椎茸は恋の香り
廃屋での駆除を終えた四人は、道の脇に止めてある車へと向かった。白い車の側面には「東京東妖滅署」とゴシック体で書かれている。
「帰りは私が運転するね」とユキが運転席に乗り込もうとした途端、
「後生だからやめてくれ!」
「俺はまだ死にたくない……!」
「森田さんは後部座席にどうぞ」
三人の男達から同時に声が上がった。それらの言葉には、ほとんど懇願と言ってもよい響きが含まれている。
「そう? でも最近ずっと運転してないし……」
「いいからいいから!」と、ユキの言葉を遮り、村尾がそそくさと運転席に座る。副長が助手席に、続いて不満そうなユキと水沢が後部座席に乗り込んだ。
副長は、鯨のボディのごとく傷だらけになっている車の側面と、遠目に見ても凹みが判別できる車体後方を思ってため息を吐いた。
それらは先々月、ユキが運転した時に生じたものだ。
乗っていた他の三人は生きた心地がしなかった。村尾にいたっては「南無阿弥陀」と念仏を唱えてさえいた。彼はその時、データを自動削除するソフトを自宅のパソコンに入れていなかったのをいたく後悔したものである。
副長は、責任を取らされ自腹で修理させられることを恐れていたが、幸いそんなことはなく、しかしお役所にありがちな手続きの煩雑さと遅さで、傷はもう二ヶ月以上このままだ。
車は街を走るたび、車体に無数の傷が残るほど過酷な任務だったのか、と見た者の心胆を寒からしめていた。
席に落ち着いたユキはさっそくカバンをゴソゴソさせ、持参の椎茸せんべいをタッパーからぼりぼりと貪り食う。車内には椎茸の芳醇な香りが充満する。毎度のことである。
助手席の篠崎副長が彼女に聞いた。
「それ、どこで売ってるんだ?」
「自家製です」とユキ。
彼女は約三年前、妖滅官となるための学校の入学試験を受けるために長崎から上京した時に、かねてより興味のあった椎茸栽培キットを購入した。キットからは日々ぽこぽこと可愛らしい椎茸が顔をのぞかせている。
それらを毎日収穫し、椎茸を味噌汁やうどんの出汁をはじめとして様々なものに加工し楽しんでいるのだ。
「へぇ……今度作り方教えてくれ」
「お安い御用です。グアニル酸が鍵なんですよね」
ユキは椎茸を干すコツや温度・湿度と旨み成分の精製量との関連性について語り出した。真面目な彼女はかつて図書館で借りた本で、椎茸に関する情報を貪欲に吸収したのだ。
職場の彼女のデスク周辺は椎茸の香りが常に立ち込めている。ついでに言うと彼女の残り香も椎茸である。弁当を毎日作ってくるが、椎茸の出汁が良く利いた炊き込み爆弾おにぎりが定番である。その異様に巨大なおにぎりは、周囲の者からはなかなか美味だとの評判を得ている。
ユキはその椎茸好きがこうじた結果、定期的に椎茸を摂取しないと全身に発疹が生ずるなどの禁断症状が出るまでになっていた。完全に椎茸に依存しているのである。
その隣ではのっぽの水沢が椎茸の芳香をかいで恍惚の表情を浮かべている。彼はキノコ全般が苦手であったが、ユキと出会ってからは椎茸の香りだけはイケるようになった。むしろ、もういっそ永遠に嗅いでいたいと思う域にまで到達しており、香りだけでユキが何メートル先にいるかを察知する能力まで会得していた。
「うむ……今回はなかなか上手くアク抜きできたようだな……」
水筒から自家製のどんぐり茶をゴクリと飲んだ副長が独りごちた。
毎日彼は水筒を持参する。ドケチな彼にとって、ディスカウントストア以外で飲料を購入する行為は万死に値するのである。ちなみに水筒を忘れた場合は水道水を直飲みすることを忘れない。
「そう言えば、この前通った公園に大量のどんぐりが落ちてるのを見つけましたよ……」
ユキが、世界を揺るがす機密情報でも報告するように小声で言った。
「何?! 詳しく教えてくれないか?」
副長はポケットからメモを取り出し、ユキの情報を熱心に書き留めている。
彼は職場近くの公園で毎年多量のどんぐりを収集し、日々活用していた。今回は初めてどんぐり茶に挑戦、妻と二人の子どもにも試飲させてみたところ、「えぐみがえげつない」「金輪際作らないで」と散々であった。「恥ずかしいから木の実や草や小銭を拾って来ないで」とまで言われた。
その後、副長とユキは互いに椎茸せんべいとどんぐり茶の製法についての知識を交換するという協定を結んだようだ。上司と部下が仲良しで何よりである。
二人の会話の間中ずっと、水沢は隣に座るユキの横顔を、車窓への光の反射を利用して間接的に凝視していた。
彼がこのようにさりげなくユキを観察するのは日常茶飯事のことであり、そのため目蓋を長時間開けておいても平気であるという、誠にどうでも良い特技までもを身に付けてしまった。ご両親が知ったらきっと泣くであろう。
一部始終をルームミラーで観察していた運転席の村尾はもはや、「俺は何を聞かされ、何を見せられているんだ」などとは思わない。彼の漆黒で塗りつぶされた瞳の奥にあるのは「無」そのものであった。
常識人が一人しか存在しないことの辛さは、とうの昔に消し飛んだ。ただ淡々と交通規則に従って車を走らせるのみである。
「俺、そろそろ雑魚以外を駆除したいんスけど」
副長とユキの会話がやっと終わったのを見計らい、村尾が発言する。
「研修も三ヶ月目に突入したことですし」
「私も。もっとこう……血湧き肉躍るような妖物を斬って斬って斬り刻んで完膚なきまで粉微塵にしたいです」と、ユキも危険人物的発言で賛同した。
「そうだな。駆除に慣れてきたようだし検討してみるか」
そう副長が言うと、
「あざっス」
「やった!」
ユキと村尾は同時に答えた。
ユキと村尾と水沢の三人は妖滅官養成学校を出たばかりの新米妖滅官。
現在は三ヶ月の研修期間中で、この間は教育係である副長の篠崎と行動を共にする。実戦により妖物の駆除方法などを徹底的に教わるのだ。
ユキ達はそろそろ連日駆除し続け食傷気味の鏡や爪楊枝ではなく、別の妖物を担当したかった。
今回、晴れてその許可が降りたのである。