振り子運動のように。
私がこの小説を訳したきっかけは、知り合いの作家が紹介していたからだった。出版社経由で私の部屋に送られてきた献本雑誌に、彼女の書いたレビューが載っていたのだ。
私はとても気まぐれで、たとえどんなに信頼出来る相手であっても読むときは読むし、読まないときは読まない。一度読んだ小説は読み終わるまで手を止めない。それは確かなことだった。
「あなたって時計の振り子のようね。ペンデュラム。決して中間では止まれない人」彼女はそう私を評したが、彼女の書評した通り、私の性格の急所を当てていた。私は笑ってコーヒーを飲んだ。
「君に隠しごとは出来ないな」と言った。彼女もその意味を瞬時に理解し、先の紹介した本についての話をした。つまり彼女は一度この小説を私に紹介したのだ。
「帰ったら読むことにするよ」彼女はそんな私が嘘を吐いていることに気づいていただろうが、そこで不満を口にするような人ではなかった。内心はわからないが。
結局部屋に帰ってもすぐさまその小説を読まなかった。ページ数は確認した。話の長さ自体は短くないが、素人上がりの翻訳家である私にとって英語の小説は訳さないと初めてお話の真意を理解出来ない性質だった。
しかし彼女が指摘したように、私はペンデュラムだった。
あちらの振り子がこちらへとやってくるときは必ず来る。
それは私にすらよくわからない時間に、静かな音を立てて振り子が移動する。たとえば朝のバス停で。たとえばお風呂に入って何か歌を口ずさんでいるときだって。
それはいつか起こるのだ。