暗闇
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気がつけば、私は暗闇の中に立っていた。
いつ入り込んだのか、迷い込んだのかわからない。気がつけばここにいた。狭く暗い常闇の世界だ。
どれだけの時間をそこで立ち尽くしていただろうか。目が慣れてくると、学校の門が見えてきた。空気は冷たく、湿った夜の匂いがする。雲に遮られた月が微かに辺りを照らし、世界の輪郭を朧げに浮かび上がらせている。
もしかするとこれは、夢ではないのかもしれない。そこまで考えたところでふと、足の裏に痛みを感じた。尖った小石が足の裏に食い込んでいる。どうやら私はここまで裸足のまま歩いてきたようだ。
感覚が現実に追いついてくると、今度は鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。
今日、私は『彼女』に会ったのだろうか?
◯
生暖かい風が甘ったるい女の匂いを散らして、俺は正気を取り戻した。
「ねぇ、先生ってば。どうしたの?」
いや、なんでもない。それにしても、ストーカー、か。
「そう、ストーカー」
なるほどな。わかった。じゃあ今から田村先生のところに行くぞ。
「は? なんで?」
頼みに行くんだよ。お前を送ってくれるように。
「先生が私の担任なんだから、先生が送ってくれればいいじゃん」
男の教師が家まで送るのは親御さんが逆に心配するだろ。
「それは大丈夫。うち母子家庭でさ、ママは男をコロコロ変えるような人だから全然気にしないよ。むしろ狙われる心配をした方がいいかもね」
そういう問題じゃないんだよ。ほら、離せ。行くぞ。
「え? なに、それマジで言ってんの?」
マジに決まってんだろ。普通に考えて。
俺がそう言いながら一ノ瀬の腕を振り払うと、彼女の笑顔は一変して眉をひそめた不機嫌そうな顔になった。
「あのさぁ、女がここまでやってんのにさ、それはないでしょ。ヘタレかよ」
ヘタレで結構。犯罪者とヘタレだったら、ヘタレの方がよっぽどマシだ。
「はっ、小物小物だとは思ってたけど、まさかここまで小物だとは思わなかったわ」
悪かったな小物で。っていうか本性出すの早すぎだろ。本気で大人を騙すんだったら、もうちょっと根気よくやらないとな。
「あー、はいはい、わかった。じゃあもう先生の勝ちでいいからさ、ちょっと何枚か写真撮らせてよ、写真」
一ノ瀬はそう言うとブレザーのポケットから携帯を取り出した。
「私、先生だったら絶対に落とせるって断言しちゃったんだよね、仲間内で。私このままじゃ笑い者になっちゃうからさ、協力してよ。協力してくれたらご褒美あげるから」
ご褒美はともかくとして、写真ってどんな写真だ?
「先生が舌を出して、私がそれを噛む、みたいな」
それは無理だな。協力できない。
「大丈夫だって、仲間内でチラッと見せるだけだから。拡散とかしないから。そんなの私だって困るし」
何を言われようが無理だ。笑い者になるのは自業自得だな。ほら、田村先生のところに行くぞ。
「ちょ、ちょっと先生! 待ってよ!」
俺はこっちに向かって伸びてきた一ノ瀬の手を払いのけながら言った。
いい加減にしろ。お前が思ってる以上にな、俺は忙しいんだよ。ガキのお遊びに付き合ってる暇はないから、俺に言うことを聞かすのは諦めろ。
「へぇ、じゃあ前の学校では暇だったの?」
なんの話だ?
「とぼけなくてもいいじゃん。知ってるんだよ私。先生、前の学校で生徒に手、出してたでしょ」
一ノ瀬はそう言って笑いながら、手に持った携帯を左右に振った。
「女子生徒とは合意の上だったのかな? 公の事件にはなってないみたいだけど、でも人の口に蓋ってできないんだよねぇ、特にそーゆー話題は」
なんの話だかサッパリわからないな。だが、もし仮に俺が前の学校でそういうバカな真似をしていたとしたら、もう二度と同じ失敗はしないだろうな。
「あれ、私の言うこと聞かないの? バラしちゃうよ?」
好きにしろ。
「後悔、するよ?」
お前がな。この時この瞬間、完全に黒歴史だからなお前。ぜいぜい大人になってから事あるごとに思い出して、愚かで恥ずかしかった過去の自分に悶えるがいい。
「わかった。じゃあもういいよ」
おい、田村先生に送ってもらわなくていいのか? ストーカーの話も嘘か?
「嘘じゃないけど、いいよもう、別に」
一ノ瀬はそう言って俺の横を通り過ぎ、教室から出て行った。
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生暖かい風が吹く夜の住宅街を、裸足のまま歩いて行く。秋の夜はこんなに暖かいものだったのだろうか。よくわからない。
しばらく住宅街を歩くと、小さな二階建ての茶色いアパートが見えてきた。『彼女』と、その母親が住む家だ。『彼女』は母子家庭で、『彼女』の母親はよく昼間からアパートに男を連れ込んでいる。
しかし、意外にも『彼女』と母親の仲は悪くないようだ。部屋の明かりが点いている時にアパートの壁に張り付いて聞き耳を立てると、よく二人で談笑している声が聞こえてくる。
母親。昔は私にも母親がいた。今はいない。父親もいない。姉はまだ生きているが、ほぼ絶縁状態だ。
「おい、おっさん。こんなところで何してんだよ」
そして背後から聞こえてきた声に振り向いた瞬間、私は意識を失った。