助けて、
また夜が来る。
美桜は部屋で1人、机に向かって何をするでもなくヘッドホンで音楽を聴いていた。
寝たくない。
眠ればまたアレがやってくる。
悪夢が、そして悪夢の後には何だか分からない、得体の知れない何かが。
それはいつも気配だけで、美桜にはそこに何がいるのかはわからない。ただ、確実に何かがいる。それは確かにそこにいて、美桜をいたぶり、苦しめて殺そうとしている。
夜が恐ろしかった。
でも誰にも理解してもらえない事はわかっている。
だから美桜は誰にも言わず、泣く事もせず。
逃げる事もできずに毎夜怯えている。
ああでももう寝なければいけない。
時計が11時を指す。
明日も学校だ。
美桜はため息をつく事もなくヘッドホンをはずし、片付けると部屋の電気を消した。
夕闇の迫る空の色をした、暗い様子の街中を美桜は歩いている。
初めて来た知らない街のはずなのに、なぜか知っているような気がする。
ここは、わたしが昔住んでいた街。友人の住む街。あの子に会いに行かなければ……。
すれ違う人々は一様に影で顔を隠し、分厚いコートを着て無言で道をゆく。
ここは彼らの街でわたしは異邦人なのだと美桜は感じた。
ああ、街が昏い。あの子に会いに行かなきゃ……。
はっと目が覚めて、美桜は恐怖で息が上がっている事に気がついた。
動悸が激しく、体は強張っている。
恐ろしくて恐ろしくて泣き叫びたいほどなのに『声を上げてはいけない』と本能が教えてくる。
アレが、いる。
アレらが、いる。
いつも同じものではないのだろうが、それはいつも同じ、殺人鬼で人食い鬼で目に見えない化け物だ。
目に見えないものを、そこにいないものを恐れるなど子どもでもあるまいし、と思う。
でも恐ろしいのだ。怖くて怖くてたまらないのだ。
美桜はぎゅっ、と目をつぶった。
わたしは寝ている。起きてはいない。だからこないで。こっちへこないで。
誰か明かりをつけて。アレを追い払って。お願い、誰か誰か誰か。
夜の闇の中で何かが、ぐわぱ、と口を開いたのが見える気がした。
ド、ドン!
衝撃音とともに何かの気配が吹き飛ばされる。それでも美桜は固く目を閉じて震えていた。
「目を開けろ、娘」
声がした。知らない声。男の人の声だ。
なぜ、と思うよりも先に美桜は目を開け、壊れたおもちゃの人形のようにゆっくりと声のした方を向く。
銀色の長い髪が闇の中で輝く、怜悧な美貌の青年がそこにいた。
「惨めだな」
言われて、怒りは感じなかった。ただ恥ずかしかった。
青年は美桜に近づくとぐい、と顎をつかんで顔を上げさせる。遠慮のない力に、美桜が痛みで顔を歪めると、青年はふん、と投げ捨てるように手を放した。
「礼はどうした」
冷たく見下ろされて、美桜は混乱する。
礼?
そしてようやくあの恐ろしい気配がなくなっている事に気がついた。
「あ! あの……!」
「遅い。これだから人間は」
「も、申し訳ありません、ありがとうございます」
言いながら美桜はベッドから出ようともぞもぞと体を動かす。だがまだ強張ったままの体はうまく動かせなかった。
「いい、見苦しい」
「も、申し訳……」
惨めだった。先ほど言われた言葉だが、自分が本当に惨めで美桜は涙が出てきた。
ちっ、と青年は舌打ちする。
「明日の夜またくる。今日はもう寝ろ」
「は、はい」
明日? 明日また会えるの? 夜来てくれるの? それとも夢を見たら、という事?
「明日の夜、お前が眠る前にまたくる。そのとき話す。今日はもう寝ろ。人間は夜は眠るものだ。眠りによって癒される。狂う前に寝ろ」
言い聞かせるように言われて、美桜はなぜだか安心して枕に頭を預けた。
「明日」
「ああ、明日だ」
青年は優しく美桜の頭を撫でた。今度こそ涙がこぼれた。
うまく動かない手をなんとか布団から出して青年の手に触れる。自分らしくない、と分かってはいたが、甘えたいと思った。そして目の前のこの青年に甘えてもいい、そんな気がした。
青年は美桜の手をそっと取る。
「眠れるまでついててやる。だからもう目を閉じろ」
目を閉じるのがもったいない。けれど疲れきっていた美桜はそのまま意識を失うように眠りについたのだった。