥の鳴き声も風で揺れる草の音も、何もかもが澄んでいた。
キラキラと輝く宝石のように、視線の先に広がる全てを愛おしく思う。
失った全てが。過去の産物となったそれらが目の前にある。
いや、鳥だけじゃない。
真っすぐに雲を出しながら飛ぶ何か。
アレは知っている。アレは飛行機で、現代では消えた物だ。
白く巨大なそれは、阻むものが何一つない空を進んでいっていた。
メリウスを輸送する為のものじゃない。
客を運ぶ為の旅客機であり、仮想現実では見ない機種だ。
遥か昔に存在したもの。ツバキたちが生きていた時代にあった代物で。
映像でしか残っていないそれを見つめながら、俺はゆっくりと体を起こした。
その瞬間に周りがふわりと動いて、花弁が舞う。
周りには色鮮やかな花々が咲き誇っていて。
俺はゆっくりと手を動かして、その花々を撫でた。
いや、手じゃない。
これは”人間の手”ではなく、”機械の手”だ。
五本の指は柔らかい金属で出来ていて、体を動かす度に音が鳴る。
自らの体を触れば、ずんぐりとした体で。
ひどく懐かしさを覚えるそれを撫でながら、俺は小さく笑う。
「……帰って来た……成功したんだ」
ノイズ混じりの声を聞く。
そうして、花畑から体を起き上がらせて立ち上がる。
此処が何処なのかは知っている。
ツバキやアルタイルと共に何時も来ていた秘密の場所で。
誰も知らない花園を見渡してから、俺はゆっくりと歩いて行った。
知っている。花も場所も。
知っている。誰と来たのかも今が何時なのかも。
知っている。憶えている――此処は、大切な思い出の場所だ。
オーバードとの接続はまだ続いている。
膨大な過去や未来の知識が頭の中に眠っていて。
俺が願えばどんなものであろうとも引き出せる。
一歩一歩が覚束ない。
慣れ親しんだ人間の体から、機械の体に戻ったのだ。
まるで、人間の赤子が初めて歩くように感覚を取り戻そうとする。
時折、体をよろけさせながら花園を進む。
そうして、ゆっくりとした動きで花畑の中から出る。
真っすぐに続く砂利道の先を見つめながら、俺は静かに頷いた。
花園から出て道を歩いていく。
時折、リスや野ウサギが前を通り過ぎていく。
それを見ながら、俺はがしがしと歩いて行った。
砂利道を歩いていもほとんど何も感じない。
もう俺は人間じゃないのだ。
当たり前の事であるが、少しだけ悲しくなりそうだった。
でも、いい。俺が望んで過去へと戻ったのだ。
全ては残酷な歴史を正し、皆が笑い合える未来を創る為だ。
その為に、俺は此処まで来た。
この日の為に、自らの過ちを正す為に。
道を歩いていけば、見えて来る。
大きな木の下に作られた白いベンチに座って。
アルタイルが鳥に餌をやっている姿を見ている女性の姿が。
白衣を着ていて、すらっとした背の女性。
長い黒髪に、遠目からでも分かるほどに整った顔立ち。
優しい笑みを浮かべる――ツバキがそこにいた。
俺は嬉しかった。
また彼女と会えた。
想い出の中じゃない。
生きている彼女に再び会えて、本当に嬉しかった。
――俺は駆けた。
気づけば、俺は走り出していて。
彼女の元へ一直線に走りながら、ジッと彼女を見ていた。
走って来る俺に気づいた彼女は小さく手を振っている。
しかし、俺はそんな彼女に返事も返すことなく走る。
走って、走って、走って――止まる。
がしがしと煩かった音が止んで。
俺は呼吸という概念も消えた体を彼女に向ける。
チカチカと光っているレンズを彼女に向けながら、俺は震える手を彼女に向けた。
すると、彼女は首を傾げながら俺の手を取ってくれる。
感じる。何も感じない筈の機械の手なのに。
彼女の温もりを感じる気がした。
温かくて柔らかくて、望んでいた感触だった。
俺は彼女をジッと見つめながら固まっていた。
色々と考えていた。
彼女と再会したら何を言うべきか。
今までの事やこれからの事。
起こり得る最悪の未来を回避する為に、最小限の行動で全てにケリをつける。
その為にもツバキたちの協力は不可欠で。
彼女に理解してもらう為の言葉は考えていた筈なのに……ダメだ。
彼女の足にしがみつく。
短い手を精一杯広げて。
自分よりも大きな彼女を離さないように。
必死に。必死になって彼女を抱きしめる。
離したくない。もう二度と、別れを経験したくない。
子供だ。これではただの子供だろう。
分かっている。分かっているのに、俺の体は勝手に動いていた。
涙が流れる事は無い。でも、心臓の当たりは痛みを発している。
ズキズキと締め付けるような痛みで。
俺はそれを感じながら、無言で彼女の体に顔をうずめた。
俺は彼女に抱き着く。
我慢できなかった。
再会を待ち望んで、目の前に彼女がいると認識して。
俺の感情は波打つように乱れていた。
抑えられない。ずっとずっと会いたかった。
ずっとずっと、彼女に抱きしめてもらいたかった。
俺が無言で座っている彼女に抱き着けば。
ツバキは何も言わずに、優しく俺の頭を撫でてくれた。
それが溜まらなく嬉しくて。
この時間が永遠に続けば良いと思ってしまう。
そんな俺の気持ちなど知らないアルタイルはあっと声を上げた。
「あ! 兄様だけずるい!」
「……ふふ、アルタイルもおいで」
「うん!」
アルタイルが駆け寄って来る。
そうして、俺の体を抱きしめながらツバキにすり寄る。
俺たちは再び再開した。そうして、彼女の熱を感じていた。
彼女だけじゃない。此処には妹もいるのだ。
会いたかった。会いたくて会いたくて仕方なかった。
此処が終点じゃない。これからなのに、俺の心は満たされていた。
でも、ダメだ。此処で終わらせてはいけない。
「……ツバキ……俺は……未来から来た」
「…………へぇ、未来か……未来はどんな世界なのかな。聞かせてくれる?」
「……信じてくれるのか?」
俺は少しだけ驚いた。
もう少し疑うのではないかと思っていた。
行き成り、未来から来たなんて言われたら誰だって驚くだろう。
困惑して、場合によってはメンテナンスをされる可能性もあった。
しかし、ツバキは驚く様子が微塵も無い。
彼女は俺が発した言葉を受け入れていた。
受け入れながら、未来はどんな世界だったのかと聞いてくる。
俺は思わず。何故信じてくれるのかと思った。
すると、彼女は笑みを浮かべながら俺を撫でる。
「子供の言う事を信じるのが親だよ……それに、マサムネは嘘をつくような子じゃないからね」
「……ありがとう……未来の世界は――」
俺は彼女に礼を言った。
そうして、彼女が知りたがっていた未来の世界について話す。
俺が世界を混沌に染め上げて、世界は灰が降る世界に変わった事。
マザーが仮想現実世界を作り上げて、その世界では多くの人間たちが生きていた事。
俺は人間として戦って、多くの経験を積んできた。
仲間たちと出会って、多くの別れを経験して。
オーバードを手に入れて、過去を変える為に未来から来た。
簡潔に、それでいて伝わる様に話す。
彼女は俺の話を黙って聞いていた。
アルタイルも俺の話を聞いてくれていて。
俺は彼女たちに俺のこれまでの事を全て伝えた。
時間にすれば、それほどは経っていない。
しかし、俺が話したかった事は全て伝える事が出来た。
ツバキは真剣な顔で小さく頷く。
「……理解したよ。想像もつかないような経験だね……でも、マザーをマサムネは知っている……ブラドレン・アザーロフについては知っているよ。あまり時間は残されていないんでしょ?」
「あぁ、奴が俺に接触するまで時間は無い……俺がしようとしている事。ツバキなら分かるだろ」
俺は彼女を試すような事を言った。
すると、彼女は少しだけ驚いていた。
しかし、それは一瞬で。
彼女はけらけらと笑いながら、俺の頭をバシバシと叩いてくる。
「ははは! 本当に未来から来たみたいだね! 何時ものマサムネはそんな生意気なこと言わないよ……よし、それじゃ。すぐに行こうか」
「行くって何処に? 私も行く!」
「……アルタイルは……いや、そうだな。一緒に行こう」
「うん!」
彼女を連れて行くのを躊躇った。
しかし、俺は彼女に誓った。
もう二度と彼女の手を振り払わないと。
同じ過ちはしない。俺は喜んでいる彼女を見つめた。
そうして、ツバキを見て彼女の手を握った。
ツバキは椅子から腰を上げる。
そうして、俺とアルタイルの手を握りながら歩き出した。
これから行く場所は、この時代では”トップシークレット”だ。
後に多くの国からも注目されるようなプロジェクトで。
仮想現実世界を構築する為だけに生み出されたものだと誰もが勘違いした。
本来の目的は別にあり、その真の目的を理解した者はあの世界には誰一人存在しなかった。
極秘事項とされる研究を行っている施設への入場だ。
ツバキなら入れる。俺たちも彼女がいれば入れるだろう。
大戦争の火蓋が切られ、世界が灰に塗れた世界に変わり。
人類を滅亡から救う為に活動していた国際組織。
”人類保護機関”の名称で呼ばれて、培養肉の研究や生命維持庭園などの人類を存続させる為の研究を進めていた者たち。
彼らの前身とも呼ばれる研究所は、たった一つの理想から始まった。
資源が喰い潰されて破滅へと進む人類。
増えすぎた人口を”第二の世界”に移住させて。
全ての人間を救済し、人類が紡く輝かしい未来を守る為に彼らは”それ”を生み出そうとした。
”楽園計画”――人類救済システム”Mother”だ。
俺が知る事も出来なかったような情報。
オーバードとの接続によって俺はそれを初めて知った。
それを知っていれば未来は変わっていた。
いや、知っていただけでは意味は無い。
知った上で、アレと交渉をする必要がある。
一筋縄ではいかないだろう。
人類を守る為だけに作られた電脳空間のみでしか生きられない高次生命体。
遥か先の未来の情報を知り。人類の為だけに最善の一手を打つ。
何故、人類を守護すべき存在が人類を拒絶したのか。
何故、全ての人間たちを第二の世界に導かなかったのか。
かつて楽園計画と呼ばれ、全ての人間を救済する為に作られたそれ。
それを知る人間は未来では存在しない。
誰しもがあの世界をゲームの舞台だと認識して、生と死を繰り返す。
マザーは何を想っていたのか。マザーは何を考えていたのか。
オーバードと接続する事によって、奴と同じほどの知識を手に入れた。
しかし、それでも奴の心は理解できない。
マザーであれば、世界を救えた。
マザーであれば、最悪の未来を回避できた。
何故、何もしなかった。何故、人類を救わなかった。
一度は世界を捨てて、俺という成り損ないに希望を託した。
世界一つを捨て石にして、奴は俺をこの世界に導いた。
膨大な時間を使って、俺という人間を駒として使った。
理解できる。奴が何をしようとしているのかを今は分かる気がした。
何故、これほどの時間を掛ける必要があったのか。
しかし、全てを理解している訳じゃない。
奴と話さなければいけない。
話をすれば、きっと分かる筈だ。
奴が計画した事の全貌を、奴の口から聞けるだろう。
何も思わない訳じゃない。
此処までの長い道のりで、俺は奴の目的の為に使われた。
辛く、苦しく。痛く、苦くて……でも、恨む事は無い。
今、此処に俺は立っている。
過去の足跡を辿れば、多くの仲間がそこにいた。
彼らとの出会いを齎したのはマザーで。
恨むことは無い。寧ろ、感謝したいほどだ。
俺にチャンスをくれた。
そのお陰で、俺は遥か未来の友人たちと出会えた。
それだけで十分であり、痛みも苦しみも忘れるほどだ。
全てを話す。
全てを奴にぶつける。
此処まで来たんだ。奴も俺に隠す事は無いだろう。
会えるかどうかは分からないが、絶対に会ってやる。
例え、どんな手を使ってでも俺は会わなければならない。
ツバキの協力を得て、これより先は俺と奴の問題だ。
それに決着を付けなければ、永遠に幸福な未来は訪れない。
三人で想い出の道を歩いていく。
彼女の手をギュッと握りながら俺は前を見た。
後悔は無い。これから先も後悔しない。
全てにケリをつけて、俺はまた仲間に会いに行く。
例え、彼女らが俺を”見つけられなく”ても――俺はもう、迷わない。




