破滅の刻
街なかにある教団の礼拝堂では、マザー・アミコと裏社会に暗躍する顧客たちが、取引についての話を進めていた。
礼拝堂の扉は内側から鍵がかけられ、白い壁に覆われた室内の真ん中には、食卓のようなテーブルが置かれている。
マザー・アミコと顧客二人の合わせて三人が椅子に座り、顧客たちのそばには彼らが連れてきた部下が一人ずつ立ち、気を抜くことなく警戒している。
一般社会の裏でとり行われる悪にまみれた彼らの談合を、礼拝堂の奥の正面に位置する女神の像が、目を閉じたまま静かに聞きいっている。
顧客たちの話も、幾多のかけ引きを繰り返しながら終息に近づいていた。
「これがギリギリのラインだ。これ以上は妥協できない」
「仕方ない、いいだろう」
彼らの話が一段落したところで、マザー・アミコが微笑む。
「では、そういうことで」
彼女のひと言が、取引にかかる物々しい話を穏やかに終わらせる。
顧客の一人がタバコを取り出して口にくわえると、部下がそれに火をつける。
「マザーのおかげで、いつも助かっているよ」
もう一人の相手も、タバコを手にしながらいった。
「こっちもだ。なんの心配もなく、仕事を進められる」
裏社会で取引を重ねながら生きて行く人間たちにとって、ユリアナ教団はなくてはならない存在といっても過言ではない。
取引場所の確保、運び屋の手配、警察を撹乱させるための情報を流すなど、完璧といえるサポートで彼らの期待に応えてくれる。
教団は、いまや単に利用価値が高いという段階をはるかに超えた存在となっていた。
そういう教団を介して取引が失敗するとすれば、取引を行う彼らの予定が急に変更され、教団のサポートが追いつかなくなったときぐらいなものだ。
ルゼが、シスター・マヤのボディーガードたちに予言した例の事件が、記憶に新しい。
欲しいものは、どんな手段を使ってでも手に入れる。そういう闇の世界に生きる彼らに、表社会の常識やルールなど通用しない。
神に仕える身を装い、犯罪の手助けをしようが、自分の利益のために多くの命が失われようが、彼らにとってはそんなことなど当たりまえであり、なんの疑問も罪悪感も抱かない。
マザー・アミコは思う。表社会で毎日不満を抱えて、グチグチと文句を垂れながらセコセコと稼ぐような生き方は、まっぴらだ。そういう人間に、神が手を貸してくれるわけでもあるまい。
そもそも、神など存在するはずがない。
──ならば、私が闇の世界の神になってやろうか。フフフ
マザー・アミコが心の中で黒い笑みを浮かべた、そのときだった。
カチッ……
彼女の胸の奥で、時計の針が動いたような音がひびく。それは、耳に聞こえる音ではない。心に伝わる波動とでもいえばよいだろうか。
きたるべき時が、やってきたのだ。冥界の門が開く──すなわち「破滅の刻」が訪れたのである。
修道院では、朝からシスター・マヤの具合が悪く、彼女は二階にある自分の部屋のベッドで、ずっと休んでいた。
以前、お使いの途中で気を失い、団司に助けられたときほどひどくはないが、異様な虚脱感に襲われて身体に力がはいらない。
午前中に、マザーに病院へ連れて行ってもらったのだが、血液検査をはじめいろいろと調べてみたものの、医師からはどこも異状はないと告げられる。
痛いところも熱もなく、命に関わるような事態に陥ることはなさそうだが、立ち上がろうとするたびに立ち眩みに襲われる。
足元がふらつき、ふつうに歩くことさえ困難な状態だ。
昼の礼拝堂参拝から帰ってきたメグが、パジャマ姿で休んでいるシスター・マヤの部屋に勢いよく入ってくる。
ところが
「ダメですよ、シスター・メグ!」
メグは、あとから入ってきたマザーに捕まり、すぐに部屋を追い出される。駄々をこねているメグの声が、部屋の外でひびいている。
シスター・マヤはその声を聞きながら、自分はまた奇妙な病気にかかったものだと己の身体を嘆いた。
ふと、団司の顔が思い浮かぶ。
──使者様……
あの笑顔を想うと不思議に安心して落ち着く彼女は、団司をその胸の中に抱き続けるのだった。
どうすれば団司のように神様と話ができるのか。神様の力をいただくことができるのか。
シスター・マヤは団司のことを想いながら、そんなことを考えているうちに、身体の状態が幾分よくなったような気がする。
ベッドから、ゆっくりと起きてみる。立ち眩みは起きない。
水を飲みたいと思った彼女は、一階の台所へ向かうために階段を降りる。手すりに手を添えてはいるが、特に不安は感じない。
台所へ行って水を飲み、階段を上がって自分の部屋にもどる。
──もう大丈夫
そう思った彼女は、白い修道服に着替えはじめる。
──私の胸の中で、使者様がまた私を治してくれたのだろうか
シスター・マヤは、本当にそういう気がしてくる。
修道服に着替え終えた彼女は、礼拝堂へ行って神様に祈りをささげたくなった。
階下へ降りると、事務室から出てきたマザー・ミドリに出くわした。シスター・マヤが修道服に着替えているとは思わなかった彼女は、驚いて声をあげる。
「シスター・マヤ、寝ていなくて大丈夫ですか」
「はい、だいぶ具合が良くなりました。それで、礼拝堂へ行きたいのですが」
「あまり無理をしない方が良いですよ」
「どうしても神様にお祈りしたいのです」
シスター・マヤは見かけによらず、一旦決めたことはなかなか譲らないという強情なところがある。
シスター・マヤの知らない間に、彼女の後ろにきていたメグが声をあげる。
「いっしょに行く!」
この幼いシスターも、シスター・マヤ以上に強情で頑固だ。
マザー・ミドリは、やれやれといった顔をしてため息をつき、少女たちに伝える。
「わかりました。少しのあいだ、玄関のところで待っていなさい」
「すみません、マザー・ミドリ」
マザー・ミドリは、他のマザーたちに少女たちを礼拝堂へ連れて行くことを告げると、礼拝堂の扉の鍵を手にする。
少女たちの待つ玄関に進んで三人がそろうと、運命に導かれるように礼拝堂へ歩いて行く。
修道院から歩いて五分、彼女たちは礼拝堂に到着する。マザー・ミドリが慣れた手つきで扉の鍵を開ける。見慣れた室内は、三人しかいないと非常に広く感じる。
マザーが内側から鍵をかける間に、シスター・マヤとメグは正面の奥にある女神像の前までくる。
「シスター・メグ、祈りましょう」
シスター・マヤは、自分の左側に立つメグにそういうと、両手を組んで目を閉じ、神への祈りをはじめる。
まだ体調は完全に回復したといえる状態ではない。それでも、なんの不安もなく歩けるところまで身体が回復したことに、彼女は神に感謝する。
神に祈りをささげていたシスター・マヤは、ふと顔をあげて女神の像を見つめる。
──使者様は、どうやって神様と出会ったのだろう
そのとき、彼女が見ている女神像が、ユラッと揺れる。
──う……
病み上がりの彼女は、めまいがすると思って目を閉じながらうつむき、右手でその目をおさえる。
しかし、それはめまいではなく、実際に目の前の景色が揺れたことに、シスター・マヤは気づかない。
きたるべき「破滅の刻」が訪れたこの瞬間、そのわずかな揺れを前兆として、破壊の王が目を覚ます。




