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結婚しましょう

作者: 水辺 葉子

桜を見に行った。

いい歳をした喫煙者が二人して、手なんか繋いでのこのこと。



昨日遅くに降った雨は、わずかに残っていた桜の花びらを残さず持って上がった。

ホームのそこら中に桜の残骸がぺったりと張り付いている。春の早朝は眩しく、水を含み、命の気配を潜ませる生暖かい空気が風にかき回されて足元にゆるゆると吹く。横たわっていた大きな何かが力強く瞼を上げ、『ああ』と呼吸を取り戻し、光で胸を膨らませる、春。

上着はなくても良かったかなぁ。乗り換えの駅あたりでは汗ばむかもしれない。

線路の向こうの廃墟に残される、すっかり若葉へ衣替えした桜の木を眺めわずかに後悔した。昨日の晩は随分冷えたし念のために、と着てきた上着の前を開ける。

いたずらのように視界の端にうつり込み、パンプスの先に落ちてきたのは桜のひとひらだった。本日向かいから降ってきたものではない。

健気な少女の淡いスカート、揺らぐ無垢のカーテン、妖精の爪先。

どんなに言葉を尽くしても尽くしきれぬこの色を愛せる人間でよかった。

(昨日のが引っかかってたのかしら)

他にも落ちてきやしないかと裾や袖を振ってみたものの、紛れ込んでいたのはその一枚だけだったらしい。真新しい制服の女子高生が不思議そうに一瞥する。


見頃は逃したものの、昨日、日曜日に桜を見に行った。

一回り年上の男と一緒に、喫煙者が二人してのこのこと。

本当は先週の日曜日に行く予定だったのだが、向こうもこちらも仕事が飛び込んで見送りとなった。その日曜日というのは本当に桜日和で、よく晴れ、風もなく、まさにこの日と言わんばかりの素晴らしい日曜日だったのに。

でもなんとなく私たちには勿体なさ過ぎるね、もっと、ほんのちょっとでいいね、なんて悔し紛れを言うと、彼はそれもそうだなあなどと笑った。


ちょうど桜並木の立ち並ぶ、件の土手を通りがかった時、彼は唇の端に煙草を引っかけたまま言った。

「おう、まだ咲いてるぞ、寄ろうか」

返事を待たずにウインカーを出し、車の疎らな駐車場へワゴンが停まる。砂利だから、気をつけなさいよ、と言うのを背中で聞きながら土手を見上げると、確かに桜はまだ咲いていた。

風がやや強く吹き、桜よりも菜の花の黄色や名もわからぬ花の紫が波打って、独特の春そのものみたいな匂いが土手を駆けるように下り、こちらに向かって強烈に飛び込んでくる。

「菜の花が主役になっちゃってるなあ」

春の匂いを、肌にまで染み付いた煙草の匂いで跳ねのけて彼は私の手を繋ぐ。

「遠目からじゃ空きっ歯だけど、この距離なら十分よ。私これくらいの方が控えめでいいな。ちょうどいいくらい」

「曇ってるから、君もしんどくないだろうしな」

「うん」

よく日に焼けた筋肉の盛り上がりや節くれだった骨格は教科書通りの男性で、その腕に添えられる私の手というのは冗談じみて白くふわふわで、そして頼りなく、描かれる線の何もかもが丸く甘ったるい。決して華奢とは言いがたい自身の体格には覚えがあるものの、やはり男と比べられると当たり前に女なのだと、今この時代に何と表現したら良いのかわからない気持ちになる。

どう考えても力を抑えて、こちらの手を繋いでくれる言葉のない優しさが、昔からずっと愛おしい。

「うわー、すごい」

煙草臭い彼が笑って言った。

桜吹雪とはよく名付けたもので、風に逆らって登った土手の天辺では迫力のある夢と同じ勢いで花びらが舞っている。もうこれで最後、これでおしまいだ、と、自棄にも見える景気の良さで花が散る。散る、散る、散っていく。

菜の花が並ぶ川に沿ってまっすぐ続く並木道は端から端まで全部桜で、手を伸ばせばいくらでも花びらを捕まえることができた。

私はその力のうねりに圧倒されて、つい彼の手を離す。

熱くて乾燥した手がぱっと行って、花びらに呑まれていく。

返す返すも煙草臭い、ステレオタイプの男性的要素をこれでもかと持つ大男が、乳白色の可憐な花びらの群れに呑み込まれてしまうなんてそんな、佳人薄命、童話の世界のお姫様じゃあるまいし。

でも、だからこそ分かってしまった。


ああ、この人いつか必ず死ぬんだな、私今こんなに幸せなのに。


そう思ってしまうともうだめで、人目もあるのに涙が溢れてどうしようもなく、膝までついて桜まみれになって泣く私を真っ青になって抱き起す彼に悪かった。

桜はいくらでも散った。

永遠に散り続けるように見えたのに、やっぱり雨が降ったらあっさりと止んだ。

 

電車の接近を告げるアナウンスで我に返る。

昨日のひとひらは自動販売機の後ろ側へ飛ばされでもしたのか見当たらない。

迫る電車の窓にはいかにも春らしく、雨粒の名残と花びらを貼り付けて、銀色の車体が朝を反射する。

左の薬指でも、同じように光が跳ね返る。

ドアが開く。

いやはや、桜まみれで泣く女に、結婚しましょうだなんてよく言えた。


愛するあなたに。

いつか必ず死ぬあなたと私に、桜も必ず降り注ぐ。

来年も、その次も、百年経っても、何度も咲いては散るでしょう。


残業しないでまっすぐ帰り、煙草なんか咥えずこっそり聞こう。

今日あなたの服にもおんなじように、桜はついていましたかと。






(了)


最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。嬉しいです。

とても長いこと執筆活動から離れておりました。

乱文ご容赦ください。

少しずつ投稿していけたらと思います。

もしよろしければ、ご評価いただけますと幸いです。

よろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 「結婚しましょう」拝読いたしました。  煙草が小道具として使われているのは新鮮でした。自分が吸わないせいか煙草の美味い使い方が解らなくて。勝手に煙草がらみの出会いを想像しています。  読ん…
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