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炎上のイフリータ 少女は飛躍する  作者: 鹿邑鳩子
10章 朽ちゆく秋の時代に生じた
202/221

202話 漂泊者

 


 鋭敏な聴覚が女の啜り泣きを捉える。

 真夜中を過ぎた頃、ひとりきりになっていくらもしないうちに、彼女はここのところ毎夜泣いている。

 ラケルタはため息を吐いた。貸し与えられた寝台に起き上がり、胡座を組み、きつく眉間を寄せて目を瞑る。


「今日も眠れないのか」

「……あぁ、起こしたか。悪い」


 ラケルタは横目をやる。

 借り物の寝所に横になってはいるものの、低い天井を見上げるウェンティの片目はしっかりと覚めている。


「彼女、エチカ先生。王宮から戻って以来ずっと変だ。君なら知っているんじゃないのか。何があったのか」

「ウェン……あのな、俺だって聞きたくて聞いたんじゃない。あの先生が話さないうちは、俺が勝手に話すわけにはいかない」

「それは解るよ。けど、皆薄々勘づいてる。イフリータに何かあったんだろう」


 ウェンティの向こう側で、ケイが寝返りをうった。眠れないでいるのは彼も同じであったらしい。


「……女子どもには言うなよ。絶対泣くから」

「なら尚更知っておきたい。彼女たちが動けなくなった時に助けられるように」


 決然としたウェンティの言葉を聞き、ケイもまた便乗して頷く。

 ため息とやるせなさを細く吐き出しながら、ラケルタは扉に面するほうの耳をふさいだ。圧し殺すような女の泣き声を聞くと、母親を思い出して堪らない気分になる。


「あいつな、弟がいただろ。事情はよくわかんねえけど、死ぬとこだったんだって。それであいつは弟に自分の肉体を明け渡して、それで……そのまま、いなくなったらしい。あいつの体の中身はもうあいつじゃない。あいつは消えた。もういない」

「う……嘘だろ? じゃあイフリータは死ん──」


 言葉を呑んだケイの声の余韻が沈黙に鳴った。天井を見つめていたウェンティは、微かに目元を歪め目蓋を下ろした。

 わかんねえよ、とラケルタは呟く。

 あのやたらと食い意地のはった、生意気で馬鹿力で誰よりも死にそうにない友人が、よりにもよって自ら「消える」ことを選ぶだなんて到底信じられない。


 城門で再会した時に覚えた違和感をやりすごさなければ、こうはならなかったのだろうか。

 ラケルタには解らない。少年ひとりを生かし遺していくことが、学友や師、親代わりの彼女と生きる人生よりも価値があったのか。

 整理がつかない。消えた? そんな馬鹿な。ふざけるな。毒づいたところで苛立ちが解消されるわけでもない。

 これが終わったらみんなで遠足にいこう。いつかの言葉がふと記憶に蘇り、ラケルタはぐしゃりと髪を乱す。


「……クソが」


 あれは約束ではなかったのか。



 ⌘



 希薄な自我を抱き、ゆらゆらと漂っている。

 どれだけそうしていただろう。時の流れとは無縁の放浪に、ある者が終止符を打つ。


「おやぁ。見知った顔が流れてきた」


 ねっとりと絡み付くような声音。どこかで聞いたことがある。

 それは漂うものをひょいと黒く長い爪で引っかけ、引き留めた。ちょうど、風船の紐を捕まえるように。


「なんだ、肉体をなくしたのか。根の国にも行けずに亡霊と化すとは、よほど現世うつしよへ未練を遺したと見える」


 青白い肌。ぎょろりと動く大きな目。黒猫の毛皮のような質感の長い衣に、極彩色の小鳥の羽の耳飾り。

 知っている、ような気がする。しかし思い出せない。感じとることはできるが考えることはできない。

 人ではない何者かは口を裂いて深く笑む。


「都合のよいことだなあ。借り倒すことはどうにも性に合わぬ故、ここらでひとつ精算しておくことにしよう」


 それは耳を飾る小鳥の羽へ、愛おしそうに頬を寄せた。


「そら、丁度あちらでお前を呼ぶものがいる。お前ほどの亡霊となれば、そのうち怪異となっていたことだろう。見つけた者がでありたいそう運が良かったねぇ」


 風船を捕まえるように引っかけた爪をくるりと返し、それは漂うものを裏返した。視線が地から天へと移ろう。

 人ではないものはトンと柔く押し上げるように、漂うものの腰の辺りを両手の指で触れる。ふわりと意識が持ち上がる。遠ざかる地、高く高く昇りゆく景色。

 霧のなかをゆるやかに上昇していくと、またしても何者かが漂うものを捕まえた。気づけば其処は宙ではない。露の含んだ爽やかな草地、円を描くように聳え立つ歪な石の柱の中心だ。


「やあ。久方ぶりだね、火の女のアグニ」


 霞がかった頭にまたしても覚えのある声が響く。さあっと吹いた風が惑わしの霧をさらい、吹き抜けていった。


「……あ……わたし、私は……」


 そうだ。アグニとして産まれルビーとして育ちイフリータの名で旅をした。記憶が甦る。此処は夜の訪れない西の聖域、聖なる霊が住まい赤毛の聖人が治める不朽の庭。

 自我を取り戻し、石柱円の中心で呆然と座り込むルビーを、聖域の主はじっと見下ろしている。

「最期を覚えているか」と彼は問う。ルビーは、以前と変わらず飄々とした男の様子を窺いながらしばし記憶を遡った。


 無惨にも身の内から焼けて生を閉じようとしていた大切な弟。ルビーは魔術師の資格を取るずっと以前から、身体を抜け出し獣に乗り移っては遊んでいた。

 魂で繋がっているモルンならば、きっと身体を交換できるだろうと考えたのだった。事実それに成功し、ルビーはモルンの身体と共に、身の内から焼かれた。


「変な……気分だった。火は友達なのに、親しみを感じるのに、私は……というかモルンの身体はそれを受け止めきれない。出来ることならテーブルの端から端まで全部の料理を食べたいのに、ひとくち食べたら胃袋がもう限界みたいな。あの子は少食すぎる」


 聖域の主は声を立てて笑う。


「まことそなたは強欲だ。わが末息子にも、己が欲を満たす為ならば手段を選ばぬそなたの強かさをわけてやりたいものだなあ」

「末息子、ですか?」

「おっと口が滑った。死者が相手となるとどうにも気が弛んでいけない」


 おどけた調子で肩を竦める男の姿を、ルビーはまじまじと見つめる。

 柔らかそうに波打つ長い赤毛はブレスと同じ色をしている。利発そうな両眼は青磁色、緑は緑でもやや青い。外見は二十代の終わりといったところだろうか。

 よく似た顔だ。これまでずっと、この男はブレスの顔を盗んでいるのだと思っていた。でも、逆だったとしたら?


「あなたは……あなたはもしかして師匠のお父さんですか?」

「いいや。近いが否と答えよう」

「では誰」

「アリエス」

「……え?」


 思考が止まる。

 開いた口が塞がらないルビーを興味深そうに見下ろし、彼はしなやかな指先でルビーの胸元を示した。

 かつてはそこに大切にしまっていた魔術師の証である黒い石のペンダントは、いまはかげろうのように霞んで見える。


「我が名はアリエス。アリエス・ウル・オリエンス。遥か過去に幾千万の素粒子と契約を交わし、人の力を御しそれを以て秩序となした者。加えて」


 純白の薄絹が風を含み、さらさらと軽やかに靡いた。


「ウォルグランドという王国をつくった初代の王でもある。端的に申せば……そうだな謂わば、魔道における建国の父といったところか。おやおやどうした? そう驚くことでもなかろうに。私は確かに告げたはずだ、この聖域の住民はウォルグランドを治めた歴代の王でもあるのだと」


 からかう口調は男の本心を如実に表していた。彼は絶句するルビーを明らかに面白がっている。

 いたずらが成功した子供のような様を、腹立たしいと思ったはずだった。平常心が一欠片でも残っていたならば。

 意味が解らない。何もかもが理解できなかった。

 あの「古代王アリエス」が、現代にもその名を知らぬ者はいない程の偉人が目の前におり、気さくに話しかけてくる。あり得るのだろうか。許されるのだろうか。


 今日に至るまで、ルビーは幾度この人物を「赤毛フェチの変人」と罵倒しただろう。嗜好などではない、単なる遺伝だ。見当外れにもほどがある。

 肉体がこの場にあったとしたら、重ねた不敬と非礼のあまりに滝のように冷や汗を流していたに違いない──。

 混乱極まり焦燥も出尽くしたところで、しかしポンとわいて浮かんだ史実があった。

 アリエスがその名を馳せ国王として治めていた地は、中央大陸であったはずだ。それがなぜ、ウォルグランドの王となる?


「……あの、でも……だがしかし……ッ」


 問おうとしては言葉に詰まるルビーが余程面白かったのか、彼は唇に拳を当て肩を震わせて笑う。腹が立つがそれどころではなかった。


「これでは先に進めないね。では、歴史の話をするとしよう」


 嫌だ。

 と反射的に込み上げた反発をどうにかこうにか押し戻し、ルビーはやっとの思いで頷いた。



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