253:ありがとう(side:トロイ)
痛い、痛い、痛い、痛い――体全体が熱い。
ぐちゃぐちゃになって。耳障りな音が響き続ける。
必死になって、恐怖しながら棒を噛み続けた。
限界まで目を見開きながら、自らの体をバラバラにされていく時間を味わう。
一分一秒でも、永遠に感じる狂気の時間だ。
意識を失えば痛みで強制的に戻されて。体から余分な骨や肉が取り除かれる。
神経だけを無傷で抜き取る手術。実の兄である俺を解体する弟。
何もかもが歪であり、不快な音も激痛も認識できない。
俺は歯が砕けるほどに強く棒を噛みしめながら、終わりの見えない地獄を耐え続けた――
ゆっくりと目を開けた。
少し眠っていた様であり、体は無機質な椅子に固定されていた。
地獄は終わり、新しい体を少しだけ動かして……気が付けば此処に座らされていた。
麻酔がほとんど機能していない中で。
俺は体中を切り刻まれた。
肉を裂き、骨を断つ音が鮮明に聞こえてきて。
舌を嚙みちぎらないように、歯が砕けるほどに棒に噛みついていた。
目の前が真っ赤に染まり、痛みによって意識がバラバラに砕け散りそうになって。
それでも意識を保って、俺は望む力を手に入れた。
最後の方は意識が消えていて、目を開ければバラバラになった自分の体だったものが見えていた。
慣れ親しんだ体の一部。
血に染まった腕や足が無造作に転がっていて。
俺は瞼も無くなったそれを直視しながらぷかぷかと浮いていた。
狂っている。狂っているさ……でも、俺が選んだ道だ。
魚でも解体するように、俺の中身は抜き取られた。
一時的に特別な液体が満ちたガラスケースの中に入れられて。
俺は新しい体の中へと移し替えられた。
鈍い光沢を放つ金属の体であり、口も鼻も存在しない。
何の温かみも感じない機械の中へと”俺は”入れられた。
新しい体は、肉の体よりも頑丈で。
まるで、超人になったかのように軽かった。
手足は限界など無いように素早く動く。
考えるよりも早くに、想い描いた動きを瞬時に反映させた。
軽くて、軽くて……”何も感じない”。
人の温もりも、食べ物の匂いも。
動物の柔らかな毛並みも、本の乾いた紙の感触も。
肉が焼けて漂う香ばしい香りも、潮風にのって漂う海の香りも。
何時も鳴っていた腹の音も鳴らない。何かを食べたいと思う事も無い。
何も、何も、何も――感じる事が出来なくなっていた。
俺の手が触れてもほとんど何も伝わってこない。
鼻も無くなっていて、あんなにも胸躍った世界の匂いも消えていた。
口も無くなっていて、これからは食べ物を食べる事も出来ない。
大好きだったジャンクフードも、母さんが作ってくれるキノコのシチューも……もう食べられない。
悲しかった。辛かった。
この気持ちが永遠に続くと思えば、今にも死にたくなる。
でも、俺は自分の意思で死ぬ事も出来ない。
首を掻き切る事も、飛び降りて命を絶つことも出来ないのだ。
無駄に頑丈な体は、俺から全てを奪い去っていった。
苦しい。苦しい。でも、涙が流れる事は無い……でも、後悔はしていない。
どんなに辛くても、どんなに死にたくても後悔だけはしない。
世界を守りたい。故郷を守りたい。家族を守りたい……大好きな仲間たちを守りたい。
その想いだけで、想像を絶する痛みにも耐えた。
これから先、永遠のように続くであろう苦しみも覚悟していた。
この戦いの為だけに、俺は全てを投げ捨てる。
無数のケーブルに繋がれながら、俺は暗い部屋の中で前を見る。
先ほどから船全体が小刻みに揺れていて、天井からパラパラと埃が落ちて来る。
爆発音のようなものが小さく聞こえてきて、此処は戦場なのだとすぐに理解できた。
強化ガラスの向こう側には、パイロットスーツを着たファーストが立っていた。
隣にはマルサスも立っていて、ジッと手元の何かを見ていた。
ケーブルに繋がれて、頭以外は動かせない俺は喋る事も出来ない。
特殊な機械によって俺の思考を読み取って、奴らは俺と会話をしようとしていた。
奴は笑みを浮かべながら、ゆっくりと手元のマイクを起動する。
そうして、俺に対して質問をしてきた。
「……気分はどうだい。人間を辞めた感想は?」
――最悪だ。
「そうか……本当に、全てを捨てるのかい?」
ファーストは念を押すように確認してくる。
まるで、そこまでする必要は無いと言わんばかりの質問で。
一度選択してしまえば、もう二度と引き返せないと言っているようにも感じた。
優しさか。それとも憐れみからくる言葉か……いや、どうでもいい。
俺は奴を真っすぐに見つめながら、静かに頷く。
もう、迷いは無い。
この体を手にして、ほとんどの大切なものを捨て去った。
味覚も、嗅覚も。その他にも捨ててしまった。
もう戻る事は出来ない。もう捨てたものは返って来ない。
俺は中途半端が嫌いだ。やるならとことんやりたい。
そうでもしなければ、奴らには勝てないと理解している。
海上で相対した奴は、あの白い機体は圧倒的なまでの力を持っていた。
何者も寄せ付けず。神に等しい力で、呼吸をするように命を奪う。
絶対的な力であり、逆らうものは誰一人いない。
そんな奴と戦って、倒す為には。それ相応の代償を払わなければならない。
……まだ、足りないのだ。
大切なものを幾つも捨てても、まだ奴とは戦えない。
戦う資格を得る為には、もっと代償を払わなければならない。
支払えるもの全て。俺にとって価値あるものを全部、捧げなかれば勝てないのだろうさ。
俺が持つ大切なものを全て捨てなければ、俺は奴ら以上の力を手に出来ない。
加護でも呪いでも、何でもいい。
神であろうとも悪魔であろうとも、力をくれるのなら誰だって良かった。
力が欲しかった。敵を殺すだけの力じゃない。
大切なものを全部守れる強さが欲しかった。
理不尽な力に仲間たちを奪わせはしない。
宝石のように輝いている想い出の星を消させはしない。
その為に、俺は危険な手術を受けて……最後に残った”思い出”すらも捨てようとしている。
本当の戦闘マシーンとなるなら、思い出は邪魔なだけで。
マルサスは自分との思い出も含めた全てを捨てなければ百パーセントの力は発揮できないと言った。
感情を捨て去り、全てのリソースを戦闘の為だけに特化させる。
不要な物を消して、今最も必要なものを詰め込む為に。
奴は狂っているさ。実の兄に対して機械になれと言って。
苦しみ涙を流す俺を見ても、奴は淡々と俺の体を解体していた。
悲しむことも無く、奴は俺から幸せを奪って行った……でも、アイツはアイツだ。
昔からアイツは自分の本心を話そうとしない。
船では本心を話していたが、俺の手術をする時に一つだけ”嘘”をついていた。
それは他の誰が聞いても分からない嘘で。
実の兄である俺だけが気づけた……優しい嘘だった。
記憶を全て消せば、望む力が手に入る。
それは嘘ではない。嘘であるのは――アイツが自分の本音を言わなかった事だ。
記憶を俺から奪うのは、何も完璧なマシーンにする為だけじゃない。
アイツは俺を中途半端なマシーンに変えて、俺がこの先で永遠の苦しみを味わわせるのを嫌った。
アイツにとって俺はヒーローで。
そんなヒーローの心を穢したくは無いのだろう。
本心は語らなかったが俺には分かる。
好きだった食べ物を覚えていれば、それを食べられない事でずっと苦しむ。
大好きだった人間たちの顔を覚えていれば、変わり果てた俺を見て仲間たちが悲しむ姿を見させられる。
人間だった頃の記憶があれば、戻れない時間を思い出して深く絶望する。
完璧なマシーンにすると言う事は、苦痛や悲しみすら消すのだ。
アイツはどんなに間違った事をしても、この世界でたった一人の大切な俺の弟だ。
例え、世界中の人間たちがアイツを否定しても、俺だけはアイツの理解者でいたい。
こんな姿に変えられたとしても、俺だけはアイツの優しさを知っている。
だから、俺は――此処で自分を”終わらせる”。
傭兵トロイの物語は此処で終わりだ。
マルサスの兄であるトロイの人生は此処で幕を下ろす。
全ての記憶を消して、マシーンとなった俺はもう誰でも無い。
兄でも傭兵でも無い。戦う為の”道具”として、俺は戦場に立つ。
でも……記憶を消したとしても絶対に忘れない事は一つだけある。
この世界を愛している。
故郷の静かな情景が心で生きている。
人間として生きて来た。馬鹿で酒浸りでどうしようもない俺だけど――守りたいんだ。
殺す為じゃない。守る為に戦う。
この世界を守りたいという強い想いだけは消えやしない。
それだけあれば……俺は十分だ。
俺はもう、笑う事も出来ない。
でも、ファーストは目を細めながら笑う。
憐れみの目じゃない。俺を人間として見ている人間の目だ。
深い敬意を感じるそれを俺はジッと見つめていた。
まるで、俺が笑っていると分かっているような顔で――
「……分かった。もう、止めはしない……君は誰よりも”温かい人間”だよ。トロイ」
奴から出た誉め言葉。
抽象的な言い方は、何時もの俺なら鼻につくと思ったかもしれない。
心ある人間として最後に聞く言葉だが……悪くない。
ファーストは隣に立つマルサスを見る。
そうして、弟は静かに頷いてから俺を見た。
何も言わず。静かに俺を見つめる弟は……瞳から透明な雫を一滴だけ零した。
別れの言葉は不要だ。
それを言ったが最期であり、もう二度と会えなくなってしまう。
理解しているからこそ、俺たちは無言のまま互いにを見つめる。
俺は小さく頷く。すると、マルサスも静かに頷いてくれた。
そうして、手元のコンソールを叩いて機械を作動させる。
暗かった部屋にポツポツと明かりが灯り始める。
蛍のように灯る青い光を見ながら、俺は覚悟を決めた。
そうして、椅子に取り付けられた太いケーブルの端子が俺の頭に接続される。
ガシャリと音が響いて接続されたそれを通して体に何かが流し込まれていく。
それは徐々に体全体に広がっていって、俺の頭の中の思い出を――ゆっくりと消していった。
――過去の情景を、思い出す。
凍えるような寒い日に。
パチパチと燃える赤い火。
煤塗れの暖炉の前で毛布に包まりながら、マルサスと一緒に母さんのシチューを食べていた。
母さんは行儀が悪いと叱っていて、マルサスはそんな母さんに……何って、言ったっけ?
――過去の想い出が、目に映る。
母さんとマルサスと俺を置いて出ていった親父。
遊んでくれた記憶がほとんどない最低な父親だった。
しかし、母さんはそんな親父の事が好きだった。
あの親父は酒が好きで、母さんに一つの木箱を渡していた。
あの木箱の中には上等な酒が入って……何でだ?
――過去の音が、ノイズが混じりながら聞こえてくる。
傭兵になる事を母さんに言った。
母さんは反対していた。
親父も傭兵で、血は争えないと思った。
俺とマルサスは半ば強引に家を飛び出して傭兵になった。
我武者羅に生きて、久しぶりに帰って……何処に、帰った……っ?
――過去の、過去の、かこ、何、を……ぁぁ……っ。
母さんって……誰だ?
弟、おとうと……そんな奴は、いない。
何だ。何だろう……俺は何をしている?
何も思い出せない。
何も憶えていない。
自分の事も、何もかも。
頭が軽くなって、何も感じなかった。
――ふと、何かが見えた。
無数の光の中で、何かが俺を見ている。
白い光の先で、誰かが笑っていた
どんな顔だったか。どんな奴だったか。
ぼやけている中で、誰かは俺に声を聞かせてくれた。
『……決めるのは俺じゃない。人生で進むべき道を決めるのは自分自身だ……でも、俺はどんなお前になっても友達でいたいな』
とも、だち……ともだち……友達――――あぁ、そう、だな。
俺は静かに目を閉じる。
名前も思い出せないのに。
どんな奴だったのかもあやふやなのに。
お前の言葉は何故だか――心に残っている。
化け物になっていく俺をお前はまだ友達だと思ってくれている。
何処にいるんだよ。早く来いよ……皆、お前を待っているんだ。
心の中で生きている友人。奴に対して、俺は最期の言葉を送った。
――ありがとう。
全てが白に塗り潰されていく。
その中で、最期に思い出せた言葉。
それを大切に心に仕舞いながら、俺はさらさらと砂のように自我を消していく。
もしも、もしも……また、会えたのなら、その時は――――…………




