第46幕
「母様、どうしてあのとき、私を殺さなかったんですか?」
十年前。
あの謀反から数日後。
スラムに身を潜めていたリヨネッタの元に、幼いレラが姿を見せた。衣服は破れ、汚泥にまみれ……浮浪児のような風体だったが、体には傷ひとつ負っていなかった。
リヨネッタは戦慄した。
どうやって追っ手から逃れ、あの迷路のような地下水路を抜けだしたのか。どうやって今日まで生き延びたのか。どうやってこの場所を突き止めたのか。そして、何をしに来たのか。
こんな幼子が、たった独りで。
ありえない。
当の本人は、何も覚えてないようだった。ここに至るまでの経緯や、自分自身のことすらも。
何も言わずに、虚ろな目で自分を見つめる幼い瞳。そんな無力な幼子に、リヨネッタは人生で最も強い恐怖を覚えた。
「もちろんわたくしも、真っ先にあなたを始末することを考えました」
文字通り、赤子の手を捻るよりも容易くできたはずだ。
「ですが、あなたの驚異的な生命力は、いつか役に立つような気がしたのです。いつか、復讐を果たすときの」
リヨネッタの心に、長い計画が浮かんだ瞬間だった。
「その復讐を糧に、わたくしは生きていられたのです」
レラを自分の手駒にするため、魔術で記憶を完全に封印し、従順になるよう心を抑えつけた。
「それだけなんですか?」
「…………」
「他に理由があったんじゃないんですか?」
「ええ。本当は、あなたがあまりにも姉さんに似ていたからです」
「私がお母さんに……?」
「わたくしを見つめるあなたの目は、サンドラ姉さんそのものでした。まるで姉さんに責められているようだった」
「それなら、なおのこと……」
「だからこそ、あなたを従えたいと思ったのです。あなたを従属させることで、姉さんに勝ったと思い込みたかったのです」
「母様……」
「さぞかし愚かな女に見えるでしょうね」
「それだけ?」
「え……」
「ほんとにそれだけですか?」
「他にいかなる理由があるというのです」
「じゃあどうして、もうすぐ魔術が効かなくなるって判ってたのに、私を生かしておいたんですか?」
「…………」
「母様なら、記憶を取り戻した私が何をするかなんて、簡単に予測できたはずです」
「……そうね。なぜかしらね」
「母様!」
リヨネッタは微かに笑った。
「さあ、そろそろ行かなくちゃ。あの子たちは……待ってくれているかしら。こんな、母親失格のわたくしなんかを」
レラは初めて知った。
リヨネッタも、こんなふうに笑えるのだと。
いや、記憶の奥底には叔母の……養母の優しい笑顔が眠っていた。レラも、そしてリヨネッタ自身もそれを忘れていただけなのだ。
「二人とも、きっと待ちかねてますよ、母様」
「そう。ふふ……あなたに、そんなことを言われる日が来るなんてね」
リヨネッタは静かに目を閉じた。
遠くで鐘の音が聞こえる。城の鐘楼が、深夜零時を告げているのだ。
魔術が……全ての呪縛が解ける時間だ。
どこからともなく、光の粒子が集まってきた。その粒子は美しい女の姿になると、レラに向かって優しく微笑んだ。
やがてリヨネッタの体も光の粒子となり、二人は抱きあいながら遠くへ流れていった。




