181:呪われた記憶
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
仲間たちと久しぶりに会話をして、俺たちは明日に備えて解散した。
今日は旅の疲れを取って、万全の状態で出港する。
先ほど連絡があって、ヴォルフさんとバネッサ先生が船への燃料の補給や食料の補給を手配してくれた事を知った。
それを知らせてくれたのは他でも無いゴウリキマルさんで。
彼女は忘れずに自分の部屋に来るように俺に言った。
俺はゆっくりと彼女の部屋を目指す。
誰もいない長い廊下を進みながら、俺は奥へ奥へと進む。
妙な感じだ。一度は通った道なのに、やけに長く感じる。
一歩一歩進む事に足が重くなっていくようにも感じた。
もう俺の心には不安も迷いも無い……それなのに、何故、足が重いんだ?
体が自由に動かせない感覚。
暑くも無いのに汗が流れていって床に落ちていく。
拭っても拭っても汗が噴き出してきた。
疲れていないのに呼吸も乱れていって、俺は自分自身の変化を不気味に思う。
彼女の、ゴウリキマルさんの元に行こうとしているんだぞ?
彼女を恐れる理由なんて何一つない。
彼女を拒絶するような理由だって存在しない。
しかし、俺の心も体もまるでこの先へ進むなと言っているような錯覚を覚えた。
行ってはいけない、足を止めろ――幻聴が聞こえる様だ。
俺は足を止める。
そうして、顔に手を翳しながら呼吸を整えた。
今までの戦いや任務の疲れが此処に来て現れたのか?
いや、違う。
疲れはあっても、ちゃんと睡眠は取っていた。
体の傷も治療を受けて癒して、食事も栄養の点だけなら問題なかった。
ストレスを感じる事は常にあったが、今までは何の変調も無かった。
この島に来て、ゴウリキマルさんに会って……伝えたいことがあると言われてからおかしい。
彼女が俺に何を伝えたいのか、そんな事は知らない。
彼女の心を読める訳でも無いのだ。口に出して言わない限り、分かる筈がない。
それなのに、見えない何かが俺を止めようとする。
この先に何があるんだ?
進んだ先で待っている彼女に会えば何かが起きるのか?
彼女が俺に伝えたいことは――俺を変える何かなのか?
分からない、分からない分からない分からない――何も分からない。
俺は呼吸を整えながら、ゆっくりと胸に手を置く。
静かに鼓動をする俺の心臓は、どこもおかしくなっていない。
足も手も、俺の意思で自由に動かせる。
彼女の元に俺が行きたいと願えば、俺の思い通りに体は動く。
「……動け。動け……何も怖い事なんて、無い」
念じるように足を動かせば、重かった足は進みだした。
先ほどまで感じていた不調は綺麗さっぱり無くなる。
まるで、そんな事は無かったかのように足がスムーズに動いた。
俺はホッと安心しながら、彼女の部屋を目指して再び歩き出した。
歩いて、歩いて、歩いて……此処だったな。
扉の前で足を止める。
白いスライド式のドアであり、この先に彼女が待っている。
俺は深呼吸をしてから、ゆっくりとインターホンに指をつけた。
カチャリとスイッチが押されて、少し待てば部屋の扉が開かれた。
中へと入れば、ゴウリキマルさんが笑顔で俺を中へと入れてくれた。
俺は彼女を待たせてしまった事を謝罪する。
「……いや、別にいい……それよりも、座ってくれよ」
「あ、はい……それで、俺に伝えたい事って……何ですか?」
彼女に促されるままに椅子に座る。
パイプ椅子が軋んで、少しだけ嫌な音を立てた。
静かな部屋の中には音が少ない。
カチカチと秒針を刻む時計の音と、身じろぎすれば椅子から鳴る軋み。
彼女は緊張した面持ちで、ゆっくりと伝えたいことを話してくれた。
「……お前さ。公国で軍人していた時に、私に頼んでたことあっただろ……覚えてるか」
「……あぁ、はい……確か、写真……大蔵研究所を、調べて、欲しいと――っ」
彼女に頼んでいた事を思い出した。
俺自身を知る為の手掛かりとして、大蔵研究所に関する写真を彼女に求めた。
何故、大蔵研究所にそれほどの興味をそそられたのかは分からない。
しかし、当時の俺はその施設に関して調べれば何かが分かる気がした。
思い出した瞬間に、ずきりと頭が痛む。
刺すような頭痛がして、俺は思わず頭を抑えた。
ゴウリキマルさんは気づいていないようで、棚に近寄って何かを取って来た。
それは古い大きなアルバムと一枚の手紙だった。
彼女はその二つをジッと見つめてから、アルバムの方を渡してきた。
「……先ずはこっちを見てくれ……大蔵研究所の職員たちが撮った写真が貼ってある」
「……ありがとう、ございます」
彼女からアルバムを受け取る。
ズシリと重いアルバムであり、人の記憶が此処に込められているのだと感じた。
分厚く、血のように真っ赤な装丁の本だ。
大きくて大きくて、手の中に納まりきらない本を持った時に俺は何かを感じる。
本から僅かに香る匂い、手に触れる紙の質感……ひどく、懐かしい。
自然と目が細くなり、俺は優しくアルバムを撫でた。
ざらざらとする本を撫でてから、俺はゆっくりとページに指を掛ける。
そうして、俺はゆっくりとアルバムを開いた。
先ず初めに目に映ったのは、大蔵研究所の前で白衣を着た男女が笑顔で立っている写真であった。
若い男女が笑みを浮かべていて、ピースサインをしたり肩を組んでいる。
その中心には綺麗な顔立ちをした黒髪の女性が立っていた。
この写真は、U・Mの母艦で見た本にもあった気がする。
懐かしさとほんの僅かな寂しさを感じた……ページをゆっくりと捲る。
桜の木の下で撮った写真。
宴会でもしているのか手には串に刺さった料理や酒の缶が握られている。
赤らんだ顔に、頭に何かを巻いてマイクを持って歌っている人間もいた。
本当に楽しそうであり、思わず笑みが零れる。
何かを作っている写真もある。
研究員らしく何かの開発に心血を注いでていて。
玉のような汗を掻きながら、半田ごてを握っている。
真剣な顔からは、その人の情熱を感じる事が出来た。
他にも白熱している議論の様子に、居眠りをしている職員の写真。
日常の一コマを切り取ったかのように、大切な思い出が丁寧に記録されている。
この写真を撮った人間は、この研究所での暮らしが好きだったのだろう。
好きで好きで仕方が無く、頭だけでなく記録として思い出を保存したかったのか。
何時の日か、彼らがしわくちゃに老人になった時に見る為に残したのか。
或いは、自分たちの子孫に伝える為に残したのか……俺はその二つだと勝手に思った。
一人一人の顔を見て、目頭が熱くなっていくような気がした。
一枚一枚の写真を見ていれば、何故か、目から涙が零れそうになる。
どの職員も、年齢も性別も違っていて、国籍すら違う人間もいるのに。
俺は彼らに対して尊敬の念を抱くと同時に――強い悲しみを覚えた。
中でも、スラッとした背の高い黒髪の女性を見ていると心がざわつく。
彼女を見ているだけで、今にも目から涙が零れ落ちそうだった。
彼女の笑顔が、彼女の仕草が、彼女の視線が胸を締め付ける。
まるで、恋焦がれるような気持ちで……いや、違う。この感情はもっと純粋なものだ。
この感情は何だ……この女性に何を感じているんだ……俺は、一体?
アルバムをゆっくりと捲っていく。
この中に収められた一枚一枚を大切に記憶していった。
目に焼き付けながら、時折写真を撫でる。
まるで、俺にとってこの写真がどんなに綺麗な宝石よりも価値のあるもののように感じて――手を止めた。
「――これ、は?」
その一枚の写真には、あの女性も映っていた。
しかし、ひときわ目を惹くのは彼女では無かった。
彼女と親子のように手を繋いでいる不格好な一体のロボットだ。
頭はつるぴかで、手足は細く。子供のように小さな体だ。
格好よくは無い古いデザインのロボットで、俺はそれをジッと見つめて――頭が、痛いッ!!
ズキズキと頭が強い痛みを発していた。
俺は片手で頭を抑えながら、歯を食いしばった。
突然、苦しみだした俺を見てゴウリキマルさんが声を掛けて来る。
激痛が俺の手を止めようとする。
この部屋に来る前に感じた体の不調に似ていた。
これ以上はダメだ。これ以上は進めてはいけない。
俺の心が全力で警鐘を鳴らしている。
だが、俺は知りたい。
心が拒絶するものを見たいと思った。
それを見れば、己が何者であるかを理解できる気がする。
ズキズキと痛む頭から手を除けた。
そうして、俺は彼女に大丈夫だと伝えて、アルバムのページを震える手で捲っていった。
新しい家族――アルバムの先には、このロボットがぽつぽつと現れだした。
職員と遊んでいる風景や料理に失敗した風景。
彼らがロボットの頭を撫でて、ロボットは子供のように首を傾げる。
服を着せられたり、職員が作った玩具で遊んだり……本当に、息子のように可愛がってくれた。
彼らの中には結婚している人間もいた。
子供を授かって、その子供に中々会えないと愚痴を言う事もあった。
そんな彼らは、彼を見て自分の子供のように可愛がった。
失敗をすれば次の糧になると勇気づけ、成功すれば自分のこと様に喜んだ。
ロボットにとって、全てが初めての経験だった。
機械の体を持って生まれたが、彼らはロボットを人間の様に扱った。
ロボットは何時しか自分を人間だと思い始めた。
彼らは自分を生んでくれた親で、自分は彼らを喜ばすのが好きなのだと。
頭がズキズキと痛む中で俺は口角を上げる。
そうして、ページを進めていけば”彼”にも妹が出来た。
自分の手で妹を作りあげた。
職員たちから貰った知識やネットでの知識。
本に書かれた情報や彼らが作った論文など。
それらを盗み見て、自らの持つ高い学習能力を遺憾なく発揮した。
その結果、彼は自分と全く同じ性能を持った妹をこの世に生み出した。
歯車が狂い始めたのは、この時からだ。
妹と共に彼は急速に成長していった。
多くの事を学び、彼らの研究を手伝って。
親である彼らですら気づかないミスや研究のほころびをすぐに見つけた。
修正し、完璧に近い論理を提示して、彼らは喜びの感情以外を持ち始めた。
それは純粋だった彼には気づけないような、小さな小さな黒い粒だ。
彼はもっと褒めてもらいたいという純粋な気持ちを持っていた。
だからこそ、より難しい事に挑戦した。
彼らが出来ない事、彼らが分からない事を解き明かせば褒めてもらえる。
そう思って、彼と妹は――世界を統一する”ゲーム”をクリアした。
どうすればこの世界を最も早く統一する事が出来るのか。
職員が息抜きで話していた事を聞いていた彼は、そのゲームに挑戦した。
妹と共に彼らは膨大な量の計算を頭の中で終わらせていく。
一つ一つの実験をコンピューターの中で繰り返し行った。
失敗、失敗、失敗、失敗――そして、成功。
しかし、これではまだ遅い。
もっと早く出来る。より適切な方法で時間を短縮できる。
排除すべきは感情論であり、合理的な思考こそが一番の近道だった。
その結果、彼は最も恐ろしく残酷な方法で世界を統一出来る道を提示した。
僅か三日足らずで全ての計算を終わらせて彼らにも分かる様に伝えた。
この難関なゲームをこんなにも早くに解いたのだ。
誰にも答えが出せなかったものを、自分と妹で解いて見せた。
これ以上の方法は存在しない。これが一番早いのは疑いようも無い。
きっと彼らは褒めてくれる……そう信じて、疑っていなかった。
しかし、実際に向けられたのは――恐怖だった。
誰もクリアできない。
議論する事に意味の無いテーマなのだ。
アニメや漫画の中で、誰が最強であるかを議論するようなもので。
誰も答え何か求めていない。答えを知ったところで、意味の無いものなのだ。
しかし、不毛な議論を終わらせるように、ロボットたちは最適解を提示した。
それも人道も何も関係なく、ただ”早い”だけの理論をだ。
狂っている。
本人たちが理解していない事が、より恐怖心を煽った。
純粋無垢な天才たちが、ただ褒めて欲しいが為にこんな狂気に満ちた方法を提示したのだ。
人間は、自らが理解できないものを本能で恐れる。
彼らの反応は正しく、間違っているのは”彼女”だけだった。
あの女性だけは、彼らに対して優しい言葉を送っていた。
何時もと変わらずに頭を撫でて、彼らはそれを喜んだ。
やっぱり褒めてくれた。自分たちは何も間違っていなかった。
そう心の中で思いながら、彼らはその日も何時も通りに過ごしていた。
「……外れた歯車……狂い始めれば、全てが、崩壊していく……」
「マサムネ? お前、何言って……」
アルバムを捲るスピードが速くなっていく。
大切な思い出だった。かけがえのない存在だった。
このアルバムは宝物だった。しかし、ページを捲る動きは乱暴になっていく。
次は、次は、次は、次は、次次次次次次次次次――無感情にページを捲っていく。
写真は最早、一枚も無い。
何も無い空白のページを見たところで意味なんて無い。
いや、その空白すら見てすらいない。
だけど、俺の目にはその時の情景が鮮明に映っていた。
家族だと思っていた職員から向けられる恐怖の視線。
恐怖でおかしくなった職員から空き缶を投げつけられる。
痛みは感じない筈なのに、胸の辺りがズキズキと痛んだ。
初めての痛みに困惑して、彼は優しい彼女に質問していた。
彼女は困惑する彼を優しく抱きしめて撫でながら「大丈夫」と何度も囁いた。
ほとんどの職員が家に帰り、残された彼と妹も眠りについていた。
しかし、彼は気になっていた事を調べる為に、約束を破ってスリープモードを解除して施設内を歩いた。
資料室で目当ての本を見つけて妹の元に戻る途中。
彼は部屋から明かりが漏れているのに気づいて、彼は扉に近づいて中を覗いてしまった。
偶然聞こえてきた職員たちの話す声だ。
彼らは優しい女性を取り囲んで、恐怖に染まった顔で必死になって訴えかけていた。
アレは化け物だ、アレは俺たちの手に負えない、アレは危険すぎる。
アレはこの世に存在してはいけない、アレは”作るべきでは無かった”――あぁ。
アルバムを最後まで見た。
最後の方にも、写真なんて一枚も無い。
それでも、俺は、彼らの結末を――知っている。
何故、何故、何故、何故、何故、何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故――……っ!。
「あ、あぁ、う、あぁあ、ああああぁぁぁぁぁぁあああぁぁ!!!!!?」
「マサムネッ!?」
頭が、割れるように痛い。
バリバリと頭蓋を割られて、脳みそを手でかき回されるような不快感。
激しい電流を受けいている様に、俺の頭に今までとは比べ物にならない痛みが走った。
我慢する事は出来ない。許容できない痛みが、声にならない悲鳴と鳴って口から吐き出される。
痛み、吐き気、痛み、吐き気、痛み、痛み、痛み熱い熱い熱い熱い熱い痛い熱い痛い――ッ!!
アルバムが手から滑り落ちていく。
ばさりと床に転がって、俺はパイプ椅子から転げ落ちた。
頭を両手で押さえながら、俺は赤子のように身を縮こませる。
激しく呼吸を乱しながら、心臓はバクバクと鼓動を早めていく。
強く強く脳を刺激されて、段々と意識が遠のいていく。
視界がボヤけていき、暗闇が俺の視界を覆おうとする。
心臓は早鐘を打っているのに、体から熱が失われていく。
冷たく、冷たく、体が、凍えそうだった。
そんな俺の体を抱きしめながら、ゴウリキマルさんが必死に叫んでいた。
俺は震える手で彼女の手を握る。
最早、何も感じない手で彼女の手を包む。
そうして、俺はゆっくりと、彼女に対して言葉を発した。
「――ご、めん、な、さい」
「――!」
目から何かが零れ落ちていく。
手から力が抜け落ちて、床にぼとりと落ちた。
そして、俺は瞼を閉じて――”自ら進んで”暗闇の中へと吸い込まれて行った。




