13話 開かずの扉の向こう側
平穏で静かな日が幾日か続いたある日のこと。いつも通りにきちんと身なりを整えたルイが「今日は所用があるので出掛ける」と朝食の席で言った。
「所用? 協会ですか?」
「いや。別件だ」
そうかなるほどとルビーは頷く。
力の強い魔術師はいくつもの名前を使い分けるものなので、ルイにもほかの名前と顔があったとしてもおかしくはない。
そういうことなのだろうなと納得をして、ルビーは食事の手を止めて思考を巡らせる。
「あの、秘書官。わたしはどうすればよろしいでしょうか」
「……そうだな」
彼の眉根が少しばかり思案げに寄った。
ルビーの身は春までルイが預かることになっている。ルイのいない協会に、ルビーが居るわけにはいかない。
しかし彼の別件の所用に、ルビーが着いて行くわけにもいかないだろう。珍しく音を立ててため息を吐いたルイは、「仕方がない」と呟いて首を振った。
「留守番だ。決まり事を覚えているな」
「はい。二階には上がらない」
「よろしい。私が戻るまで、きちんと決まりを守るように」
もとより約束を破るつもりなどない。
従順に頷くと、ルイもまたひとつ頷く。
「帰宅は遅くなるだろう。夕か、夜か。先方の状況に寄る」
「わかりました。あの……二階のかたの、食事やお世話は」
「私が一日分用意して行く。とにかく、二階には上がるな」
「……はい」
どうしてルイは、それほど主人からルビーを遠ざけようとするのだろうか。過ぎった疑念は、結局すぐに諦念となって散っていった。
いくらルビーがルイを尊敬していても、ルイが容易く他人を信用するはずもないのだ。有能な魔術師とは、そういう生き物なのだから。
「料理を練習したいので、食料を使ってもいいでしょうか」
「構わない。暇をしないように、魔道学の成り立ちについての書も何冊か見繕っておこう。読むといい」
「ありがとうございます、秘書官」
読んだことのない本が数冊もあるのならば、きっとあっという間に一日が終わるだろう。
春からの鍛錬が少しでも滞りなく進むように、出来ることをしておかなければならない。
「行ってらっしゃいませ」
玄関まで見送りに出ると、ルイは気がかりそうに二階へ目を向けて、ああと呟いて出かけて行った。
さて。
いつも通りに朝食の食器を片付けて、床を掃き清めて水拭きをする。
ソファのカバーをきれいに整え、習慣になったハーブティーをいれてテーブルに本を積み上げる。
蜂蜜づけの果物をお茶請けにすこしだけお皿に盛って、用意は万端だ。
「よし」
娯楽とお勉強の時間が始まる。
知ることはやはり面白い。
昼頃まで読書に没頭し、空腹を覚えて休憩がてら料理を始める。ルビーは、エディールが持たせてくれた料理本のなかから、簡単な野菜のスープを選んだ。
エチカがよく作ってくれたので、手順は何となくわかるし、味も知っている。きちんと作れたかどうか、判断ができるということである。
野菜を刻んで煮、調味料で味を調節してローズマリーで香りをつける。順調に作り終えて味見をする。
なにかひと味、足りなかった。エチカのスープには何が入っていただろうか。
火を止めて記憶を遡っていると、二階で物音がした。コトン、となにかを落としたような音と、ごほごほという湿った咳の音。
「…………」
二階の主が起きているようだった。ルビーはじっと耳を澄ませる。
カチャカチャという金属がぶつかり合うような小さな音が聞こえる。独り言を言っているのか、微かな話し声。扉が開き閉まる音。
一階に降りてきたらどうしようかと思っていたが、また間もなくおなじ音が聞こえた。
どうやら彼は部屋に戻ったようだった。それらの音に混じって、絶え間なく咳き込む音が響いていた。
胸が悪いのだろうか。病で死んだ母も、冷たくなる直前まで彼のように呼吸が苦しそうにしていた。
(秘書官のご主人様も、死んでしまうのだろうか)
そんなことを考えていると、突然一切の物音が聞こえなくなった。
まさか本当に死んでしまったのでは、と頭を過ぎった焦燥に、ルビーはいてもたっても居られなくなってしまった。
ルイは「二階に上がるな」と言っていたが、彼の留守中に二階の病人がお亡くなりになる方が、決まり事を破ることよりずっとまずいだろう。
そう思えば料理どころではなくなって、本を閉じ、火が消えていることを確認し、ルビーは階段の前までやって来てしまった。
躊躇って足を止めるも、やはり物音がしない。可能性をはかる天秤が「気のせい」から「死んでいる」に更に傾く。
覚悟を決め、とはいえ忍び足で、ルビーは一歩ずつ階段を上がり始めた。
二階に上がると、ドアはみっつ。そのうちのひとつだけが両開きの扉だった。
この屋敷のなかでいちばん大きな部屋だ。考えるまでもない、あれが屋敷の主人の暮らす部屋。
もの音ひとつしない二階を、足音を殺して歩く。両開きの扉の前に立ち、ノックをしようと手を上げて、しかし躊躇う。
死んでいたらまずいけれど、死んでいなかった場合も二階に上がったことがルイに知られてまずいことになる。
扉の前で迷っていると、不意に扉の向こう側の音が復活した。ごほごほと咳込む音。近づいてくる足音。
硬直するルビーに向けて、扉の向こう側の人物が、「誰?」と問いかけた。低く掠れた、静かな声音だった。
「ヴェスターですか? いや、彼がここに来るはずもないか。なに、ミシェリー……ああそうか、あの子」
閉ざされたドアの向こう側で声が途切れ、激しく咳込む音が響く。しばらくそうしていた二階の主は、呼吸を整えるとため息を吐いて座り込んだ。
見えなくてもわかる。扉に背中をつけて、凭れかかったままずるずると座り込んだのだと。
「エルシオンから来た子だね。どうかした?」
「音が、途切れたから……何か、あったのかと思って。秘書官が不在なので、念のため確認に参りました」
仕方なく正直に答えると、ドアの向こう側の男はああ、と苦笑した。
「音が聞こえなくなったのは、ドアに〈遮音〉の印を描いたから。心配して来てくれたのか。私は大丈夫だよ」
印を描いた、ということはルイの主人は魔術師なのだ。
苦しげな息使いから察するに大丈夫ではないと思うけれど、とりあえず死んではいなかった。それならば、ひとまずは、いい。
「失礼しました。言いつけを破って二階へ上がって来てしまって。下へ戻ります」
生存確認が済んだのだから、もう用はない。
階段へ向かいかけたルビーを、声の主は「待って」と引き留める。ぴたりと足が止まった。
(あれ?)
何か妙だった。聞こえないふりをして、さっさと戻ってしまうつもりだったというのに、意に反してルビーの足は動かない。
おかしなことが起こっている。危機感に硬直するルビーに向けて、屋敷の主人はさらに話しかけてくる。
「退屈なんだ。話し相手をしてくれないかな。少しでいいから」
「わ……わかり、ました」
「名前はなんというの」
「アグニ。……え?」
まただ。また身体がかってに動いた。ルビーと名乗るつもりだったのに、口から出たのは本当の名前。魔術師が隠しておくべき、真名だった。
──この魔術師がルビーの真名に掛けて呪いを吹き込むようなことがあれば、命を落とすとこにもなりかねない。
ルビーの動揺をよそに、声の主はやや間をあけて「うん」と呟く。
「特別な名だ。強い意味が込められている。君のご両親は、きっと君にそうなって欲しくてその名を授けたのだろうな」
「名前の意味、ですか?」
「そう。火が好きだろう?」
「好きというか……親しみは感じます。友達みたいな」
「そうだろうね」
「あの……秘書官に怒られてしまうので、戻らないと」
気怠げな声の主が咳込んでいる間にドアから離れようと試みるが、やはり「待って」と引き留められて動けなくなった。
なにかの魔術でも掛けられている?
「イルダ……じゃなかった、ルイは君とうまくやれている? 彼は愛想の欠片もないだろう。気詰まりではないか」
「いえ、秘書官の側は居心地がいいです。秘書官の言葉は、率直で簡潔で解りやすいですから」
「……そうか。それならば、良かった」
声の主は心底ほっとしたような声音でそう呟いた。きっと微笑んでいるのだろうと、想像が出来てしまうような穏やかな声だ。
「最後にひとつお願いがあるのだけれど、聞いてもらえるだろうか」
「内容によります」
「ああ。君と話したことを、彼に言わないでおいてくれないかな。それから彼が家を空ける時は、時々話し相手をして欲しい。だめだろうか」
「だめでは……ないですが、それは秘書官に嘘をつくということになってしまうのではないでしょうか」
「私にどうしてもと頼まれたと言えば、彼は君を責めたりしないよ」
「……わかりました」
どうも上手いこと丸め込まれたような気がするが、この人はこの屋敷で秘書官よりも偉いのだから、それでいいのだろう。
もしかしたら、こういうことになるからルイは「二階には上がるな」と度々言っていたのかも知れない。
ありがとうと呟く合間にも、彼は湿った咳をこぼしている。こんなに咳が止まらなかったら、病身には堪えるだろう。
思わず「大丈夫ですか」と訊ねてしまうと、ドアの向こう側で、声の主は「ああ」と疲れた様子で答えた。
諦めまじりの苦笑が滲んでいる。
「仕方がない、これは自業自得だから。引き留めてしまってすまなかった。もう行って構わないよ」
「……はい。では、失礼します」
行っていいと言われたとたんに、足は動くようになった。金縛りから解放されてほっとしたルビーの鼻先を、血臭が掠める。
扉を振り返ると、再びしんと静まり返っていた。
屋敷の主が、音を阻む印を扉に描いたのだろうか。
(怖い、ひとだ)
この扉の向こう側に居る人物には、嘘がつけない。嘘がつけないどころか、言われるがままにされてしまう。
名を問われれば真名を明かし、待てと言われれば足が凍る。
学園に入学する時に、あの嘘つきの狐のような学長に催眠状態にされたらしいけれど、その時と似たような危機感を覚えた。
──あの人がルイの主人なのか。
有能なルイが仕える人物なだけはある、とルビーは思った。
一階に戻ると、ほっとして肩の力が抜ける。緊張していたのだと、ようやく自覚をした。
──秘書官の帰りは、まだだろうか。
得体の知れない人物とお屋敷でふたりきりという状況に、今更のように不安を覚えた。




