210話 再生の日
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暗闇の鍾乳洞でアロウは目を覚ました。
時間の感覚がない。眠れ、と言霊をかけられてからどれほどの時が流れたのか。
「……オリビア様」
次いで思い出した王弟を真っ先に呼ぶ。答えは返らなかった。どこかで水滴が落ちる、かすかな音の他に聞こえるものは何もない。
焦燥に駆られ、迷った末に祈るような思いで荷からランタンを探して明かりを点す。閉鎖空間で火を使うことの愚かさを知りながらも、そうせずにはいられなかった。
明かりを掲げる。少しばかり離れた岩場の向こう側に、倒れた姿を見つけた。ぴくりとも動かない指先に、アロウの顔面から血の気が引く。
「オリビア様! ああそんな」
傍に寄って幾度か呼びかけると、ぼんやりと彼の瞼が開いた。ひとまず意識があることに安堵をするアロウに向けて、ブレスは億劫そうに唇を開く。
「ごめん……起こしてくれる。うっかり眠ってしまっていたみたいだ」
「はい。しかし何か、血の臭いがいたします。どこかお怪我を」
「違う、印を書くのに使っただけ……足もとに気をつけて、描いた印を踏まないように」
「……印を」
いくら彼がかの刻印の魔術師であろうとも、この状況で何が出来ると言うのだろう。アロウはそう憂いたが、敢えて現実を突きつけるような真似はしなかった。
不敬にあたらないよう上体を支え、倒れた身体を起こし、少しでも楽に居られるように岩と背の間に外套をかませる。
「私はどれほど眠っておりましたでしょうか」
「そんなに長くはない。きっと一日か二日か、ふ……」
乱れた呼吸に声が途切れた。気休めの咳止めと解熱剤、それから切り傷を手当するための包帯を鞄から探しながら、アロウは奥歯を噛みしめる。なんて役立たずだ。
憔悴した主の横に膝をつき、切ったであろう右手をそっと取り上げる。
アロウは怪訝に眉を寄せた。手のひらには傷ひとつない。冷えて乾いた皮膚はあくまでも滑らかだった。
「……これは」
〈治癒〉の印を使ったにしても治りが早すぎる。
戸惑うアロウへ視線を流し、ブレスはかすかに笑う。自嘲の滲む、苦い笑みだった。
「オリビア様……あなたは」
「──あ」
アロウの問いかけを遮り、ブレスは目を見開く。虚ろな目に生気が戻った。
何かを探すように宙をさまよった目は、眩しそうに細められて微笑んだ。アロウが久方ぶりに見た、心からの微笑だった。
「……やっぱり戻ってきたんだね。君の真名を預かっていて良かった」
困惑するアロウの目の前で、ブレスは躊躇なく自身の長髪をうなじのあたりでばっさりと切った。
束ねたそれを捧げ持つように両手にかけ、彼はか弱きもの、微精霊たちの言葉を紡ぎ始める。
『有るべきものを在るべき場所へ、器を満たせ、海より出で地に立つもの、掬いあげたましろの枝に生と死を結び、此処へ名と共に孵す。アグニ』
灰と血と、清らかな水で描いた魔術印に言霊を吹き込み、微精霊たちには糧を与え、刻印の魔術師は生涯で一度きりになるであろう術を起動させた。それは〈再生〉だった。
〈創造〉の印を土台に編みあげ、肉と魂の記憶の刻まれた灰とブレスの血で描いた印は、髪の魔力を糧に正確に術者の意図を読みとった。
彼を中心に、描かれた印を辿って赤い発光が地下洞全体へ広がっていく。地面も壁さえも埋め尽くす複雑で広大なそれを前に、アロウは呼吸も忘れて見惚れた。
ひとつの魔術を起動させるには、あまりにも広範囲に描かれた印だった。それにも関わらず、一切の迷いのない洗練された流線の連なりの、なんと美しいことだろうか。
捧げ持つ贄の赤毛が微精霊たちの糧となり、分解されて消えてゆく。
同時に現れたものがあった。
つま先から脚へ。手指から腕へ。枝の如く伸びる白い骨を追って、人が形造られていく。四肢が胴で繋がる。
首から頭部が形成されると、薄白い皮膚に血が通って赤みを帯び、ばさりと深紅の髪が広がった。
それは──ルビーは、血潮の色の発光を弾き飛ばして着地する。かつてと同じように爛々と光る赤い目が、ゆっくりと開いた。
「素っ裸じゃないですか。これはひどい」
開口一番にそんなことを言う。
周囲を見回し首を捻り、いかにも嫌そうに顔をしかめ、すぐそこにふたりが居ると気づくと居心地が悪そうに膝裏まで伸びた髪で身体を隠した。
ねえアロウ、とぞんざいに呼びかけられた片方が、我に返り慌てて荷から乾いた外套を引っ張り出す。
奪い取った外套を羽織り、帯を締め、ルビーは魔道の師を見つめた。座り込んだままルビーを見上げるブレスは、ひどく頼りない表情を浮かべている。
「師匠。どうしてそんな、迷子みたいな顔をしているのですか」
「……そう、見えるの?」
「見えます。なんだかとっても不安そうです。もしかして私、あの……間違えたとか? 呼ぶ声が聞こえたから来たつもりだったのですが、勘違い……だったとか……あれ」
淡々とした口調に反し、ぽろりと涙がこぼれる。溢れて止まらない滴を両手で拭うが、ついには前も見えなくなってしまった。ルビーは顔を歪めた。
「違う、違うんです本当は。こんなこと言いたいんじゃなかった。私、師匠には謝らなくちゃと思っていたのに。約束を破ってしまったから。長生きしてずっと一緒にいるって言ったのに、勝手にいなくなった。ひどいことをしてしまってごめんなさい、ごめんなさい……っ」
しゃくりあげながら許しを乞うルビーを、ブレスは途方に暮れたように見上げていた。やがて彼は、迷うような口調で弟子へ問いかける。
「……けれど、君は戻ってきた。私が呼んだけれど……戻ってこられるように印を編んで迎える準備をしたけれど……無理強いではなくて、君自身の意志でちゃんとこの地に吹き溜まった混沌を集めて練り上げて、肉体を取り戻した。そう……思っていいのだろうか」
「そうです。私の身体です。私が必要としなければ造れるわけがない。どうしても必要だった。だって身体がないと、皆と一緒にいられないから。気づいてもらえないから。私……生きたかった。約束を守りたかった。会いたかった」
動けないでいるブレスの前にルビーは両膝をついた。なにかを怖がっているらしい師の、若緑色の双眸がたまらなく懐かしい。
「会いたかったんです師匠、だから呼び戻してくれてこんなに嬉しい……!」
感情に任せて腕をのばし、ルビーは師の肩を抱きしめる。また痩せてしまった。ルビーを呼び戻すために、彼がどれだけ病んだ身体を引きずって尽くしてくれたことだろう。
困惑した優しい声音が、ルビー、と名前を呼ぶ。触れ合った頬がやたらと冷たかった。
ルビーはほとんど無意識に、間近に聞こえる呪いの声に寄り添った。──寂しい……。
ああ、と目を瞑る。ブレスを呪った魔女の、誰にも言えなかった本音が聞こえる。
帰路の通りがかりに哀れな魔女の心を養ったように、ルビーは呪いと向き合った。求めるものをそっと注ぐ。生まれなおした身体は、以前と同様にきちんと火の気に応じていた。
「ルビー……一体君はいま、何をしているんだ」
「師匠の呪いをなでなでして落ち着かせています。うさぎみたいに」
「う……うさぎ?」
「うさぎみたいに怖がりで、野良猫みたいに噛みつくのです。だから優しくしてあげないといけない」
訳も解らずされるがままになったブレスの呪いをひとしきり宥め、ルビーは満足して腕をほどく。
呪いはそうやすやすと消えるものではない。きっとこれからも、冬を迎えるたびに、彼の心に影が差すたびに、魔女の怨みは目覚めるのだろう。それでも。
「でもきっと、そのつど私が呪いを優しく撫でてあげたら、十年か二十年か後にはとても小さくなると思う。苦しかった記憶って忘れられないけれど、きちんと向き合ってあげればだんだん痛くなくなるでしょう。私、呪いってそういうものだって解りました。だから」
涙に濡れた顔をさっぱりと拳で拭い、ルビーは笑った。
「約束通り、師匠をひとりにはさせません。これからもずっと、末長くよろしくお願いします。私、長生きしますから。今度こそ絶対に、破りません」
群がって遊ぶ微精霊たちの光をきらきらと纏う弟子を、ブレスは言葉もなく見つめていた。
若くまっすぐな言葉には迷いがない。まるで以前の自分のようだと彼は思う。ルビーの言葉は、忘れていた若かりし頃の自身のひとかけらを、取り戻させてくれた。
「……うん。ありがとう、ルビー……おかえり。現世に」
戸惑いと不安に揺らいでいた顔に、ようやく笑みらしい表情が滲む。
ルビーはしっかりと対の言葉を述べ、次いで未だに立ち尽くしていたアロウへくるりと首を向けた。
「であるからして、とにかく此処から脱出しなければなりません。まだやることがたくさんあるのです。アロウ、いったいどうやってここに来たのですか? 私が来た時は入り口なんてなかったのに」
「あ……ああ、それは……」
斯く斯く然々と事の経緯を聞く。ルビーはアロウの説明が終わるなり、真顔でふむと腕を組んだ。
「起死回生したのにまさかの生き埋め」
ブレスは憮然とした弟子の言葉を聞くなり、今度こそ心のそこから可笑しげに、声をたてて笑った。




