63話 宿るもの
一方その頃、新たに大神官となったユニウスより内通者が王族であることを知ったブレスは、ユニウスとともに王宮へ向かっていた。
彼の名のひとつである「オリビア」として王宮を訪問するのならばユニウスの同伴は必要ないが、今回は「ルミナス」として向かう。大神官がいたほうが諸々の面倒な謁見手続きを飛ばせるので、都合が良いのだった。
歩みの遅い馬車での移動でもどかしい思いをしていたブレスは、影を通じて戻ってきたクルイークの伝言を聞くなり顔を強ばらせた。
隣に座っていたイルダはすぐさま変化に気づき、どうした、と小声で彼に問う。
「……嫌な話を聞いてしまった。まだ予測の域を出ないけれど、この件は恐らくマリー様のことと無関係じゃない」
イルダを挟んだ向こう側に座っているユニウスが、興味深そうにちらりと横目を向ける。ブレスは口を噤んだ。今の段階では、彼に全てを語って聞かせるには軽率だと思ったからだ。
その時一羽の虹鳩が飛んできて、馬車の小窓の外でばたばたと羽ばたいた。中に入れろという抗議のごとき行動に、ブレスはすぐさま小窓を開けて腕を差し出す。
虹鳩はおとなしく腕に止まった。その足には小さな巻紙が括り付けられている。
「先ほど放った鳩の返事でしょう。私宛では?」
「ええ、どうやらそのようです」
ユニウスは手渡された巻紙を二本指で挟み素早く広げた。文面を読み、彼は「ほう」と片眉を上げる。
「ジュリアス殿下……国王陛下の叔父にあたるお方ですが、叛逆の罪で捕らえられたようです。彼の情報網よりも私の鳩の方が早かったようですね」
「……早すぎたかも知れませんね。もう少し泳がせておけば……」
「そうとも限りません。この文によると、王都で怪しげな行動をしていた一行も捕らえたとのこと。しかしながら人違いだったようでして」
「人違い?」
こんな時に間違えている場合か。
ブレスは眉を顰めたが、ユニウスは飄々とした様子で続ける。
「男性一名、青年一名、少女が一名だそうで、少女の身分証の裏書きには某協会長の名が」
「……へえ」
不審者として連行されてしまったことは不憫だが、これはたしかにユニウスの言うとおり「そうとも限らない」状況だ。ブレスは影に潜む使役へと指示を下す。
「クルイーク、伝言を頼む。支払いは後できっちりするよ、今は急ぎなんだ」
⌘
その男は、光り輝くようなプラチナブロンドの髪をすっぽりとローブで覆い隠し、ある路地裏に立っていた。
傍らには同じくローブを被った、彼よりも頭ふたつ背丈の低い人影がある。ローブの下は、白い髪に金色の目の少年だ。
ふたりはいつもと同じように路地裏から店へと踏み入る。趣味の悪いことに、取り引き相手は密会の場にいつもこの娼館を選ぶ。
むせかえるような白粉のにおいと欲望に汗ばむ男のにおいが混じり合っている。
白髪の少年は気分が悪くなって、思わず鼻と口をローブの裾で覆い隠した。これだから人間は嫌いだった。
「ネモ、何をしている。早く来い」
「……はい閣下」
有無を言わせぬ強い口調。きつく命じられるまでもなく、少年は契約上その男の命令には逆らえない。
この娼館には取り引き相手専用の部屋がある。
男は顔見知りの年老いた女衒に部屋を開けさせると、相手の機嫌を取るために、女を呼んで待つことにした。
「一番上等な女を連れてこい」
年老いた女は怯えた様子で下がっていく。男は気にも止めない。あの女がおどおどとしているのはいつものことだ。
長椅子に深々と腰を下ろし、部屋に運ばれた葡萄酒を味わいながら、男はしばし上に立つ者の気分を愉しむ。取り引き相手がやってくるまでの、密かな愉悦の時間だった。
「実に下らん。見ろ、なんだあの馬鹿馬鹿しい壁の彫刻は? どこもかしこも飾りたてなければ気が済まないのか。無駄金だ。金の使い道など他にいくらでもあるだろうに。そう思うだろう? ……ああ、お前に話しても仕方がないな。化生ごときに人のことなど解るまい」
皮肉気に笑い、酒を呷り、唇を舐める。男の唇は、紅をさしているわけでもないのにふっくらとして赤い。
少年は口を閉ざしたまま、じっと壁際に佇んでいる。使用人や護衛のように神経を研ぎ澄ませるが、音も臭気もなにもかもが不快で一刻も早く立ち去りたい一心だった。しかしそれは許されない。
やがて扉の向こうから声が掛かった。先ほどの女衒が戻ってきたのだろう。
──取り引き相手が来るまで、ひとくち味見でもしてやろうか。
男は冷めた目を少年へ向ける。少年は強ばった面持ちで、無言の命令に従い扉を開けた。
薄いベールを被った遊び女がふたり、猫のようなしなやかな足どりで部屋に踏み入ってくる。
女衒が逃げるように踵を返して立ち去ると、遊女たちの背で扉は固く閉ざされた。男は猫なで声で娘たちを呼ぶ。
取り引き相手は一度遊んだ女をけして生かしては戻さない。娘たちがあの扉をくぐることは二度と無いのだと知っているから、男は楽しくて仕方がなかった。
甘やかして上機嫌になった娼婦たちの、天国から地獄へとたたき落とされるあの顔は、何度見ても愉快で溜まらない。
「おいで、こちらに。美しい姿を見せてごらん」
甘い声で呼びかけると、娘のひとりが歩み寄り、男の膝に跨がった。
男は長椅子の背に凭れるようにして娘を見上げ、ベールを指先で弄ぶ。
娘は指先で男の輪郭をなぞる。冷たい指先の動作は強引で、男の嗜虐心に火を着けるには十分だった。
男は勢いよく娘のベールをはぎ取った。そのまま蹂躙してしまうつもりだった。
ところが男はぴたりと動きを止める。自分を見下ろすその娘の顔に、既視感を覚えたからだ。
「お前、どこかで……」
「見覚えがあるか」
冷ややかな声音の美しい娘。その娘の黒髪が、男の目の前で青く染まっていく。
ありきたりな色の両目は銀色に変わり、獰猛にぎらぎらと輝いていた。
「あるだろうな。貴様が殺した女の顔だ」
娘、青狼はたちまち狼へ転変すると、正体に気づいて目を血走らせたその男の首に容赦なく襲いかかった。
「ネモ!!」
凄まじい殺意で己の首に食らいつこうとする狼の牙を必死の形相で阻みながら、男は白髪の少年を呼ぶ。
「何をしている、早くこれをどかせ! この役立たずが!!」
唾を飛ばして怒鳴りつけるが、少年の答えは戻らない。
何故か。もうひとりの遊女が自ら顔を隠していたベールを払いのけ、白髪の少年と激しい攻防を繰り広げていたからだ。
燃えるような赤毛に魔物の如き赤い目のその娘、ルビーはワインレッドのドレスの裾を翻しながら白髪の少年と対等以上にやり合っている。
あの少年はあんななりだが、男の属する組織のなかで誰よりも何よりも魔力の扱いに長けた生き物だ。その力を押さえ込むほどの力を操るあの娘は何者だ?
狼の牙から身を守りながら、男の赤い唇が笑みに歪んだ。
あの娘の髪が欲しい。目も心臓も骨も全て余すところなく彼女に捧げることが出来れば、男の野望は叶ったも同然だ。
「ネモ! けしてその小娘を逃がすな!!」
男は怒鳴りつけると、膝を胸に引き寄せるようにして狼の腹部を力いっぱい蹴り上げた。キャンと鳴いて青狼が離れる。
反動を生かして長いすからばく転し、姿勢を立て直すと腰に吊っていたタガーナイフを慣れた動作で構えた。
青狼は低く唸りながら警戒して体毛を逆立てる。
──あの青く長い尾、魔獣の毛皮も彼女の糧となるだろうか?
男は品定めをしながら、首に下げていた骨を削りだして作った小さな笛を、長く強く吹いて仲間を呼んだ。
扉から、窓から、次々と手の者が武器を構えて集まってくる。
「数に勝るものは無いと知るがいい。逃げ場はないぞ、さあどうする」
「ふむ……確かに多勢に無勢ですね。けれど、逃げ場がないのは貴様も同じなのです」
残忍な笑みに顔を歪める男の言葉に、ルビーは淡々と答えた。
男は怪訝に眉間を寄せる。
「敵地に乗り込んで来たわたしたちが、たったふたりだなんて。貴様、本気で思っているのですか?」
「──ネモ!!」
暴風にあおられた扉が勢いよく開いたのと、男が鋭く少年を呼んだのは同時だった。
少年は呼ばれるなり素早く身を翻し、男のもとへと戻ると風に呼びかけて部屋の中へ嵐を招いた。
誰もが一瞬目を庇った。その隙をついた少年は枠ごと窓を破壊して、男を逃がすと彼もまた同じように壊れた窓から飛び降りて姿をくらましてしまった。
彼らを追いかけようとしたルビーは、しかし青狼が倒れていることに気がついて咄嗟に足を止めた。あのタガーナイフで刺されたのか、彼女の腹は血で赤く染まっている。
『追って……追え、私に構うな、あの男を……』
「ごめんなさい。それは出来ない。そんなことをしたら、わたしはミリャーナに怒られてしまうのです」
カナンとラケルタが置き去りにされた悪漢を次々と手際よく昏倒させるのを横目に、ルビーは青狼の腹に〈治癒〉の印を指先で描いた。
仕事を終えたラケルタが険しい顔で駆け寄って来て、青狼のそばに膝を着くと痛みを取り除く印を上書きする。
「アセナ、大丈夫だ。今じゃなくたってあの野郎は絶対に捕まえる。だから今は休め」
〈無痛〉の印によって表情の和らいだ青狼は、銀色の目でラケルタを見上げるとくたりと体躯を横たえた。
少しでも彼女の傷ついた心を慰めようと青い毛並みを撫でるラケルタに身を任せ、青狼は目を閉じる。
「安心しなさい。数百年生きた魔獣にとって肉体の破損を魔素で補うことは容易い。すぐに動けるようになる」
カナンは痛ましげに顔を歪めるラケルタにそう告げて、手のひらを切って彼女に血を与える。
青狼を影に沈めて眠らせると、カナンはさっと立ち上がる。彼は動揺の欠片もない、いつも通りの素っ気ない顔でふたりを見下ろした。
「衛兵が来る。早くここを出よう」
「え……でも兵士たちと城に行けば師匠たちと合流できるのではないのでしょうか?」
「権力者に名や顔を知られると厄介だ。王家や貴族とは軽率に関わってはいけない」
「俺もカナン様の意見に賛成だ。ま、一部の連中には顔を見られちまってるけどな」
「……そうですか。わかりました」
主犯であろう男とその手下を逃してしまった。しかし、これだけのごろつきを捕らえることが出来たのだ。
クルイーク伝てにブレスから与えられた急拵えの任務の成果としては、十分だろう。
ブレスはルビー達が王都にいることを知ると、尋問官に叛逆者ジュリアスから密会場所を聞き出させて盗聴し、ルビー達へ衛兵の先回りをするようにと指示を下した。
遊女に化けて近づいたのは青狼の策である。ヴィスタで買ってもらったドレスを持て余していたルビーは、嬉々として彼女の作戦に便乗したのだった。
しかし事が済んだいま、ルビーは浮かない顔で、彼らが逃げていった壊れた窓を見つめている。
あの白髪の少年と戦った時、何かを感じた。形容し難い妙な感覚だった。
少年の淡い金色の目に映っていた、不安と焦燥と恐れ。ルビーにぶつけられた鋭い敵意とはまったく正反対の感情が、少年の目には満ちて見えた。
彼は何を恐れていたのだろう。
(……なにか……見たことがあるような……)
張りつめた空気を纏った白髪の少年が、どうしてか気になって仕方がない。
ラケルタに呼ばれ、ルビーは後ろ髪を引かれる思いで壊れた窓に背を向ける。ワインレッドのドレスの上から旅外套を羽織り、人混みに紛れるようにして、ルビーは娼館を後にした。
それから三日後の昼のこと。宿屋の食堂にてラケルタとふたりで食事をとっていると、背の高い二人組がやってきて同じテーブルに座った。知らない顔である。
浮浪者の一歩手前のようなぼろぼろの外套を着ているが、疲れ切った様子でテーブルにべたりと突っ伏すその動作を見、すぐに中身の正体に思い至った。
「師匠……と、秘書官ですか? あの、どうして顔が」
「お偉いさんの集団から逃げて来たんだ。まったく連中は本当に手に負えない……」
テーブルに向かってぶつぶつと恨み言を呟いているブレスの横で、顔以外はいつも通りに背筋を正して周囲を警戒しているルイ。
見た目こそ違うが中身は同じであるふたりを並べて見つめているうちに、ルビーははたとあの既視感の正体に思い至った。
「……昔のわたしと似ていたんだ」
誰にも助けてもらえずに、寒村の山で暮らしていたあの時のルビーと、あの少年は同じ目をしていた。
なかば茫然と声に出したその言葉を、ふたりの保護者はしっかりと聞いていたらしい。
「何があった? 大まかな話はカナン先生から聞いているけど、君たちの目にはどう映った。話してごらん」
ブレスの声に、ルビーは強ばった首をもたげる。ブレスの眼差しは静かに凪いでいて、いつもとなんら変わらない。
「わたし……あの、まだ何の根拠も確信もなくて、馬鹿げた勘違いなのかもしれないのですが……」
「うん。構わない」
「見つけたかも知れない、と思ったのです。わたしの半分、離ればなれになっている火の精霊の片割れを」
⌘
大人ふたりと姉弟子がなにやら込み入った話を始めたので、ラケルタは外に出ていることにした。
ラケルタは大人になりきれるほど大人ではなかったが、その程度の気遣いが出来ないほど子供でもない。年下の姉弟子は彼らを信用しているので、そこにラケルタが割って入る必要はないだろうとラケルタは考えた。
宿の外のベンチでぼんやりと空を眺める。
以前のラケルタであれば暇さえあれば賭博場へ入り浸っていたが、ここのところ様々なことが起こりすぎてとてもそんな気にはなれない。
「……暇で好き勝手できるって、割と値打ちのあることだったんだなァ」
「ミリャーナもよくそうこぼしていた。町で暮らしていた時は」
独り言に返事があるとは思ってもいなかった。とはいえ、知った声だ。
ラケルタはいつの間にか隣に座っていた、ミリャーナの顔をした娘──青狼に、顔さえ向けずに「だよなぁ」とぼやく。
「ったく、どんだけ歳とればうまいこと生きていけるようになるんだか」
「人の世は目まぐるしく変化する。長く生きたからといって、その時代に適応できるとは限らない」
「そうか。ところで、怪我はもういいのか?」
「ああ。戦えはしないが、大人しくしているぶんには」
「そりゃなによりだ」
初夏の晴天を見上げながら、ラケルタは薄く笑った。青狼はその横顔をじっと見つめている。
「お前からは同種族のにおいがするな」
「半分人狼だからなァ」
「半狼のそのまた半分か」
「ああ……」
相づちを返しながら、ラケルタは怪訝に思う。この青狼は先ほどから何が言いたいのだろう。
青狼ははじめと同じようにじっとラケルタを見つめたまま「欲しいものがあるんだ」と呟いた。
「欲しいもの? 俺に言われたって……カナン様にでも言えばいいだろ」
「王には叶えられない」
「はあ? カナン様に叶えられないものを、俺に叶えろって言うのか?」
「そうだ」
「……で、なんなんだ。その欲しいものってのは」
どうせ叶えてやることなどできはしない。
それでも青狼が一向に引く様子を見せないので、ラケルタは仕方なく訊ねる。
青狼は相変わらずじっとラケルタの横顔を見つめたまま、これまでと同じように淡々と答えた。
「お前だ」
聞き間違いだと思った。ラケルタははじめて、隣に座る青狼に顔を向けた。
ミリャーナの顔の娘は、銀色の目で射抜くようにラケルタを見上げている。その視線には一切の迷いもためらいも無い。
「ミリャーナはお前たちと共に行けと私に言った。私はその想いに応えると決めた。山を下りてあの男を見つけた。私はあの男を殺そうと思った。だがひとりでは出来ない。此度、あの男を殺し損ねたように。だから」
驚きのあまりに言葉もないラケルタに向かって、青狼は告げる。
「私をお前の影に入れてはくれないだろうか。あの男を殺すまででいい。お前たちの中からひとりを選ぶのならば、私はお前がいい」
ラケルタは唇を閉ざし、開きかけ、また閉ざした。彼は生まれてからこれまでの間、誰かに選ばれたことなど一度もなかった。
例え期限付きの契約であったとしても「お前がいい」だなんて殺し文句にも程がある。
ひとから必要とされることが、誰かの特別に選ばれることが、これほどまでに嬉しいことだとは露ほども思わなかった。
それこそ、泣き出してしまいそうなくらいだった。
「……そうか」
ひきつる喉でなんとかそれだけ呟くと、ラケルタは目を閉じて深く息を吐いた。
青狼はじっと答えを待っている。
「じゃあ、お前の名前はミリャーナにしよう。大事な友達を忘れないように」
青狼はそれを聞くなりふわりと微笑んだ。
鋭く硬質だった気配が和らぎ、ラケルタは彼女もまた不安であったことを今更ながらに知った。
青狼は立ち上がり、ラケルタの正面に立つ。彼女は眩しそうに己を見上げる人間の青年を見下ろし、きっぱりと宣言した。
「ああ。私の名はミリャーナだ」
かくして彼女はラケルタの使役と下った。契約の血を得る際に、新しい主人の唇に噛みついて滲んだ血を舐めたことを除いては、この日はラケルタにとってこれまでの人生で最も幸福な日であったと言えるだろう。
ミリャーナと契約を交わしたことにより、ラケルタは彼女の誘惑から堪え忍ぶ日々を送る羽目となるのだが、今はまだ知る由もない。
4章 アセナの宿木 終
この世界で何かが起こっている。幕間に続く。
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