30話 炎
気配を消したまま手のひらに水球を構えて火蜥蜴の背後を取り、ルイはもう片手に〈氷結〉の印を構える。
炎の力を持つ火蜥蜴とはいえ、爬虫類は変温動物だ。動きを鈍らせるには体温を奪うのが手っ取り早い。
片手の水球に〈氷結〉の印を添えて魔力を流し、みぞれ雪のようになったそれを、ルイは火蜥蜴の燃える背中の棘に容赦なくぶち撒けた。
キューティーちゃんもろとも氷水を浴びたラケルタは、フギャアと叫んで白目を剥く。
一方火蜥蜴はギュルギュルという独特な威嚇音を立てながら首を巡らせて敵を探すも、見つけられずに苛立っている。
次の水球を構えたルイが、再び背後に回り込んで攻撃を放つ。
冷水をまともに浴びて怒り狂った火蜥蜴は、体温を取り戻そうと口内に炎を溜めて身体を膨らませている。
火蜥蜴の炎は高温だ。赤ではなく青い炎を吐く。浴びれば火傷どころでは済まない。間の皮膚など簡単に炭化してしまう。
ルイひとりに相手をさせて、師匠は何をやっているのかと視線を走らせれば、ブレスは木にもたれ掛かってじっと戦況を俯瞰していた。
(何もしていない……わけでは、ない)
微かに唇が動いている。ルビーはブレスの言葉が魔力を持っていることを知っている。彼は彼で何かをしているが、ルビーにはその意図を察することは出来ない。
そうこうしているうちに火蜥蜴がやけを起こし、とうとうカッと石を打ち付けるような音を立てて火を吐いた。
熱風が頬を撫でる。ルイは飛び退ってそれを避ける。炎を受けた樹木が一瞬で消し炭となり、それを見たブレスの眉が微かに寄った。
「水鏡、水じゃ駄目だ。この火蜥蜴の火力は強すぎる。結界に閉じ込めよう」
「ああ」
冷静なブレスの指示に、同じく冷静にルイが答える。ふたりは連携している。
ブレスの隣に下がったルビーの耳に、低く、しかし柔らかな音の連なりが届いた。知らない言葉だった。これは人間の言葉だろうか。
「水鏡、いいよ」
緊張の欠片もないブレスの声に、ルイは頷く。一歩踏み出したブレスは小石を拾って手のひらで転がし、ぽんと放り投げる。
幾度かそれを繰り返す彼の動作を見て、ようやく気づいた。彼は囲いを作っているのだ。
同じく懐から石を取り出し、火蜥蜴を囲うように半円を描くように石を投げていたルイが、屈み込んで大地に両手をついた。
小石の描く円、その直径線上でブレスとルイの視線が交わる。
次の瞬間、大地を伝って同時に流れたふたりの魔力が石の印を発動させ、結界が立ち上がった。
閉じ込められた火蜥蜴は、状況に気づいて青い炎を吹き出しているが、障壁に弾かれてもはや熱さえも感じられない。
「すごい。やりましたね師匠、秘書官」
結界は二種類、中にいるものを外に出さないものと、外にいるものを中に入れないものがある。
この結界は火蜥蜴を外に出さないためのもの。内向きの結界だ。
「捕まえるのは簡単だ。問題はこの後なんだけど……どうしたものかな」
少々困った様子で火蜥蜴を正面から覗き込みつつ、ブレスが首を傾げる。
半周歩いて隣に立ったルイが、「結界越しでは調伏も出来ない」と手のひらの泥を拭き取りつつ述べる。
「とりあえずこの子の怒りが収まるのを待とうか。今はなにを話しかけても無駄だ。聞いてくれない」
「……そうだな。住民に注意喚起を──」
「なああ! そこのおふたりさん、悠長に話している場合じゃねえぞおい!」
すっかり存在を忘れていたラケルタが、木に縛り付けられたまま叫んだ。
うるさそうに振り向いたふたりの目が見開かれる。つられたルビーがその視線を追えば……。
「これはまずいのでは?」
木立で火事が起こっていた。小火どころではない。目を離した一瞬の間に、一体何が起こったのだろうか。
赤々と燃える炎が木々を駆け上り、枝から枝へと渡って広がっていく。自然火災ではあり得ない勢いで燃え広がっていく炎、その原因は。
「そうか。師匠、課題図書で読みました。火蜥蜴の体液は可燃性です。この木立があの火蜥蜴の狩場になっていたのなら、このあたり一帯には」
「ああ。獲物を追ってあちこち這い回って、可燃剤を撒き散らしていたのか。やられた」
「先程吐いていた火が、それに引火して……このままだと、ここはまるまる燃えてしまいます」
チッと苛立たしげに舌打ちをしたルイが、ラケルタを縛り付けていた縄を断ち切りに走る。
縄を解かれた途端、縮毛のトカゲ男は速やかに逃走して姿をくらました。
「私が迂闊だった。奴の狩場で攻撃を仕掛ける前に、結界を展開しておけば!」
「水鏡、落ち着け。君のミスじゃない。あの火蜥蜴が規格外だったんだ。……変だな、やはりこれも彼女の思惑が絡んでいるのか?」
「とにかく結界を広げなければ。せめて炎を閉じ込めて町に出さないように」
「秘書官だめです、火のまわりが早すぎます。近隣の住民に避難を呼びかけた方がい……」
その時、ルビーの鋭敏な聴覚がある音を拾った。ぱちぱちと弾ける炎と焼け落ちる木々の悲鳴に混じって、泣き叫ぶ人間の子供の声が聞こえないか。
そうだ。この辺りは子供たちの遊び場になっていた。鳶の巣の下で、焼き菓子をあげようとしたあの幼い子供が、木立の中に取り残されている。
──助けなければ。
くるりと踵を返し、ルビーは炎の中へと飛び込んだ。何も考えず、ひとかけらの恐れも抱かず、ただ使命感に駆られていた。
助けてもらえない苦しさを知っているが故に、ルビーには無視することができなかったのだ。
「駄目だ、ルビー!」
恐怖に駆られたような師の叫び声を背中で聞きながら、ルビーは微かな泣き声を目指して駆け出した。
──どこにいるの。
この木立はそう広くはない。煙と炎に視界を遮られていなければ、容易く見つけることが出来るはず。
風で道を開けば、と浮かんだ考えを一秒で切り捨てる。風は火事を大きくする。道を開くために火を広げてしまったら被害が広がってしまう。
炎の中に立ち止まり、耳を澄ませる。泣き声はもう聞こえない。煙を吸ったか、それとも燃えてしまったのか。
──教えて。
木々を焼き尽くす炎、それに宿る微精霊に、ルビーは語りかける。
──教えて。どこにいるの。
悪戯好きで意地悪な火の微精霊は、ぱちぱちと火花を散らしながらルビーの耳を掠めて笑う。
人間なんかに教えてやるものか。耳元で聞こえたささめきに、怒りが湧き上がって胸の中で燃える炎の勢いに油を注いだ。
「従えと言っているの」
微精霊は応えない。
人間のくせに。
生意気だ、燃やしてしまおう。
ささめきは騒めきとなり、悪意を増し、ルビーを取り巻いて大火となる。
時間がないのに。プツンと音を立てて、ルビーの中の何かが切れた。
抑制の糸だったのか、理性か、それともルビーを人間たらしめる別の何かだったのかは定かではない。
ただひとつ確かに言えることは、それが切れた瞬間、胸に宿る炎が大火に宿る微精霊の力を上回った、ということ。
「わたしの命令を聞け!!」
ごう、とルビーは吠えた。煽られた鉄錆色の髪が炎に染まり、靡き、渦巻く。
抵抗を力づくでねじ伏せ、征服する。今やこの場にルビーに逆らう力は存在しなかった。
従順に道を示すそれらに導かれて歩みを進めると、鳶の巣のある木の根元にふたりの幼子が蹲るようにして倒れていた。
触れて確かめる。まだ生きている。
運びださなければ。けれど、どうやって?
見つけたはいいが、発育不良のルビーには腕力がない。
力が欲しい。気を抜けば寄り付いてくる炎を払いながら唸っていると、炎の中からのしのしと現れた、その生き物は。
「……キューティーちゃん?」
結界に閉じ込められていたはずの火蜥蜴は、犬のような従順さでルビーをじっと見上げていた。
⌘
燃え盛る炎を割ってひとりの娘が現れる。熱風に煽られた長い髪が、火のようにめらめらと靡いている。
娘に追従している大蜥蜴の背に運ばれている幼児を見た男女が、転がるように駆けだし、探していた我が子をかき抱いた。
母親は涙ながらに娘に縋り、繰り返し謝意を告げ、そして娘の名を問いかけた。
名前、と表情に乏しい娘の唇が呟く。
「わたしの名前はイフリータ」
ぐるりと人々を見回して、娘は燃え盛る炎の中へと戻っていった。
⌘
「と、いうことがありました」
すっかり鎮火した、木の残骸の中。
ルビーはそこだけ焼け残った鳶の巣のある木の根元に座り込み、膝を抱えて保護者ふたりを見上げていた。なにしろ衣服が燃えてしまったのである。
炎はルビーを焼かなかったが、着ていたチュニックと幅広のズボンはすっかり燃えかすになってしまった。革製のブーツだけは防火製だったので無事だった。
ほとんど裸なのに靴だけ履いている。
間抜けすぎて立ち上がれない。
火蜥蜴を侍らせ、頭に巣立ち直前の鳶の雛を止めたルビーを、ブレスとルイは半ば唖然として見下ろしていた。
赤錆色だった髪は燃えるような赤毛へ、栄養失調で小柄だった体はすらりと伸びて年相応に成長している。
炎がルビーに魔力を与えた。
体から溢れた魔力が魔術師の髪を伸ばすように、炎の魔力がルビーの身体を成長させたのだろう。本来あるべき最適な姿へと。
「……なんとなく解っていたけれど、やっぱり君の片割れは炎だったんだね。君はその火蜥蜴と同じ、火の眷属だ。君は火を下した。もう君を傷つけはしない」
ブレスが旅外套を脱ぎ、ルビーの肩に羽織らせる。前を引き寄せて立ち上がると、いくらか目線が高くなっていた。
もうあのトカゲ男も、ルビーをチビとは言わないだろう。
「キューティーちゃんはどうしましょうか。あのトカゲ野郎に返したところで制御出来ないのでしたら、行き場がない」
「お前が下せばいいだろう」
当然のようにルイが言う。ルビーはすっかり大人しくなった火蜥蜴をちらりと見下ろした。
キューティーちゃんは炎に宿る魔力を吸って、すっかり満腹になった様子だ。少々眠たげに目を細め、時折舌を伸ばして鼻先を舐めている。
「可愛くはない……けど、使役はペットではない。役立つならば、魔術師としては下すべきですね。でも師匠、わたしに制御出来るでしょうか?」
「言ったろう。君とその子は火の眷属、言わば姉妹みたいなものだ。同系どうし相性は良いから、単純に強い方が上となる。君になら、その子も従うはずだよ」
「姉妹ですか。共に産まれたという片割れの精霊と再会する前に、まさか妹が出来るとは」
もう一度しゃがみ込み、ルビーは火蜥蜴を真正面から見つめる。
馬の後ろに立ってはいけないように、火蜥蜴の前にも立ってはいけない。この大きな口がパカッと開いて火を吹けば、通常の人間は炭になる。
「キューティーちゃん。わたしの妹になってくれませんか?」
大きな赤い目に、頭に雛鳥を止めたルビーを映し、火蜥蜴は何を思ったのか。
ナイフで傷付けたルビーの指先をペロリと舐め、彼女はあっさりと使役に下った。
本来であれば新しく名付けるところだが、彼女の名前は相変わらずキューティーちゃんである。
なぜなら、当のキューティーちゃんがその名前を大層気に入っているらしい事が、思念を通じてわかったからだ。
キューティーちゃんを影に収め、さて、とルビーは立ち上がる。
頭に止まった鳶の雛鳥を今度は腕に止めて、頭上を仰ぐ。
上空を旋回している親鳥は、雛が巣立ちしたあとも暫くは行動を共にして一人前になるまで世話をする。親鳥は待っているのだろう。
「お行き。お前はもう飛べるはず」
顔立ちはまだ幼いが、羽はほとんど揃っている。雛鳥が翼を広げた。ルビーは風を呼んで気流を編む。
ほんの少し手伝うだけだ。
風を受けてふわりと舞い上がった雛鳥は、親鳥と共に上空を飛んだ。
よろよろと危なっかしい姿ではあるものの、鳶は鳶だ。一丁前にピーヒョと鳴いて、飛翔の歓びにはしゃいでいる。
眩しく天を仰いでいると、行こうか、とブレスが言った。
「とりあえず、君の服を買い直さないと。サイズが合わなくなってしまっただろうから」
「はい。師匠」
静かな声音のブレスの背を追い、ルビーは歩きながら予感していた。
きっといつの日か、昔を懐かしみながら思い出すことになるだろう。
炎上の魔術師イフリータが、火蜥蜴の炎の中で生まれた今日この日を。
2章 火の眷属 終
火を下し、火の眷属となったルビー。
次話から幕間のお話です。




