199:交錯する疑心
楽しかった時間は終わりを告げて。
俺はゴウリキマルさんを連れてホテルへと戻って来た。
彼女はずっと不安そうな顔をしていて、俺は必死に彼女を元気づけていた。
ゴウリキマルさんはひどく混乱している。
ショーコさんと会ったと言ったが、その彼女はゴウリキマルさんに対して冷たい態度を取った。
最初は怒っているのではないかと思っていたが、それは違っていた。
まるで、初めから誰なのか知らないといわんばかりの対応で。
彼女は混乱して、今はホテルに戻っていてベッドに寝かしていた。
後ろ手に扉を閉めればカチャリと音が鳴る。
俺は静かに息を吐いてから、ポケットに手を突っ込んだ。
端末を取って電源をつけて時刻を確認すれば、午後六時頃だ。
外に出ていった仲間たちが帰ってくる時間で。
俺は端末を握りながら、どうするべきかを考えた。
ゴウリキマルさんの話は本当だろう。
彼女が嘘をつく必要なんてない。
幻覚を見た可能性もあるが、ハッキリと幻覚が見えて会話をしたのならそれはあり得ない事だと分かる。
ならば、ショーコさんは何故、彼女に対して冷たい態度を取ったのか。
怒っていたから。揶揄ったつもりで……何方も違う。
怒っていたからと言って、彼女が誰かを傷つけるような言動をする筈が無い。
ドッキリだったとしても、彼女が行き過ぎた行動を取るとは考えられない。
だったら、本当に記憶を失ったのか。
それとも、彼女は――全くの”別人”なのか?
この世には自分の顔に似た人間が何人かいると聞いたことがある。
所謂、ドッペルゲンガーであり見れば死ぬとまで言われている。
そのドッペルゲンガーが存在して、この島に偶々いた……そんな偶然が起こりえるのか?
いや、偶然は偶然かもしれない。
問題なのはそこじゃない。
問題であるのは、ショーコさんと顔が全く同じ人間が存在している事だ。
それもゴウリキマルさんの口ぶりからして、仕草や口調もそっくりだったらしい。
幾らドッペルゲンガーであろうとも、そこまで細やかな部分まで似るものなのか。
あり得ない。普通に考えればあり得ない事だった。
しかし、現実にそのあり得ない事が起きてしまった。
二人は一体、何者だというのか。
俺たちと一緒に生活しているショーコさん。
そして、ゴウリキマルさんを知らない別のショーコさん。
俺は端末からショーコさんに向けてメッセージを送った。
しばらく待てば、すぐに返事は帰ってきた。
俺が今どこにいるのかと聞けば、彼女は『ホテルに着いたよー。どうしたの?』と聞いてくる。
俺は悩んだ。彼女に起こった事を話すべきか。
もしも、この事を話せば彼女はどんな反応をするのか……恐らくは、はぐらかされるだろう。
真面に取り合ってくれるとは思えない。
冗談みたいな話であり、俺自身もそうであって欲しいと思っている。
ホテルの廊下。青いカーペットが敷かれた廊下の先に視線を向ける。
白い壺などや絵画が飾られた廊下の曲がり角から、彼女が歩いてくるのだ。
エレベーターに乗ってこの階に着いて、あの角を曲がってくる。
もうホテルに着いたのなら、すぐに表れるだろう。
オレンジ色の光が灯る廊下の真ん中で、俺は端末を仕舞う。
そうして、足を動かして廊下の先に進んだ。
カーペットを踏みしめながら進んで、曲がり角を曲がる。
すると、同じタイミングでエレベーターから音が鳴った。
ゆっくりと扉が開いて、中から誰かが出てきた。
その人物は紙袋を抱えていて、片手で丸いパンを持って食していた。
口をもごもごさせながら、彼女は俺の前まで歩いてくる。
桃色の頭髪をサイドテールにした綺麗な青い瞳の女性。
彼女は俺の前で止まってから、がさがさと袋を漁る。
そうして、ゆっくりと手に握ったパンを俺に渡してきた。
彼女はにこりと笑って「おいひいよ」と言う。
彼女は、彼女のままだった。
少しも変わらない何時もの彼女で。
俺はその姿に安心しながらパンを受け取った。
それを一口頬張れば、まだ温かくて柔らかかった。
安心するような優しい味付けのパンであり、俺は彼女に礼を言った。
「……それで、何かあったの?」
彼女は俺の動揺を敏感に感じ取っていた。
俺は話すべきかどうかを迷っていた。
しかし、このままにはしておけないからと少し事実をぼかして伝える事にした。
「……その、ゴウリキマルさんが……多分、疲れていたんだと思います……ショーコさんに似た人を見かけて声を掛けて……それで」
「――見かけて、どうしたの?」
彼女は頬張っていたパンを口から離す。
そうして、少しだけ強い口調で言葉を発した。
彼女は俺の言葉を遮る様に疑問を投げかけて来た。
俺は思わず驚いて彼女の表情を見た。
笑みを浮かべているのは変わらない。
しかし、その瞳からは強い感情が伝わって来る。
警戒、焦りか……俺は声を掛けただけだと伝える。
すると、彼女は俺の話に納得するように頷く。
そうして、先ほどの感情を消して何時もの笑みを浮かべる。
もう強い感情を彼女の瞳から感じる事は無い。
「そうなんだねぇ。でも、私じゃないよ? 私はレノアと一緒に買い物してただけだからねー。あ、不安だったらレノアに今から電話しようか? 多分だけど、もうすぐホテルに戻って来ると思うよー」
「あ、いえ、疑っている訳じゃないので……ゴウリキマルさんには俺から伝えておくので、それじゃ」
「……うん、またねー」
彼女はにこりと微笑んでから、俺の横を通り過ぎていく。
そうして、奥の部屋の前に立って片手てカードキーを差して部屋の中に入っていった。
彼女の開けた扉が静かに閉まった音を聞いて、俺は壁に背を預ける。
俺は先ほどの彼女の視線を思い出して、たらりと汗を流した。
あの目は知らない。彼女がアレだけ警戒心を露わにしたのは何故だ?
知られたくない情報だったからか?
隠しておくべき事が露見したからか?
何方にしても、彼女は明らかに動揺した。
普段から彼女を見ていない人間であれば気づかない些細な変化で。
彼女自身も、俺がそれを感じ取ったとは思っていない筈だ。
俺は動揺を必死に隠す事しか出来なかった。
端末をポケットの中に戻して、俺は自由になった片手を動かす。
逃げるように彼女からの視線から逃れて、心臓を片手で押さえれば激しく脈打っていた。
ドクドクドクと強く鼓動する心臓。
必死にそれを抑え込みながら、俺は深呼吸を繰り返した。
床を見つめながら、俺は頭を働かせた。
もう此処までくれば、誤魔化す事なんて出来ない。
ショーコさんは、明らかに俺たちに対して何かを隠している。
それは知られてはいけない事だったのか。
彼女は動揺して、普段は見せない目を俺に向けた。
あの目を思い出せば、今までの信頼が揺らぐ。
たった一度だけの視線だけで、彼女への疑いが生まれた。
目を逸らそうとした。必死に否定しようとした。
しかし、あの視線だけは誤魔化せない。
あの目を見ただけで、俺の心は彼女に対して――強い警戒心を抱かせた。
「……ショーコさんは、どうして……何を隠しているんだ?」
彼女と瓜二つの人間が存在している。
それを彼女は知っている気がする。
知っているからこそ、俺たちに隠そうとしていた。
その人物は彼女にとって何なのか。
彼女の姉妹か、それとも……彼女のクローンか。
クローン技術を確実に持っているのはゴースト・ラインだ。
屍人の部隊のリック・ハイゼンのような培養液から生み出された人間。
或いは、東源国の天子のように記憶の継承の際に生み出される人間か。
その可能性は大いにあるが、ならば何故、この土地で野放しにされているのか。
もしも、何らかの任務を与えられていたとしたら。
そのクローンは、ゴウリキマルさんの確保を命じられているのではないか?
彼女のクローンであれば、ゴウリキマルさんも警戒せずについて行くだろう。
俺たちが信頼している仲間の顔をしているのだ。
それこそ、イサビリ中尉の時のように俺や仲間の視線を欺くことも出来る。
だが、ゴウリキマルさんの話では、その人物は彼女を突き放して去っていったという。
クローンであるのなら、そんな行動を取る必要は無い。
いや、そもそも彼女がゴースト・ラインと通じているのであればとっくにゴウリキマルさんは連れていかれている。
疑う点は確実にあるが、彼女がゴースト・ラインに通じている可能性は低い気がする。
――ならば、瓜二つの人間の正体は何だ?
クローンでも無ければ、敵である可能性も限りなく低い。
しかし、彼女がその人物を隠したがっていたのは事実だ。
分からないのは、何故、隠したがっていたのかという事だ。
敵である可能性があるのならば……まさか……。
「……いや、あり得ない……でも、それなら……」
彼女が瓜二つの顔の人間を隠していた理由。
それは”本人の正体”に気づかれるのを恐れたからか。
つまり、ゴウリキマルさんと偶然接触したショーコさんと同じ顔をした人間は……本物?
だが、それなら……今まで接してきたショーコさんは偽物という事になる。
それはあり得ない。
あり得ない筈だろう。
ゴースト・ラインと敵対した時から入れ替わった――いや、違う。
そのタイミングで入れ替わるのは不可能だ。
ショーコさんの傍には俺やゴウリキマルさんが常にいた。
入れ替わるのであれば、隙を見つける必要がある。
しかし、そんな隙は無かった筈で……そもそも、入れ替わったとしても違和感が発生する筈だ。
長い間、一緒に戦ってきたのだ。
時間を掛ければ掛けるほどに、互いの細かい点にも目が向く。
小さな違和であっとしても、見逃す筈なんて無い。
だからこそ、ショーコさんが途中で入れ替わった可能性は無いと言える。
そもそも、途中から入れ替わったのなら。
それまでに互いに共有していた情報をどうやって入手できるのか。
軽い雑談などで話した事を奴らが知っている筈がない。
そこまでの浅い情報を得る為に多くの時間を要する事も無いが。
もしも、小さな綻びでもあったのなら、俺たちはすぐに違和感を抱いていた筈だ。
それが無かったと言う事は、少なくとも途中で彼女が入れ変わったという線は無くなる。
なら、本物と偽物という話も……可能性が限りなく低くなる。
可能性はあったとしても、そんな事をする意味が無い。
入れ替わるタイミングが無かったのだ。
だったら、今まで接してきたショーコさんが偽物である可能性は無い。
……待てよ。なら、逆の可能性はどうだ?
あの場でゴウリキマルさんに接触した方が”偽物”の可能性。
ショーコさんが隠していたと思い込んで、考えていなかった可能性だ。
アレこそが偽物で、ゴースト・ラインが送り込んできた偽物であるのなら。
俺たちにショーコさんを疑わせて疑心暗鬼に陥らせるのが目的ではないかと考えられる。
ただそうなると……何故、ショーコさんが隠そうとしたのか。
彼女は知らない筈だ。
知らない事で……いや、知っていたのか?
もしも、彼女がゴースト・ラインと接触していたら。
奴らは神出鬼没であり、個人に連絡を繋ぐことは造作も無い筈だ。
それこそ、ゴースト・ラインと敵対した時点で彼女と接触していたら……彼女は脅迫されているのか?
スパイとして行動する様に脅されているとしたら。
彼女は今までそれを拒んできて、奴らは自分たちと接触したという事実を使って彼女の立場を危うくしようとした。
彼女としても黙ってゴースト・ラインと連絡したことをべらべらと喋る事も出来ない筈だ。
そんな事を話せば、U・Mに属する事だって出来なくなる。
バネッサ先生の立場が特殊なだけで、ゴースト・ラインが俺たちにとって敵であることは変わらない。
「……話せないから……俺の話しを聞いて、奴らが仕掛けてきたと思って、警戒した……それなら、筋は通る」
ショーコさんに聞こえないように声を抑えて言葉を発する。
一つ一つの事象を整理しながら、俺は考えを纏めていった。
そうして、彼女がゴースト・ラインの手によって貶められようとしていると断定して――端末が震える。
俺は何があったのかと端末をポケットから出す。
連絡をしてきたのは――トロイだった。
「どうし」
《――オッコが攫われたッ!!》
「な――ッ!? 敵か。数は」
《――あの女だッ! マサムネが連れて来た女だッ! アイツがオッコを連れ去っていったッ!!》
「……っ」
トロイの話で犯人が分かった。
何故、サイトウさんがオッコを攫ったのか。
理由は分からないが、彼女が襲ったのであれば猶予はあまりない。
オッコは走りながら電話を掛けてきている。
呼吸を乱しながら、街中を走り回っている様子で。
俺はトロイにすぐにホテルに戻る様に指示をした。
そうして、奴の返事を聞くことも無く連絡を切る。
俺は急いでサイトウさんに連絡を繋ごうとした。
ワンコール、ツーコールと鳴り響いて……ダメだ。繋がらない。
「……チッ」
俺は舌を鳴らしながらも、何度も連絡を試みた。
刻一刻と時間が過ぎていく中で、俺は幾つもの不安要素を抱える事になった。
ショーコさんの事も気がかりだが、今はオッコの命が心配だ。
彼女は利になるような行動をしない。
彼女が行動を起こしたと言う事は、何か考えがあっての事だ。
俺は必死に少ない情報を元に頭を働かせる。
いら立ちと焦りを露わにしながら――俺は強く歯を食いしばった。




