目撃者
ない。落としたとしたらこの辺りしかないのだが、いかんせんあたり一面雑草が生い茂っているせいで探し物は困難を極めた。もしかしたら誰かに拾われてしまったのだろうか。
腰を屈め、草を掻き分け、右往左往していると、不意に声をかけられた。
「探し物ですか?」
顔を上げてぎくりとなった。道端で、自転車にまたがった制服警官が俺を見ていた。
「なにか落とされましたか?」
重ねて訊いてくる警官に、ええ、まあ、と曖昧に答えた。
すると彼は自転車のスタンドを立て、こちらへ向かってくる。
「よかったらお手伝いしましょう」
慌てて手のひらで壁を作ると、
「いいえ、大丈夫です。お構いなく」
しかし相手はひるむことなく草むらに足を踏み入れた。
「遠慮なさらずに。困っている市民をお助けするのも、我々の仕事ですから」
その親切そうな笑顔が逆に不気味に思えてしまう。
「それで、なにを探せばいいんですか?」
こうなるとその申し出を受け入れるほかないだろう。頑なに断ることで相手の神経を逆撫ですることにでもなったらかなわない。
「スマートフォンです」
「ああ、携帯電話ですか。それはお困りでしょう」
言いながら彼はその場にしゃがみこみ、周りの草を掻き分け始めた。
まずいことになった。
警官を尻目に、俺の脳裏には数時間前の出来事が甦った。
それは早朝まだ夜も明けていない頃、日課のジョギングに行く途中のことだった。
静まり返った町を走っていると、路地から言い争うような声が聞こえてきた。
足を止め、角からそっと覗くように見ると、街灯の光の中に二人の人影が見えた。一人はジャージ姿、もう一人は制服警官だ。距離が離れているのでその顔までははっきりと見えない。
事件だろうか?あわよくばテレビ局か新聞社にでも売れるかもと思い、こっそりスマホで動画の撮影を始めた。
しばらくすると、ジャージのほうが激昂したかのように声を荒げだし、ポケットからナイフを取り出して身構えた。
ところが落ち着き払った警官は、やすやすとナイフを奪い取り、なんの躊躇いもなしにジャージの腹を刺した。それも何度も。
思わず「え!」と声が漏れた。
警官がこちらに気づいた。
俺は一目散に逃げ出した。
相手が追ってきたかどうかもわからなかったが、とにかく俺は自宅目指して走った。
その途中に空き地があった。随分前に古い家が取り壊され、雑草が生え放題になっていた。そこを横切れば近道になるので迷わずそちらに進路をとる。
その判断が間違いだった。数歩進んだところで雑草に足をとられ思い切り転んでしまった。背後からはアスファルトを蹴る靴音が聞こえてくる。
俺は這うようにして空き地から転げ出ると、再び走り出した。
自宅アパートに飛び込み、鍵をかけてから通報しようとポケットをまさぐって気づいた。
入れたはずのスマホがない。落としたのだ。ということは草むらで転んだときか。
窓を少しだけ開け、外の様子を伺う。誰かが追ってきたような気配はない。だからと言って今さら探しに戻る勇気はなかった。
しかし、あれには殺人事件の大事な証拠が保存されているのだ。そのままにしておくわけにもいかない。
迷った挙句、俺は夜が明けるのを待ってから探しに行くと決めた。明るくなれば人通りも増えるだろうし、そうなればあいつもおいそれと俺に手出しできないだろうと考えたのだ。
まさか殺人犯かもしれない警官と一緒に、その証拠が入っているスマホを探すことになるなんて。いや待て。そもそも俺はあの時、警官が人を刺したところ見ただけで、その顔をはっきり見たわけじゃない。視力が悪いので距離が離れていると細かな人相までは見えないのだ。と言うことはこの警官があの時の警官だとは限らないかもしれない。そのことを念頭に置いてみれば、真面目で優しそうなその雰囲気からは、とても人を刺すようには見えないじゃないか。
だからと言って、まるっきりこの警官を信用するのも危険なような気がする。一見人畜無害に見える奴が一番ヤバかった、なんてパターンはよくある話だ。
仮に目の前の警官があの時の殺人犯だとしよう。すると何故こんな風に俺に近づいてきたのかが疑問だ。目撃者を消すつもりならもっと他に手段があるはずなのだ。だったら彼は動画を撮られたことにも気づいていたのだろうか。目撃者だけを消しても証拠の動画が残されていれば意味はないと考えて、まずはスマホを押さえる行動にでたのかもしれない。そうなるとさっきバカ正直にスマホを落としたなんてことは言わなければよかった。
とにかく警戒するに越したことはない。スマホを見つけ、動画を確認すれば犯人の顔ははっきりするのだ。それまでは油断しないでおこう。
あれこれ考えながら探すうちに見つけた。俺のスマホだ。
声をあげそうになるところをすんでのところで堪えた。もしもこの警官が殺人犯だった場合のことを考えれば、それは秘密にしておくほうが得策に思えたからだ。
ちらりと警官のほうを見る。ちょうどこちらに背中を向けていた。
すばやく拾い、ポケットに突っ込んだ。気づかれた様子はない。
そのまましばらく探すふりを続けてから腰を伸ばした。
「えっと、すみません、おまわりさん」
「どうしました?」とこちらを見る。
「そろそろ会社に行かなきゃならないので、もう携帯は諦めます。もしかしたらここで落としたのじゃないかもしれないし」
「そうですか。じゃあ、遺失物届けを出しておきますか?」
「いや、結構です。安いスマホだし、ちょうど買い換えようかと思っていたところでしたから」
そのときだ。間の悪いことに誰かが俺にメッセージを寄越したのだ。ポケットの中で着信を告げる音が短く鳴った。
警官が怪訝な顔で俺を見る。
次の瞬間、俺は駆け出していた。
「あ、待ちなさい」という警官の声も無視してひたすら走る。
あとをつけられないよう何度も角を曲がってから自分のアパートに戻った。震える手で鍵をかけ、500mlのペットボトルの水を一気に飲み干した。
ようやく呼吸が落ち着いたところでポケットのスマホを取り出し、例の動画ファイルを呼び出した。
それを再生しようとしたところでドアがノックされた。恐る恐るドアスコープから覗くとスーツ姿の男が立っていた。30代後半といった感じだ。
ドア越しに「どちら様でしょうか?」と訊ねた。すると男の声が聞こえてくる。
「私、W県警捜査一課の大西と申します。ちょっとお話を伺いたいのですが、開けてもらえませんでしょうか?」
スーツに着替え、目撃者と思われる男が住むアパートに戻ったのはちょうど夜が明けた頃だった。目立たない場所で張り込んでいると、おどおどした様子の人物が出てきた。間違いない。彼だ。
あたりを伺いながら歩き出した男の後を、距離を保って尾行する。
男は空き地に入ると、生え放題の雑草を掻き分け始めた。なにか探しものでもしているようだ。
私と彼の他には誰もいない。話を聞くチャンスだと考え、一歩足を踏み出したところで思いとどまった。道路の先から自転車にまたがった警察官がやってくるのが見えた。彼は空き地で右往左往する男に気づき、声をかけた。
何事か会話をしたあと、その警察官も一緒になって草むらをかき回し始めた。
しばらく二人を観察していると、男の様子に変化が生じた。警察官のほうを気にする仕草を見せてから、拾い上げたなにかをすばやくポケットに入れた。
再び男が警察官と会話を始める。そのとき男のポケットで着信音が鳴った。どうやら拾ったのはスマホのようだ。
一瞬気まずい空気が流れたように思えた。その直後男が急に走り出した。警察官が呼び止めるのも無視してそのまま走り去った。
男は遠回りしながらアパートに戻り、自室に飛び込んだ。
人目がないことを確認してからそのドアに近づきノックをすると、すぐに男の声が聞こえてきた。
「どちら様でしょうか?」
「私、W県警捜査一課の大西と申します。ちょっとお話を伺いたいのですが、開けてもらえませんでしょうか?」
身分証とバッジを見えるように掲げると、少しだけドアが開き、男が顔を見せた。
「朝早く申し訳ありません。捜査にご協力願いたいと思いまして」
「捜査?何か事件でも?」
「はい。本日未明に、この近くで殺人事件が発生しましてね。それで、なにか見たり聞いたりしていないかと、近所の方々に聞き込みをしているところなんです。今のところ、犯人は警察官の制服を着用していたということぐらいしかわかっていないんですが、何か心当たりはありませんか?」
男は困惑したような表情で少し考えてから、
「あの、制服を着用していた、と言うことは、警官じゃないんですか?」
「そうですね。制服を着ていたからと言って警察官とは限りません。今は闇サイトで警察グッズが販売されていますからね。偽物から始まって、本物と称するものまで」
すると男は納得がいったという風に数度肯いた。
その表情から察するに、事件に関することをなにか知っていることは明白に思えた。
「なにかご存知なのですね?」
彼はほんの少し躊躇いの色を見せてから、
「ええ。実は見たんです。警官の制服を着た人が、男の人を刺すところを。動画も撮ってあります」
「本当ですか?それ、確認させてもらってもよろしいですか?」
「もちろん」
男はドアを大きく開くと、こちらにも見えるようスマホを手に持った。
動画の再生が始まる。
細い路地の奥、警察官の制服を着た男とジャージ姿の男。画面が小さいせいで顔までははっきり確認できない。やがてジャージのほうがナイフを取り出し、それを奪った警察官が逆にジャージの腹を刺した。
そこで男は動画を一時停止させた。
「ちょっと拡大してみますね」
二本の指で画面に触れる彼の表情が見る見る青ざめていく。その視線がゆっくりとこちらに向けられた。恐怖の色がありありと伺える。
「よく撮れてますね」と微笑みかけてやると、男もぎこちなく笑った。
その笑顔のまま、彼は仰向けに倒れた。胸にナイフが深々と突き刺さっている。
「制服を着ていたからと言って警官とは限らないのと同じように……」
彼の手からスマホを奪い取ると、
「バッジを持っていたからと言って刑事とは限らないんですよ」
小さな液晶画面には私の顔がはっきりと映っていた。