寸劇
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あれから一ノ瀬は特に何かをしでかすわけでもなく、いち生徒として俺に接していた。ただどういう思惑があるのか、以前よりもやたらと俺に声を掛けてくる。
彼女は今さら大人しく俺の好感度を稼ぐような性格じゃないはずだと、しばらく警戒していたのだが、しかし予想に反して彼女は何も行動を起こさなかった。少なくとも、俺が見える範囲内では。
そして一ノ瀬の本性を知った日から一ヶ月と少しが経った頃。
俺は職員室で次の小テストを作っていた。外は日がすっかり落ちて暗くなっている。うちの学校では一番活気がある野球部もグラウンドのライトを九割がた消して、帰り支度を始めていた。
「お、まだ居残りですか。お疲れ様です」
白いポロシャツにジャージを着た体育教師の近藤先生が職員室のドアを開けて、片手を上げながら中に入ってくる。
「大変そうですね、佐々木先生は。生物と化学、二科目掛け持ちしてるんでしょう?」
近藤先生は窓際にある自分の席に座って、携帯をいじりながら話かけてきた。
「ほら、私なんかは皆さんが残ってやるような仕事が少ないですから、なんだか科目掛け持ちしてる先生を見ると申し訳ないなぁ、なんて思いますよ」
殆ど絡んでこない普段とは違って、珍しく社交辞令的なことを言う近藤先生に驚きながらも、俺は同じ職場で働く同僚として社交辞令を返した。
いやいや、近藤先生はその分、生活指導に加えて部活も掛け持ちされてるじゃないですか。それに比べたら僕は全然大変じゃないですよ。
「はは、私が掛け持ちしてるのは部員のやる気がないところですから。土日も練習しないし、楽なもんですよ」
近藤先生はそう言いながら立ち上がり、戸締まり用のカギが複数ついたキーリングを手に持って窓から外を眺め始めた。
「さて、もう誰も残って……ん? あれ、誰かいるのか?」
どうしました?
「教室の明かりが点いてるんですよ。一年クラスの」
明かりが?
近藤先生の言葉で立ち上がり、窓際に移動して一年クラスがある第一校舎の四階を見上げると、確かに教室の明かりが一箇所だけ点いているのが見えた。しかもそこは俺が担当しているクラスだった。
「佐々木先生、明かり消してきました?」
消したつもりだったんですけど……すみません、すぐ消してきます。
「あ、いいですか? じゃあお願いします」
近藤先生に頼まれるがまま俺は教室を出て、やや駆け足で廊下を移動しながら第一校舎の四階にある一年二組の教室に向かった。
「遅いよ、先生。待ちくたびれた」
そして明かりの点いた教室で待ち構えていたのは、ここ最近なんの動きもなく俺が警戒心を解きつつあった一ノ瀬だった。彼女は俺の姿を認めると教室の窓のカギに手を掛けてこちらに背を向け、ニヤリと笑って言った。
「私、先生に振られて傷ついたから、飛び降り自殺するね。そこで見てて」
一ノ瀬が教室の窓を開け、その縁に足を掛け始めたところで俺は慌てて駆け寄り、彼女の腕を掴んで止めた。
「あはは、先生なら止めてくれるって私、信じてたよ」
何を考えてるんだ? バカなことはよせ。お前は本当に黒歴史製造機だな。
「バカはそっち」
一ノ瀬はクスクスと笑いながら制服スカートのホックを外し、ファスナーを下ろしてそのままスカートを床に落とした。
「私のこと、信じないからこうなるんだよ」
一ノ瀬はそう言ってから大きく深呼吸をして、絶叫した。
「――やめて先生! 誰かぁ! 助けてぇ!」
唐突に叫び始めた一ノ瀬を前にして、一瞬思考が真っ白になる。
「いやぁ! やめてぇ! 誰か!」
ふと我に返り、馬鹿な真似をやめさせるべく一ノ瀬の顔面に手を伸ばして口を塞いだ。
その直後、一ノ瀬の口を塞いだ右手に激痛が走る。慌てて引き寄せた右手のひらを見ると、思い切り噛まれたのかクッキリと歯型が残りそこから血が滲んでいた。
「助けてぇ!」
一ノ瀬はそう叫びながら俺の横を駆け抜けた。すると教室の入り口から、まるでタイミングを見計らったように近藤先生が入ってくる。
「一ノ瀬!? どうしたその格好は!?」
「さ、佐々木先生が無理やり……襲ってきて……」
「なんだと!?」
近藤先生が一ノ瀬を背に庇いながら、俺のことを睨みつけてくる。
「佐々木先生! どういうことですかこれは!」
頭の中が真っ白になって、近藤先生の声が遠くなり始める。
……なんだ? なんだ、この茶番は?
「これは警察を呼ばなくては……」
「近藤先生! 警察はやめて! 佐々木先生だけが悪いんじゃないの! 私にも原因があるから!」
「なに? それはどういうことだ一ノ瀬?」
目の前で勝手に話が展開していく。下手くそな寸劇だ。この時点で俺の脳裏にふと、近藤先生が職員室で携帯をいじっていた光景が思い浮かんだ。
今思えば、教室の明かりが点いてるのを見つけた時、近藤先生の態度はどうも白々しかったように思える。……まさか、二人で連絡を取っていた?
そんなバカな、と思ったが、しかしこの状況はできすぎている。おそらく俺はこの二人に嵌められたのだ。
呆然としながら近藤先生の後ろに隠れる一ノ瀬を見ると、彼女は満面の笑みを浮かべながら、俺に向けて小さく手を振っていた。
●
意識が飛んで再び目を覚ますと、眼前には髪を金色に染めた少年が立っていた。そしてその隣では黒い短髪の少年が手に持った携帯を覗き込みながら、コンクリートの塀に寄り掛かっている。
「おい、おっさん。聞いてんだよ。働いてんのか、って」
金髪の少年がヘラヘラと笑いながら問い掛けてくる。年は高校生ぐらいだろうか。現状はまだあまり把握できてはいないが、しかしこの少年が私に質問していることぐらいはわかる。
働いてはいない。
私がそう金髪の少年に答えると、彼は続けざまに聞いてきた。
「じゃあ就職活動とかはしてんの?」
ヘラヘラ、ヘラヘラ。ヘラヘラ、ヘラヘラ。ぐるりぐるりと視界が回る。ざわりざわりと、右肩に這い寄る黒いものを感じる。気持ちが悪くなってきた。帰らなければならない。
「おい、どこ行くんだよ」
少年の横を通り過ぎようとしたところで、私は前のめりになって倒れた。少年に足を引っ掛けられたのだ。両手のひらがゴツゴツとしたアスファルトによって削られ、血が滲み出てくる。それをどこか他人事のように見ていると、顔面に衝撃が走った。遅れて、少年に顔面を蹴られたのだと理解する。
「ちょっとちょっと、ユウちゃんどうした? なんでおっさん蹴ってんの?」
「このおっさん無視すっから、ムカついた」
金髪の少年はそう言いながら私の左肩辺りを何度も蹴り始めた。初めの数回は鈍かった肩の痛みが、繰り返す度に鋭さを増して、やがては骨の芯まで響くような耐え難い激痛へと変化していく。
「おらぁ! おっさん! ちゃんと働かないと! ダメだろ! そんなんで老後! 生きていけるのかよ! シャンとしろ! シャンと!」
「あはは、ユウちゃんユウちゃん、やめたげて。おっさんハローワーク行けなくなっちゃう」
金髪の少年を黒髪の少年が笑いながら止める。シャンとしろ、シャンと。まともに生きろ。ふざけるな。犯罪者予備軍。犯罪者。もう二度とうちの敷地を跨ぐんじゃない!
『アナタ、やめて! やめてください!』
『あれほど! あれほど言ったのに! この、恥知らずが! 出てけ!』
違う。違うんだ。俺はやってない。嘘だ。濡れ衣だ。今回は本当に何もやってない。嵌められたんだ。本当にやってない。無実なんだ。
『言い訳するんじゃない! もう二度と! もう二度とそのツラを見せるな! この犯罪者が!』