51話 不運な暴れ馬
昼食に魚を捕まえて食べると、ふたりはそれぞれ山歩きを再開した。
ルビーは適当な一匹目を探しつつ山中を散策する。何やら気配を感じて目を向ければ、木の枝に鳥の影を見かける。
羽は黒いがカラスではない。あれは鷲の形をしている。だが、何か妙だ。
「お前は本当に鳥?」
思わず問いかけるが、黒い鷲はピクリとも動かない。疑いが確信に変わる。あれはただの鳥ではない。
鳥の姿をした何かだろう。魔物か魔獣ならばとりあえず捕らえて交渉してみよう。
ルビーは手のひらにお気に入りの印〈錬成〉を描き、姿勢を低めたまま印を鷲へと向ける。
「あ」
黒い鷲の形をした何かは危機を察知したのか、途端に羽ばたいて去ってしまった。
一度目は失敗である。
次に出会ったのは蝙蝠だった。黒々とした大きな蝙蝠が一匹、木の枝からぶら下がってルビーを見ていた。これもまた蝙蝠の姿をした何かだった。
何かおかしいと思いつつ、その蝙蝠を捕らえようとすっと目を細めた瞬間、蝙蝠はルビーを嘲笑うかのようにぼとんと大きな糞を落とし、バタバタと飛び立って行った。
二度目も失敗である。その上非常に屈辱だ。
「……あの蝙蝠、また会うことがあったら焼いて食べよう」
人知れず爛々と赤目を光らせつつ、さらに山奥へと踏み入ると、今度は馬が現れた。
またしても黒い。流れるようなたてがみの、若い雄馬である。しかしこれもまた、馬ではない。馬の形をした何かである。
「そうか。お前、さっきからわたしを揶揄って遊んでいるのでしょう」
鷲に、蝙蝠に、馬。全て同一のもの、姿を転変させる能力を持つ、これは魔物だ。
黒馬はルビーを品定めするように眺めると、ニイと笑った。一般的な感覚の持ち主であれば、笑う馬の不気味さに尻込みをしているところだろう。
ところが黒馬にとって不運なことに、相手はよりにもよってルビーである。
「ねえ、そんなに遊びたいなら遊んであげる」
笑う馬に負けず劣らずの笑みを浮かべ、ルビーは飛びついて距離を詰めると、黒馬のたてがみをむんずと掴んで即座にその背に跨った。
相当な暴れ馬だった。振り落とされればただでは済まないだろう。
猛烈な勢いで走り出したかと思えば急停止、竿立ちになるなりぶんぶんと首を振り回し、また飛び跳ねるように走り出す。
鞍も鐙もない裸馬にこれだけ暴れられてもしがみついていられたのは、山暮らしの賜物であった。
熊にも鹿にも馬鹿でかい猪にも負けず、雨の日も雪の日も獣たちを服従させてきたルビーにとって、たとえどんなに暴れようとも馬など可愛いものである。
少なくとも、熊のようにひっくりかえって押し潰そうとしたり、爪や牙で食い殺そうとしてきたりはしない。
乗っていれば良いのだ。腿でしっかりと胴を挟み、毛をむしるが如き握力でたてがみを握りしめ、腹に力を入れて姿勢を保つ。
「わたしの、筋力を、舐めるなっ、ふは、あははは!」
振り回されながらもけして落ちない、脅威の内転筋であった。
黒馬はルビーの内腿に痛むほど胴を締め付けられ、次第に疲弊し始めていた。気が挫けそうになっていた黒馬は、神経が昂って笑い始めたルビーに恐怖すら覚えた。
ルビーはその揺らぎを敏感に察知して、たてがみを握りしめる手をぐいと引き寄せて馬の首を立てる。凄まじい腕力であった。
「負けを認めて使役に下るのなら、お肉にするのはやめてあげる」
食べる部分がどれだけあるのか。そもそもこれは獣ではないが、思えば山に入って以来魚ばかりで肉を食べていない。
嗚呼、肉が。肉が食べたい。
食欲で埋め尽くされたルビーの思念を正確に感じ取ってしまった憐れな黒馬は、死に直面してはじめて気づいた。
自分は揶揄う相手を間違えたのだと。
『わかった、認める、ぼくの負けだよおっ』
泣き出しそうなその声が黒馬から発せられていることに数秒遅れで気づき、ルビーははたと正気に返った。
思念ではなく声である。
魔物や魔獣って、喋るんだっけ?
「お前、何者……」
コレはもしや、夜の生き物ではないのではないだろうか。
泣きべそをかきはじめた黒馬に正体を問いかけようとしたその時、向かい側から縮毛頭のひょろ長い男が全力疾走で駆けてきていることに気がついた。
ラケルタであった。
「たすけてくれ!」
「……は?」
「だから、助けてくれ!!」
何事か、とか歳上のプライドはどこへ行った、だとか訊きたいことは多々とあったが、おとうと弟子が助けてくれというのならば助けなくてはいけない。
必死の形相のラケルタの腕を掴むと、ラケルタは意を察して地面を蹴りつけ黒馬に跨る。
同時に彼を追いかけてきたものを視界に捉え、ルビーは己の目を疑った。
大きな銀色の狼の群れが、牙と敵意を剥き出しにこちらへ向かって疾駆してくる。
「ラケルタ、あれなんなんですか!」
「青狼の召喚した根の国の狼だよ!」
「魔獣が魔物を召喚するだなんてそんな──いえ、今はそれどころではない。馬じゃない馬、逃げるのです。早く!」
『わかったよおっ』
「いまコイツ喋った!?」
素っ頓狂な声を上げるラケルタを無視し、ルビーは「捕まって!」と叫ぶ。馬が走り出すことに今更ながらに気づいたラケルタは、大慌てでルビーにしがみついた。
飛ぶように駆け出した黒馬に振り回されたラケルタが、背後でフギャアと悲鳴をあげる。
しばらく走り、追跡が途絶えたこと確認して歩を緩めてから、ようやく飛べば良かったのだということに思い至った。
「ぜえ、はあ……俺らって魔術師失格だな……」
「……あ、あれは仕方がないのでは……」
生物は恐怖に支配されると判断力を失うのだ。
あんな凶暴な狼の群れに追い回されて平気でいられる程、ルビーもラケルタも経験を積んでいない。それは兎も角として。
「で、馬じゃない馬。お前はいったい何なのです」
普通の馬であれば今頃走りすぎて心臓発作を起こし倒れているであろう馬ではない何かは、ヒーヒーと息を切らしながらもなんとか生きていた。
それは泣きべそをかきながら、『ちゃんと従うって約束するから、背中から降りてってば』と切々と訴えてくる。
とりあえず走って逃げてくれたことだし、もはや刃向かう意志は感じられない。
ふたりは黒馬から降りた。逃げ出さないように、ルビーはけしてそのたてがみを握りしめて離さなかった。
黒馬はぽろぽろと涙をこぼしながら、すっかり降参した様子で正体を明かした。
『ぼくはプーカ、これでも三百年くらい生きてる妖精だ。妖魔だって言う人間もいるけど、ちょっと意地悪なだけで、ちゃんと妖精なんだからな!』
「なんと……」
馬じゃない馬はプーカという妖精だった。
プーカって何だっけ?
ルビーは課題図書で読んだ記憶を引っ張り出そうとしたが、あれは夜の生き物、魔物や魔獣について書かれたものであって、妖精についてはそもそも記されていなかった。
「ラケルタ、プーカって知ってますか?」
「薄らぼんやり、名前だけ……」
『なんだって! 今時の人間はプーカを知らないのか! これだから若造は!』
今度は怒り出した自称妖精を眺めながら、ルビーは胡乱に目を細める。
どうやら面倒くさいものを捕まえてしまったようだ。
訳のわからない物について知るには、魔道の師匠に訊くのが一番手っ取り早い。
ラケルタの青狼問題もあることだしと、ふたりはとりあえず野営地に戻ることにした。
ところがプーカに乗ってがむしゃらに逃げてしまったためだろう、いつのまにかすっかり遠くまで来てしまったようだ。離れすぎてラケルタの鼻も利かず、どちらへ向かえば良いのやら見当もつかない。
ふたりで困っていると、一羽の小鳥がパタパタと飛んできて真上の枝に止まる。それは生き物ではなく、ブレスが折り紙で作っていたあの立体的な紙の小鳥だった。
「あれ、どういう原理で動いているのでしょうか」
「さっぱり解んねぇ」
枝を渡って行く紙の小鳥を追いかけながらじっと観察をしてみれば、あちらこちらに〈目〉やら〈耳〉やら他の見たことのない印やらが流線形の模様のように繋げられて描かれている。
見た目こそ紙だが、小首をかしげる仕草や翼を震わせる動作は本物同然だ。
ブレスはきっとこの鳥を使って、あの幽霊の体を探していたのだろう。まったく器用な魔術師である。
小鳥に導かれて野営地に戻ると、ブレスは木に凭れて座り、じっと目を閉じていた。
「おかえり、ふたりとも。少し待ってて」
閉ざされた瞼の下で、ブレスの目が忙しなく動いている。
紙で作った小鳥は五羽。その全てに〈目〉や〈耳〉を刻印しているのだとしたら、彼はいま残り四羽分の視覚と音をいっぺんに処理していることになる。
暫し待つと、四羽の雀がパタパタと飛んでやってきて、ブレスの前に着地した。
はあ、と詰めていた息を吐き出した彼の目の前で、雀は折り紙の小鳥に戻ってしまった。
ふたりは呆気にとられる。
「うわ、頭が痛い……何度もやるものではないな、これは」
眉間やこめかみをぐりぐりと揉みながら、ブレスはようやく薄目を開けた。幾度か瞬きを繰り返すが、どうやら視界は元通りにはならなかったようだ。
だめかと呟いて紙の小鳥に手を翳すと、一斉に浮かび上がった〈霧散〉の印によって小鳥に描かれていた印は全て消えてしまった。
「ああっ」とラケルタが残念そうに声をあげる。きっと印の構成を調べて、理屈を解き明かしたかったに違いない。
「うん、戻った。ごめんお待たせ。なんだかずいぶん面白いことになっているみたいだね?」
ルビーの方は置いておくとしても、ラケルタは危うく獲物の青狼に殺されるところであった。
面白くはない。が、きっと彼にとっては笑い話程度の事なのだろう。
若緑色の目を興味津々といた様子で輝かせている魔道の師を前に、ふたりの弟子は脱力してぐったりと肩を落とした。




