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82話 四日目の目覚め

 

 ルビーが宿舎で受験生たちへ向けて愚民と呼びかけた夜より、少々時を遡る。学長室での会議より眠り続けていたブレスは、寝台の上で薄く目を開いた。

 窓から差し込む日が刺さるように眩しい。重い片腕を上げて目をかばうと、ドアの蝶番が僅かに軋む音がした。入室者はイルダである。


「目覚めたのか」


 ああ、と答える代わりに、ブレスは無言のまま窓を指し示した。

 つきあいの長い従者はすぐさま主人の意を察し、全開のカーテンを半分だけ閉める。


「気分は」

「……葡萄酒を飲み過ぎた翌日ってところかな」


 掠れきって殆ど声にならない言葉を、イルダは唇を読むことで補う。

 寝台横に膝をつき、手首を取って脈拍を数えていると、ブレスが再び乾いた唇を開いた。


「どれくらい眠っていた」

「四日目の朝だ」

「……なんて言った?」

「四日目の朝。この客間に通された夜から数えて、三日とおよそ半日」


 淡々としたイルダの返答に、ブレスは暫し沈黙した。寝起きの気だるささえ無ければ、何故起こしてくれなかったのかとあれこれ文句を述べていたことだろう。

 しかしながら、今朝ばかりはその気も起きない。

 代わりにため息をひとつこぼして、首もとのあたりで丸くなって寄り添っている黒猫を撫でる。薄暗くなった部屋、ぼんやりと天井を見上げながら、ブレスはふと呟く。


「兄さんが死ぬ」

「──……」


 これにはイルダも言葉を失った。

 国王が崩御する。それがもたらすあまりにも重大な意味に強ばったイルダの表情へ横目を向けて、ブレスは力無く笑った。


「違うよ。ずっと先の話だ。百二十八年後の冬。テンテラが予知夢を流して教えてくれた。私はどうやら看取れないらしい。どうせいつものように、臥せているのだろうな」

「……石の壁の中で、魔術師として不老の時を生き続けることは困難だ。齢百七十を越えて崩ずるならば、それは」

「ああ。解っている、寿命だ。枯れたのだろう。けれど、あの兄さんだよ? どこかで……心のどこかでは、平気で五百年くらいしぶとく生きていてくれるものだと思っていた。馬鹿だなぁ。本当に……愚かだ」

「……オリビア」


 ブレスは自嘲に歪んだ顔を背ける。気を鎮めるために繰り返す呼吸に従って、痩せた薄い胸が上下していた。

 イルダは暗澹と目を伏せる。

 ──自分はいつまで、この孤独な主人の側に仕えていられるだろうか。

 そんな従者の心境を知ってか知らずか、ブレスは苦笑を浮かべて額にかかった乱れ髪をかき上げる。


「いやだなあ、君がそんな顔をするんじゃないよ。さて、眠りこけて遅れたぶんの仕事をしないといけないな。でもその前に水浴びがしたい。この客間に浴槽ってあった?」

「いや。下階に浴室はあるが」

「そっか。湯はのぼせるからだめだ。仕方がない、その辺の川にでも行こうかな」

「馬鹿を言うな。都市部の水は汚れている。浴槽は用意させる、しばらく待て」

「そう。じゃ、よろしく」


 ブレスはひらりと手を振った。下がれと言われれば、従者であるイルダは下がる他無い。

 飲みやすいように温く淹れた甘いカモミール茶を寝台横のテーブルに置き、イルダは部屋を出る。閉ざした扉に足を止めてもたれ、やるせなさを押し殺していると、微かな声が漏れ聞こえた。


「ずっと側にいて、ミシェリー。君が居ないと俺は生きていけない」

『……仕方のない男ね』


 イルダは静かに扉から離れた。寂寥と共に、灯火のような安堵を感じていた。

 例え彼の兄や妹、イルダや他のすべての人間が彼を置いて去ったとしても、あの猫妖精だけは変わらずに側に居る。

 妖精の生は長い。どれほど孤独であったとしても、彼女が傍らに在り続けるのであれば、彼女は一筋の光のようにブレスを照らすだろう。


 浴槽を運び込ませる手配を済ませて寝室へ戻ると、ブレスは上体を起こしてあちこちの筋を念入りに伸ばしていた。

 そして、眠っている間に延び放題になっていた彼の引きずるほど長い赤毛を、二本角の純白の馬、二角獣バイコーンのルーチェがもしゃもしゃと食べている。

 魔術師の髪は特別だ。体が魔力の器だとすれば、あふれ出た魔力が髪となって蓄積される。故に力の強い魔術師ほど、一般人のそれと比べて伸びる速度も速い。速いのだが、こうも雑に長髪を魔獣にくれてやる魔術師など、恐らくブレスくらいのものだろう。

 イルダは気の抜けるような風景を横目に、着替えの支度を始めた。寝起きの栄養補給はきちんと済ませたらしく、カモミールの茶のポットはからになっている。


「なあイルダ、そういえばあの子たちは元気にやってる? デイナやウォルフたちがいるからまかせて大丈夫なのは解っているんだけど、どうも心配で」


 寝台の上で前屈をしながらブレスが顔を向ける。けろりとしたものである。


「ラケルタは無事ハオ・チェンと師弟関係を結んだ。ルビーは食堂でひと騒動起こしたようだが、概ね真面目に試験に向けて学んでいる」

「ふ……っ、はあ、そう。まったくあの子は、元気で何よりだね。ラケルタ君も……ひとまずは安心かな」


 笑いを堪えたブレスの言葉に、イルダは頷く。あくまでも「ひとまずは」だ。

 何事も始めは良い面ばかりが見えるものであって、表面的な人格の下にある価値観の違いや欠落について知り合うことは、それなりに時間の掛かる領域である。

 それはラケルタにとってもハオ・チェンにとっても同じ事。

 ブレスはこの、かつて教師であったハオ・チェンという男を信用しているが、彼らが決裂した場合にどういった対処をするか念のため考えておく必要はあるだろう。

 前屈を終え、今度は腰をひねりながら、ブレスは問う。


「イルダはたしか、ハオ先生を見たことは無かったよね」

「ああ」

「初見の感想は」

「……そうだな。義侠心に富んだ人物であるという印象は受けた」

「そっか。変わりないようで安心した。それならたぶん……まあ、九割九分大丈夫だろう」


 最後にぐっと腕を突き上げて背筋を伸ばし、ブレスは裸足を床へと下ろす。イルダも慣れたもので、無言のまま肩を貸して足元の覚束ない主人の支えとなる。

 運び込まれた猫足の浴槽には、半分ほど水が溜められていた。ブレスは床伝いに印を流し、もう少しばかり水嵩を増す。


「うん。これで良し」


 頷くと、ブレスは薄い夜着を着たままゆっくりと浴槽に足を入れた。両足が浸かり、万が一主人が足を滑らせた時のために襟を掴んでいたイルダもようやく手を離した。

 胸までひたると、ブレスは心地よさそうに目を閉じる。そのままつむじまで沈み、膝を曲げるようにして浴槽の底に横たわった。

 水の中で揺らめく赤毛をなんとなしに見つめていると、ブレスが瞼を持ち上げてやや困った様子で苦笑した。水面から伸びた指先が、一度だけ揺れてイルダを追い払う。

 ひとりになりたいのだろう。ブレスは足を滑らせて転びはしても、溺れることはない。水中にあっても呼吸に上下する主人の胸元を確認し、イルダは黙して部屋を出た。



 

「ああ、生き返った」


 ブレスが寝室へ着替えに戻ったのは、小一時間後だった。単なる目覚ましにしては随分と長い。しかしながら、起き抜けと違って足取りがすっかり軽くなっている。時間をかけた価値はあったのだろう。

 黙々と着替えの支度を始めた従者を素通りし、ブレスは視線を彷徨わせる。何を探しているのかと思えば。


「ミッチェ……あれ、ミシェリー? どこにいったの」

『ここにいるわよ』


 呼びかけに応じ、クローゼットの上から長毛の黒猫が飛び降りた。


『わたしのブラッシングは後でかまわないから、とりあえず何か食べなさい。いちにち体力が保たないわよ』

「ええ……いやだけど食欲が」

『わたしのお願いを聞いてくれないの?』


 猫妖精の悲しげな一言を聞くなり、ブレスの顔に危機感が過ぎった。

 気の進まなそうな様子は一瞬で消え失せ、真顔で即座に肯諾する。


「君の言う通りにする」

『それで良いのよ』


 ミシェリーは満足げにフスンと鼻を鳴らした。会話を聞いていたイルダは、すぐさま消化に良く食べやすいものを小間使いに言い付ける。

 柔らかく煮た豆とトマトのスープ、すりおろした林檎を乗せた発酵乳ヨーグルト

 本当はパン粥でも食べられればいいのだが、数世代前の魔術師の食制限は現在よりも厳しかったこともあって、ブレスはどうしても必要な状況でもなければパンを口に運ぶことはない。


 毒味を済ませたそれらを持っていくと、ブレスは早速ミシェリーの目の前で生真面目に食べ始めた。

 イルダがどれだけ苦言を呈してもそよ風のように聞き流すきらいのあるブレスであるが、この猫妖精の前では素直なものである。

 それならそれでいい。

 ふと口元浮かんだ微苦笑を隠そうと背を向けると「水鏡すいきょう」と呼び声が掛かった。曇った声音をしている。只事ではない。イルダはすぐさま向き直る。


「話しそびれた事がある。眠っていた間にエルが夢を渡って報せてくれた。カインがまた倒れたらしい」


 イルダは深刻に眉根を寄せた。エル──エルシェマリアはブレスの異母妹、王妹である。そしてカインとは、国王の長子、第一王子の名だ。

 この王子はなにかと体調を崩しがちで、現国王フェインも正妃カリーシアも胸を痛めている。


「王子が倒れて、カーリーは精神が不安定になっているようだ。兄さんも気をかけてはいるようだけれど、多忙でなかなか時間が取れずにいる。この状況を放置しておくことは危険だと思う。だから、ウォルグランドへ帰らないといけない。なるべく早く」

「それは……しかし」


 時期が悪すぎる。もうじき秋も終わり、冬が訪れる。晩秋からこの世界に春が戻るまでの間、ブレスは呪いの影響を受けて外出もままならない状態となる。

 黒き竜であるテンテラに乗って空を渡れば、最速で故郷へと至ることは出来るだろう。だが、しかしその先はどうなる?

 そもそも今年は始まりが良く無かった。悪化した呪いのために失った体力が戻る間もないまま、旅を続けている。

 世界最速の魔獣である竜に乗るということは、並の人間には出来ない荒技だ。もちろん急がなければそれほど負担はかからないが、ブレスは竜の速度をもって帰国するつもりでいるだろう。体が保つはずがない。


「オリビア、此度こたびばかりは春を待つべきだ。あちらには叔父上やレシャやアロウもいる。優秀な宮廷医もいれば、妃殿下の支えとなる侍女たちもいる。貴方ばかりがひとりで何もかもを抱え込む必要は無い。そうだろう」


 説得を試みるも、ブレスはもどかし気に首を振った。


「水鏡、そうじゃない。私はそういう話をしているんじゃない。私は……私はカーリーを監視しておきたいんだ。子が絡むと女性の気は激しく乱れる。カインの容態が悪化してカーリーが万が一にも闇に堕ちれば、二十三年前の繰り返しになるかもしれない。だから」

「……王妃を見張り、最悪の事態に陥った際に殺すために、戻ろうと言うのか」


 噛み締めるようなイルダの声を聞き、若緑色の両眼が一瞬だけ迷いに揺れる。

 しかし、ブレスは瞼を閉ざした。瞬きひとつの間に動揺を払拭した。


「命を刈らずに済むうちに、まだ戻れるうちに対処出来ればいいとは思うよ。だが、間に合わなかった場合はそうせざるを得ないだろう」

「……王弟が、正妃を殺すだと……?」


 静まりかえったブレスの目を、恐ろしい思いで見つめ返す。イルダの声は震えた。


「オリビア、貴方は自分が何を言っているのか解っているのか!」

「ああ、よく解っている。言っただろう? だから私は、なるべく早く帰らなくてはいけないんだ。そんな事態を起こさないためにもね」


 膝の上の黒猫を撫でながら、ブレスはふと微笑を浮かべた。

 外交用の、取り繕ったような、平静を装うための笑みだった。


「だから水鏡、協力してくれ。頼む」

「…………いいだろう」


 言葉を十は呑んだだろう。それでも葛藤の末にイルダは肯諾した。主人の覚悟を無い様に扱うことなど、従者である彼には出来なかったからだ。

「助かるよ」とブレスは笑い、立ち上がる。


「さてと。それじゃ、さっさとエルシオンでの仕事を片付けに行くか。いつ何が起こるかわからないことだし、前に仕掛けた護りの印が劣化していないか確認して、それから新しく編んだ印を……そうだなあ、上手いこと喧嘩しない様に重ねてみよう。侵入された時のために〈呪い返し〉の腕輪も量産して配っておこう。気休め程度にはなるだろうからねぇ」



不穏が忍び寄る。

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