喜び
「体を動かす事ができないのは疲労と負荷からだ。あとはそれによるダメージだな」
言われて、美桜は首をひねった。
「肉体的な疲れ、ですか? それとも精神的な?」
「霊的な疲れだ。お前たち人間は物事をあまりに単純に考えすぎる。肉体、霊体、精神体、気、魂、霊能力、神霊力、超能力、才能、使命、生命、宇宙。お前たちが使っているエネルギーだけでも無数に種類がある。それらのエネルギーを使い過ぎれば疲れるし、消耗すれば傷となる事もある。にも関わらずお前たちは肉体的疲労と精神的疲労の2つしかこの世には存在しないと思い込む。まずはそこから考えを改めろ」
一気に言われて、美桜は面くらい、ついていけない。
「そんなにたくさんあるのですか?」
「肉体と霊体が同じものを必要とするはずもない。人間の作る機械も多くの部品でできているだろう。ならば、機械よりさらに精妙で複雑なつくりの人間が多くの部品とそれぞれのエネルギーを必要とするのは道理だろう」
「でも、それ全部を意識するのは難しい気が……」
「普通は気にせんでも生きていける。気にしないと生きていけないからお前は死にそうになっているのだ」
なるほど、と美桜の中で何かが腑に落ちた。
「体のつくりを変え、生き物としての在り方が変わればその必要もなくなる。今は基本を学んでいるのだと思え」
「わかりました。それで、あの、すみません、メモするのでさっきのをもう一度」
「自分で考えろ」
「え」
「本来、こういうことは自分で道を見つけて理解しなければならんのだ。方向を示し、ヒントもやろう。だが細かい事は自分で理解するように努めろ。理解というものは自分の身の丈にあったものが与えられる。子どもには子どもの、大人には大人の、上位者には上位者の理解があるのだ。今日のお前と明日のお前では必要なものが違う事もある。各々の段階で必要な理解を手にし、そうして前へ進め」
そんな、と言いそうになったが心の中で『その通りかもしれない』という声がした。
不満はある。あるが、言ってもどうしようもない。
「ええと、じゃあ、エネルギーの種類はたくさんあって、今はそれぞれ回復に気を配らないといけない、という事ですよね?」
「普通に生きていれば回復するが、お前のような場合は回復しづらい。しかも住まいがよくない」
「え」
「この辺りは霊的なエネルギーの類が回復しない土地だ。根本から変えるなら引っ越しが必要だが、そうもいくまい。ならば土地ではなく他でなんとかするしかない」
「じゃあ、例えば……運動したり、何か食べたり飲んだりすればいいんですか? それとも、山の中で修行するとか」
「修行が必要なのは一部の人間だけだ。そしてエネルギーはそれぞれ満たす方法が違う。お前の場合はまずは奴らにつきまとわれても傷を負わないようにするのが先だろう。戦って勝てばいいのだからな」
そんなふうに、答えのような答えではないような、そんな事を教えられながら夜は日々過ぎて行った。
何かが分かったと思って有頂天になった直後に間違っていたのでは、と落ち込むこともあれば、全てが完全に間違っているわけでも当たっているわけでもないと気がついて、先の長さと深さと訳のわからなさに嫌になることもある。
手応えなど何もないような気がする日々を過ごしてみれば、以前のように暗く落ち込んで死にたいと思うような事が減っていたり。
静かに前に進んでいるような、そんな毎日の中である日、美桜は扇丸に訊いてみた事がある。
それは、この年まで死なずに生きてくる事ができた、その理由についてだ。
「子どもの頃、自殺して幽霊になった女の子の話を読んだ事があるの。みんなに嫌われてるって思ってたけど、本当はそんな事なかった、って後悔する話。悲しくて救いようがなくて、自殺した本人よりも周りの人がかわいそうだった。わたしはこんな思い、周囲には絶対させないって思って、そのとき心に誓ったの。どんな事があっても自殺だけは絶対しないって」
扇丸を見上げると、いつもの冴え冴えとした瞳で美桜を見下ろしている。
「あのとき心に誓ったから、わたしは今まで死なずに生きてきた。あのとき、わたしは自分に誓ったと思っていたのだけど、本当は扇丸に誓ったの?」
「いや、お前はそのとき自分に誓ったのだろう。だから、婚姻できる年齢になり、俺が迎えに来るまで生きている事ができた。よく頑張ったな」
扇丸は滅多に褒める事がない。だから美桜は嬉しくて笑みを噛み殺すのに必至になった。
毎晩一緒にいて、随分と気安くなったと思ってはいるが、未だに美桜はこの美しい青年が自分の夫となるという事が実感できていない。
銀色の髪の、涼しげな瞳の、人ではない美しい何か。
比べて地味で平凡な自分が悲しかった。
多分、こんな事にこだわっているのがダメなんだろうと分かっていても。
「扇丸は本当にわたしと結婚するの?」
「何を言っている。そう約束しただろう」
「うん……。でも、クリアしなければいけない条件がまだよくわからなくて」
嘘だ。自分に自信がないから条件を確認したくなるのだ。
「くだらんな」
扇丸のその言葉が美桜の心に刺さった。
うつむいて泣きそうになるのを我慢していると、しばらく黙ったのちに扇丸が続ける。
「1つの目安としては、だな。半霊半物質という言葉があるだろう。あの『半』というのは半分という意味ではない。1対9のこともあれば、4対6、あるいは8対2のこともある。割合が高くなればなるほどダメージを受けにくくなるし、奴らへの恐怖も感じなくなる。そしてそこに戦う力が加わればあんな連中は軽く叩き潰せる、というわけだ」
「それが、準備を整えることになるの?」
「ひとつにはな。そこまで行けば、そんなことなど気にならなくなる、という事だ」
「頑張る……」
「頑張らんでいい。こうして過ごす日々もまた一興」
扇丸がその美しい指先で美桜の頬の線を撫でる。美桜がその指に甘えるように頬を擦り寄せて目を閉じると、扇丸は嬉しそうにほんの少しだけ目を細めた。
美桜は日々成長していく。
線の固い子どもの体から、しなやかな少女の体へと。そしていずれは柔らかな大人の女性の体つきへと変わっていくのだろう。
それが扇丸には嬉しかった。
人の成長は早い。
だから急がなくていい。
大人へと育つ姿が、扇丸には何よりも嬉しかったのだ。