140:あの時の言葉は、間違いじゃなかった
街灯の明かりの下で、男二人が歩いていく。
互いに言葉は無く、無言で店へと向かっていた。
先ほどまでの賑やかな空気は消えて、今はただただ静かだった。
二人の足音と遠くから聞こえる車の音だけを聞く。
孤児院のある場所から下っていって暫く。
彼はゆっくりと足を止めて、俺に笑みを向けてきた。
人差し指を向けた先には、小さな看板が掛けられた飲み屋があった。
「……此処です。俺の行きつけなんです。家から近いってのもあるんですけどね」
「……趣のある外観ですね」
「はは、そう言ってくれると此処の店主も喜びます……さぁ入ってください」
ガチャリと扉を開けて、彼は俺に入店を促す。
俺は言われるがままに店の中へと足を踏み入れた。
中を見れば温かな光が灯った落ち着いた雰囲気の内装で。
カウンターの奥には厳めしい顔つきをした初老の男性が立っていた。
民族衣装のようなものを着ていて、よく見れば壁などに不思議な形のお面などが飾られていた。
「……いらっしゃい」
「……どうも」
「あ、マスター。上の部屋、空いてる?」
「……あぁ」
「使わせてもらうよ……上の部屋に行きましょう。こっちです」
ザックス君に先導されてついていく。
マスターの前を横切ってから、彼は階段の手前で靴を脱ぐ。
「靴はそこの棚に置いてください」
教えられたとおりに靴を脱いで棚に入れる。
そうして、彼は階段をゆっくりと昇っていった。
上へと上がっていけば、左右に繋がる廊下に出る。
彼は右へと曲がり、手前にあった戸の前で止まる。
不思議な模様が描かれた引き戸があって、彼はそこに手を掛けて開けた。
中へと入れば、ひんやりとした木の板で。
綺麗に拭かれた机の前には座布団が置かれていた。
後ろ手に戸を閉めてから、彼に促されて先に座り、彼はその後に座った。
チラリと横を見れば、銀色の箱が置かれている。
何の変哲もない箱だが、これにも仕掛けがあるのだろう。
俺が箱をジッと見つめていれば、彼はゆっくりとその箱に手を伸ばす。
そうして、ガチャリと開ければ中には温かな湯気を上げるおしぼりが二つ置かれていた。
俺は少しだけ眉をピクリと動かす。
湯気の上がるおしぼりが置かれているのだ。
俺たちが事前に来ることは連絡していない筈だ。
それなのに、箱を開ければ温かいおしぼりが置かれている。
何とも不思議であり、どういう構造をしているのか。
俺が不思議そうに見ていれば、彼はくすりと笑って説明してくれた。
「この箱は下に置かれた同じ箱と繋がっているんです。最近は、簡易転移というシステムを導入しているところもあるんですが。これはその技術を人ではなく物に限定して一般家庭でも使えるようにしたものなんですよ……例えば……ひややっこをこのタッチパネルで選択して注文すれば…………はい、どうぞ!」
箱を一度閉じてから、彼は近くにあったタッチパネルを取る。
そうして、ひややっこという料理を選択した。
暫く待てば、箱からチンという音がして、中を開けば鰹節がのって醤油が垂らされた豆腐が置いてあった。
ことりと目の前に置かれたそれ。
彼は俺に箸を手渡してきて、俺はそれを受け取って恐る恐る豆腐に箸をつけた。
ひとつまみ取ってから口に運び食べてみる。
すると、ひんやりとした豆腐の素朴な味とカツオと醤油の風味が合わさったそれが美味しく感じた。
普通に美味しい。
何の変哲もない豆腐料理で。
一階から此処まで配膳する必要も無いこれは、便利な装置だと思えた。
「……此処は穴場中の穴場の店で。常連になれば、たったの三千ラスで食べ放題の飲み放題なんです……まぁ常連は俺ともう一人の酔っぱらいだけなんですけどね」
「……私は常連では無いですが、大丈夫ですか?」
「あぁいえいえ! 俺がいれば問題ありませんよ……たぶん」
「……いえ、お金はあるのでお気になさらず」
「は、はは……誘ったのは俺なのに、すみません」
頬を掻きながら、申し訳なさそうに笑う男。
本当にあの頃とは別人の顔をしている。
周りを威圧していた狂犬が、こんなにも柔和な笑みを浮かべているのだ。
彼は俺の視線にも気づかずに何を飲むか尋ねてきた。
俺はオススメでいいと伝える。
すると、彼は適当に注文をしてタッチパネルを脇に置いた。
「……注文した品が来るまで暫く待ちます……その、質問してもいいですか?」
「……えぇどうぞ」
彼は不安そうな顔をしながらゆっくりと手を上げた。
俺は笑みを浮かべながら、そっと手を向けて質問してもいいと許可を出した。
彼はホッとしながら、ゆっくりと質問の内容を告げた。
「……シロウさんて、もしかして……軍人、だったんですか?」
「……何故、そう思うんですか?」
確信を突くような質問だった。
俺は努めて冷静に何故そう思うのかと逆に質問した。
すると、彼は暫く考えてからゆっくりと話してくれた。
「その、立ち振る舞いが普通の人とは違う気がして……体の動かし方といえばいいんでしょうか。普通の人は歩く時に不安定さがあって、風でも吹けば体が少しよろけるんですよ。でも、シロウさんは風が吹いても少しもよろける事がなくて。まるで、不安定な足場や環境に慣れているような気がして」
「……それなら、とび職かもしれませんよ? 彼らは不安定な場所で作業をしていますから」
試すような口ぶりで彼を揺さぶる。
すると、彼は首を左右に振ってからジッと俺の瞳を見つめてきた。
「……それだけじゃなくて。シロウさんと手を握った時に……メリウスのパイロットの様な肉のつきかたをしていたので……ゴツゴツしているわけでも柔らかい訳でもない。操縦レバーを長時間握りしめて出来上がった掌をしていた……どうですかね?」
「……流石は帝国軍の兵士ですね……確かにメリウスには乗っていました。ですが、作業用のメリスウですよ。資材の運搬の為に使っていたんです」
「……そう、ですか……あ、すみません。変な質問をしてしまって」
「……良かったら、何故その質問をしたのか理由を聞かせてくれませんか?」
彼が俺が軍人であると思ったのは分かる。
しかし、態々質問してまで聞きたかった理由が分からない。
俺がそれを尋ねると、彼はゆっくりと机を見つめて乾いた笑みを浮かべた。
「……シロウさんを見ていると、ある人の事を思い出したんです」
「……どんな人だったんですか?」
「……ぶっきら棒で人に興味が無くて冷たくて……でも、大きな手をしていました……あ、す、すみません! べ、別にシロウさんが冷たい人間と思った訳じゃなくて……あ、お酒が来たみたいですね!」
彼が昔を思い出していた時に箱から音が鳴る。
中から出てきたのは一升瓶と小さな徳利で。
彼は慌てて栓を抜いてから、中身をトクトクと徳利に注いだ。
「どうぞ」
注がれたそれを受け取る。
そうして、口に付けて飲めば辛口の酒だった。
米の香りがして、ほのかな甘みも存在する。
しかし、口に含めば酒独特の味が口に広がる。
冷やされたそれをゆっくりと楽しんで、胃の中に流し込んだ。
ホッと息を吐きながら、俺は美味しい事を彼に伝えた。
彼は笑みを浮かべながら、小さく呟いた。
「……本当はもう一度、その人に会いたかった」
「……会ったらどうするんですか?」
「――殴ります!」
満面の笑みで拳を握ったザックス君。
俺はやはりそうなるのだと思いながら小さく笑う。
「一発殴ってから――お礼を言います」
「……お礼?」
不思議な単語が聞こえた。
殴った人間にお礼を言う。
それはどういう意味なのかと思ってしまった。
すると、彼は子供のような笑みを浮かべながら酒を飲む。
ゆっくりと息を吐いてから、彼は言葉を紡ぐ。
「俺との約束を果たしてくれてありがとう。あの時、俺の心に火をつけてくれてありがとう……あの人がいなかったら、俺は今頃何処かで死んでいました。あの人の存在が俺を一生懸命にさせてくれて、あの人との約束が俺の生きる原動力になった」
「…………感謝しているんですか…………殴るほど怒っていたんじゃないんですか」
俺はゆっくりと言葉を発した。
殴りたいと言った彼の気持ちに嘘は無い。
感謝していると言った彼の言葉にも嘘は無かった。
だったら、何故、彼は殴りたいと――彼は笑う。
「あの頃の俺は兄を失って生きる気力を失っていました。だからこそ、当時、俺たちの隊長を務めていたあの人に恨みを持っていた。何故、助けてくれなかったのか。何で、もっとちゃんと指示をしなかったのか……あの人からの答えは、お前たちは仲間じゃない。兄が死んだのはお前たちに力が無かったから……恨んでいました。何時か絶対に見つけて殺してやるって」
酒を飲みながら、彼は昔を懐かしんでいた。
俺は彼の言葉を静かに聞いていた。
「……でも、彼と約束をしてからあの人を目標にして。俺は今まで戦場で生き残ってきました。我武者羅に生きて、ただあの人を殺す事を目標にして……そんな俺を支えてくれたのが妻のニーナです。喧嘩ばっかりしていましたが、彼女の言葉で俺は気づいたんです。俺は彼との約束のお陰で生かされていたのだと……彼の話をする俺を見て、ニーナは一番活き活きしていると言っていました……その人は、凄い人なんですよ? 帝国軍人は良く思っていませんが、その活躍は誰の耳にも入って……俺は子供みたいにはしゃいでいました。こんな凄い人と一緒に戦って、約束までした……彼女と結婚を誓った時には、もう、恨みなんて持っていませんでした」
ゆっくりと目を細めながら、彼は俺の徳利に酒を注ぐ。
俺はそれを受け取ってから、ゆっくりと飲んでいった。
ひんやりと冷たい酒が、熱を持った体を冷ましてくれる。
しかし、心の熱は少しずつ高まって。
俺は妙な高揚感を覚えながら、彼の話に耳を傾けていた。
彼は悲しそうな顔をする。
そうして、ゆっくりと心の中の怒りを語る。
「……本当に理不尽で自由な傭兵になる必要なんて無かった。あの人は、理由も無く多くの人を虐殺するような人間じゃない……世界に向けて発信したあの人の言葉には、何一つ本心が無い……不器用だから、あんな言葉を吐いた。それしか選択肢が無いと思ったから……昔と変わらない。そんなバカな人を殴ってやりたい。殴って感謝を伝えて、今度は俺があの人を助けてあげたいんです。一人じゃない。周りの人間を信じて頼ってくれって」
トクトクと酒を注いで飲む。
俺の徳利にも酒を注いでくれて、俺も静かに飲んだ。
互いに沈黙が流れて、俺たちは視線を向けなかった。
「……何で、あの人は、悪人になったんでしょうか」
「……さぁ、それは本人しか知り得ませんから……ただ」
「……ただ?」
彼はゆっくりと目を向けて来る。
俺は彼に微笑みかけながら、ゆっくりと言葉を吐いた。
「貴方のような優しい人間を巻き込まない為じゃないですか」
「…………あの人、らしいなぁ」
くしゃりと笑いながら、彼は酒を飲む。
俺の言葉が本人からの言葉だと思っているのか……それは無いだろう。
目を細めながら笑う彼からは、人間の持つ温かさを感じる。
俺へと感謝の念を抱いて、俺の行いを真剣に怒ってくれている。
何故、そんな選択をしなければいけなかったのか。
何故、周りの人間を頼らなかったのか。
それだけ聞ければ、俺は十分だった。
あの日の俺の約束は間違っていなかった。
あの日の言葉が、彼の心に火をつけて。
彼はそれを原動力にして戦場を渡り歩いた。
それは間違いだろう。俺の言葉には何の魔力も無い。
でも、彼は本気で俺のお陰だと言ってくれた。
罪の一つが、清算されたような気持ちがした。
間違いだと思っていた行動が、一人の少年の未来を救った。
多くの人間を殺した俺が、誰かの未来を救った。
そう思えれば、自然と心が軽くなったような気がした。
これで全ての罪が許された訳じゃない。
これで何もかもが無かった事にはならない。
でも、俺の行い全てが――間違いという訳ではない。
「……ありがとう」
「え? 何か言いましたか?」
「いえ、このお酒は美味しいと思って」
「はは、でしょう? これはマスターの故郷の水で作った――」
任務を忘れて語り合う。
かつて共に戦った仲間であることは明かさない。
彼にとってもこんな形で俺とは会いたくないだろう。
彼は幸せな家庭を築いていて、意義のある仕事をしている。
俺の正体を明かせば、彼は進んで協力してくれるだろう。
でも、面会の約束を取り付けてくれるまででいい。
それ以上は、彼を関わらせる事は出来ない。
俺の罪を許してくれた。
俺の約束を肯定してくれた。
こんな俺にありがとうと言ってくれた。
そんな人間を巻き込むことは出来ない。
俺は彼に正体を告げずに去っていく。
一方的に彼の心情を聞いてしまったが……また会えたら、その時は大人しく殴られよう。
暖かな部屋の中で、楽しく酒を飲む。
遅れて料理が届いて、彼は嬉しそうにその料理の説明をする。
俺はそんな彼を見つめながら、自然と笑う事が出来ていた。




