16話 似通ったもの
翌朝、ルビーは男の悲鳴で目を覚ました。悲鳴は地下室から聞こえてくる。
きっとルイが昨夜の襲撃者たちの口を割らせているのだろう。なんとも耳障りな目覚まし時計である。
(こういう事があるから、この屋敷は人気の少ない木立の中に立てられているのだろうか……)
そんなことを考えつつ、まだ日も昇っていない窓の外を眺めながら欠伸をしていると、抱いていた黒猫がぐんと伸びをしてトコトコと去っていった。
些か早すぎるが、起きてしまったものは仕方がない。
身支度を調え、着替えを済ませ、壊れた玄関から外に出ようとして足を止めた。一度結界から出たら入れなくなってしまうのだと、彼が忠告をしていたことを思い出した。
ルイが尋問を終えるまで、鶏小屋の卵は回収出来ないということだ。
──あの緑の目の鶏どろぼうが、卵を盗んでいかなければいいけれど。
お茶をいれ、日が昇るまで読書をして過ごした。朝日が登ると雄鶏が鳴き、それを聞いたらしいルイが地下室から出てきてルビーを見て立ち止まる。
「起きていたのか」
「悲鳴が聞こえたものですから」
「……ああ。しかし、その割には平然として見えるが」
「え、あの……こういう時は、平然としているべきではないということですか。どういう反応を示すべきなのでしょうか」
知っておかなければ、また異端とみなされ秩序を乱しかねないだろう。困ってルイを見上げると、彼は汚れた手袋を外しながらちらりと天井へ目を向けた。
薄い唇が「確かに」と独り言のように呟く。
──何が?
「そうだな。では、エルシオンの同じ年頃の女学生たちは、どう反応するか考えてみるといい」
言われて想像を巡らせる。彼女たちは意地を張る割に臆病だ。気は強いが力がない。そしてうるさい。
「怯えて騒いで逃げ出すか……さもなければ、虚勢を張って平気なふりをして、不安を隠そうとする?」
「そんな所だろう。この屋敷で己を偽る必要は無いが、外であまりにも周囲と違った行動や反応をすれば悪目立ちする」
「はい……」
それは既に、嫌という程に経験済みだった。
ゴミ箱に手袋を放り込みながら、ルイは「そう気を落とすな」といつもの調子で言い重ねる。
「度胸が据わっていることは魔術師の素質のひとつだ。悪いことではない。だが、それは隠せ。能力や素質を見せびらかせば、面倒ごとが寄って来る」
「注目を浴びることが、得になるような職種じゃないからですか」
「そうだ。影で居られるうちは影で居た方が都合が良い」
「……はい。秘書官」
木立の中の木の葉のように、カラスに紛れる悪魔のように。結局のところ、どこに行っても同じなのだろう。
人間の世界は、正々堂々がまかり通るばかりの世界ではないのだ。最後に頼りになるのは実力だけれど、その舞台へ上がるまでの道のりはまだ遠く険しい。
「息を潜めます。時が来るまで」
「そうするがいい」
捨てるものを全て投げ入れたゴミ箱を閉め、ルイは蓋に手を置いて魔力を流す。
ぼう、と音が鳴ると共に物が燃える独特なにおいが漂って来た。ゴミ箱は焼却炉を兼ねていたらしい。
(証拠隠滅……なるほど)
この屋敷には面白い魔道具がたくさんありそうだ。
ルイに結界を解いてもらって卵を回収し、茹で、昨日作ったスープと黒パンで朝食を食べていると、庭先に何者かが現れた。
スプーンを置いたルイがすぐさま立ち上がり、窓から相手を確かめて玄関へ向かう。
「ヴェスター。戻ったのですね」
「ああ。帰るなり襲撃の報せを聞かされるとは、思いもしなかったぞ」
神経質そうな男の声だった。ヴェスター。聞いたことのある名前だ。
ルイが敬語で話していることから察するに、この町での客人の地位はルイより上なのだ。
協会の人間だろうか。
(そういえばふたりいる協会長のもう片方の名前は、シルヴェストリだったっけ……?)
シルヴェストリ。ヴェスターは愛称だ。
ルビーは耳を澄ませたまま首を傾げる。
二階の主が、扉越しに問いかけて来た時に口にした名前も、ヴェスターだった。
不在だった冬の協会長が町に戻ってきた、ということか。
「負傷者は」
「いません」
「襲撃者はどうした」
「四人は尋問中です。一名は死亡」
「依頼主の素性は」
「恐らくどこかの国家かと。依頼元が辿れぬように、幾度も人を介していたようです」
「相手も馬鹿ではない、か」
淡々としたやり取りが続く。
落ち着いた声音でなされる会話ではない気がするが、ルイ程の魔術師とその上司ともなれば慣れたものなのかも知れない。
エチカが言っていたよりも、このシルワはずっと物騒な町だ。しかし、どういうわけかこの空気はルビーに馴染む。
ネズミと熊ほど違う存在が、同じ土地できちんと棲み分けをしている。
ここは、ウサギばかりの魔道学舎とは違う。
適度な緊張感と物静かなルイとの生活が、慣れ親しんだ山を思い出させるためか。
その後、幾度か言葉をやり取りし、ヴェスターは去っていった。協会長も秘書官も不在の魔術師協会には、きっと山積みの仕事が彼を待っているに違いない。
そっと窓辺に寄って姿を盗み見ると、その男は奇抜な色の長髪の、片眼鏡の男だった。
年齢は不詳。纏う空気が、どうも他の人間とは違う気がしてならない。
落ち着かない──ルビーが不信感に目を細めたその時、ヴェスターはさっと振り返ってルビーの目を捉えた。
慌ててカーテンに隠れるが、間違いなく視線が合ってしまった。ばくばくと暴れる心臓を宥めながら、混乱する頭で必死に見た物を整理しようと考える。
ヴェスター。シルヴェストリと呼ばれていたあの男の目は、ルビーと同じ赤色をしていた。
戻ってきたルイは、何事もなかったかのように朝食を済ませると、いつものように二階へ上がっていった。
彼の日課である、二階の主人の世話だった。昨夜血を吐いていたルイの主人の容体は、やはり悪いのだろうか。
その割には悲壮感のかけらもないルイの横顔を見送って、ルビーもまたいつも通りに食器の片付けを始める。
色々なことがいっぺんに起こって、頭の処理が追いつかずにいる。
昨夜の襲撃。二階の主人の得体の知れない力。赤い目の協会長。
なぜ襲われたのか。ルイとヴェスターは何かを知っている。
襲撃者はルイの不在を狙ってやって来たと、二階の主は言っていた。目的は彼だったということだろうか。
(もう一度、話が出来れば……)
そうは思うが、こんなことがあった以上ルイは暫く屋敷を空けることはしないだろう。
悶々と考え込んでいると、主人の世話を終えたらしきルイが階段を下りて戻ってきた。
彼は皿を拭いていたルビー呼びかけ、願ってもな無いことを述べた。
「主人が話をしたいと言っている」
「……話、ですか」
二階に上がることは、この家の禁忌ではなかったのか。
ルビーの顔に過ぎった疑念を正確に読み取ったルイは、ため息混じりに階段上を見上げて言葉を続ける。
「昨晩のことで、お前を怖がらせてしまったことを悔いているようだ。その件について、話がしたいと」
「わかりました」
昨晩のことはたしかに気になるが、体に叩き込まれた恐怖心などより余程知りたいことがある。
次の機会があるとは限らない。一も二もなく頷き、食器をしまい、階段の前で立ち止まって深呼吸をひとつ。
やはりこの階段を上がるのは緊張する。
覚悟を決めて、ルビーは一歩一歩屋敷の主人の部屋へと近づいていった。
「ルビー」
階段を上り切ると、扉の向こう側から声がかかった。相変わらず低く掠れた、息苦しそうな声をしている。
「呼んでおいてすまないが、いま顔を合わせることは出来ないんだ。君に悪影響があるから」
顔を見たくらいで、何がどうなるというのか。言いたいことを飲み込んで、ルビーははい、と答える。
「怖がらせてしまったと聞いた。その……申し訳ない。昨夜は私も、周囲を気遣う余裕がなくて……君を傷つけるつもりはなかったんだ」
扉の向こう側の屋敷の主人は、咳をこぼしながら、途切れ途切れにそう言った。
その言葉には微塵の嘘も欺瞞もない。聞いているルビーの方が申し訳なくなってくるような口調だった。
本当に昨夜の彼とこの人は、同一人物なのだろうか。許してくれるかな、と不安そうに問う屋敷の主人に向けて、ルビーは問う。
「ご主人様は、何者なのでしょうか」
「ごしゅ……え?」
「昨夜のあの魔術は、何だったのでしょうか。なぜ彼らは、あなたを襲いに来たのでしょうか。昨日……わたしに、ヴェスターと呼びかけたのはどうしてですか」
一度疑問を解放すると、もはや止めることは出来なかった。気になっていたことを全て口に出し、そのまま答えを待って沈黙する。
扉の向こうの屋敷の主人は、しばし沈黙した後に「とりあえずご主人様はやめてくれ」とやや辟易した声音で答えた。
「君は従者じゃない。水鏡の魔術師が私を主人として扱うからそんなふうに呼び始めてしまったのだろうけど」
「……質問に答えて下さらないのですね」
「答えていい問いとそうでないものがある。私個人の身の上は、その……中央ではごく限られた者しか知らない秘密なんだ。だから私については話せない。けれど、最後の問いになら、答えられるかな」
何故、ルビーに向けてヴェスターと問うたのか。
「君の纏う力が、私の友人と似ていた。だから一瞬だけ、彼が来たのかと思ったんだ。こんな問いかけをするということは、先程ヴェスターと会ったのか」
「ちらりと、見かけただけです」
「そっか……」
言葉が途切れ、咳がこぼれる。「ぜぇ」とか「ヒュウ」とか、吸っても吐いても病の音を立てる胸をなんとかしずめ、屋敷の主人は話を続けた。
「君の目は赤いそうだね。彼の目も赤かっただろう」
「……はい」
「彼はね、人ではないものの血が混じっている。ヴェスターは魔術師のなかでも、風精霊と人間の混血だ。私の勘が正しければ、君もきっとそうなのだろうと思う」
「あ……」
ルビーには父親がいなかった。母が生きていた頃、父親について訊ねたことは一度や二度では無かったが、母は静かに微笑むだけだった。
父親が精霊だなんて突飛な話だ。
突然そんなことを言われても信じがたいけれど、この赤い目も鉄錆色の髪も、少しだって母には似ていない。
「君の気が変わらずに、春から協会で見習いをするのなら……任務の行先で、ついでに調べてみるといいかも知れないよ。君の真名の在り処が、わかれば……きっと君は、ヴェスターみたいに強くなれ、る……」
最後は激しく咳き込む音にかき消されてしまったけれど、言葉はしっかりと伝わった。
感謝を込めて扉に触れる。
屋敷の主人はルビーに道を示してくれた。上級魔術師になるための可能性を秘めた、魔道の指標を。
「……ありがとうございます」
強くなって、この人の分まで生きよう。固く心に誓い、ルビーは血の臭いのする扉にそっと額づいた。
その日はルイが呼び付けた建築業者の食事の世話やらをしているうちに、あっという間に過ぎてしまった。
そうして何日か代わり映えのしない日が続き、春も間近となった頃、屋敷の主人はいよいよ食事もとれなくなってしまったようだ。
ルイは二階にこもることが増え、ほとんど付きっきりで主人の看病をしている。
(屋敷の主人が死んでしまったら、秘書官はきっとすごく悲しむだろうな)
貸し与えられた神話の本を読みながら沈んだ気持ちでそんなことを考えていると、またしても庭先に人影が現れた。
あの風精霊の混血であるという冬の協会長が訪ねてきたのだろうか、と思ったのは一瞬で、すぐさま別人であると気づいた。
人間の気配ではない。もっと強く、超然とした存在だ。存在を意識しただけで本能が逃げろと叫び出している。
それをどうにか抑え付け、震えながら窓辺に寄ると、そこには死神が立っていた。
ルビーのルール
7、時が来るまで息を潜める。




