彼女
グーグル翻訳で『みさくらなんこつ語録』を音読させると、この世の真理が見える。
もちろん音声は日本語だ。これは日本全国民、いや、全人類が知っておくべき事柄だろう。そのためにも世界の貧困や格差をなくし、世界中の全家庭にパソコンとインターネットを配備し、日本の文化と日本語を世界中に広めなくてはならない。
もし私が図書館に行って『彼女』にこう語ったら、『彼女』は果たしてどのような反応をするだろうか。
人は許容と拒絶で構成される。何を受け入れ何を拒むか。黒か白か。灰色か。誰も選択することから逃れることはできない。
ああ、時間だ。
選択の時間だ。選ばなければならない。選ばなければ私は生きていけない。選ばなければ私は死んでいけない。
黒か白か。灰色か。
そう言いながら鈍色に光る包丁を手に取ると、私の右肩に黒いものが現れた。鋭い針のような黒い毛で私が振り向くことを許さない、おぞましく厭わしい存在。
それは巨大な、黒い毛虫によく似ていた。
◯
世界は『揺らぎ』で出来ている。
そして『揺らぎ』とは人の意識に他ならない。
これまでの行動と経験に応じて形成された脳の神経回路に電気信号と脳内物質で適度に歪められた情報が走り、世界を認識し、過去の記憶と経験をもとに意思決定をする。そこに神秘的な要素は何もない。人間の自由意志や気分のようなものは、脳細胞の状態によって左右される電気信号の『揺らぎ』でしかないのだ。
だがしかし、ひとことで『揺らぎ』と言っても『それ』の性質は時と場合によって大きく異なる。
例えば『それ』が思春期の恋心であるならば、『それ』は非常にうつろいやすく、場合によっては一瞬で変化することもあるだろう。千年の恋も一時に冷める、というやつだ。
そして例えば『それ』が長年培った趣味嗜好などであれば、『それ』はそう簡単に変化することはないだろう。前者は脳内物質、後者は神経回路の構成が強く関わっていると考えられるため、ひとまとめに『揺らぎ』と称してしまうのは強引すぎるかもしれないが。
「ねぇ、先生。私、先生が何を言ってるのかサッパリわからないんだけど」
黄昏に染まる教室で、艶やかな長い黒髪が風になびく。一ノ瀬静流。彼女は俺の生徒で、俺は彼女の担任だ。それ以上でもそれ以下でもない。今思えば他の生徒よりは多少、話し掛けられる機会が多かった気もするが、それだってあくまで普通のいち生徒の域を出なかった。
しかし、これからは違う。認識を改めなくてはならない。彼女は問題児で、厄介ごとの塊で、眼前の脅威だ。
俺は彼女に対し、まあ待て、話の途中だから、となだめて聞かせた。そして、さっきまで自分が何をどこまで話していたかを忘れた。
「長年培った趣味嗜好はそう簡単に変化しない?」
それだ。つまり、俺が言いたいことはひとつ。
俺は教壇に立ち、こちらを見上げる一ノ瀬の目を見ながら言った。
キミの気持ちはわかった。もしさっきの言葉が何らかの罰ゲームではなく、本心からの言葉だとしたら正直な話、男冥利に尽きるというものだ。しかし俺はこの場所において男である前にいち教師、いち聖職者であり、なおかつ、
「ぜんぜん言いたいことひとつじゃないじゃん」
正直に言うと、少し動揺している。俺のメンタルはあまり強くないんだ。まあそれはともかくとして。つまりだな、俺が言いたいことは最終的にひとつなんだ。――すまん。キミの想いには応えられない。
「なんで?」
俺は教師だし、そもそも付き合っている彼女がいる。
「なにそれ。今まで聞いたことないんだけど」
言ったことないからな。
俺が突き放すように言うと一ノ瀬はその可愛らしい顔を一瞬くしゃりと歪めて、そのあとすぐ普通の表情に戻った。
「わかった。じゃあその彼女には内緒で付き合おうよ、私たち」
なんでそうなる。そもそもな、俺に今付き合ってる彼女がいなくても俺はキミとは付き合わないぞ。
「なんで?」
いや、なんでも何も、生徒に告白されて『付き合う』って答える教師は犯罪者だからな? 俺は犯罪者にはなりたくないし、今後もなるつもりはない。
「嘘つき。合意の上だったら犯罪にはならないでしょ。校則とか条例とかが面倒なだけで」
世間的には犯罪者扱いだし、俺個人としても在学中の生徒と付き合う教師は『ありえない』と思ってるぞ。もし互いに好き同士だったとしても、教師は親御さんから大事な子供を預かっている立場であって、
「そーゆー建前みたいなのは良いからさ、本音で話してよ」
一ノ瀬はその長い黒髪を人差し指でくるくると巻きながら、大きくため息をついた。
「私、そういう綺麗ごとあんまり好きじゃない」
そうか。じゃあ、言わせてもらうぞ。
最近、女子生徒の間で教師に告白して、その反応を見て楽しむのが流行ってるらしいな。
俺がそう言うと、一ノ瀬の肩がびくりと震えた。俺は内心、やっぱりか、と思いながら小さくため息をついた。
残念ながら俺はもう知ってるからな。騙されることはない。
「……私は、そういうのとは違うんだけど」
そうか。教室の周りに誰もいないし、誰かが覗いてるような気配もないから、俺も最初は『まさかのガチ告白か?』と思わなくもなかったんだけどな。でも、今キミの反応を見て思い直したよ。キミはやっぱり愉快犯だ。
「わかった。じゃあもう愉快犯でいいよ。本当は違うけど」
一ノ瀬はそう言うと、教壇に上がって俺との距離を詰めてきた。
「さっきまでの話はこれで終わり。ここからはいち生徒として、先生に相談があるんだけど」
なんだ?
「私ね、下校中に最近なんか視線を感じるの。多分ストーカーだと思う」
ストーカー?
「うん。だからさ、怖いから今日は家まで送ってくれない?」
一ノ瀬が上目遣いで俺の腕を掴んでくる。彼女は香水でもつけているのか、バニラエッセンスに似た甘い香りがした。そこには女特有の匂いも混ざっている。砂糖と血とミルクを混ぜて煮詰めたような、むせ返るような女の匂いが、ぐらりと、男の本能的なものを揺さぶってくる。
これはまずい。危険だ。早急に対処しなければならない。
俺は空いている右手でひたいの左側をトントンと叩いて、自分自身に言い聞かせた。
――落ち着け。ひたい左側の奥には、前頭葉左半球がある。俺は右利きだから十中八九、左脳が優位半球。前頭葉は思考、判断、計画、行動、言語のアウトプットを司る、人間の意思決定機関。すなわち理性だ。前頭葉の働きが弱い人間、つまり理性が弱い人間は自制が難しく、将来を見据えた行動ができない。その点、俺はどうだ? 俺の前頭葉、理性は弱いか? 否、断じて否である。
「先生?」
一ノ瀬が首を傾げながら俺を見上げると、生暖かい風が教室の中に吹き込んできた。