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揺らぎ  作者: 霧島樹
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選択


 今思えば、あの時すぐに警察を呼べばよかった。何しろ一ノ瀬と近藤先生が組んでいるのは間違いない。素人から見ても察することができるぐらいの茶番劇なのだ。一ノ瀬にしろ、近藤先生にしろ、本職の警察官に問い詰められたら、思いのほかアッサリと事の真相を話したかもしれない。

 いや、本当は今からだって遅くない。校長と教頭には『事を荒立てるならば懲戒免職、内々で処理するならば依頼退職』と選択を強いられたが、そもそも今回の件は完全に冤罪だ。徹底抗戦して冤罪が証明されれば、懲戒免職も依頼退職もない。

 しかし、最終的には結局、俺は事を荒立てず依頼退職する道を選んだ。別に徹底抗戦することに日和った訳じゃない。無実を証明するのが難しいと思ったわけでもない。ただ、何もかもが面倒になったのだ。

 俺の親父は昔高校の教員をやっていて、今はもう定年で仕事を引退しているが、現役時代は市の教育委員会で指導主事の役職についていた。指導主事とは教育委員会の事務作業、学校に対して指導や、教員への研修などを行う役職だ。

 そんな親父は昔から激情的かつ厳格な人物で、俺が少しでも規律や道徳に反したことをすると烈火の如く怒り、『矯正』した。世間体を気にする人でもあり、俺が二十代半ばの頃に『やらかした』時はそれこそ殺されるかと思ったぐらいだ。

 だから、今回の件を警察沙汰になんかした日には、たとえ無実を勝ち取ったとしても親父に殺されるだろう。大袈裟ではなく、あの親父だったらやりかねない。

 しかし事を荒立てずに退職すれば、おそらくせいぜい親子の縁を切って勘当されるぐらいで済む。

 そんな諦めと打算のうちに俺は退職した。教師という仕事は思っていた以上にブラックで大変だったから、ちょうどいい。しばらくじっくり休んで、次は給料が安くとも責任は重くなくて楽な仕事を探そう。

 俺はそう自分に言い聞かせて、精神のバランスを取った。

 だが、そんな精神のバランスは今回の件がバレた結果、親父から受けた殴る蹴るの暴行により俺が脳挫傷になったことで崩壊した。


 ●


「ふーん……それで?」

 そして意識は今に戻った。私は今、図書館の長机に『彼女』……一ノ瀬と並んで座っている。そうだ、『彼女』が一ノ瀬だ。多分、『彼女』は一ノ瀬だ。私の知覚が問題なく現実に対応しているのならば。

 長机の上には一ノ瀬が広げた参考書とノートが並び、一ノ瀬の視線もまたそれらを行ったり来たりしている。

「今日は私に復讐しに来たの? 佐々木先生」

 参考書とノートから視線を上げず、一ノ瀬はそう問い掛けてきた。私はそれに答える。

 復讐ではない。選択しに来たんだ。黒か白か。灰色か。人は常に選択を強いられる。選ばなければならない。……ところでキミは、『みさくらなんこつ先生』を知っているか?

「知らないけど、急に何?」

 グーグル翻訳で『みさくらなんこつ語録』を音読させると、この世の真理が見える。

 もちろん音声は日本語だ。これは日本全国民……いや、全人類が知っておくべき事柄だろう。そのためにも世界の貧困や格差をなくし、世界中の全家庭にパソコンとインターネットを配備し、日本の文化と日本語を世界中に広めなくてはならない。そう思わないか?

「そう思わないかって言われても、私その、なんとか語録って知らないし」

 そうか。灰色か。予想はしていたが、残念だ。

「なんか先生……変わったね」

 一ノ瀬は私を横目で見ると、どこか愉快そうな顔で言った。

「灰色のスウェット、似合ってるよ。ボサボサ頭も、ボーボーのヒゲも」

 ありがとう。一ノ瀬も随分と変わったな。当時はあまり真面目な学生じゃなかったように思えたが、今は頑張っているみたいじゃないか。どういう心境の変化だ?

「そりゃ受験生だもん。頑張るに決まってるじゃん」

 そうか。受験生か。月日が経つのは早いものだ。そういえば一ノ瀬、知っているか? 人は許容と拒絶で構成される。何を受け入れ何を拒むか、誰も選択することから逃れることはできない。

「あはは……意味わかんないんだけど。さっきから思ってたんだけどさ、先生、頭ん中バグってんの?」

 いや、そう難しい話じゃない。例えば。例えばだ。仮にキミが肉嫌いだったとしよう。少しでも肉の要素があったらダメという、筋金入りの肉嫌いだ。そうなると、肉から摂取する栄養素を他の食品から取ることになる。

 肉から得られる豊富な栄養素を満遍なく、バランスを考えて他の食品から取れればいいが、もし栄養素に偏りがある場合は精神的に安定を欠くかもしれない。脳内物質は食べ物から摂取した栄養を元に作られるからだ。そしてもし安定を欠くことがなかったとしても、栄養が偏ったことによってキミの思考や判断、行動には多かれ少なかれ、間違いなく何らかの影響が出るだろう。食べ物から摂取した栄養素が人間の行動に影響を及ぼすという事実は、栄養神経学の見地から既に明らかとなっている。

「何が言いたいのかよくわからないんだけど。何? つまり唯物論的な、人間機械論的なことを言いたいの?」

 いや、霊魂の存在を否定したいわけじゃない。特段肯定するわけでもないが、今回私が言いたいことには直接関係していない。ただ、本来は殊更に人間の肉体と精神を分けて考える必要もないんだ。少なくとも現時点では、どちらかだけで人間という存在が成り立つことはないから。便宜上、わかりやすくなるから分けて話すが……ああ、この世に実体が存在しない、という立ち位置の考え方はひとまず置いておくとするよ。それも概念として内包はできるけど、話がややこしくなるから。

 さて、話を戻そうか。精神的、概念的なものはもちろんのこと、分子、原子、陽子、中性子、電子、クォークに至るまで、人は許容と拒絶で構成されている。例えば人間の肉体は約六十五パーセント前後が水だが、その水分子は水素原子ふたつ、酸素原子ひとつが手を繋いで構成されている。これは互いに互いを許容しているのと同時に、それ以外の原子を拒絶しているということでもある。

 水素原子自体もそうだ。ひとつの陽子と、ひとつの電子が許容し合って出来ている。これに陽子をひとつと中性子をふたつ加えたら? そう、ヘリウムになる。まったく別の原子になるんだ。つまり人間は原子レベルにおいても許容と拒絶で構成されているということがわかる。何かを受け入れ、何かを拒むことこそが、人間を人間たらしめる、人間の本質なんだ。真理だと言ってもいい。

 ……何? それだと人間に限らず他の動物も、それどころか世界全体に同じことが言えるだろうって?

 ああ、確かにそうだ。人間と同じく世界も、すべては許容と拒絶で構成されている。集団、国家、戦争、人種差別、移民問題、例を上げればキリがない。おかしくはないが……ふむ、なるほど、世界は『揺らぎ』で出来ている、か。そうだな、確かに私は以前そう言った。よく覚えているな。

 ん? 矛盾しているって?

 はは……いや、してないよ。許容と拒絶、『揺らぎ』の話は矛盾せず両立する。どちらも正しいんだ。世界を違う側面から見ているだけさ。

 それにもし、ひとりの人間の脳内に矛盾した、相反する思考が同時に混在したとしても、それはおかしなことじゃない。それこそが人間。まだまだ機械には再現できない、奇跡の機構だ。

 私が思うに、この機構は……ん?

「ねぇ、独り言がうるさいんだけど、先生」

 一ノ瀬はノートから視線を動かさずに言った。

「どっか行ってくれない? 勉強の邪魔だから」


 ●


 夕暮れの中。私は図書館前にある街道を歩いていた。どうやら一ノ瀬には私が言いたかったことの半分も伝わっていなかったらしい。残念だ。寂しいものだ。人にものを喋っている時は、まるで昔に戻ったかのような気がして、楽しかったのだが。

 人間の脳には可塑性(かそせい)というものがある。可塑性とは、一言で表せば『変化しうる性質』だ。

 熱を加えられて変形したプラスチックが、もう元には戻らないように、人の脳もまた、自身の行動や経験、外的要因によって変形し、元の状態には戻らない。正常な方向にも、病的な方向にも。脳は常に変化し続けている。何をもってして正常とするか、病的とするかは、場合によっては議論が必要かもしれないが。

「先生みたいにやられっぱなしでも我慢してくれる人がいるから、世の中が成り立ってるんだよね」

 ふと気がつけば、私の目の前で一ノ瀬がとても愉快そうな表情で、小さく笑っていた。

 はて……自らの思考に没入していたせいで気がつかなかったが、いつの間に現れたのだろうか。よくよく見ると髪の長さも、先ほどとは少し違う気がする。

 彼女は正面から夕日の光を浴びて、全身を黄昏色に染めていた。そんな彼女の足元に私の影が伸びて、黄昏を黒が侵食している。

「ありがとねぇ、先生。先生のそーゆー人畜無害なところ、そこそこ好きだったよ。でもさ、いいよ、もう。楽になっちゃいなよ。どうせ生きてても役に立たないんだし、結局は皆、最後は死ぬんだからさ」

 優しげに微笑む彼女の言葉は、とても魅力的な提案に聞こえた。なるほど。確かにそういう選択肢もある。そんな風に私が思案していると、ざわりざわりと、右肩から黒いものが這い上がってきた。

 鋭い針のような毛で私が振り向くことを許さない、厭わしい存在。顔のない黒い毛虫に似たそれが、私の右肩で、もぞもぞと身を捩り鳴いている。音はしない。声はしない。でも鳴いている。それが私にはわかるのだ。

 ああ、そうか。

 時間だ。選択の時間だ。

 人は許容と拒絶で構成される。何を受け入れ何を拒むか。黒か白か。灰色か。誰も選択することから逃れることはできない。

 選択の時間だ。選ばなければならない。選ばなければ私は生きていけない。選ばなければ私は死んでいけない。

 黒か白か。灰色か。

 そう呟くと、私の右手には鈍色に光る包丁が握られていた。

「先生に私は殺せないよ。だから選んだんだもの。小物だから。弱いから。臆病だから。最後の最後には、許容してしまう。拒絶できない。私という存在を、自分の世界から拒絶し切れない」

 なるほど。確かに私は小物で、弱く、臆病だ。それは間違いない。しかし、私がキミを拒絶できないかどうかは、やってみなければわからないな。

 私はそう言いながら、彼女の首に向かって包丁を振るった。

「ほらね? 拒絶できない。完全には拒絶し切れない。ただの幻覚でさえ、殺せない」

 彼女は微笑みながら、首の手前で止まっている私の包丁に触れた。すると包丁は黄昏色の淡い光を放ちながら消えていった。

 なるほど。どうやら彼女は、一ノ瀬ではなかったらしい。

 私がそう納得すると同時に、すべての時が止まり、視界から色が消え、世界は黒と白と灰色だけになった。

 ……いや、待て、そうなると、『彼女』はどうなんだ? 一ノ瀬は『彼女』ではなかったのか?

 ぐるり、ぐるりと思考が回る。ざわり、ざわりと右肩で黒いものが身を捩る。

 もし、もし仮に一ノ瀬が『彼女』ではなかったとしたら。『彼女』が一ノ瀬ではなかったとしたら。私が今ここにいる意味がなくなってしまう。私は選択できなくなってしまう。何も選べない。選べないのだ。もしかすると、私は、私の過去でさえ。

 自然は決して我々を欺かない。我々を欺くのは、常に我々である。

 今思えば、狭い、狭い世界だ。いや、しかし、私は愚者だ。自力だけに頼る愚者だ。賢者ではない。何も知らないほうがいい。多くのことを中途半端に知るよりは。……はたしてそれは、本当にそうだろうか?

 他人の見解に便乗する。自力だけに頼る。そのどちらにも、物事の本質はない。物事の本質は?

 自分について多くを語ることは、自己を隠すひとつの手段でもありうる。

「やり直してみる? 無理だと思うけど」

 世界が色を取り戻し、黄昏が消えたはずの包丁を渡してくる。私はそれを手に取り、思い切り振りかぶって……そのまま、街道脇にある茂みへ向かって放り投げた。黄昏は言う。

「やっぱりね」

 黄昏は笑って姿を消した。その直後、辺りは暗闇に覆われ、街灯が点いた。

 私は思案する。パンタ・レイ。同じ川に二度入ることはできない。

 生きているだけで人は否が応でも変わるが、生まれながらにして変えられぬ性質もある。

 今回、私はまたひとつ選択をした。

 あるいは、一ノ瀬の笑顔がなければ。あるいは、『彼女』が私を見て逃げたならば。あるいは、厳格な父親と、優しい母親に育てられなければ。あるいは、私に姉がいなければ。あるいは、私の手に実体のある包丁があったならば。あるいは、私の肩に黒いものがいなければ。あるいは、私が私でいなければ。私は、同じ選択をしなかったかもしれない。

 静寂が暗闇と溶け合い、点滅する街灯と私を拒絶する。

 さて、行くとするか。私の選択は終わった。明日は病院にでも行くか。もしくは、久々に小説でも書くか。今日の選択を忘れないように。今日の選択を題材にして。

 そんなことを考えながら街道を歩き出したところでふと、気になったことがあった。そういえば、茂みに放り投げた包丁はどうなったのだろうか。

 いや、わかっている。あの包丁は幻であった可能性が高い。しかし、不思議なことに、人は夢の中にいる時はそれが夢だとわからないものだ。現実で夢の中にいることを疑うことはまずないから、夢の中にいることを疑っている時点でそれは夢だと確定しているようなものなのだが、それでも人は夢の中で夢を疑う。はたしてこれは夢なのか、現実なのか。知覚は現実に対応した幻想であるからして。

 茂みに入り込み、草花をかき分け、幻の包丁を探す。当然のように何もない。それはそうだろう。当たり前だ。私の手の中に突如として現れて、黄昏に消えたり、現れたりする包丁が物理的実体を持つわけがない。

 だから。だから、たった今見つけた『これ』は、幻だ。

 私は茂みの中に落ちている『それ』を、震える手で拾い上げた。鈍色に光る包丁。『それ』は、さっき私が投げ捨てた包丁だった。ありえない。『これ』は幻だ。ゴクリとつばを飲む。喉がカラカラに渇いている。ねばつく血の味がする。いや、違う。『これ』は包丁じゃない。『これ』は傘の柄だ。棒状の折り畳み傘の柄だ。中ほどで折れたのか、尖った金属部分がくっついている、折り畳み傘の柄。

 しかし、『これ』は包丁だ。私にとっては。

 そう認識した瞬間、暗闇は消えて辺りは黄昏に戻った。生暖かい風が肌を撫で、鈴虫の鳴き声がうるさいぐらいに響いている。右肩には何もいない。

 私は茂みから出てゆっくりと、後ろを振り返った。振り返れた。振り返ってしまった。

 図書館に続く街道の向こう側から、誰かがこちらへ向かって歩いてくる。いや、誰かじゃない。『彼女』だ。きっとそうだ。間違いない。

 あるいは、私が放り投げた包丁を気にしなければ。あるいは、私が手にする『これ』が茂みの中になければ。あるいは、『彼女』が今この時、この道を歩かなければ。あるいは、私が私でいなければ。私は、同じ選択をしなかったかもしれない。

 これが、これこそが、『揺らぎ』だ。人に自由意志があると錯覚させる、この『揺らぎ』こそが、すべての大元であり、元凶であり、根源であり、私を常に悩ませる、世界そのもの。

 ああ、行かなければ。

 私はそう呟いて一歩を踏み出した。その直後、全身にざわりとざわりと、おぞましい何かを感じたが、それでも歩みは止まらない。視界の端には鋭い針のような、無数の黒い毛が見えた。










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